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イエス・キリストの働きは続く [礼拝説教(使信)動画]

2024年4月28日 「イエス・キリストの働きは続く」

https://youtu.be/HlZ3Vhp5NNk
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イエス・キリストの働きは続く [使信]

2024年4月28日 「イエス・キリストの働きは続く」 マタイ28:19-20
 皆さん、おはようございます。ただいま読んでいただいた聖書に「洗礼」という言葉が出てきますが、洗礼とはどういうことでしょうか。あるいは、キリスト教ではよく洗礼を受ければ救われると言いますが、救われるとはどういうことなのでしょうか。あるいは、今日の聖書にはイエスが命じたことを守るとありますが、聖書の言う律法、そして、イエスの戒めとはどのようなものでしょうか。さらには、わたしたちはどのようにしたら救われるのでしょうか。
 今日の聖書の箇所をもう一度読んでみましょう。マタイによる福音書28章19節です。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
 今読んだところによりますと、洗礼は、ひとつには、父と子と聖霊の名によって授けられる、とあります。それから、洗礼は、イエスの弟子になること、イエスの命令、戒め、イエスの言葉を守ることに結びついています。さらには、洗礼は、イエスが世の終わりまで、いつもともにおられること、さらには、神さまがわたしたちとともにおられること、つまり、インマヌエルということと結びついています。
 まず、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるということですが、父とはこの世界の創造者である神さまのことです。子とはその御子であるイエス・キリストのことです。そして、聖霊とは、創造者とイエス・キリストから送られてくる神さまの霊、聖なる霊のことです。この父と子と聖霊、創造者と御子イエス・キリストと聖霊は、三つの存在があるように思えますが、そうではなく、父と子と聖霊はひとつの神である、とキリスト教は教えます。これを三位一体と言います。
 つぎに、イエスの弟子になるということですが、これは、ひとつは、イエスとともに神の国を人びとに伝える者になるということでしょう。神の国とは、神さまがわたしたちを治めていてくださる、神さまこそがわたしたちのまことの王である、ということです。イエスの弟子になる、ということは、神さまこそがわたしたちのまことの王ですよ、と人びとに伝える働きの一員になることでありましょう。
 イエスの弟子になるとは、さらに、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とイエスが言ったように、イエスの命じることに従う者になるということでもあるでしょう。では、イエスはどんなことを命じているのでしょうか。そのまえに、イエス以前の旧約聖書はどんなことを命じているのでしょうか。
 旧約聖書には、十戒というものがあります。十の戒めです。そこには、まず、神さま以外のものを神として拝んだり、神さまのようにして自分の支えにしてはならない、ということが言われています。また、安息日を守りなさい、とあります。これは、一週間のうちの一日は、神さまを礼拝し、神さまと平安に過ごす時間、自分にとっての安息の時間にしなさい、ということです。それから、殺すな、あなたは殺してはならない、盗むな、あなたは盗んではならない、偽証をするな、嘘をついてはならない、という戒めがあります。
 では、イエスはどのようなことを戒めているのでしょうか。マタイ22:36-38にこのようにあります。22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 つまり、イエスは、旧約聖書の教えをまとめると、神さまを愛することと隣人を愛することになる、このふたつが大切だ、と言っています。たしかに、十戒の中にも、神さま以外のものを神のように拝んではならないとありましたが、これは、神さまだけを神さまとして愛するということでしょうし、殺さない、盗まない、嘘をつかないということは、隣人を愛することでありましょう。
 イエスは、これ以外にも、いくつかの戒めを述べています。マタイによる福音書を振り返ってみますと、まず、こうあります。
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
 つまり、これは、神の言葉、神さまの言葉に従って、神さまの言葉を拠り所として、神さまの言葉に支えられて生きなさい、という戒めと考えることができるでしょう。
 5:13 「あなたがたは地の塩である。5:14 あなたがたは世の光である。
 これは、あなたたちは、この世界の中で、塩や光のような役目を果たしなさない、塩のように人びとの生活にうるおいと味わいをもたらし、人びとの生活が腐らない、悪くならないように、長く保たれるように、あなたがたは務めなさい、また、人びとの暗い心に光を照らすような生き方をしなさい、ということではないでしょうか。
 5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。
 これは、今争っている相手と争い続けるのではなく、和解しなさい、仲直りしなさい、という戒めでしょう。
 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 これは、誰かにひどいことをされてもやり返すな、という戒めでしょう。
 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
 これは、欲しいという者には与えなさい、という戒めでしょう。
 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 これは、この通りの意味で、敵をやっつけるのではなく、敵を愛し、自分を苦しめる者を呪うのではなく、その人のために祈りなさい、という戒めです。
 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。
 これは偽善をするな、自分はこんな良いことをしていますよ、と人に自慢してはならない、という戒めでしょう。
 ずいぶんたくさんありますね。もう少し続きます。
 7:1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 これも、ここに書かれている通りですが、この人は間違っている、わたしは正しい、というように人を裁いてはならない、という戒めでしょう。
 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 これは、神さまに祈り求めなさい、神さまの救いを求めなさい、神さまの言葉の中に救いを求めなさい、そうすれば、救いは見つかる、ということではないでしょうか。
 7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
