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湖畔の朝食 [礼拝説教(使信)動画]

2024年4月14日 「湖畔の朝食」

https://youtu.be/sMQ2e8ETJUI
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湖畔の朝食 [使信]

2024年4月14日 ヨハネ21:1₋14 「湖畔の朝食」
 おはようございます。わたしたちの人生は誰に導かれ、誰によって道を備えられているのでしょうか。わたしは自分からはあまり誰かに導いてもらおうとしてきませんでした。なんでも自分で努力すれば自分でできると思っていたのです。
 勉強も先生に教えてもらわなくても自分で本を読んで自分で理解すればよいと思っていました。そんなことだから、結局は勉強はあまりできない人生を送ることになってしまいました。けれども、関田先生だけはわたしを導いてくださいました。また、先生は、わたしの人生に必要なものを備えてくださいました。
 そして、関田先生ともうひとり、わたしの人生を導いてくださったお方、そして、わたしの人生に必要なものを備えてくださったお方は、神さまでした。
 ところで、牧師のことを英語ではpastorと言いますが、このpastorという単語には、「羊飼い」という意味もあります。つまり、教会は羊の群れであり、牧師は羊の群れを飼ったり、養ったり、導いたりすることが期待されているようです。
 けれども、わたしはまぶね教会の牧師として皆さんを飼っているのでしょうか? とんでもないですね。恐れ多いですね。わたしが教会に飼っていただいているのです。わたしが教会を養っているでしょうか。とんでもない。わたしが養っていただいているのです。わたしが教会を導いているでしょうか。とんでもない。わたしが導いていただいているのです。
 まぶね教会の牧師は教会の人を導くどころか、教会の人に導かれています。では、教会の皆さんはどうしたらよいのでしょうか。誰に導かれたら良いのでしょうか。
 それは、大丈夫です! まぶね教会の本当の牧師、本当の羊飼いは、神さまです。日本基督教団では、牧師は、補教師から正教師になるとき、按手礼というものを受けます。先輩牧師たちから頭の上に手を置いて祈ってもらうのです。
 その時に決まって歌う讃美歌の歌詞に「羊飼いの羊飼いよ」という一節があります。羊飼いの羊飼いとはイエス・キリスト、あるいは、神さまのことです。まぶね教会の今の羊飼いは怪しいですが、その羊飼いの羊飼いであるイエス・キリスト、そして神さまは確かなお方です。カール・バルトという神学者は、「牧師は羊飼いではない。羊飼いのしもべだ」と言ったそうですが、まさに、その通りだと思います。わたしなどは、羊飼いの役立たずのしもべです。
 教会の羊を飼い、養い、導いているまことの羊飼いは、イエス・キリストであり、神さまなのです。だから、教会は大丈夫です。
 昔、イスラエルの民は遊牧民族で、羊を飼っていました。けれども、羊を飼う自分たちを養い支えてくださるのは神さまだと信じていました。つまり、イスラエルの民は羊飼いだけれども、その羊飼いの羊飼いは神さまだと信じていました。言い換えれば、イスラエルの民は、自分たちは羊の群れ、神さまはその羊飼い、という信仰を持っていました。
 鄭富京先生が2月に「恵みと慈しみはいつも」という説教をしてくださいました。その時の聖書の個所を覚えておられますか。旧約聖書詩編23編でした。
 詩編23編1節。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
いきなり「主は羊飼い」「神さまは羊飼い」とダイレクトに言っています。「神さまは羊飼いのようなお方だ」となどと言わずに、「神さまは羊飼いです」と言い切ってしまうところがとてもよいと思います。
 「わたしには何も欠けることがない」とあります。いや、わたしにはお金が欠けています、という方もおられるかもしれません。わたしなどは、人間性が欠けております。忍耐力、おもいやりにも欠けています。
 しかし、この聖書の言葉はそういうことを言っているのではありません。この聖書が言っていることは、わたしの人生において、大事なところで、神さまはちゃんと備えていてくださる、ということではないでしょうか。
 これまでの自分の歩みを振り返って「ああ、神さまは大事なところでちゃんと備えてくださったのだなあ」とわたしたちは感謝しますし、これからの歩みにおいてもきっと神さまは備えてくださると確信いたします。
 そういう意味で、神さまがわたしの人生において欠かしたものは何もないと思います。ある詩に、「願ったものは手に入らなかったが、必要なものはすべて与えられた、必要なものはすべて備えられた」とあるとおりです。
 詩編23編の2節です。23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴う」「青草の原」とあります。昔は「緑の牧場」と言っていました。皆さんはどちらがお好みでしょうか。まあ、どちらも同じことですね。信号も青とも緑とも言われるがごとしです。
 詩編の時代の何百年かのちに、イエス・キリストが人びとをすわらせてパンや魚をわかちあわれたところも、やはり草地でした。
 マタイによる福音書にはこうあります。14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。
 ヨハネによる福音書にはこうあります。6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。
 つまり、新約聖書では、イエス・キリストは旧約聖書の詩編23編の羊飼いである神さまのイメージと重ねられているのです。
