SSブログ
若者向け説教 ブログトップ

「神は居場所をくださる、神が居場所になってくださる」  [若者向け説教]

高校奨励「神は居場所をくださる、神が居場所になってくださる」 ルカ2:1-7

 おはようございます。2年生の聖書の授業を担当しています林です。今から45年くらい前、わたしは九州の、とある県立高校に入学しました。

 高校生活は、友達と話をしたり、遊んだり、基本的には、楽しかったのですが、心の深いところには、重たいものを抱えていたように思います。

 それは、やはり、勉強とか大学受験とかのことでした。その高校では、中間テスト、期末テストごとに、全科目の点数を合計して、学年順位を出します。その点数や順位の書かれたカードが、まずは、わたしたち生徒に配られ、つぎに、それを保護者の住所を書いた封筒に入れるように指示されるのです。

 悪い成績ですと、郵便でその成績カードが家につくまでドキドキして過ごし、それが家につけば、親からひどく叱られる、というようなことを何度も繰り返しました。

 勉強はあまりしませんでしたが、成績のことは、いつも心の重荷になっていました。

 大学受験についても、同じようなことでした。いわゆる進学校でしたので、有名な大学を志望校とすることが当たり前の雰囲気がありました。

 わたしも、勉強はしないのに、有名大学に行きたいという気持ちだけはありました。けれども、模試の結果などは、とうぜん、それにふさわしいものではなく、そのことがいつも心の重荷になっていました。

 けっきょく、高校三年生の時、受けた三つの大学入試は、発表を見に行く必要もないくらい、できなくて、とうぜん、皆不合格でした。

 そして、一年浪人することになりました。その一年間も、心の奥底は重苦しかったのですが、こんどは、なんとか大学に合格できました。

 大学に入り、親元を離れ、ひとり暮らしを始めたわたしは、それまでの重苦しさを投げ捨てたかのように、心は軽くなり、軽くなりすぎて、毎日楽しく遊んで暮らしました。

 そうやって、一年半が過ぎました。大学の授業に出ず、毎日遊び暮らしたわたしは、留年どころか、卒業の見通しも立てなくなり、もはやその大学でやり直す意欲はわかず、そこは中退したいと思い始めました。

 けれども、中退しても、働くつもりもなく、別の大学に行きたいと思いました。そして、その気持ちを手紙に書いて、親に出しました。

 今の大学を中退して、他の大学に入学し直すことを親が認めてくれるかどうか、わたしは不安でした。それが認めてもらえなければ、自分の居場所、自分の人生の居場所がなくなってしまうような恐ろしさを感じていました。

 手紙を出して一週間後、親からの返信が届きました。そこには、おまえがそうしたいなら、そうしていいよ、と書いてありました。わたしは、とても救われた気持ちになりました。

 そして、つぎの四月からは、別の大学に入学し直しました。それは、21歳の時でしたので、三年浪人したのと同じことになりましたが、そこでは、大学四年間と大学院二年間を過ごしました。とても充実した6年間でした。6年間、そこがわたしの居場所になったのです。

 さて、あと一か月すれば、クリスマスです。クリスマスには、毎年、イエスが生まれた時の聖書の物語が読まれます。

 さきほどの聖書はその一部です。それによると、イエスの母親と父親は、母親が身ごもっているにも関わらず、旅をしていました。自分の生まれた町に帰り、住民台帳に登録をせよ、との命令がローマ皇帝によってくだされたのです。

 けれども、イエスの親たちは、その晩泊まる宿を見つけることができませんでした。つまり、ふたりには居場所がなかったのです。

 ところが、神はそんなふたりに、そして、生まれてくるイエスに、居場所をあたえてくれました。それは、それが、馬小屋であり、飼い葉おけでした。

 この物語と同じように、神はわたしたちに居場所を与えてくださいます。先ほど、わたしの大学生の時のことをお話ししましたが、わたしのその後の人生でも、居場所をなくすような出来事は何度か起こりましたが、そのつど、代わりの居場所が与えられました。

