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湖畔の朝食 [礼拝説教(使信)動画]

2024年4月14日 「湖畔の朝食」

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湖畔の朝食 [使信]

2024年4月14日 ヨハネ21:1₋14 「湖畔の朝食」
 おはようございます。わたしたちの人生は誰に導かれ、誰によって道を備えられているのでしょうか。わたしは自分からはあまり誰かに導いてもらおうとしてきませんでした。なんでも自分で努力すれば自分でできると思っていたのです。
 勉強も先生に教えてもらわなくても自分で本を読んで自分で理解すればよいと思っていました。そんなことだから、結局は勉強はあまりできない人生を送ることになってしまいました。けれども、関田先生だけはわたしを導いてくださいました。また、先生は、わたしの人生に必要なものを備えてくださいました。
 そして、関田先生ともうひとり、わたしの人生を導いてくださったお方、そして、わたしの人生に必要なものを備えてくださったお方は、神さまでした。
 ところで、牧師のことを英語ではpastorと言いますが、このpastorという単語には、「羊飼い」という意味もあります。つまり、教会は羊の群れであり、牧師は羊の群れを飼ったり、養ったり、導いたりすることが期待されているようです。
 けれども、わたしはまぶね教会の牧師として皆さんを飼っているのでしょうか? とんでもないですね。恐れ多いですね。わたしが教会に飼っていただいているのです。わたしが教会を養っているでしょうか。とんでもない。わたしが養っていただいているのです。わたしが教会を導いているでしょうか。とんでもない。わたしが導いていただいているのです。
 まぶね教会の牧師は教会の人を導くどころか、教会の人に導かれています。では、教会の皆さんはどうしたらよいのでしょうか。誰に導かれたら良いのでしょうか。
 それは、大丈夫です! まぶね教会の本当の牧師、本当の羊飼いは、神さまです。日本基督教団では、牧師は、補教師から正教師になるとき、按手礼というものを受けます。先輩牧師たちから頭の上に手を置いて祈ってもらうのです。
 その時に決まって歌う讃美歌の歌詞に「羊飼いの羊飼いよ」という一節があります。羊飼いの羊飼いとはイエス・キリスト、あるいは、神さまのことです。まぶね教会の今の羊飼いは怪しいですが、その羊飼いの羊飼いであるイエス・キリスト、そして神さまは確かなお方です。カール・バルトという神学者は、「牧師は羊飼いではない。羊飼いのしもべだ」と言ったそうですが、まさに、その通りだと思います。わたしなどは、羊飼いの役立たずのしもべです。
 教会の羊を飼い、養い、導いているまことの羊飼いは、イエス・キリストであり、神さまなのです。だから、教会は大丈夫です。
 昔、イスラエルの民は遊牧民族で、羊を飼っていました。けれども、羊を飼う自分たちを養い支えてくださるのは神さまだと信じていました。つまり、イスラエルの民は羊飼いだけれども、その羊飼いの羊飼いは神さまだと信じていました。言い換えれば、イスラエルの民は、自分たちは羊の群れ、神さまはその羊飼い、という信仰を持っていました。
 鄭富京先生が2月に「恵みと慈しみはいつも」という説教をしてくださいました。その時の聖書の個所を覚えておられますか。旧約聖書詩編23編でした。
 詩編23編1節。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
いきなり「主は羊飼い」「神さまは羊飼い」とダイレクトに言っています。「神さまは羊飼いのようなお方だ」となどと言わずに、「神さまは羊飼いです」と言い切ってしまうところがとてもよいと思います。
 「わたしには何も欠けることがない」とあります。いや、わたしにはお金が欠けています、という方もおられるかもしれません。わたしなどは、人間性が欠けております。忍耐力、おもいやりにも欠けています。
 しかし、この聖書の言葉はそういうことを言っているのではありません。この聖書が言っていることは、わたしの人生において、大事なところで、神さまはちゃんと備えていてくださる、ということではないでしょうか。
 これまでの自分の歩みを振り返って「ああ、神さまは大事なところでちゃんと備えてくださったのだなあ」とわたしたちは感謝しますし、これからの歩みにおいてもきっと神さまは備えてくださると確信いたします。
 そういう意味で、神さまがわたしの人生において欠かしたものは何もないと思います。ある詩に、「願ったものは手に入らなかったが、必要なものはすべて与えられた、必要なものはすべて備えられた」とあるとおりです。
 詩編23編の2節です。23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴う」「青草の原」とあります。昔は「緑の牧場」と言っていました。皆さんはどちらがお好みでしょうか。まあ、どちらも同じことですね。信号も青とも緑とも言われるがごとしです。
 詩編の時代の何百年かのちに、イエス・キリストが人びとをすわらせてパンや魚をわかちあわれたところも、やはり草地でした。
 マタイによる福音書にはこうあります。14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。
 ヨハネによる福音書にはこうあります。6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。
 つまり、新約聖書では、イエス・キリストは旧約聖書の詩編23編の羊飼いである神さまのイメージと重ねられているのです。
 詩編23節に戻ります。3節です。主は魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
「魂を生き返らせてくださる」とあります。今日のヨハネによる福音書に出てくる弟子たちも、イエス・キリストを十字架で失って意気消沈していましたが、イエス・キリストが復活して弟子たちのところに戻ってきて、弟子たちの魂を生き返らせます。
 「正しい道に導かれる」とあります。神さまはわたしたちを歩むべき道へと導いてくださいます。
 4節です。23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
 「死の陰の谷」とあります。イスラエルは荒れ野、乾燥地帯です。そこには、からからに渇き切った水一滴もない谷底があるそうです。この死の陰の谷底は、わたしたちの人生の困難、挫折、苦境とも重なります。
 しかし、そこにおいても神さまはわたしたちを導いてくださいます。だから、恐れなくてもよいのです。不安に思わなくてもよいのです。心配しなくてもよいのです。
 「あなたがわたしと共にいてくださる」とあります。神さまがわたしたち人間とともにいてくださる、これを聖書はインマヌエルと呼びます。インマヌエルは旧約聖書と新約聖書を貫くキーワード。聖書をひと言で言うとすれば、このインマヌエル、神さまが共にいてくださる、につきます。
 鞭、杖、とあります。神さまという羊飼いは、群れや進行方向から外れる羊を、群れ、進行方向に連れ戻してくださいます。また、前に進むように力づけてくださいます。
 5節です。23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
 「苦しめる者の前で、食卓を整えてくださる」とあります。人生の苦しみにおいても、神さまは必要なものを備えてくださいます。今日のヨハネ福音書ではイエス・キリストが弟子たちに朝食として魚の炭火焼きを用意していますが、この話もイエスが食卓を整えてくださる話と読めるのではないでしょうか。