わたしたちは、楽な方、楽な道を選ぼうとしますが、困難な道を避けるな、という戒めではないでしょうか。
 さて、このように、イエスの戒めをざっと見てきましたが、わたしたちがこれらの戒めを守れば、神さまはわたしたちを救ってくれるのでしょうか。そもそも、わたしたちはこのような戒めを守り切れるのでしょうか。わたしたちはこの戒めを守れば、救われるのでしょうか。
 このイエス・キリストの復活を信じたパウロはどのように言っているのでしょうか。パウロは自分の書いた手紙の中でこう言っています。
 ローマの信徒への手紙ローマ3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
 つまり、パウロは、律法の戒めを守ることによってではなく、イエス・キリストを信じることによって救われます、と言っています。
 さらには、こう言っています。5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
 死んでくださった、ということは、キリストがわたしたちを救うために死んでくださった、ということであり、それは、「不信心な者のために」だ、と言います。
 つまり、パウロは、イエス・キリストを信じる人は救われる、と言いつつ、どうじに、イエス・キリストを信じない不信心な人さえも神さまは救ってくださる、とも言っているようにも思えます。
 また、パウロの手紙の中には、「イエス・キリストの信仰」という言葉が出てきますが、これは、二通りの意味に解釈されます。「イエス・キリストの信仰」という言葉は、じつは、「イエス・キリストの信実」とも訳されます。つまり、イエス・キリストのまこと、イエス・キリストの誠実、と訳すこともできるでしょう。
 そしてこれは、わたしたち人間のイエス・キリストへの誠実さ、わたしたち人間がイエス・キリストに向ける誠実さ、まこと、という意味が考えられます。しかし、もうひとつは、イエス・キリストがわたしたちや神さまに対して持っている誠実さ、イエス・キリストが神さまやわたしたちに対して持っておられるまこと、という意味も考えられます。
 そうしますと、パウロは、わたしたちがイエス・キリストを信じれば救われる、と言っているようにも思えますが、イエス・キリストがわたしたちに誠実だからわたしたちは救われると言っているようにも思われるのです。
 さて、もういちど、救いとはどういうことか、考えてみましょう。
 これは、まず、わたしたちが死んだ後、地獄ではなく、天国に行くこと、と考えられます。しかし、これを少し言い換えれば、わたしたちが死んだ後も、神さまとつながっていること、とも言えるでしょう。そうすると、何も死んだ後でなくても、この世でも、わたしたちが神さまとつながっていれば、わたしたちは救われている状態にあるのかもしれません。
 あるいは、救いとは、神さまに愛されていることだとも思われます。神さまから大切に思われていること、それがすでに救いだと考えられます。神さまはすべての人を愛しておられます。この意味ですべての人はすでに救われているとも考えられます。
 あるいは、救われるとは、あるいは、神さまとともにいることだとも考えられます。神さまは今すべての人とともにおられる、とわたしは信じています。この意味ですべての人はすでに救われている、とわたしは信じています。
 あるいは、神さまを信じたらその結果救われるということだけでなく、わたしたちが神さまを信じる状態にあることそのものが救いであるとも考えられます。これはすべての人に必ずしもあてはまらないかもしれません。神さまを信じているという人ばかりではないからです。しかし、神さまを信じたら救われるというよりも、神さまを信頼すること自体がすでに救いであるとも考えられます。
 あるいは、神に仕え人に仕えた結果救われるというだけでなく、神さまのみに仕えること、神さまと隣人を愛すること自体がすでに救いの状態、すでに平安の状態であるとも言えるのではないでしょうか。
 あるいは、人を殺さない、盗まない、嘘をつかない結果救われるだけでなく、人を殺さない、盗まない、嘘をつかない、それ自体が救いの状態であると言えるのではないでしょうか。
 さらには、神さまの言葉によって生きる、地の塩・世の光になる、争っている相手と和解する、やられてもやり返さない、求める者には与える、敵を愛し、迫害者のために祈る、偽善者にならない、人を裁かない、神さまを求める、狭い門から入る、これらの状態にあることがすでに救いの状態にあることではないでしょうか。
 最後に、イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。これについて、考えてみましょう。
 今日の午後、まぶね教会では教会総会が開かれ、今年の方策が協議されます。
 今年度の〈基本理念〉として以下のことが提案されます。
(1) 聖書の福音を若い世代に伝える
(2) イエス・キリストの体としての教会の働きを次世代に残す
(3) そのためにどうすればよいか、教会全体で考える
(1)「聖書の福音を若い世代に伝える」
 旧約、新約聖書が語っている神の創造、導き、守り、選び、赦し、救い、愛などのメッセージを、人生の根本の支えとして、若い世代に伝える。
(2)「イエス・キリストの体としての教会の働きを次世代に残す」
 教会は(1)のような聖書のメッセージ、神の御言葉を、言葉と行動、礼拝、聖書の学びと諸活動によって伝えてきた。この「言葉と行動」による教会の働きを次世代に引き継いでもらう。
(3)「そのためにどうすればよいか、教会全体で考える」
 若い世代に聖書のメッセージを伝え、教会の「言葉と行動」の働きを継承してもらうためにはどうしたらよいか、教会全体で考える。聖書のメッセージの伝え方、教会組織、活動の維持の方策を真剣に考える。
 わたしたちの教会はどうなっていくのでしょうか。福音と教会の働きを若い世代に伝えていくことはそうとうに難しいことです。まさに、狭き門です。
 しかし、イエス・キリストは、世の終わりまで、わたしたちと、そして、わたしたちの次の世代、若い世代、次世代とともにいてくださると言っておられるのではないでしょうか。
 これから、教会がどうなるのか、わたしたちにはよくわからないし、かなり不安なのですが、たしかなことは、神さまがともにおられること、インマヌエルは続くということです。インマヌエルはつづくし、信仰は続くし、神さまの愛の戒めは生き続けるのです。
 祈り。神さま、イエス・キリストは、あなたを愛し、隣人を愛することをわたしたちにつねに教えてくださいます。そして、世の終わりまで、あなたがともにいらしてくださることを教えてくださいます。どうか、わたしたち、教会があなたを信じ、イエス・キリストを信じ、歩み続けることができますように。イエス・キリストの言葉と、あなたによって導かれているわたしたちの歩みが、世の終わりまで続いて行きますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2024年4月28日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:19-20)
 