 皆さんも、自分には居場所がない、と感じるときがあると思います。それでも、神がきっと皆さんに居場所を与えてくれる、とわたしは思います。

 今日読んだところではありませんが、聖書は、イエスの誕生の物語で、イエスはインマヌエルと呼ばれる、それは、「神がわたしたちと一緒にいる」「神がわたしたちと一緒にいる」という意味である、と語っています。

 神さまがわたしたちと一緒にいてくださる。それは、神さまこそがわたしたちの居場所であるということではないでしょうか。クリスマスは、神さまがわたしたちに居場所をくださる、神さまこそがわたしたちの居場所である、と物語っています。

 お祈りをしましょう。神さま、わたしたちは、ときどき、自分の居場所を失ってしまいますが、そんなとき、あなたがわたしたちの居場所をくださることを思い出すことができますように。イエスによって祈ります。アーメン。

nice!(0) 

一瞬に咲けよ [若者向け説教]

マルコによる福音書 12:41-44

12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

皆さん、おはようございます。皆さんは、夏休みをどのように過ごしたでしょうか。ぼくは、この夏休みは、高校野球にかなり関心を持ちました。

ぼくが40年近く前に卒業した九州は福岡県の高校は、ずっと昔のことですが、甲子園でも二回優勝したことのある学校で、野球の応援は熱心にしていました。ぼくが高校3年生になるときも、春の甲子園に出場し、一回戦は東京の帝京高校に勝ちました。けれども、それ以来、40年間、甲子園に出る機会はありませんでした。ところが、今年は、福岡県の予選を一回戦、二回戦、三回戦、四回戦と勝ち進み、準決勝まで行きました。あと二つ勝てば甲子園です。テレビの中継はありませんでしたが、インターネットでは試合経過の速報が毎回ごとに更新されますので、それをずっと追いかけていました。しかし、負けてしまいました。

とても残念でしたが、今度は、ぼくの子どもが通っている高校も地方予選を勝ち進んでいました。ぼくの子どもは野球部ではありませんが、やはり応援したくなります。けれども、ここも、もう少しで甲子園、というところで負けてしまいました。

そこで、この悔しさを何とか晴らそうと、もうひとりの子どもがサッカーをしているので、全国高校サッカー選手権の予選を応援に行きましたが、これも一回戦で負けてしまいました。

仕方がないので、ルーキーズという十年くらい前の映画を観ました。これは、ぎりぎりのところで大逆転して、甲子園に行くのです。映画ですし、結果も知っていましたが、映画のストーリーやせりふ、俳優さんたちの熱演に感動しました。

それから、もう少し感動したいと思って、キャプテンという古いアニメも観ました。これも、中学野球の漫画ですが、やはり、全国大会に出場を果たします。

こうした夏休みの経験を通して、ぼくは、高校生の部活の意味を考えましたが、そのひとつは、努力すること、そして、一生懸命にやることの大切さを経験すること、経験して学ぶことだと思いました。

もうじき最終回が来ますが、NHKで毎日「半分、青い」という15分ドラマをやっています。永野芽郁さんとか佐藤健さんとかが出ているドラマです。永野芽郁さんが演じる主人公が、いちじき、漫画を画いていたのですが、その中に、「一瞬に咲け」という作品がありました。

「一瞬に咲け」とはどういう意味でしょうか。ほんの一瞬だけ咲きなさい、あとは、咲かなくて良い、ということでしょうか。

そうではないと思います。そうではなく、一瞬、一瞬、一秒、一秒、花が咲くように、一所懸命に生きなさい、一秒一秒、花が開くように、自分を精一杯開いて、できるだけのことをしなさい、打ち込みなさい、つまり、あなたの一瞬一瞬にあなたのいのちを咲かせなさい、ということではないでしょうか。

今日の聖書によりますと、お金持ちたちは比較的大きな額のお金を賽銭箱に入れます。けれども、貧しいやもめ・・・やもめというのは夫に先に死なれた女性のことですが・・・このやもめは少ししか入れませんでした。