 「頭に香油を注ぎ、杯を溢れさせる」とあります。これは、神さまがわたしたちの人生を味わい豊かな、意味深いものにしてくださることではないでしょうか。神さまはわたしの人生も味わい深いゆたかなものにしてくださいました。神さまはわたしに牧師という仕事を与えてくださり、嫌な上司もおらず、好きな本を読んで過ごす人生を許されています。まさに、わたしの人生の杯は神さまの恵みにあふれています。
 6節です。23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
「命ある限り」とあります。神さまとつながっている限りということでしょうか。わたしたちが地上の旅をしている今も、これを終えて天に帰ってからも、神さまがわたしたちとつながっていてくださいますから、恵みと慈しみはいつもわたしたちに注がれ続けるのです。
 「生涯、そこにとどまるであろう」とあります。わたしたちが人生において、「死の陰の谷」を歩むときも、あるいは「主の家」「神さまの家」、教会や神殿にいるときも、わたしたちは生涯、神さまの守りのもとにあるのです。
 詩編23編のお話はここまでにして、今日のヨハネによる福音書21章を振り返ってみましょう。
 1節です。21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
 「ティベリアス湖畔」とあります。「湖畔」と言えば、わたしはすぐに、「静かな湖畔の森の中から、もう起きちゃいかがとかっこうがなく」を思い出します。ティベリアス湖畔とありますが、これはガリラヤ湖畔のことです。
 「ご自身を現わされた」とあります。復活してイエス・キリストは何度かご自身の姿を何度か人びとの前に現わしました。復活直後には墓のすぐ近くで女性たちにおはようと声をかけました。 先週の聖書の箇所では、その日の夕方、弟子たちが鍵をかけて閉じこもっていた部屋の真ん中に現れました。
 3節です。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 「わたしは漁に行く」とあります。これは、ペトロという人間の思いです。ペトロの「わたし」の思いです。他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言いますが、これも、人間の思いです。人間の古い思いです。
 「その夜は何もとれなかった」とあります。人間が自分の思い、自分の力だけに頼ろうとした結果でした。自分の力で何とかしようとするとき、逆説的ですが、わたしたちは自分の無力を痛感いたします。
 4節です。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
人間が、わたしたちが、自分の力で何とかしようとするとき、わたしたちは無力です。しかし、その無力の闇の中に、イエス・キリストが現れてくださいます。「夜が明ける」とは、わたしたちの無力の夜が明けるということです。
 「それがイエスだとはわからなかった」とあります。わたしたちはイエス・キリストがここにおられても気づかないのです。逆に言えば、わたしたちが気づかないでもイエス・キリストはともにおられるのです。見えないけれども復活の主がともにおられるのです。そのことによって、わたしたちの夜は夜明けになるのです。
 5節です。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
 「食べものは、ありません」とあります。魚はとれない。食べ物もない。これは、わたしたちの現実です。わたしたちにはなにもありません。わたしたちには何もないと決めつけてしまっている面もあるでしょう。
 6節です。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
 「舟の右側に網を打ちなさい」というイエスの導きによって、魚がとれました。大漁でした。ここで先ほどの詩編23編5節が思い出されます。
 23:5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる
 詩編23編は、神さまという羊飼いの導きによって人生がゆたかになったことをうたっていますが、同じように、今日のヨハネによる福音書は、イエス・キリストの導きによって、弟子たちの人生は大漁となり、弟子たちの人生の食卓も整えられました。わたしたちは、お金持ちにならなくても、優秀にならなくても、イエス・キリストの導きによって、意味のある味わい深い人生を過ごせるのです。
 9節です。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
 「魚」、そして、「パン」とあります。今日の場面は、イエス・キリストが十字架で死んで復活したあとの場面ですが、先ほどお読みいたしましたように、イエス・キリストの十字架以前の話でも、イエス・キリストが草の原で人びととともにした食事もまたパンと魚によるものでした。
 11節です。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
 153匹とあります。一説によると地中海にはこれくらいの種類の魚がいるらしいです。つまり、これは、あらゆる人びとに神様の愛が伝えられていく、あらゆる人びとにイエス・キリストの福音が伝えられていく、神さまはどんな人でも愛することを意味しているようにも思われます。
 12節です。21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
 これは、イエス・キリストがここにいると確認しなくてもイエス・キリストがここにおられることを意味し、さらに言えば、わたしたちの目に見えなくてもイエス・キリストがここにおられることがあきらかにされているのです。イエス・キリストがここにいるとあえて言わなくても良い、目に見えなくても良い、イエス・キリストは空気のようにここにおられるということがあきらかにされているのです。
 13節です。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
 イエス・キリストはわたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。
 14節です。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 もう三度目とあります。週の初めの日の朝、その夕方、そして、その八日後、そして、今日。数え方によっては四度目のようにも思えます。
 いずれにせよ、今日の聖書の物語が伝えているメッセージのひとつは、わたしたちの人生を導いてくださり、また、必要なものを備えてくださるのは、神さまであり、イエス・キリストであるということです。
 目に見えないけれども、神さま、イエス・キリストはわたしたちとともにおられます。一晩中働いても魚一匹とれないようなときでも、食べるものがないようなときでも、神さま、イエス・キリストは目に見えないが、わたしたちとともにおられます。
 このことをインマヌエルと呼びます。インマヌエルとは神さまがともにおられるということです。イエス・キリストの復活はインマヌエル、神さまがわたしたちと共におられ、導いてくださる出来事でもあるのです。
 祈り:神さま、あなたは、イエス・キリストを羊飼いとして、わたしたちの人生を導き、わたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。心から感謝をいたします。神さま、導き手のないわたしたちの友をも導いて、その人生に必要なものを備えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024年4月14日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:6)