 「すべての民をイエス・キリストの弟子にする」とはどういうことでしょうか。それはキリストが「命じておいたことをすべて守るように教える」ことだと、ここにはあります。
 イエス・キリストがわたしたちに教えてくださったこと、それは、ひとことで言えば、神さまを愛し、隣人を愛することでした。
 具体的には、神さまだけに仕え、神さまの言葉を糧として生きることであり、また、わたしたちが「地の塩」「世の光」として生き、やられてもやり返さず、求める者には与え、敵を愛し、迫害者のために祈り、偽善に陥らず、人を裁かないことでした。
 そのようなことをするものは、その結果、神さまに救われる、というように受け取ることも可能ですが、あるいは、神さまに導かれてそのように生きることがすでに神さまに救われた状態だとも考えられます。
 イエス・キリストは世の終わりまで、わたしたちとともにいてくださいます。神さまがともにいてくださいます。インマヌエルです。このことがわたしたちにすでに与えられた救いではないでしょうか。
 神さまがともにいらしてくださる。それに感謝して、わたしたちは、神さまと隣人を愛するように、つまり、イエス・キリストの弟子として生きたいと思います。

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2024年4月21日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】
 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。(ヨハネ21:17)

 復活したイエス・キリストとペトロの間には、このような問答が三度繰り返されました。これは、イエスが十字架にかけられる直前に、ペトロが「そんな人は知らない」とイエスを三度否定したことに対応していると言われています。
 復活したイエス・キリストは、このようなペトロを叱責するためではなく、むしろ、赦すためにペトロに現れたのだとも考えられます。
 ここで、キリストはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言いました。羊とは、イエス・キリストを信じる者のことであり、これから信じる者のことであり、つまり、すべての人びとのことではないでしょうか。
 旧約聖書の時代、イスラエルの人びとは羊を飼っていました。けれども、自分たち自身が、神さまという羊飼いに導かれる羊であるとも知っていました。
 神さまという羊飼いは、詩編23編にあるように、わたしたちに必要なものが「欠けることがない」(詩編23:1)にしてくださいます。また「青草の原に休ませ」(23:2)てくださいます。これは、大勢の人びとと草地で食事をわかちあう福音書のイエスの姿とかさなります。
 この羊飼いは「死の陰の谷」(23:4)、わたしたちの人生の苦境をも導いてくださいます。「命ある限り」(23:6)、つまり、神さまとわたしたちとのつながりにおいて、この羊飼いは「恵みと慈しみ」(23:6)をもたらしてくださいます。

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湖畔の朝食 [礼拝説教(使信)動画]

2024年4月14日 「湖畔の朝食」

https://youtu.be/sMQ2e8ETJUI
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湖畔の朝食 [使信]

