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物質と霊 [使信]

使信 2024年3月3日  「物質と霊」  ヨハネ6:60-71
 おはようございます。今日は、NHKの朝ドラではなく、民放のドラマのお話をしたいと思います。「君が心をくれたから」というドラマです。二十代の男女の物語ですが、女の子の五感が徐々に失われて行くというお話です。あるとき、男の子が交通事故で死にかけるのですが、そこに死の世界の人があらわれて、女の子が五感を差し出すのなら、男の子のいのちは助かると言うのです。
 女の子は、男の子のいのちを助けるために、それを受け入れます。そうやって男の子は助かりますが、女の子は、味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚の五感をひとつずつ失っていきます。ドラマでは、味覚、嗅覚、触覚はすでに失われ、今は、視覚を失いつつある状態です。
 では、この女の子が五感すべてを失ったときどうなるのか、ということが、視聴者の間で話題になり、インターネットでも、あれこれ言われています。わたしは、五感が失われても、第六感があった、ということになるのではないか、と予想しています。
 第六感と言っても、いわゆる「感」、「感」が働く、というときの「感」ではなくて、人間には、五感以外に、愛がある、というお話になるのではないか、あるいは、そういう可能性があるのではないか、と思っています。
 わたしたちは愛を感じます。愛はどこで感じるのでしょうか。味覚ではありません。嗅覚でもありません。触覚でも、視覚でも、聴覚でもありません。もちろん、おいしい料理から作った人の愛情を感じたり、手を握ったり抱きしめられたりすることでも、あるいはその人の姿を見たり、その人の声を聴いたりすることで、愛を感じることもあると思いますが、愛を感じるのはそれらの感覚のひとつに限定されるのではありません。
 塩味が利いているかどうかは味覚でないとわかりませんが、愛のスパイスが利いているかどうかは、どれか一つの感覚に限定されるのではありませんし、むしろ、たとえば視覚や聴覚によって愛を感じたように思われても、じつは、視覚や嗅覚は補助手段であって、ほんとうは、それ以外のところで、わたしたちは愛を感じているのではないでしょうか。
 では、わたしたちは愛をどこで感じるのでしょうか。愛を感じるのは、やはり、愛ではないでしょうか。聖書では、霊を感じるのは霊である、とあります。コリントの信徒への手紙一でパウロは、霊的なことを説明するのは霊的なものだと述べています。
 つまり、わたしたちが神さまのことを感じられるのは、神さまの霊がわたしたちの中に宿ってくださっていて、わたしたちの中にいてくださる神さまの霊、聖霊が、聖霊なる神さまをわたしたちに感じさせてくださる、と言うのです。
 この場合の霊は、神さまの霊のことであり、守護霊やいわゆる霊感などとはまったく関係ありません。わたしたちの中に宿ってくださる神さまの霊が、わたしたちと世界全体を包み込むように働きかけてくださる神さまの霊を感知するのです。
 ところで、パウロは、ローマの信徒への手紙で、愛は霊によって与えられる、つまり、愛は神さまという霊からわたしたちに与えられる、と言うのです。すなわち、霊と愛は同質なのです。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう言っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」。つまり、霊からは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和が生まれてくると。ここに並べられている霊の実りを見ても、霊が愛と深くつながっていることがわかるでしょう。
 パウロにとって、霊の反対と言うか、霊と比べられるべきものは肉です。わたしたちの肉体、わたしたち人間の思い、神さまのことを思わないわたしたち人間の行動や想いが肉です。この肉からは、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみが生じると言います。つまり、肉、あるいは、肉の思いは、愛とは正反対、そして、霊とは正反対であると言うのです。
 創世記2章にはこうあります。2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
 わたしたち人間は土、つまり、物質でできています。しかし、神さまはそこに「命の息」を吹き入れてくださいます。この「命の息」とは、「命の息」というくらいですから、生命のことでもありますが、これは同時に、神さまの愛、神さまの霊のことでもありましょう。
 わたしたち人間は、土、肉、カルシウム、タンパク質、脂肪、水分という物質からできていますが、神さまはそこに霊を吹き込んでくださったのです。わたしたちの肉体という物質の中に神さまの霊が吹き込まれている・・・ここに今日の説教題、「物質と霊」というコムズカシイ説教題の意味があります。「物質と霊」などというと難しい哲学のお話のように聞こえますが、平たくいうと、わたしたち人間には神さまのいのちの息が吹き入れられている、ということなのです。
 さて、土からできたわたしたちに神さまが吹き入れてくださった「命の息」は、生命であり、霊であり、愛である、と申し上げましたが、生命、霊、愛を別の言葉で言い換えますと、それは、つながりです。生命も霊も愛も、何かと何かのつながりなのです。生命はいのちといのちのつながり、霊は神さまとわたしたちのつながり、愛は神さまとわたしたち、わたしたちとわたしたちのつながりです。
 わたしたちは「肉体」という言葉を使いますが、肉と体は違います。肉は物質であり、さきほど申し上げましたように、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみといったものを生じます。つまり、他の人とつながろうとしない、自分勝手、自己中心なのです。
 けれども、肉体の「体」、体は生命や愛や霊と同じようにつながりです。頭、手、胴、内臓、足などのつながりが体です。あるいは、わたしたちは、体によって、言葉や視覚や聴覚、触覚などによって、他の人とつながります。
 キリスト教会には使徒信条という一世紀の庶民的な信仰者に遡ると言われる信仰告白があり、多くの教会がそれを礼拝で唱え、洗礼式もそれに基づいてなされますが、それには、「わたしは体のよみがえりを信じます」という一節があります。
「体のよみがえり」とは「肉のよみがえり」ではありません。「肉のよみがえり」ですと、ゾンビ映画になってしまいますが、「体のよみがえり」は永遠の愛の物語です。つまり、わたしたちは、よみがえり、復活を信じるわけですが、それは、個体、個人の肉体の蘇生を信じるのではなく、愛によって結ばれたつながりが永遠であることを信じるのです。