 イエスが十字架で死んで墓に葬られた後、弟子たちは、イエス抜きの生き方をしていたようです。「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」(21:3)という弟子たちの言葉にも、自分の力だけでなんとかしようという姿勢がうかがえます。
 しかし、それは自分たちの無力に直面することでもありました。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(21:3)。
 けれども、そこに変化が生じます。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」(21:4)。夜は明けたのです。イエスが戻ってきたのです。
 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21:6)。自分たちの力だけでやろうとしてだめだったところに、イエスが現われ、導いてくれたのです。そうすると、不漁から豊漁へと変わりました。
 人生もこれと同じです。イエス・キリストを信じることでお金持ちになったり出世したり幸運に恵まれたりするわけではありませんが、人生がゆたかになります。
 神さまに委ね、神さまの言葉に平安を得、神さまに感謝し、神さまを賛美し、神さまに祈る。これはじつにゆたかな人生です。
 この人生の豊漁に、イエス・キリストはつねにわたしたちを招いてくださいます。

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真ん中の平和 [礼拝説教(使信)動画]

2024年4月7日 「真ん中の平和」

https://youtu.be/OTL0tu1HoEQ
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真ん中の平和 [使信]

2024年4月7日 ヨハネ20:19-29 「真ん中の平和」
 おはようございます。少し前にKYという言葉がよく使われました。これは20年くらいまえから、女子高生が使い始めたらしいです。KYのKは「空気」、Yは「読めない」を意味し、KYは「空気を読めない」ことを指すそうです。しかし、Yで「読めない」を意味するのは少し無理な気がします。「読む」ではなく「読めない」という否定形なら、YではなくYNとしてほしいなと思います。
 それはさておき、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないでしょうか。目に見えるものを越えて、目に見えるものの向こう側に、目に見えない愛を感じることの方が大切ではないでしょうか。
 何週間か前に、五感を越えた愛、つまり、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を越えた愛があるというお話をしました。
 しかし、わたしたちは、どうしても、五感に頼ってしまいます。日常生活はもちろん五感によって送っていますし、それは当然のことですが、孤独なとき、不安なとき、あるいは、怒っているとき、悲しいとき、それらをやわらげよう、それらを癒そうと、わたしたちは、やはり、五感に頼ってしまうのではないでしょうか。そういうとき、目に見えるものに頼ってしまうのではないでしょうか。
 今ここにいる目に見える誰かに、あるいは、今ここにいる声の届く誰かに、自分の気持ちをわかってもらいたいと思い、わかってもらおうとするのではないでしょうか。
 神さまが愛してくださるから大丈夫、神さまがともにいらしてくれるから大丈夫、というだけでは、わたしたちの心はおさまらなくて、どうしても、人との交わり、しかも、視覚や聴覚を通した交わり、具体的には誰かが横にいるとか、誰かの声が聞こえるとかいうことに、救いを求めてしまうのではないでしょうか。
 信頼できる友達が今はここにいなくてもあそこの街にいるというようなことを心に思うだけでは心が満たされず、今、そばにいてくれて、今、言葉を交わすことを求めてしまうのではないでしょうか。
 つまり、友達ではあるけれども、今目の前にはいない人、今会話をしていない人の友情、愛だけでは満足できなくて、今目に見えるもの、あるいは、今耳に聞こえるものを求めてしまうのではないでしょうか。
 今日の聖書の箇所からわたしが受けたメッセージは、見えない神さまの愛、五感を越えた神さまの存在、人間的な感覚では感じられなくても、今ここにおられる神さま、今ここにおられるイエス・キリストを信じるということです。信じるということも、じつは、人間的な五感を越えているということです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書20章19節です。20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 「週の初めの日の夕方」とあります。イエスは「週の初めの日の明け方」に復活し、その知らせは弟子たちにも届けられたはずでしたが、弟子たちはユダヤ人を「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。「ユダヤ人を」とありますが。しかし、弟子たちが恐れていたのは、「ユダヤ人」というよりも、目に見えるイエスはもうここにいない、今ここにいない、イエスが目に見えるかたちではここにはいない、ということを恐れていたのではないでしょうか。