2024年4月14日 ヨハネ21:1₋14 「湖畔の朝食」
 おはようございます。わたしたちの人生は誰に導かれ、誰によって道を備えられているのでしょうか。わたしは自分からはあまり誰かに導いてもらおうとしてきませんでした。なんでも自分で努力すれば自分でできると思っていたのです。
 勉強も先生に教えてもらわなくても自分で本を読んで自分で理解すればよいと思っていました。そんなことだから、結局は勉強はあまりできない人生を送ることになってしまいました。けれども、関田先生だけはわたしを導いてくださいました。また、先生は、わたしの人生に必要なものを備えてくださいました。
 そして、関田先生ともうひとり、わたしの人生を導いてくださったお方、そして、わたしの人生に必要なものを備えてくださったお方は、神さまでした。
 ところで、牧師のことを英語ではpastorと言いますが、このpastorという単語には、「羊飼い」という意味もあります。つまり、教会は羊の群れであり、牧師は羊の群れを飼ったり、養ったり、導いたりすることが期待されているようです。
 けれども、わたしはまぶね教会の牧師として皆さんを飼っているのでしょうか? とんでもないですね。恐れ多いですね。わたしが教会に飼っていただいているのです。わたしが教会を養っているでしょうか。とんでもない。わたしが養っていただいているのです。わたしが教会を導いているでしょうか。とんでもない。わたしが導いていただいているのです。
 まぶね教会の牧師は教会の人を導くどころか、教会の人に導かれています。では、教会の皆さんはどうしたらよいのでしょうか。誰に導かれたら良いのでしょうか。
 それは、大丈夫です! まぶね教会の本当の牧師、本当の羊飼いは、神さまです。日本基督教団では、牧師は、補教師から正教師になるとき、按手礼というものを受けます。先輩牧師たちから頭の上に手を置いて祈ってもらうのです。
 その時に決まって歌う讃美歌の歌詞に「羊飼いの羊飼いよ」という一節があります。羊飼いの羊飼いとはイエス・キリスト、あるいは、神さまのことです。まぶね教会の今の羊飼いは怪しいですが、その羊飼いの羊飼いであるイエス・キリスト、そして神さまは確かなお方です。カール・バルトという神学者は、「牧師は羊飼いではない。羊飼いのしもべだ」と言ったそうですが、まさに、その通りだと思います。わたしなどは、羊飼いの役立たずのしもべです。
 教会の羊を飼い、養い、導いているまことの羊飼いは、イエス・キリストであり、神さまなのです。だから、教会は大丈夫です。
 昔、イスラエルの民は遊牧民族で、羊を飼っていました。けれども、羊を飼う自分たちを養い支えてくださるのは神さまだと信じていました。つまり、イスラエルの民は羊飼いだけれども、その羊飼いの羊飼いは神さまだと信じていました。言い換えれば、イスラエルの民は、自分たちは羊の群れ、神さまはその羊飼い、という信仰を持っていました。
 鄭富京先生が2月に「恵みと慈しみはいつも」という説教をしてくださいました。その時の聖書の個所を覚えておられますか。旧約聖書詩編23編でした。
 詩編23編1節。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
いきなり「主は羊飼い」「神さまは羊飼い」とダイレクトに言っています。「神さまは羊飼いのようなお方だ」となどと言わずに、「神さまは羊飼いです」と言い切ってしまうところがとてもよいと思います。
 「わたしには何も欠けることがない」とあります。いや、わたしにはお金が欠けています、という方もおられるかもしれません。わたしなどは、人間性が欠けております。忍耐力、おもいやりにも欠けています。
 しかし、この聖書の言葉はそういうことを言っているのではありません。この聖書が言っていることは、わたしの人生において、大事なところで、神さまはちゃんと備えていてくださる、ということではないでしょうか。
 これまでの自分の歩みを振り返って「ああ、神さまは大事なところでちゃんと備えてくださったのだなあ」とわたしたちは感謝しますし、これからの歩みにおいてもきっと神さまは備えてくださると確信いたします。
 そういう意味で、神さまがわたしの人生において欠かしたものは何もないと思います。ある詩に、「願ったものは手に入らなかったが、必要なものはすべて与えられた、必要なものはすべて備えられた」とあるとおりです。
 詩編23編の2節です。23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴う」「青草の原」とあります。昔は「緑の牧場」と言っていました。皆さんはどちらがお好みでしょうか。まあ、どちらも同じことですね。信号も青とも緑とも言われるがごとしです。
 詩編の時代の何百年かのちに、イエス・キリストが人びとをすわらせてパンや魚をわかちあわれたところも、やはり草地でした。
 マタイによる福音書にはこうあります。14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。
 ヨハネによる福音書にはこうあります。6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。
 つまり、新約聖書では、イエス・キリストは旧約聖書の詩編23編の羊飼いである神さまのイメージと重ねられているのです。
 詩編23節に戻ります。3節です。主は魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
「魂を生き返らせてくださる」とあります。今日のヨハネによる福音書に出てくる弟子たちも、イエス・キリストを十字架で失って意気消沈していましたが、イエス・キリストが復活して弟子たちのところに戻ってきて、弟子たちの魂を生き返らせます。
 「正しい道に導かれる」とあります。神さまはわたしたちを歩むべき道へと導いてくださいます。
 4節です。23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
 「死の陰の谷」とあります。イスラエルは荒れ野、乾燥地帯です。そこには、からからに渇き切った水一滴もない谷底があるそうです。この死の陰の谷底は、わたしたちの人生の困難、挫折、苦境とも重なります。
 しかし、そこにおいても神さまはわたしたちを導いてくださいます。だから、恐れなくてもよいのです。不安に思わなくてもよいのです。心配しなくてもよいのです。
 「あなたがわたしと共にいてくださる」とあります。神さまがわたしたち人間とともにいてくださる、これを聖書はインマヌエルと呼びます。インマヌエルは旧約聖書と新約聖書を貫くキーワード。聖書をひと言で言うとすれば、このインマヌエル、神さまが共にいてくださる、につきます。
 鞭、杖、とあります。神さまという羊飼いは、群れや進行方向から外れる羊を、群れ、進行方向に連れ戻してくださいます。また、前に進むように力づけてくださいます。
 5節です。23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
 「苦しめる者の前で、食卓を整えてくださる」とあります。人生の苦しみにおいても、神さまは必要なものを備えてくださいます。今日のヨハネ福音書ではイエス・キリストが弟子たちに朝食として魚の炭火焼きを用意していますが、この話もイエスが食卓を整えてくださる話と読めるのではないでしょうか。
 「頭に香油を注ぎ、杯を溢れさせる」とあります。これは、神さまがわたしたちの人生を味わい豊かな、意味深いものにしてくださることではないでしょうか。神さまはわたしの人生も味わい深いゆたかなものにしてくださいました。神さまはわたしに牧師という仕事を与えてくださり、嫌な上司もおらず、好きな本を読んで過ごす人生を許されています。まさに、わたしの人生の杯は神さまの恵みにあふれています。
