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世に勝っている [礼拝説教(使信)動画]

2024年5月5日 「世に勝っている」

https://youtu.be/Dm_EqKeCOWo
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世に勝っている

2024年5月5日 「世に勝っている」ヨハネ16:25-33
 おはようございます。電車に乗ろうとすると、ドアの右端と左端に陣取っている人たちがいて、乗り込みにくい、車両の奥まで進みにくい、と皆さんは、感じたことはないでしょうか。あるいは、電車から降りる時に、同じくドアの右端と左端に陣取っている人たちのせいで、なかなか降りられない、という場面がないでしょうか。その位置にいる人は、そういうときは、一度ホームに降りるのが常識だと思うのですが、ホームに降りてしまうと、ドアの右端や左端の位置、席に座れない場合は、立っているのが比較的楽なその位置を他の人にとられてしまうということで、ホームに一度降りようとしない人が多いようにおもいます。
 あるいは、わたしが電車に乗る際に、まず降りる人を待っているのに、それをわたしが乗るのをぐずぐずしているように思うのか、うしろからわたしを押しのけて電車に乗り込もうとする人たちもいます。まあ、困ったものですね。
 わたしは、バスで奥の方の座席にすわって終点で降りる時は、たいてい、ほかの人に先に降りていただくようにしています。他の人を押しのけて、我先に降りる必要はありません。
 相手と意見が違うときも、わたしは、なるべく相手に譲るようにしています。けれども、十代、二十代のころは、なかなか譲ろうとはしませんでした。自分の正しいと思う考えを通そうとしました。三十代、四十代、五十代では、譲ることを少し覚え、なるべく譲るようにしてきましたが、六十代になって、また、自分を通してしまう場面が増えてきたように思います。
 今日の聖書で、イエスは「わたしは世に勝っている」と言っていますが、「勝つ」とはどういうことでしょうか。わたしたちは小さいころから「勝つ」ことを教えられてきました。それは他の人より勝ることであり、他の人を押さえつけることでもなかったでしょうか。わたしたちは、そういう「勝つ」を教えられてきました。
 良い成績をとる、ということは、周りの人より良い点をとる、周りの人より優位に立つことであるとわたしたちは教えられてきました。わたしたちは、そして、点数だけでなく順位を喜ぶようになってしまいました。
 勉強だけでなく、ふだんの会話でも、相手の言うことに対して、「それは違う」と言って、自分の意見を主張しようとしてしまっています。何かを決めるような話し合いの場でも、自分の提案を通そうとしてしまいます。他の意見も聞いて、なるほど、そういう考えもあるね、とならない場合もしばしばあります。
 けれども、「勝つ」ということは、ほんとうは、そういうことなのでしょうか。イエスが「わたしは世に勝っている」と言っているのは、そういう意味なのでしょうか。イエスが言っている「勝つ」「世に勝つ」とはどういうことなのでしょうか。
 それは、むしろ、わたしたちの中に沁み込んでしまっている「勝つ」、相手を押しのけるという意味での「勝つ」を克服することではないでしょうか。わたしたちが人を押しのけて勝とうとする勝ち方に、イエスは勝っておられるのではないでしょうか。 
 つまり、この場合の勝つとは、相手を屈服させるのではなく、力によって勝つ、という勝ち方を克服することではないでしょうか。
 わたしが若いころに「最後に愛は勝つ」という歌が流行りました。 「心配ないからね 君の想いが 誰かにとどく明日がきっとある どんなに困難でくじけそうでも 信じることを決してやめないで どんなに困難でくじけそうでも 信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。こういう歌です。
 これは、誰かを愛すれば、その思いは必ず届く、という意味のようであり、人生にどんな困難があっても信じれば乗り越えられる、という意味のようでもあります。「誰かを愛すれば、その思いは必ず届く」・・・学生時代にこの歌を聴いて、やっぱりそうだよな、と胸が高鳴りましたが、じっさいには、わたしが誰かに恋心を抱いても、届かないことはしばしばあった、というか、届いたことはあまりなかったように思います。
 ところで、この歌で言っている「愛」とは何なのでしょうか。最後に勝つ愛とはなんなのでしょうか。それは、あくまで、人間の愛、人間の強い思いのことではないでしょうか。そして、ここにこの歌の限界があるのかもしれません。
 聖書にもこれと少しだけ似ている言葉があります。ローマの信徒への手紙13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。13:8 愛は決して滅びない。
 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 わたしは、昔、結婚式場でキリスト教タイプの結婚式の仕事をしていましたので、この聖書の言葉はじつは数百回は声に出して読んでいます。わたしが読むこの聖書の言葉を聞いて結ばれたご夫婦が世の中には何百組もおられるはずです。結婚式後、再会したご夫婦は一組しかいませんが。