 わたしたちも、目に見える形で誰かが今ここにはいないとき、恐れや寂しさや悲しみを感じます。小さな子どもは親の姿が自分の視界から消えてしまえば、「おかあさん、どこ」と泣きます。大切な家族が地上の旅を終えて、目に見える形ではここにいないとき、わたしたちは悲しみや寂しさを覚えます。そして、ときには、心に鍵をかけて、閉じこもってしまいます。
 けれども、そこに、予想もしなかったことが起こります。弟子たちは部屋の扉に鍵をかけていたのに、そこにイエス・キリストが入ってきて、真ん中に立ってくださるのです。
 わたしたちも、何かを恐れたり、何かを悲しんだりして、扉を開けないでいる時があります。けれども、イエス・キリストの方からその中に入ってきてくださり、わたしたちの心の真ん中に立ってくださいます。わたしたちの生活の真ん中に、人生の真ん中に立ってくださいます。
 「あなたがたに平和があるように」とイエス・キリストは言われました。平和とは、平安であり、安らぎであり、安心です。旧約聖書の言葉で言えばシャロームです。新約聖書の言葉で言えばエイレーネです。エイレーネ・・・英語のアイリーン、フランス語のイレーヌという名前もこのギリシャ語のエイレーネ、平和から来ているようです。日本で言えば、平和の和で、和子さんでしょうか。
 イエスはわたしたちの心の真ん中でこのように、平和があるように、シャロームがあるように、エイレーネがあるようにと言ってくださいます。もっと言えば、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださることが、平安、シャロームなのです。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、わたしたちのシャロームなのです。
 そして、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいらしてくださることで、もうひとつ、すばらしいことが起こります。どんなことでしょうか。
 それは、わたしたちの愛する人びとも、そのとき、わたしたちの心の中にともにいてくれる、ということです。今生きている人も、あるいは、すでに地上の旅を終えた人も、わたしたちの心の中にいてくれるということです。復活したイエス・キリストがわたしたちの心の中にいて、わたしたちの平安、わたしたちのシャロームになってくださることで、わたしたちの大切な人びとも、地上の人も、天上の人も、目には見えなくても、わたしたちとともにいてくれるということです。
 20節です。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 「手とわき腹」とあります。これは、復活して、わたしたちの真ん中に現れてくださったイエス・キリストが、十字架につけられ、手に釘を打たれ、わき腹を槍でさされたあのイエス・キリストであることを意味します。わたしたちの苦しみを負ってくださり、傷つき倒れたイエス・キリストです。イエス・キリストの「手とわき腹」の傷は、イエス・キリストは、復活してもなおわたしたちの苦しみを負い続けくださることを意味します。「手とわき腹」は、イエス・キリストのわたしたちへの愛、いつくしみ、共感のしるしなのです。
 21節です。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 イエスは重ねて「わたしたちに平和、平安、安心、エイレーネ、シャローム」があるようにと言ってくださいます。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームであり、目に見えないイエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださるから、わたしたちの心の中には、平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームは、じつは、たしかにあるのです。
 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とあります。神さまがイエス・キリストをわたしたちの心の平安、シャロームとして送ってくださったように、イエス・キリストもわたしたちを誰かの心の平安として送り出してくださるのです。わたしたちは誰の心のシャロームとなれるのでしょうか。
 22節です。20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 「彼らに息を吹きかけた」とあります。イエス・キリストの「息」とは、聖霊のことです。聖霊とは、神さまの息のことであり、神さまのいのちのことであり、神さまの愛のことであり、そして、神さまからの平安のことです。
 つまり、イエス・キリストがわたしたちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言ってくださることと、イエス・キリストがわたしたちに神さまの愛の息吹を吹きかけてくださることは、じつは同じことなのです。
 「あなたが赦せば、その罪は赦される」とあります。わたしたちが誰かを赦せば、わたしたちはその人に平安をもたらすのです。神さまのシャローム、神さまの愛をもたらすのです。