 6節です。23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
「命ある限り」とあります。神さまとつながっている限りということでしょうか。わたしたちが地上の旅をしている今も、これを終えて天に帰ってからも、神さまがわたしたちとつながっていてくださいますから、恵みと慈しみはいつもわたしたちに注がれ続けるのです。
 「生涯、そこにとどまるであろう」とあります。わたしたちが人生において、「死の陰の谷」を歩むときも、あるいは「主の家」「神さまの家」、教会や神殿にいるときも、わたしたちは生涯、神さまの守りのもとにあるのです。
 詩編23編のお話はここまでにして、今日のヨハネによる福音書21章を振り返ってみましょう。
 1節です。21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
 「ティベリアス湖畔」とあります。「湖畔」と言えば、わたしはすぐに、「静かな湖畔の森の中から、もう起きちゃいかがとかっこうがなく」を思い出します。ティベリアス湖畔とありますが、これはガリラヤ湖畔のことです。
 「ご自身を現わされた」とあります。復活してイエス・キリストは何度かご自身の姿を何度か人びとの前に現わしました。復活直後には墓のすぐ近くで女性たちにおはようと声をかけました。 先週の聖書の箇所では、その日の夕方、弟子たちが鍵をかけて閉じこもっていた部屋の真ん中に現れました。
 3節です。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 「わたしは漁に行く」とあります。これは、ペトロという人間の思いです。ペトロの「わたし」の思いです。他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言いますが、これも、人間の思いです。人間の古い思いです。
 「その夜は何もとれなかった」とあります。人間が自分の思い、自分の力だけに頼ろうとした結果でした。自分の力で何とかしようとするとき、逆説的ですが、わたしたちは自分の無力を痛感いたします。
 4節です。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
人間が、わたしたちが、自分の力で何とかしようとするとき、わたしたちは無力です。しかし、その無力の闇の中に、イエス・キリストが現れてくださいます。「夜が明ける」とは、わたしたちの無力の夜が明けるということです。
 「それがイエスだとはわからなかった」とあります。わたしたちはイエス・キリストがここにおられても気づかないのです。逆に言えば、わたしたちが気づかないでもイエス・キリストはともにおられるのです。見えないけれども復活の主がともにおられるのです。そのことによって、わたしたちの夜は夜明けになるのです。
 5節です。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
 「食べものは、ありません」とあります。魚はとれない。食べ物もない。これは、わたしたちの現実です。わたしたちにはなにもありません。わたしたちには何もないと決めつけてしまっている面もあるでしょう。
 6節です。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
 「舟の右側に網を打ちなさい」というイエスの導きによって、魚がとれました。大漁でした。ここで先ほどの詩編23編5節が思い出されます。
 23:5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる
 詩編23編は、神さまという羊飼いの導きによって人生がゆたかになったことをうたっていますが、同じように、今日のヨハネによる福音書は、イエス・キリストの導きによって、弟子たちの人生は大漁となり、弟子たちの人生の食卓も整えられました。わたしたちは、お金持ちにならなくても、優秀にならなくても、イエス・キリストの導きによって、意味のある味わい深い人生を過ごせるのです。
 9節です。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
 「魚」、そして、「パン」とあります。今日の場面は、イエス・キリストが十字架で死んで復活したあとの場面ですが、先ほどお読みいたしましたように、イエス・キリストの十字架以前の話でも、イエス・キリストが草の原で人びととともにした食事もまたパンと魚によるものでした。
 11節です。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
 153匹とあります。一説によると地中海にはこれくらいの種類の魚がいるらしいです。つまり、これは、あらゆる人びとに神様の愛が伝えられていく、あらゆる人びとにイエス・キリストの福音が伝えられていく、神さまはどんな人でも愛することを意味しているようにも思われます。
 12節です。21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
 これは、イエス・キリストがここにいると確認しなくてもイエス・キリストがここにおられることを意味し、さらに言えば、わたしたちの目に見えなくてもイエス・キリストがここにおられることがあきらかにされているのです。イエス・キリストがここにいるとあえて言わなくても良い、目に見えなくても良い、イエス・キリストは空気のようにここにおられるということがあきらかにされているのです。
 13節です。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
 イエス・キリストはわたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。
 14節です。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 もう三度目とあります。週の初めの日の朝、その夕方、そして、その八日後、そして、今日。数え方によっては四度目のようにも思えます。
 いずれにせよ、今日の聖書の物語が伝えているメッセージのひとつは、わたしたちの人生を導いてくださり、また、必要なものを備えてくださるのは、神さまであり、イエス・キリストであるということです。
 目に見えないけれども、神さま、イエス・キリストはわたしたちとともにおられます。一晩中働いても魚一匹とれないようなときでも、食べるものがないようなときでも、神さま、イエス・キリストは目に見えないが、わたしたちとともにおられます。
 このことをインマヌエルと呼びます。インマヌエルとは神さまがともにおられるということです。イエス・キリストの復活はインマヌエル、神さまがわたしたちと共におられ、導いてくださる出来事でもあるのです。
 祈り:神さま、あなたは、イエス・キリストを羊飼いとして、わたしたちの人生を導き、わたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。心から感謝をいたします。神さま、導き手のないわたしたちの友をも導いて、その人生に必要なものを備えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024年4月14日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:6)