けれども、イエスは、この女性は「誰よりもたくさん入れた」と言います。お金持ちが一万円入れたとしても財布の中には十万円残っていたかも知れません。けれども、この女性は財布の中にあった硬貨一枚をささげたら、あとには何も残りませんでした。彼女は、その一瞬にできるすべてのことをしたのです。彼女はその一瞬に咲いたのです。その一瞬に自分のいのちを咲かせたのです。

これは、財布の中にあるお金を全部寄付しなさい、献金しなさいという意味ではありません。いまできる精一杯のことをやりなさい、いまという一瞬に咲きなさい、いまという一瞬にあなたのいのちを咲かせなさい、ということなのです。

みなさんは、24時間咲かなくても良いと思います。けれども、授業であるとか、部活であるとか、礼拝であるとか、その一瞬一瞬において、花のようにうつくしく、あなたのいのちを咲かせることが大切だと思います。一秒一秒に精一杯打ち込むことが大切だと思います。
nice!(0) 

「自慢をしなくても、誉められなくても、神さまは見ていてくださいます」 [若者向け説教]

中高生礼拝 20180819 マタイ6:1-4 p.9
 
「自慢をしなくても、誉められなくても、神さまは見ていてくださいます」
 
 皆さん、おはようございます。皆さんのまわりには、人を助けたり、みんなでする仕事を率先してやったり、とても良いことをしているようだけれども、じつは、それを人に見えるように、人に見せるようにやって、誉めてもらおうとしている人はいないでしょうか。そういう人は、人が見ていないときは、何にもしなかったりしますよね。
 
 今から二千年前、日本からは遠いユダヤの国にも、そういう人はいました。イエスさまは、そういう人たちを見て、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われました。
 
 イエスさまによると、そういう人たちは、貧しい人びとに食べ物やお金を渡すときに、ラッパを吹き鳴らして、人をたくさん集めて、さあ、皆さん、しっかり見ていてください、わたしは、この貧しい人びとを助けますよ、偉いでしょう、と自分を宣伝しているようなものだ、ということになります。
 
 そういう人たちは、じつは、神さまから救われたいから、皆から良いと思われるようなことをしているのかもしれませんが、イエスさまは、皆から良いと思われることで、もうご褒美は受けてしまっているのだから、神さまからのご褒美はもうないよ、と皮肉のようなことも言っておられます。
 
 ほんとうは、わたしたちが何か良いことをしたご褒美で、神さまがわたしたちを救ってくださるのではありません。わたしたちはもう神さまから救われているのです。わたしたちがここにいること、生かされていることは、良いことをしたご褒美ではなく、神さまからいのちを与えられたからです。それがもう神さまの救いなのです。

 わたしたちがいのちを与えられ、今ここに生きている。さらには、目には見えないけれども、神さまが一緒にいてくださる。目には見えないけれども、さらには、感じられないかもしれないけれども、神さまが愛してくださっておられる。それが神さまの救いなのです。
 
 神さまの救いは感じられないものかもしれません。空気と同じです。空気も風でも吹かない限りそんなに感じられるものではありませんが、わたしたちは空気の中に、あたりまえのように浸っています。神さまの愛も、空気のようなもので、そんなに感じられなくても、じつは、わたしたちは神さまの愛に包まれている、救われているのです。
 
 それは、何か良いことをしたからではありません。わたしたちは、良いことをしなくても空気に包まれているように、良いことをして偉いだろうと神さまに見せなくても、神さまの愛は空気のようにわたしたちを包んでいてくださいます。

nice!(0) 

「神は見えないから、存在しないのでしょうか」 [若者向け説教]

「神は見えないから、存在しないのでしょうか」

ヘブライ人への手紙11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 皆さん、おはようございます。皆さんは、高校に入学して十か月間、このような礼拝や聖書の授業を通して、神について聞いてきたのですが、いかがでしょうか。神は存在する、と思うでしょうか。あるいは、神は存在しない、と思うでしょうか。

 そもそも、あるものが存在するとか、しないとか、いうことは、わたしたちは、どのようにして、判断しているでしょうか。

 一番初歩的な考えでは、目に見えるか、見えないか、ということが基準になるかも知れません。その基準で判断すれば、神も、仏も、幽霊も、天国も、地獄も、目に見えないから、存在しないということになります。