 24節です。20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」
 トマスは目に見える証拠を求めたのです。先ほど復活したイエス・キリストの「手とわき腹」はイエス・キリストがわたしたちを愛し苦しみを担ってくれたしるし、いつくしみのしるしと申し上げました。しかし、トマスはイエス・キリストの手の釘跡を愛のしるしではなく、「目に見える証拠」にしようとしたのです。
ここに、目に見える証拠、五感による証拠を求める人間の悲しさがあるのではないでしょうか。トマスが釘跡を指で触りたいというのは五感のうちの触感による確認をしたいということではないでしょうか。
 「神さまは本当におられるのです」という、熱心な信仰者の言葉はたしかにとてもすばらしいです。しかし、そこには、「その証拠があります」という補足は必要でしょうか。目に見える証拠なしに、神さまを信じることが、信仰ではないでしょうか。信仰とは、目に見える証拠によって事実を確認することではありません。信仰とは、目に見えない真実に信頼することなのです。
 26節です。20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 ふたたび、イエス・キリストが、閉ざされた部屋の中に入って来られました。今度は、閉ざされたトマスの心の中にも入って来られました。イエス・キリストは、ふたたび「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださいました。トマスは証拠を求めましたが、じつは、そんな証拠などは必要なかったのです。証拠などなくても、イエス・キリストの方から、トマスの心の中に入ってきてくださったのです。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とあります。目に見えないから信じないというのではなく、目に見えないもの、けれども、たしかにここに存在するもの、大切なものを信じなさい、というのです。「目に見えないけれどもたしかにいる大切なもの」とは、神さまであり、復活されたイエス・キリストであり、わたしたちの愛する人びとのことです。
 今日のお話の最初に、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないか、目に見えるものを越えて、愛を感じることの方が大切ではないか、と申し上げました。
 愛を感じるとは、五感を越えて、見えるとか聞こえるとかいう人間の感覚を越えて、愛を感じることです。むろん、見えるとか聞こえるとかいった人間の感覚によって、愛を感じることも、それが過度にならないのであれば、否定されるべきではないでしょう。
 今目の前にいる目に見える人とのあたたかな交わり、そのやさしさの中で、神さまの愛を感じることもとても大切なことです。ただ、今目の前にその人がいることを求めすぎると、わたしたちは苦しくなってしまいます。目に見える愛、人間の感覚による愛は、求め過ぎるのではなく、自然に、それがあるところで感じるのが良いのではないでしょうか。
 わたしたちは、あるいは、桜の花や、緑の木立や、青い空のような自然を目の前にしたり、美しい光景を観たり、風の音や鳥のさえずりを聞いたりすることで、神さまの愛を感じることもあります。
 けれども、こうしたものが感じられない時でも、つまり、人の争いや孤独のただなかにいるときでも、あるいは、緑や青や赤のいろどりのない灰色の荒野にいるときでも、わたしたちは神さまの愛を感じたいのです。
 それは、どうすれば、できるのでしょうか。それは、わたしたちの心の奥底に神さまの言葉を秘めることだと思います。心の真ん中に一編の歌を抱くことだと思います。
 わたしたちの心の中に「いつくしみ深き友なるイエスは」という歌があれば、たとえ、わたしたちが人間の愛や自然の美しさを感じられない時でも、わたしたちは「いつくしみ深き友なるイエスを」という歌を心の真ん中でかなでることができるのです。そうすれば、そこにイエス・キリストがおられ、神さまの愛があるのです。
 「あなたがたに平和があるように」「世の終わりまでわたしはあなたがたとともにいる」というイエス・キリストの言葉が、わたしたちの心の奥底にあれば、目に見えなくても、五感によらなくても、神さまの愛、イエス・キリストの愛は、いつもわたしたちとともにあるのです。
 イエス・キリストがわたしたちの心の真ん中に入ってきてくださいました。目に見えない平安、目に見えないシャロームが、わたしたちの真ん中に、じつはいらしてくださるのです。たしかにいらしてくださるのです。
 祈り:神さま、わたしたちは目に見えるもの、耳に聞こえるもの、指で触れられるものを求めてしまいます。証拠として求めてしまいます。けれども、神さま、イエス・キリストは、わたしたち人間の五感を越えて、わたしたちの真ん中にきてくださり、わたしたちの平和、わたしたちのシャロームとなってくださいました。心より感謝いたします。神さま、愛を、平和を、平安を求めている友がいます。あなたが友の心の真ん中を訪ねて、友の平安になってください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024年4月7日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年4月7日