 イエスが十字架で死んで墓に葬られた後、弟子たちは、イエス抜きの生き方をしていたようです。「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」(21:3)という弟子たちの言葉にも、自分の力だけでなんとかしようという姿勢がうかがえます。
 しかし、それは自分たちの無力に直面することでもありました。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(21:3)。
 けれども、そこに変化が生じます。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」(21:4)。夜は明けたのです。イエスが戻ってきたのです。
 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21:6)。自分たちの力だけでやろうとしてだめだったところに、イエスが現われ、導いてくれたのです。そうすると、不漁から豊漁へと変わりました。
 人生もこれと同じです。イエス・キリストを信じることでお金持ちになったり出世したり幸運に恵まれたりするわけではありませんが、人生がゆたかになります。
 神さまに委ね、神さまの言葉に平安を得、神さまに感謝し、神さまを賛美し、神さまに祈る。これはじつにゆたかな人生です。
 この人生の豊漁に、イエス・キリストはつねにわたしたちを招いてくださいます。

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真ん中の平和 [礼拝説教(使信)動画]

2024年4月7日 「真ん中の平和」

https://youtu.be/OTL0tu1HoEQ
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真ん中の平和 [使信]

2024年4月7日 ヨハネ20:19-29 「真ん中の平和」
 おはようございます。少し前にKYという言葉がよく使われました。これは20年くらいまえから、女子高生が使い始めたらしいです。KYのKは「空気」、Yは「読めない」を意味し、KYは「空気を読めない」ことを指すそうです。しかし、Yで「読めない」を意味するのは少し無理な気がします。「読む」ではなく「読めない」という否定形なら、YではなくYNとしてほしいなと思います。
 それはさておき、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないでしょうか。目に見えるものを越えて、目に見えるものの向こう側に、目に見えない愛を感じることの方が大切ではないでしょうか。
 何週間か前に、五感を越えた愛、つまり、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を越えた愛があるというお話をしました。
 しかし、わたしたちは、どうしても、五感に頼ってしまいます。日常生活はもちろん五感によって送っていますし、それは当然のことですが、孤独なとき、不安なとき、あるいは、怒っているとき、悲しいとき、それらをやわらげよう、それらを癒そうと、わたしたちは、やはり、五感に頼ってしまうのではないでしょうか。そういうとき、目に見えるものに頼ってしまうのではないでしょうか。
 今ここにいる目に見える誰かに、あるいは、今ここにいる声の届く誰かに、自分の気持ちをわかってもらいたいと思い、わかってもらおうとするのではないでしょうか。
 神さまが愛してくださるから大丈夫、神さまがともにいらしてくれるから大丈夫、というだけでは、わたしたちの心はおさまらなくて、どうしても、人との交わり、しかも、視覚や聴覚を通した交わり、具体的には誰かが横にいるとか、誰かの声が聞こえるとかいうことに、救いを求めてしまうのではないでしょうか。
 信頼できる友達が今はここにいなくてもあそこの街にいるというようなことを心に思うだけでは心が満たされず、今、そばにいてくれて、今、言葉を交わすことを求めてしまうのではないでしょうか。
 つまり、友達ではあるけれども、今目の前にはいない人、今会話をしていない人の友情、愛だけでは満足できなくて、今目に見えるもの、あるいは、今耳に聞こえるものを求めてしまうのではないでしょうか。
 今日の聖書の箇所からわたしが受けたメッセージは、見えない神さまの愛、五感を越えた神さまの存在、人間的な感覚では感じられなくても、今ここにおられる神さま、今ここにおられるイエス・キリストを信じるということです。信じるということも、じつは、人間的な五感を越えているということです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書20章19節です。20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 「週の初めの日の夕方」とあります。イエスは「週の初めの日の明け方」に復活し、その知らせは弟子たちにも届けられたはずでしたが、弟子たちはユダヤ人を「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。「ユダヤ人を」とありますが。しかし、弟子たちが恐れていたのは、「ユダヤ人」というよりも、目に見えるイエスはもうここにいない、今ここにいない、イエスが目に見えるかたちではここにはいない、ということを恐れていたのではないでしょうか。
 わたしたちも、目に見える形で誰かが今ここにはいないとき、恐れや寂しさや悲しみを感じます。小さな子どもは親の姿が自分の視界から消えてしまえば、「おかあさん、どこ」と泣きます。大切な家族が地上の旅を終えて、目に見える形ではここにいないとき、わたしたちは悲しみや寂しさを覚えます。そして、ときには、心に鍵をかけて、閉じこもってしまいます。
