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2024年2月18日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4)
 
わたしたちは、生きていくために「適度な」衣食住は必要です。お金も人間関係も「適切な範囲内」であれば、わたしたちの支えになります。
 けれども、わたしたちの「根本の」支えは、神さまであり、神さまの御言葉です。
 たとえば、わたしたちがお金が足りなくて悩んでいるとき、ひたすらお金だけを求めるでしょうか。それとも、適切な範囲でお金を何とかしようとしつつも、神さま、この不安と苦しみの中で、わたしをお支えください、と祈るでしょうか。
 もし、お金の工面ができ、すっかり安心してしまい、神さまを忘れてしまうのなら、その時、お金がわたしたちの神になってしまっているのです。そして、それからも、神さまを信頼することなく、ただお金を求め、お金が手に入れば安心してしまうということになってしまいます。これはお金の偶像崇拝です。
 お金以外にも、人間関係による安心、自分の地位、周りからの評価「だけに」すがろうとし、神さまを根本の支えとして、神さまに信頼することを忘れてしまう誘惑がわたしたちにはつねにつきまといます。
 けれども、イエス・キリストはこの誘惑に打ち克ってくださいました。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 わたしたちもこのイエス・キリストに従って歩み、神さまと神さまの御言葉をこそ根本の支えといたしましょう。

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2024年2月11日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:12-13)

 ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは自らのことをこのように語っておられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51)。
 キリストの与えるパンはキリストの肉であると。では、肉とは何でしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)。
 肉とは「言(ことば)」なのです。つまり、イエス・キリストは神さまの言なのです。神さまの言とは、旧新約聖書に記された神さまの言葉、あるいは、神さまについての言葉のことでもありますが、イエス・キリストご自身のことでもあります。
 つまり、神さまの言とは、音声や文字のことだけでなく、わたしたちへの神さまの語りかけ、愛そのものであるのです。
 今日の聖書の箇所で、イエス・キリストが多くの人びとを少しのパンで養ったということは、神さまの御言葉やイエス・キリストの愛が、この世界の中で、たとえ小さなもの、わずかなものに見えても、それは無駄ではない、むしろ、神さまの言やイエス・キリストの愛は、目に見えなくても、じつは、屑だけでも十二の籠を満たすパンのように、とてもゆたかなものである、ということでしょう。

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2024年2月4日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年2月4日

病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。(ヨハネ5:7-9)

「床を担いで歩く」とはどういうことでしょうか。この日は安息日であったので、これは律法に背くことを意味しました。この病人は律法に縛られない生き方を選択したのです。
 律法に縛られる生き方は、どうじに、世の中の決まり事や常識とされることにとらわれ、優劣主義、競争、自分中心といった世の中の価値観に染まった生き方でもあるでしょう。
 けれども、安息日であるにもかかわらず床を担いで歩くことを選択したこの病人は、律法や世の中の価値観ではなく、「起き上がりなさい」というイエス・キリストの言葉に従う生き方を選んだのです。
 イエス・キリストに従う生き方をするということは、イエス・キリストがそうしたように神さまを信頼して神さまに委ねて生きることです。
 また、イエス・キリストが神さまの御心、愛の御心に従われたように、わたしたちもこの世の自己中心主義ではなく、自分以外の人を大事にし、隣人を中心に置こうとする、神さまの国の精神にしたがって生きることを祈り求めることです。

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2024年1月14日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年1月14日

はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。(ヨハネ1:51)

 イエス・キリストとの出会い方、その人にとってイエス・キリストは誰かは人それぞれです。聖書の登場人物たちにとってもそうです。
 ヨハネによる福音書によれば、洗礼者ヨハネはイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」(1:36)と言います。ヨハネはイエスを「神の小羊」ととらえました。
 また、ヨハネとともにいた二人の弟子はイエスについて行き、「どこにイエスが泊まっているか」(1:39)を見ます。この二人はイエスのいる場所を訪ねました。
 アンデレは「わたしたちはメシアに出会った」(1:41)と言います。アンデレはイエスをメシア、救い主だととらえました。
 ペトロはイエスから「岩」(1:42)と呼ばれることになりました。
 フィリポはイエスから「わたしに従いなさい」(1:43)と招かれました。また、イエスのことを「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」(1:45)と認識しました。
 ナタナエルはイエスを「神の子、イスラエルの王」(1:49)だと理解しました。
 イエス自身は上の引用(1:51)のように、天の神さまから地上のわたしたち人間に何かをもたらすお方、伝える者、神さまとわたしたちをつなぎあわせるお方だと言っておられるように思われます。
 これらのうちどれか一つだけが正解ということではなく、むしろ、イエス・キリストとわたしたちの出会いは人それぞれだし、また、一人の人間においても、イエス・キリストと幾重もの出会いをしていることを示しているのではないでしょうか。そして、これは神さまの愛と恵みのゆたかさ、深さを示しているのではないでしょうか。