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:26)

 イエスは十字架で死んで墓に葬られてしまいました。弟子たちは自分たちにも同じことが起こることを恐れ、さらには、これからは師であるイエスがいないことをも恐れ、鍵をかけ、部屋の中に閉じこもっていました。
 けれども、イエス・キリストは閉ざされたわたしたちの心の真ん中に入ってきて、「平和があるように」と言ってくださいます。キリストご自身が平和、シャロームとなり、わたしたちの心の芯にいらしてくださいます。
 トマスは復活したイエスを見ないと信じないと言いました。目に見える証拠を求めたのです。けれども、キリストは「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言われました。
 信じるとは、目に見える証拠に確信を得ることではなく、わたしたちの心の真ん中におられる目に見えないイエス・キリストの平安に支えられ、それに委ねることなのです。

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起こされる [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月31日 「起こされる」

https://youtu.be/ILnBbZa9fh8
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2024年3月31日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(マタイ28:7)

 「復活された」とありますが、これは、「起こされる」「倒れている者が起こされる」という意味の言葉でもあります。
 イエスの死は、ただの死ではなく、ある意味、挫折の死でもありました。神の国を宣べ伝え、病人を癒し、斥けられている人びとを訪ねましたが、それは、当事の宗教支配者たちの不興を買い、命を狙われます。
 そして、売られ、逮捕され、不当な裁きを受け、死刑を宣告され、十字架につけられ、死んで、暗い墓穴に閉じ込められます。イエスの短い人生は挫折の死で終わりました。イエスを慕った弟子たちや女性たちも挫折しました。倒れました。
 すべてが終わり、イエスとはもう会えない、という絶望が支配しました。けれども、この挫折と絶望を打ち破る出来事が起こったのです。
 神さまは、挫折して倒れ死んだイエスを起き上がらせて、暗い墓穴から明るい光の世界へ導き出したのです。
 イエスに従っていた人びとも、挫折から起こされました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(28:10)
 ガリラヤを故郷とし、そこでイエスともに歩んだ人びとにとって、エルサレムで挫折したのちガリラヤに戻ることは、挫折から立ち上がることでした。
 わたしたちも人生において何度か倒れますが、そのつど神さまが起こしてくださいます。死もわたしたちの終わりではありません。神さまが起こしてくださいます。