 それとは別の話ですが、わたしのクリスチャンの友人は、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」という言葉を聞いて、クリスチャンになることを決意したと言います。その人は、いちばん大事なものが、「信仰」ではなく、愛であるということに救われた、と言います。
 これは、信仰が大事ではない、ということではなく、自分の信仰には自信を持てなかった、自分の信仰はそんなに大きなものではない、神さまに救ってもらうに値するほど自分の信仰は強くない、けれども、神さまの愛は大きい、神さまの愛がもっとも大きい、この言葉に救われて、洗礼を受けたそうです。
 信仰、希望、愛。これらは、わたしたちのものでもありますが、どうじに、神さまから与えられたものでもあります。けれども、信仰と比べて、希望や愛は、神さまから与えられたものである度合いが強いように思います。さらには、希望や愛は、神さまご自身でさえあります。
 つまり、「その中で最も大いなるものは愛である」という言葉には、わたしたち人間の思いよりも、人間の事柄よりも、神さまの方が圧倒的に大きなものなのだ、という意味があるのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書の箇所の最後の言葉「わたしは既に世に勝っている」とはどういう意味なのでしょうか。このことを考えながら、今日の聖書の最初の言葉から順に振り返ってみましょう。
 ヨハネによる福音書16章25節 です。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 
 「父について知らせる」とあります。イエス・キリストが弟子たちに、父なる神さまのことを知らせる、という意味です。この父なる神さまとの関係も、「わたしは既に世に勝っている」という、イエス・キリストの今日の最後の言葉につながっているように思います。
 つまり、今日の聖書の箇所では、わたしたちと父なる神さま、イエス・キリストと父なる神さまの関係が述べられていますが、イエス・キリストは既に世に勝っているとは、イエス・キリストが父なる神と深くつながっている、イエス・キリストが父なる神と一体である、ことと切り離すことができないのではないでしょうか。
 26節です。16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
 「父ご自身があなたがたを愛しておられる」とあります。つまり、ここでは、父なる神さまが弟子たちを深く愛しておられることが言われています。また、イエス・キリストは父なる神さまのもとからお越しになっておられ、弟子たちは、父なる神さまのもとからお越しになったこのイエス・キリストを愛しておられる、ことが言われています。
 28節です。16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
 「父のもとから出て、父のもとに行く」とあります。ここでは、イエス・キリストと父なる神さまの深い関係が言われています。
 30節です。16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
 「あなたが神のもとから来られた」とあります。つまり、ここでも、父なる神さまとイエス・キリストの深い関係が言われています。さらには、そのことを弟子たちが「わたしたちは信じます」と告白していることが言われています。
 32節です。16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
 この箇所では、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」が大事だと思われます。つまり、イエス・キリストはひとりではない、神さまがともにおられる、ということです。
 33節です。16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 このようにして見てきますと、「わたしは既に世に勝っている」とは、イエス・キリストが父なる神さまと一緒にいることと切り離せないことがわかるのではないでしょうか。
 さらには、イエス・キリストは父なる神さまと一緒にいることで世に勝っているわけですが、このイエス・キリストの弟子であることで、わたしたちも父なる神さまと一緒にいるのであり、わたしたちが世で苦難があっても、同時に、イエス・キリストの平和、平安、父なる神さまの平安があることが言われています。
 イエス・キリストが世に勝っている、とはどういう意味でしょうか。それは、この世の苦難の中にありつつも、この世界の創り主であり、かつ、目に見えるこの世界を超えた神がともにいてくださる、ということではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストが世に勝っているということを、別の角度からも考えてみたいと思います。それは、イエス・キリストはわたしたち人間の価値観(肉の思い)に勝っておられる、人間の絶望に勝っておられる、そして、死に勝っておられる、ということです。