 詩編23節に戻ります。3節です。主は魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
「魂を生き返らせてくださる」とあります。今日のヨハネによる福音書に出てくる弟子たちも、イエス・キリストを十字架で失って意気消沈していましたが、イエス・キリストが復活して弟子たちのところに戻ってきて、弟子たちの魂を生き返らせます。
 「正しい道に導かれる」とあります。神さまはわたしたちを歩むべき道へと導いてくださいます。
 4節です。23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
 「死の陰の谷」とあります。イスラエルは荒れ野、乾燥地帯です。そこには、からからに渇き切った水一滴もない谷底があるそうです。この死の陰の谷底は、わたしたちの人生の困難、挫折、苦境とも重なります。
 しかし、そこにおいても神さまはわたしたちを導いてくださいます。だから、恐れなくてもよいのです。不安に思わなくてもよいのです。心配しなくてもよいのです。
 「あなたがわたしと共にいてくださる」とあります。神さまがわたしたち人間とともにいてくださる、これを聖書はインマヌエルと呼びます。インマヌエルは旧約聖書と新約聖書を貫くキーワード。聖書をひと言で言うとすれば、このインマヌエル、神さまが共にいてくださる、につきます。
 鞭、杖、とあります。神さまという羊飼いは、群れや進行方向から外れる羊を、群れ、進行方向に連れ戻してくださいます。また、前に進むように力づけてくださいます。
 5節です。23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
 「苦しめる者の前で、食卓を整えてくださる」とあります。人生の苦しみにおいても、神さまは必要なものを備えてくださいます。今日のヨハネ福音書ではイエス・キリストが弟子たちに朝食として魚の炭火焼きを用意していますが、この話もイエスが食卓を整えてくださる話と読めるのではないでしょうか。
 「頭に香油を注ぎ、杯を溢れさせる」とあります。これは、神さまがわたしたちの人生を味わい豊かな、意味深いものにしてくださることではないでしょうか。神さまはわたしの人生も味わい深いゆたかなものにしてくださいました。神さまはわたしに牧師という仕事を与えてくださり、嫌な上司もおらず、好きな本を読んで過ごす人生を許されています。まさに、わたしの人生の杯は神さまの恵みにあふれています。
 6節です。23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
「命ある限り」とあります。神さまとつながっている限りということでしょうか。わたしたちが地上の旅をしている今も、これを終えて天に帰ってからも、神さまがわたしたちとつながっていてくださいますから、恵みと慈しみはいつもわたしたちに注がれ続けるのです。
 「生涯、そこにとどまるであろう」とあります。わたしたちが人生において、「死の陰の谷」を歩むときも、あるいは「主の家」「神さまの家」、教会や神殿にいるときも、わたしたちは生涯、神さまの守りのもとにあるのです。
 詩編23編のお話はここまでにして、今日のヨハネによる福音書21章を振り返ってみましょう。
 1節です。21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
 「ティベリアス湖畔」とあります。「湖畔」と言えば、わたしはすぐに、「静かな湖畔の森の中から、もう起きちゃいかがとかっこうがなく」を思い出します。ティベリアス湖畔とありますが、これはガリラヤ湖畔のことです。
 「ご自身を現わされた」とあります。復活してイエス・キリストは何度かご自身の姿を何度か人びとの前に現わしました。復活直後には墓のすぐ近くで女性たちにおはようと声をかけました。 先週の聖書の箇所では、その日の夕方、弟子たちが鍵をかけて閉じこもっていた部屋の真ん中に現れました。
 3節です。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 「わたしは漁に行く」とあります。これは、ペトロという人間の思いです。ペトロの「わたし」の思いです。他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言いますが、これも、人間の思いです。人間の古い思いです。
 「その夜は何もとれなかった」とあります。人間が自分の思い、自分の力だけに頼ろうとした結果でした。自分の力で何とかしようとするとき、逆説的ですが、わたしたちは自分の無力を痛感いたします。
 4節です。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
人間が、わたしたちが、自分の力で何とかしようとするとき、わたしたちは無力です。しかし、その無力の闇の中に、イエス・キリストが現れてくださいます。「夜が明ける」とは、わたしたちの無力の夜が明けるということです。
 「それがイエスだとはわからなかった」とあります。わたしたちはイエス・キリストがここにおられても気づかないのです。逆に言えば、わたしたちが気づかないでもイエス・キリストはともにおられるのです。見えないけれども復活の主がともにおられるのです。そのことによって、わたしたちの夜は夜明けになるのです。
 5節です。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
 「食べものは、ありません」とあります。魚はとれない。食べ物もない。これは、わたしたちの現実です。わたしたちにはなにもありません。わたしたちには何もないと決めつけてしまっている面もあるでしょう。