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2024-03-31 [使信]

2024年3月31日 マタイ28:1-10 「起き上がる」
 おはようございます。そして、イースターおめでとうございます。さて、わたしはどうして、使信の最初に「おはようございます」と言うのでしょうか。そして、今日はどうして「イースターおめでとうございます」と言うのでしょうか。イースターの何がめでたいこと、愛すべきこと、喜ぶべきことなのでしょうか。
 今日の聖書には、イエスは「復活なさったのだ」「あの方は死者の中から復活された」とありますが、もともとの言葉の意味になるべく近い日本語で言えば、これは、「起こされた」「寝ている状態、横たわっている状態から起き上がらされた」ということになるそうです。
 「起こされる」、これは、わたしたちの人生で言えば、たとえば、病気からの回復、あるいは、苦境からの脱出、あるいは挫折からの再起ということに近いかもしれません。
 わたしたちの世の中は挫折に満ちています。イッペイさんもショウヘイさんもナオミさんもぜひ挫折から再起してほしいと願います。
 朝ドラの「ブギウギ」が終わりました。あの主人公にもさまざまな挫折がありました。最初に受験した音楽学校には不合格になりました。両親はじつは育ての親であることを知ってしまいました。愛する弟、戦争で死ぬのが怖いと言った弟が戦死しました。戦争で歌えなくなりました。愛し合って結ばれた夫が病気で死んでしまいました。けれども、彼女は、これらの挫折からそのたびに起き上がりました。敗戦後、笠置(かさぎ)シズ子さんや美空ひばりさんの歌によって、励まされた、生きる元気をもらった、という人も、すくなくないのではないでしょうか。
 大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部、ドラマでは、いまのところ、「まひろ」と呼ばれていますが、彼女は藤原道長との別れから再起できるのでしょうか・・・できるに決まっていますが、どのように再起するのでしょうか。
 イエスも挫折をしました。イエスは、神の国を宣べ伝え、病人を癒し、斥けられた人びとを愛しましたが、おそらくは、それゆえに、祭司長、律法学者、宗教支配者によって殺そうと計画されました。そして、ユダから売られます、ペトロに知らないと言われます。弟子たちが逃げていきます。
 最高法院で死刑の判決を受けました。ピラトによって死刑の許可がくだされました。ローマ兵や人びとから辱められました。十字架につけられました。そこで、死にました。暗い墓の中に葬り去れました。イエスは倒されたのです。イエスの死は挫折でもありました。イエスは殺され、倒れ、地面に横たえられたのです。
 けれども、死んで大地に身を横たえたイエスを神さまは起き上がらせました。神さまはイエスを起こしました。イエス・キリストは、ただ死んで復活したのではなく、挫折の死から復活したのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書28章1節です。28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
 「安息日」とは、金曜の日没から土曜日の日没のことです。そして、「週の初めの日」とは、土曜日の日没から日曜日の日没ということになりますが、「週の初めの日の明け方」とありますから、これは朝の話、つまり、日曜日の朝のお話です。今日と同じ日曜日の朝のことです。教会が日曜日の朝に礼拝をするのは、これにちなんでのことです。日曜日はお出かけしたいから、朝のうちに礼拝を済ませておこう、ということではありません。
 「墓を見に行った」とあります。マグダラのマリアたちは、イエスは死んだまま墓に横たわっていると考えていたのです。イエスは挫折の死の状態のままだと思っていたのです。ここには、あきらめが感じられます。イエスの死は、イエスについて生きて来た彼女たち自身が挫折することでもあったのです。
 けれども、挫折とあきらめをひっくり返すような出来事が生じます。28章2節です。28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
天使が「石をわきへ転がした」とあります。イエスは、挫折の死により倒れ、暗い墓に寝かされ、そこに閉じ込められていました。けれども、「石をわきへ転がす」とは、イエスが閉じ込められた空間の扉を開くことを意味します。そのことは、さらに、倒れて寝ているイエスを起き上がらせ、明るい光の外へ連れ出しました。「その上にすわった」とあります。天使はイエスを閉じ込めた石を制覇したのです。天使はイエスを閉じ込めた闇を打ち破ったのです。
 この天使がしたことは、そのまま神さまがイエスにしたことでありましょう。挫折して、死んで、倒れ、闇に閉じ込められたイエスを、神さまは起き上がらせ、扉を開け、光の中に導いたのです。
5節です。28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
 「恐れることはない」とあります。これは、この不思議な出来事に恐れることはない。ということだけでなく、自分たちの師であるイエスが挫折の死を遂げてもう会えない、もうここにはいない、自分たちには助けも支えもない、と恐れる必要はない、ということでもありましょう。