 けれども、目に見えないから存在しない、という判断があやまりであることは、皆さんもおわかりのように、簡単に証明できます。

 空気は目に見えなくても存在しますよね。この場合の空気とは、窒素と酸素からなる空気のことです。その場の雰囲気のことではありません。窒素と酸素からなる空気は目に見えなくても、たしかに存在します。測定も可能です。窒素も酸素も、目には見えませんが、空気中では、気体の状態にある物質です。中学の時に、物質の三態と言って、固体、液体、気体、と習いましたね。気体は目に見えなくても、存在します。なかには、色つきの気体もあるそうですが、透明でも、気体はたしかに存在します。

 それから、電波や音や声はどうでしょうか。これらも目には見えませんが、たしかに存在します。電波も音も測定が可能です。ただし、固体や液体や気体のように、物質として、どこかに閉じ込めることはできないのではないでしょうか。ビニール袋の中に、電波や音を入れておくことはできません。けれども、わたしたちは、電波や音を使いながら、毎日を生活していますから、電波や音についても、目に見えないから存在しない、などと言うことはできないでしょう。ただし、固体や液体や気体のような物質とは、存在の仕方が異なるのではないでしょうか。

 つぎに、心はどうでしょうか。心も目に見えません。それでも、心はたしかにありますよね。今皆さんがここにいてわたしの話を聞いている。今わたしの話を聞いている皆さんの意識というものがある。その意識を心と呼ぶならば、目には見えなくても、皆さんに心が存在することは否定できません。ただし、心の存在の仕方も、最初に話した物質や、つぎに話した電波や音とは、異なっているのではないでしょうか。 

 愛はどうでしょうか。愛とは、誰かや何かを大切にする心、というか、気持ち、というか、意志、というか、言い表すことが難しいですが、そのような目に見えない何かです。
 愛は存在するでしょうか。愛なんて存在しない、と言う人がいるかも知れません。けれども、それは自分が人からひどい目に遭わされたとか、冷たくされたとか、そういうときに、そう感じるのであって、人から良くされたり、あたたかくされたりしたら、この世にたしかに愛はあるなあ、という気持ちに替わるかも知れません。

 あるいは、あの人には愛がない、という言い方をしますが、これは、なかには愛がある人もいるのに、あの人は愛がない、という意味の場合が多いと思います。つまり、目には見えないけれども、この世界には愛がある、ただ、あの人にはない、ということですね。ですから、あの人には愛がない、という時も、世界のどこかには愛がある、あの人ではないところには愛がある、という前提で話していることになります。愛も目には見えませんが、わたしたちは、愛というものがどこかに存在する、という前提で、話をすることが多いのです。この場合も、愛の存在の仕方は、固体、液体、気体や、電波や音とは異なるように思えます。

 では、愛の存在の仕方は、さきほどの心の存在の仕方と似たようなものなのでしょうか。友情の存在の仕方も、物質や電波の存在の仕方とは異なると思われますが、友情と愛と心の存在の仕方は、おたがいに、似通っているのでしょうか。

 天国のおじいちゃん、おばあちゃんはどうでしょうか。「天国からおじいちゃん、おばあちゃんが見守っている」というのは、嘘なのでしょうか。たしかに、物質的な見方をすれば、そんなことはありません。けれども、物資的な見方ではなく、愛や友情や心のような存在の仕方であれば、天国におじいちゃんとおばあちゃんが存在する、と言うことはできないでしょうか。

 さいごに、では、神はどうでしょうか。神も目に見えません。同じ目に見えないと言っても、気体や電波の存在の存在の仕方とは、まったく違うのではないでしょうか。神の存在の仕方は、むしろ、愛や心や友情の存在の仕方と似ているのではないでしょうか。物質のような存在の仕方で考えれば、神など存在しないとなってしまいますが、愛や心や友情のような存在の仕方、あるいは、天国のおじいちゃん、おばあちゃんのような存在の仕方と似ているのかも知れません。どうでしょうか。ぜひ、皆さん、もっと考えてみてください。
nice!(1) 
若者向け説教 ブログトップ