 6節です。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
 「舟の右側に網を打ちなさい」というイエスの導きによって、魚がとれました。大漁でした。ここで先ほどの詩編23編5節が思い出されます。
 23:5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる
 詩編23編は、神さまという羊飼いの導きによって人生がゆたかになったことをうたっていますが、同じように、今日のヨハネによる福音書は、イエス・キリストの導きによって、弟子たちの人生は大漁となり、弟子たちの人生の食卓も整えられました。わたしたちは、お金持ちにならなくても、優秀にならなくても、イエス・キリストの導きによって、意味のある味わい深い人生を過ごせるのです。
 9節です。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
 「魚」、そして、「パン」とあります。今日の場面は、イエス・キリストが十字架で死んで復活したあとの場面ですが、先ほどお読みいたしましたように、イエス・キリストの十字架以前の話でも、イエス・キリストが草の原で人びととともにした食事もまたパンと魚によるものでした。
 11節です。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
 153匹とあります。一説によると地中海にはこれくらいの種類の魚がいるらしいです。つまり、これは、あらゆる人びとに神様の愛が伝えられていく、あらゆる人びとにイエス・キリストの福音が伝えられていく、神さまはどんな人でも愛することを意味しているようにも思われます。
 12節です。21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
 これは、イエス・キリストがここにいると確認しなくてもイエス・キリストがここにおられることを意味し、さらに言えば、わたしたちの目に見えなくてもイエス・キリストがここにおられることがあきらかにされているのです。イエス・キリストがここにいるとあえて言わなくても良い、目に見えなくても良い、イエス・キリストは空気のようにここにおられるということがあきらかにされているのです。
 13節です。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
 イエス・キリストはわたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。
 14節です。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 もう三度目とあります。週の初めの日の朝、その夕方、そして、その八日後、そして、今日。数え方によっては四度目のようにも思えます。
 いずれにせよ、今日の聖書の物語が伝えているメッセージのひとつは、わたしたちの人生を導いてくださり、また、必要なものを備えてくださるのは、神さまであり、イエス・キリストであるということです。
 目に見えないけれども、神さま、イエス・キリストはわたしたちとともにおられます。一晩中働いても魚一匹とれないようなときでも、食べるものがないようなときでも、神さま、イエス・キリストは目に見えないが、わたしたちとともにおられます。
 このことをインマヌエルと呼びます。インマヌエルとは神さまがともにおられるということです。イエス・キリストの復活はインマヌエル、神さまがわたしたちと共におられ、導いてくださる出来事でもあるのです。
 祈り:神さま、あなたは、イエス・キリストを羊飼いとして、わたしたちの人生を導き、わたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。心から感謝をいたします。神さま、導き手のないわたしたちの友をも導いて、その人生に必要なものを備えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024年4月14日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:6)

 イエスが十字架で死んで墓に葬られた後、弟子たちは、イエス抜きの生き方をしていたようです。「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」(21:3)という弟子たちの言葉にも、自分の力だけでなんとかしようという姿勢がうかがえます。
 しかし、それは自分たちの無力に直面することでもありました。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(21:3)。
 けれども、そこに変化が生じます。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」(21:4)。夜は明けたのです。イエスが戻ってきたのです。
 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21:6)。自分たちの力だけでやろうとしてだめだったところに、イエスが現われ、導いてくれたのです。そうすると、不漁から豊漁へと変わりました。
 人生もこれと同じです。イエス・キリストを信じることでお金持ちになったり出世したり幸運に恵まれたりするわけではありませんが、人生がゆたかになります。
 神さまに委ね、神さまの言葉に平安を得、神さまに感謝し、神さまを賛美し、神さまに祈る。これはじつにゆたかな人生です。
 この人生の豊漁に、イエス・キリストはつねにわたしたちを招いてくださいます。

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