 「あの方はここにはおられない」とあります。イエスは挫折の死によって倒れたままでいるのではありません。イエス・キリストは墓に閉じ込められたままではありません。あの方は起き上がった、あの方は起き上がって、光に満ちあふれた広い世界へと出て行かれた、と天使は言うのです。天使はイエス・キリストは「復活なさった」と言います。復活とは、挫折して一度は死んだ者が、しかし、起き上がって、闇にとどまらず、闇から光へと出て行くことなのです。
 7節です。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」「死者の中から復活された」。
 イエス・キリストは挫折の死から起き上がりました。神さまが起こしたのです。イエス・キリストは、挫折の死から復活しました。
 皆さまには何度もお話ししたことで恐縮ですが、これしか話のネタがないので、今日もお話しいたします。わたしは、数年前に20年近く務めた前の職場を辞めることになりました。このことは大きな挫折でした。
 あれはひとつの死でした。あんなに打ちのめされたことはありませんでした。先週、イエスを人びとが取り囲み理不尽に責め立てたという話がありましたが、そのときのわたしもそんな状態を痛感していました。
 しかし、数年経った今、数年前とはまた違う人生の展開を与えられています。何よりも、まぶね教会で日々有意義に過ごさせていただいておりますし、思いがけなく、いや、これは嘘で、わたしから「わたしにできる仕事があれば」と売り込んだのですが、その結果、農伝で授業を受け持ったり、また、神学生とともに歩むことができたり、しっかりと、起き上がって歩いています。
 イエス・キリストは「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」とあります。「あなたがた」とは、弟子たちのことです。弟子たちは逃げました。しかし逃げなかった女性たちが弟子たちに「イエス・キリストはあなたがたより先にガリラヤに行かれる」と告げるのです。
 ガリラヤは弟子たちのふるさとです。弟子たちもイエス・キリストとともにガリラヤからエルサレムに出て来て挫折したのです。これは、日本で言えば、地方から東京に出て来て挫折したみたいなものかもしれません。その弟子たちがガリラヤにもどることは、挫折した弟子たちの再起を意味するのではないでしょうか。そして、イエス・キリストがそのガリラヤに「先に行く」とは、イエスが弟子たちに先立って、再起し、それによって、弟子たちも再起する、ということではないでしょうか。
わたしたちは人生においてたびたび挫折しますが、この挫折からの再起は、イエス・キリストの再起、イエス・キリストの復活によって導かれます。イエス・キリストの復活によって、わたしたちは人生における挫折からの復活が可能になります。
 イエスが挫折の死から復活したという物語は、わたしたちも挫折しても立ち上がることができることを意味します。挫折したわたしたちを神さまが立ち上がらせてくれることを意味します。暗い墓に閉じ込められたイエス・キリストを神さまが起き上がらせ、光へと導いたように、わたしたちが闇の中で倒れても、神さまが起こして下さり、光へと進ませてくださいます。
 9節です。28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
 復活したイエス・キリストは「行く手に立っていて、おはよう」と言われました。わたしたちは挫折から起き上がってもどうしたらよいのか、不安です。この先やっていけるのか不安です。けれども、わたしたちのこの先、わたしたちの行く手には、イエス・キリストが立っておられるのです。イエス・キリストがわたしたちの行く手に、先に行って待っていてくださるのです。
 そして、「おはよう」と言ってくださるのです。わたしの使信やメッセージは、「おはようございます」で始まります。これは、挫折の死から起き上がったイエス・キリストが「おはよう」と言ったことを、皆さんに思い出していただくためです。つまりは、イエスは復活した、起き上がったことを思い出していただくためです。
 10節です。28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 「ガリラヤへ行くように」とあります。これは、神さまはあなたたちを挫折の死から起き上がらせてくださるのだから、あなたたちも起き上がって、前に進もうではないか、というメッセージではないでしょうか。
 神さまがわたしたちを起き上がらせてくださいます。わたしたちも起き上がって、光の中へと歩みましょう。
 祈り:神さま、あなたは、挫折して死に、暗い墓に閉じ込められたイエス・キリストを起き上がらせてくださいました。そして、わたしたちも、人生において、何度倒れても、あなたは、起き上がらせてくださいます。ですから、わたしたちは、死をも恐れることはありません。あなたが起き上がらせてくださいます。神さま、今、道に倒れている友を、どうぞ、起き上がらせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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イエスの受難 [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月24日 「イエスの受難」

https://youtu.be/ffhTZD4eMY0
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