 「肉の思い」と申し上げましたが、ガラテヤの信徒への手紙にこうあります。ガラテヤ5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 わたしたちにも、偶像礼拝、つまり、神さまではないものに神さまのようにしがみついてしまう思い、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみがあります、と告白せざるを得ません。わたしたちは、相手に勝って生きていこうという価値観に染まってしまっています。けれども、キリストは、わたしたちのこの世的価値観に勝ってくださるのです。
 ガラテヤの信徒への手紙は続きます。ガラテヤ5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 霊の結ぶ実とは、じつは、もともとは、イエス・キリストのお心であり、そして、イエス・キリストがわたしたちに注ごうとしてくださるお心のことです。イエス・キリストのお心は、愛であり、喜びであり、寛容であり、誠実であるのです。わたしたちの心、世の思いとはまったく異なります。その意味で、イエス・キリストは世に勝っているのです。
 また、イエス・キリストはこのお心を、聖霊によって、わたしたちにも注ぎ込んでくださり、わたしたちの中にも、愛、喜び、寛容、誠実の心を育てようとしてくださいます。世の中はわたしたちに敵意、憎しみを蔓延させようとしますが、イエス・キリストは、愛、喜び、寛容、誠実を育てようとしてくださいます。その意味でもイエス・キリストは世に勝っておられるのです。
 イエス・キリストが世に勝っておられることについて、さらに申し上げますと、わたしたちは、病気や仕事や人間関係などのことで難しいことが起こると、もう駄目だと思ってしまいます。絶望に陥ってしまいます。
 けれども、イエス・キリストは、神さまがわたしたちとともにおられる、神さまがわたしたちを愛してくださることを示してくださいます。さらには、イエス・キリストご自身がわたしたちとともにいらしてくださり、ご自身がわたしたちを愛してくださることで、絶望に勝る希望を与えてくださいます。イエス・キリストご自身がわたしたちの希望なのです。その意味で、イエス・キリストは世の絶望、わたしたちの絶望に勝っておられるのです。
さいごに、イエス・キリストは、十字架につけられ死なれましたが、そこから、復活なさいました。これは、イエス・キリストが死に打ち克ってくださったことであり、わたしたちも、死によってすべてが終わってしまうのではないことを示してくださったのです。「どうせ死んだらすべてがおしまい」というこの世の価値観に、イエス・キリストは勝ってくださったのです。
 今日は、「イエス・キリストは世に勝っておられる」ということは、神さまがともにいらしてくださること、インマヌエルそのものであること、また、イエス・キリストは、わたしたちの人間的な、肉的な考え、人を押さえつけてしまう考えや、わたしたちの絶望、そして、死んだらすべておしまいというわたしたちの考えに勝ってくださることをご一緒に学びました。
 わたしたちは、負けているのではありません。イエス・キリストが世に勝ってくださったのです。イエス・キリストは、この世の悪の価値観、この世の絶望に勝ってくださるのです。このイエス・キリストに支えられてわたしたちも困難や苦しみを乗り越えて歩み続けましょう。
 祈り。神さま、あなたはイエス・キリストとともにおられます。あなたはわたしたちとともにいてくださいます。それが、あなたの勝利であり、イエス・キリストの勝利であり、わたしたちの勝利です。神さま、イエス・キリストは、わたしたちがこの世の争いの価値観、絶望の価値観、死の価値観に打ち克てるように、聖霊を注いでくださいます。イエス・キリストのお心をいただいて、わたしたちもこの世の肉の思いに打ち克つことができますように、お支えください。神さま、今、苦しんでいる友のすぐそばにいてください。その友がこの世に負けないようにお支えください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2024年5月5日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:32-33)

イエス・キリストが「既に世に勝っている」とはどういうことでしょうか。上の聖書の引用で、最初の段落では、弟子たちが逃げ去りキリストはひとり十字架の苦しみを受ける時が来ているが、父なる神さまが共にいてくださるので、この苦難を乗り越えられる、ということが言われています。
そして、下の段落では、弟子たち、あるいは、読者であるわたしたちにも苦難があるが、キリストが「世に勝っている」ことによって、わたしたちもそれを乗り越えられることが示されています。
つまり、キリストが世に勝っている、ということは、キリストとそしてわたしたちには、世の困難にはるかにまさる神さまがともにおられる、ということではないでしょうか。
また、キリストは、優劣や強弱というこの世の原理、肉の思い、苦難の中でのわたしたちの絶望、さらには、死んだら終わりという人間の虚無感に、打ち克ってくださり、愛と平和、キリストの心、霊の実り、絶望に勝る希望、死に勝る復活をわたしたちにもたらしてくださいます。

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