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2024年1月7日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年1月7日

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)
 
人間が作った暦の上で新しい年が来る以上に大事なことは、神さまがわたしたちのために、つねに新しい時を創ってくださり、わたしたちを新しくしてくださることです。
 罪とは、わたしたちが神さまと人びとから心を離し、自分のことだけしか思わないことです。その結果、世は戦争や人間の生を踏みにじる出来事でいっぱいです。個人においても、わたしたちは自分の思いを人に押しつけてしまっています。
 わたしたちのこの罪を赦すために、神さまの独り子イエス・キリストは十字架でわたしたちの代わりに罰を受けてくださった、という信仰がキリスト教にはあります。
 さらに、今日の聖書の個所に続く節では、洗礼者ヨハネは神さまの前で自分を絶対化しない生き方を示しました。
 また、イエス・キリストは神さまから聖霊を受け、洗礼を受ける人々にその聖霊を注いでくださることが今日の聖書には書かれています。
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)。
 このように、神さまが洗礼と聖霊によってわたしたちを新しくしてくださるのです。これにお応えして、わたしたちも新しい道を歩き始めましょう。

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2024年12月24日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(ルカ2:10)

 天使のこの言葉は神さまご自身の言葉でもあるように思われますが、これは、ローマ皇帝アウグストゥスから「全領土の住民に」出された「登録をせよとの勅令」(2:1)とは、正反対のものだと言えるでしょう。皇帝の勅令は登録のための長旅を住民に余儀なくするものであり、それはある意味、住民を住んでいた町から追い出し安住の場をなくさせることでした。これに対して、天使は「民全体への大きな喜び」を伝えたのです。支配者の命令と神さまからの福音はまったく異なります。
 わたしたちの今生きている世界をふり返ってみますと、戦争が終わらず、千人万人が死に続けています。病気、家族、仕事など、ひとりひとりの抱える苦しみもあります。この世界の支配者にも、わたしたち自身にも絶望してしまいそうです。
 このような絶望の中で、クリスマスを無邪気に喜ぶことができるのでしょうか。たしかに、今の世も続く「皇帝の勅令」にはわたしたちは絶望してしまいます。けれども、聖書は、それだけでない、とわたしたちに伝えています。
 権力者の強引な通達だけなく、わたしたちには神さまからの大きな喜びも伝えられていると。人間世界には絶望しますが、神様はそこに希望を伝えてくださいます。
 聖書はこのことを物語っているのではないでしょうか。そうであるならば、わたしたちは絶望の世にあっても、神さまの希望を、このクリスマスに、やはり喜ぼうではありませんか。

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2023年12月17日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

 マリアとヨセフは最後は結ばれますが、その前には、インマヌエルの出来事が必要でした。つまり、人と人がともにいることは、「神さまがわたしたちとともにおられる」ことを土台としているのです。
 ヨセフは「正しい人」(1:19)でした。けれども、それは律法を四角四面に当てはめ、結婚前に身ごもったマリアとは縁を切る、という冷たい正しさでした。
 人の目から見れば、マリアは不義を犯したということになりますが、神さまの目からはこれは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(1:20)のです。神さまの正しさは四角四面ではなく、愛のある、丸みを帯びた正しさです。
 待降節です。わたしたちは何を待ち望んでいるのでしょうか。イエス・キリストの誕生、そして、地上の生涯を終えて天に帰ったイエス・キリストの再臨を待ち望んでいます。イエス・キリストの再臨の日は、イエス・キリストが宣べ伝えた神さまの国がここにやってくる日でもあります。
 また、わたしたちは、戦争が終わり平和が来ること、心の嵐が止み平安が訪れることを、病が癒されることを、苦しみから解き放たれることを、悲しい別れをした人々と喜びの再会をすることを待ち望んでいます。
 イエス・キリストの再臨、神さまの国の到来は、これらの待望がすべて満たされる日でもあるでしょう。
 この日はかならず来る、しかも、遠くない、イエスは近い。これを人生の希望とする。アドベントはわたしたちのこの信仰をあらたにしてくれます。