 けれども、そこに、予想もしなかったことが起こります。弟子たちは部屋の扉に鍵をかけていたのに、そこにイエス・キリストが入ってきて、真ん中に立ってくださるのです。
 わたしたちも、何かを恐れたり、何かを悲しんだりして、扉を開けないでいる時があります。けれども、イエス・キリストの方からその中に入ってきてくださり、わたしたちの心の真ん中に立ってくださいます。わたしたちの生活の真ん中に、人生の真ん中に立ってくださいます。
 「あなたがたに平和があるように」とイエス・キリストは言われました。平和とは、平安であり、安らぎであり、安心です。旧約聖書の言葉で言えばシャロームです。新約聖書の言葉で言えばエイレーネです。エイレーネ・・・英語のアイリーン、フランス語のイレーヌという名前もこのギリシャ語のエイレーネ、平和から来ているようです。日本で言えば、平和の和で、和子さんでしょうか。
 イエスはわたしたちの心の真ん中でこのように、平和があるように、シャロームがあるように、エイレーネがあるようにと言ってくださいます。もっと言えば、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださることが、平安、シャロームなのです。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、わたしたちのシャロームなのです。
 そして、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいらしてくださることで、もうひとつ、すばらしいことが起こります。どんなことでしょうか。
 それは、わたしたちの愛する人びとも、そのとき、わたしたちの心の中にともにいてくれる、ということです。今生きている人も、あるいは、すでに地上の旅を終えた人も、わたしたちの心の中にいてくれるということです。復活したイエス・キリストがわたしたちの心の中にいて、わたしたちの平安、わたしたちのシャロームになってくださることで、わたしたちの大切な人びとも、地上の人も、天上の人も、目には見えなくても、わたしたちとともにいてくれるということです。
 20節です。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 「手とわき腹」とあります。これは、復活して、わたしたちの真ん中に現れてくださったイエス・キリストが、十字架につけられ、手に釘を打たれ、わき腹を槍でさされたあのイエス・キリストであることを意味します。わたしたちの苦しみを負ってくださり、傷つき倒れたイエス・キリストです。イエス・キリストの「手とわき腹」の傷は、イエス・キリストは、復活してもなおわたしたちの苦しみを負い続けくださることを意味します。「手とわき腹」は、イエス・キリストのわたしたちへの愛、いつくしみ、共感のしるしなのです。
 21節です。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 イエスは重ねて「わたしたちに平和、平安、安心、エイレーネ、シャローム」があるようにと言ってくださいます。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームであり、目に見えないイエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださるから、わたしたちの心の中には、平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームは、じつは、たしかにあるのです。
 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とあります。神さまがイエス・キリストをわたしたちの心の平安、シャロームとして送ってくださったように、イエス・キリストもわたしたちを誰かの心の平安として送り出してくださるのです。わたしたちは誰の心のシャロームとなれるのでしょうか。
 22節です。20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 「彼らに息を吹きかけた」とあります。イエス・キリストの「息」とは、聖霊のことです。聖霊とは、神さまの息のことであり、神さまのいのちのことであり、神さまの愛のことであり、そして、神さまからの平安のことです。
 つまり、イエス・キリストがわたしたちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言ってくださることと、イエス・キリストがわたしたちに神さまの愛の息吹を吹きかけてくださることは、じつは同じことなのです。
 「あなたが赦せば、その罪は赦される」とあります。わたしたちが誰かを赦せば、わたしたちはその人に平安をもたらすのです。神さまのシャローム、神さまの愛をもたらすのです。
 24節です。20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」
 トマスは目に見える証拠を求めたのです。先ほど復活したイエス・キリストの「手とわき腹」はイエス・キリストがわたしたちを愛し苦しみを担ってくれたしるし、いつくしみのしるしと申し上げました。しかし、トマスはイエス・キリストの手の釘跡を愛のしるしではなく、「目に見える証拠」にしようとしたのです。
ここに、目に見える証拠、五感による証拠を求める人間の悲しさがあるのではないでしょうか。トマスが釘跡を指で触りたいというのは五感のうちの触感による確認をしたいということではないでしょうか。