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2023年12月10日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。(ヨハネ5:46)

 わたしたちは「証拠」を求めたがります。それは、論理的なものであったり、物理的なものであったりします。けれども、信仰は、論理性や証拠を全否定はしませんが、根本には、それらには拠らない「信頼」があります。
 もし神さまが、人間の論理や人間の考える証拠によって証明されるなら、それは、神さまを人間の思考の枠に閉じ込めてしまうことになります。
 さて、イエスがキリスト(メシア、救い主)であることはどのようにして「証し」されるのでしょうか。
「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」(5:36)。
神さまがイエスさまを通してなさる業が、キリストの証しだと言うのです。これも、「物的証拠」というよりは、そのように信頼する、信仰的にそのように受けとめるということでありましょう。
 上の引用では、モーセがイエスについて書いている、とイエス自身が言っておられます。これは、イエスが神さまから遣わされた救い主であることは、旧約聖書が証しをしている、というのです。
 しかし、これも「預言が命中した」というレベルのことではなく、旧約聖書に書かれていることを祈りと信仰においてイエス・キリストのこととして受け止める、ということであり、神さまがそのように示してくださることが、わたしたちの霊的な部分に届けられているということでありましょう。
 つまり、イエスがキリストであることは神さまご自身がわたしたちに示してくださることなのです。わたしたちはこれを信頼して受け止めましょう。

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2023年12月3日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。(ヨハネ7:27)

 わたしたちは、目の前にあるもの、たとえば、人や本のことを、すでに知っていると思ってしまえば、その人、その本から何も新しいことを受け取ることはできません。
 イエスのことを、この人のことは良く知っている、と思っている人は、このイエスがキリストであり、わたしたちの知らない、まったく新しいことをもたらしてくれることに気づくことはできないのです。
 わたしたちは、イエス・キリストのこと、神さまのことは知り尽くすことはできません。むしろ、知らないからこそ、そこには畏敬と敬意と感謝と信仰が生まれるのです。
 わたしたちをまったく新しくしてくださるお方の前では、わたしたちは何も知らず、すべてを新しく受け取る姿が大切でしょう。
 アドベント(降誕節)は、イエス・キリストの誕生、そして、イエス・キリストの再臨=神さまの国の到来、さらには、平和な世界、平安な心の到来を待ち望む季節です。
 たとえ今日は世界と心が真っ暗闇でも、今週は一本、来週は二本、再来週は三本、クリスマスには四本のろうそくが灯りますように。闇の中の光、希望の主、イエス・キリストがお越しくださいますように。
 闇を照らす光、わたしたちがこれまで知らなかったまったく新しい光をお迎えすることができますように。

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2023年11月26日 [今週の聖書の言葉]

2023年11月26日

わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。(ヨハネ18:37)

 イエス・キリストのことを、軍事や政治、経済支配をする王になる、と勘違いした人々もいたようです。イエスを尋問しているローマ総督ピラトもイエス自身がそのようなことを考えているかどうか知ろうとしたのでしょう。
 けれども、イエスは「違う」と言います。イエスは、エジプトの王ファラオやヘロデ王やローマ皇帝、その総督ピラト、あるいは、旧約聖書のサウルやダビデのような王になることさえ考えていなかったことでしょう。
 では、イエスは何者かというと、「真理について証しをする」者と、ご自分から言われます。
 真理とは神さまのことではないでしょうか。そして、神さまの人への真(まこと)、誠実、愛のことではないでしょうか。さらに、「証しをする」とは、身をもってそれを実行するということではないでしょうか。
 つまり、イエス・キリストは、自分は上から人を支配するこの世の王とは正反対に、僕として神さまと人に下から仕える、と言っておられるのではないでしょうか。
 わたしたちの中にも、人を支配したい、自分の思うようにことを進めたい、そのために人には自分の考え通りにしてほしい、という欲望が潜んでいないでしょうか。わたしたちの中にも、こういう意味で王になろうとする姿勢がないでしょうか。
 けれども、イエス・キリストは、王ではなく僕となる道を示してくださいます。この僕であるイエス・キリストをこそ、むしろ、王として、ぎゃくに、わたしたちは、王にはならず、僕の道を歩めますようにと祈ります。

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