 「神さまは本当におられるのです」という、熱心な信仰者の言葉はたしかにとてもすばらしいです。しかし、そこには、「その証拠があります」という補足は必要でしょうか。目に見える証拠なしに、神さまを信じることが、信仰ではないでしょうか。信仰とは、目に見える証拠によって事実を確認することではありません。信仰とは、目に見えない真実に信頼することなのです。
 26節です。20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 ふたたび、イエス・キリストが、閉ざされた部屋の中に入って来られました。今度は、閉ざされたトマスの心の中にも入って来られました。イエス・キリストは、ふたたび「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださいました。トマスは証拠を求めましたが、じつは、そんな証拠などは必要なかったのです。証拠などなくても、イエス・キリストの方から、トマスの心の中に入ってきてくださったのです。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とあります。目に見えないから信じないというのではなく、目に見えないもの、けれども、たしかにここに存在するもの、大切なものを信じなさい、というのです。「目に見えないけれどもたしかにいる大切なもの」とは、神さまであり、復活されたイエス・キリストであり、わたしたちの愛する人びとのことです。
 今日のお話の最初に、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないか、目に見えるものを越えて、愛を感じることの方が大切ではないか、と申し上げました。
 愛を感じるとは、五感を越えて、見えるとか聞こえるとかいう人間の感覚を越えて、愛を感じることです。むろん、見えるとか聞こえるとかいった人間の感覚によって、愛を感じることも、それが過度にならないのであれば、否定されるべきではないでしょう。
 今目の前にいる目に見える人とのあたたかな交わり、そのやさしさの中で、神さまの愛を感じることもとても大切なことです。ただ、今目の前にその人がいることを求めすぎると、わたしたちは苦しくなってしまいます。目に見える愛、人間の感覚による愛は、求め過ぎるのではなく、自然に、それがあるところで感じるのが良いのではないでしょうか。
 わたしたちは、あるいは、桜の花や、緑の木立や、青い空のような自然を目の前にしたり、美しい光景を観たり、風の音や鳥のさえずりを聞いたりすることで、神さまの愛を感じることもあります。
 けれども、こうしたものが感じられない時でも、つまり、人の争いや孤独のただなかにいるときでも、あるいは、緑や青や赤のいろどりのない灰色の荒野にいるときでも、わたしたちは神さまの愛を感じたいのです。
 それは、どうすれば、できるのでしょうか。それは、わたしたちの心の奥底に神さまの言葉を秘めることだと思います。心の真ん中に一編の歌を抱くことだと思います。
 わたしたちの心の中に「いつくしみ深き友なるイエスは」という歌があれば、たとえ、わたしたちが人間の愛や自然の美しさを感じられない時でも、わたしたちは「いつくしみ深き友なるイエスを」という歌を心の真ん中でかなでることができるのです。そうすれば、そこにイエス・キリストがおられ、神さまの愛があるのです。
 「あなたがたに平和があるように」「世の終わりまでわたしはあなたがたとともにいる」というイエス・キリストの言葉が、わたしたちの心の奥底にあれば、目に見えなくても、五感によらなくても、神さまの愛、イエス・キリストの愛は、いつもわたしたちとともにあるのです。
 イエス・キリストがわたしたちの心の真ん中に入ってきてくださいました。目に見えない平安、目に見えないシャロームが、わたしたちの真ん中に、じつはいらしてくださるのです。たしかにいらしてくださるのです。
 祈り:神さま、わたしたちは目に見えるもの、耳に聞こえるもの、指で触れられるものを求めてしまいます。証拠として求めてしまいます。けれども、神さま、イエス・キリストは、わたしたち人間の五感を越えて、わたしたちの真ん中にきてくださり、わたしたちの平和、わたしたちのシャロームとなってくださいました。心より感謝いたします。神さま、愛を、平和を、平安を求めている友がいます。あなたが友の心の真ん中を訪ねて、友の平安になってください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024年4月7日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年4月7日

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:26)

 イエスは十字架で死んで墓に葬られてしまいました。弟子たちは自分たちにも同じことが起こることを恐れ、さらには、これからは師であるイエスがいないことをも恐れ、鍵をかけ、部屋の中に閉じこもっていました。
 けれども、イエス・キリストは閉ざされたわたしたちの心の真ん中に入ってきて、「平和があるように」と言ってくださいます。キリストご自身が平和、シャロームとなり、わたしたちの心の芯にいらしてくださいます。
 トマスは復活したイエスを見ないと信じないと言いました。目に見える証拠を求めたのです。けれども、キリストは「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言われました。
 信じるとは、目に見える証拠に確信を得ることではなく、わたしたちの心の真ん中におられる目に見えないイエス・キリストの平安に支えられ、それに委ねることなのです。

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