 肉体とは区別されるべき体という言葉には、聖書やキリスト教ではこのような意味合いがあるのです。肉、物質に、命の息、神さまの霊、神さまの愛を吹き入れていただいて、わたしたちは、肉体ではなく、体になるのです。
 わたしたちは物質のことばかり、肉のことばかり考えていないでしょうか。今晩は焼肉にしようとかハンバーグにしようとかポーク生姜焼きにしようとか、頭の中は肉のことでいっぱいになっていないでしょうか。お魚や野菜もいただきましょう。
 というか、わたしたちは、目に見える物質や肉のことばかりでなく、目に見えない神さま、目に見えない霊、目に見えない愛のことにも、心を傾けましょう。目に見えないもの、と言っても、これは、空気や電波のことではありません。空気は目に見えなくても物質ですし、電波も目には見えませんが、物質の世界のエネルギー、波のことです。わたしたちは、物質の世界の向こうにある、あるいは、物質の世界の根本にある、あるいは、物質の世界に重なり合っている、目に見えない神さま、目に見えない霊、目に見えない愛の世界に心を傾けましょう。
 ただし、神さまは、目に見えないと言っても、今申し上げましたように、空気でも電波でもありません。神さまの霊も、空気や電波のような物質世界のものではありません。神さまの霊は、物質とはまったく異なるものです。創られたもの、被造物とはまったく異なるものです。けれども、わたしたちはこれを理解しにくいのです。しかし、先週の説教のように、イエス・キリストは、目に見えない神さまを何とか私たちに伝えようとしてくださるのです。たとえ話や愛の行為によって、目に見えない神さまとその愛をわたしたちに伝えようとしてくださるのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書6章60節です。6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
 弟子たちが「ひどい話」と言っているのは何のことでしょうか。それは、今日の聖書の箇所の少し前のところです。
 ヨハネによる福音書6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
 イエス・キリストはここで「パン」という言葉を使っていますが、これは、物質のパンの話をしたのではなく、目に見えない神さまのこと、霊のことなのですが、弟子たちや聞いている人は、それをまったく理解しなかったのです。
 そこで、イエス・キリストは話を繰り返します。ヨハネによる福音書6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
 ここにも、肉とか血とかパンとかいう言葉が出てきますが、これも物質のことではなく、目に見えない神さまのこと、神さまの霊のことを話しておられるのですが、弟子たちや人々は理解せずに、「ひどい話だ」と言うのです。
 61節です。6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
 「人の子がもといた所」とあります。これは、イエス・キリストがもといた所、つまり、天のことです。天とは、空の高いところのような気がしますが、それだけですと、宇宙であり、星であり、天体であり、あくまで、物質界、神さまが創られた世界、被造世界のことになってしまいます。天とは、創造以前の世界、物質以前の世界、霊の世界のことです。そして、イエス・キリストは、この天とつながっておられるのです。
 63節です。6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
 「命を与える」とありますが、これは生物としての生命のことだけでなく、神さまとつながった命、永遠なる神さまとつながった命、永遠の命のことです。この命をわたしたちにもたらしてくださるのは、神さまなのです。神さまの霊なのです。物質でも肉でもありません。
 永遠なる神さまとつながった命を与えてくれる「霊」とは、神さまご自身のことです。神さまがわたしたちに指し伸ばしてくださったつながりのことです。神さまがわたしたちに注ぎ続けてくださる愛のことなのです。
 64節です。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 物質、肉、人間は、神さま、霊を裏切ってしまいます。それでも、神さまは、霊は、わたしたちをお見捨てになりません。『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』とイエス・キリストは言われますが、イエス・キリストは、神さまからお許しを得てくださるのです。
 ヨハネによる福音書14章2節にはこうあります。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
 イエス・キリストは十字架への道を歩まれ、十字架につかれ、父なる神さまのお許しを得て、つまり、わたしたちの罪を赦してくださるという父なる神さまのお許しを得て、わたしたちをご自分のもとに引き受けてくださるのです。
 66節です。6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
 イエス・キリストのお話にもかかわらず、弟子たち、人びとは離れて行きます。物質と霊、肉と霊の違いは、やはり理解しにくいのです。神さまとわたしたちとの違い、創造者と被造物の違い。なぜ、違いが大切なのでしょうか。同じことも大切ですが、違うことも大切です。
 違いが大切なのは、わたしたちは神さまではなく、神さまに創っていただいたものだからです。わたしたちにある善いものは、すべて神さまからいただいたものだからです。違いが大切なのは、わたしたちは有限、限界がありますが、神さま、霊、愛は永遠であることを知るためです。
 68節です。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 わたしたちは被造物であり、有限であり、神さまとはまったく異なるものですが、イエス・キリストは、そのわたしたちを霊であり、永遠であり、霊である神さまとつなぎあわせてくださるのです。
 イエス・キリストはそれを伝えようとしましたが、理解されずに、十字架につけられました。けれども、十字架は死刑台から、天と地をつなぐ道に、天と地をつなぐはしごに変わったのです。その結果、有限なわたしたちにも、永遠なる神さまのことが伝えられているのです。
 神さまは、イエス・キリストを通して、わたしたちが神さまとつながることをおゆるしくださいました。物質と肉にどっぷりつかったわたしたちを、イエス・キリストは、霊である神さまとつなげてくださるのです。
 祈り:神さまは、わたしたちは、自分中心の思い、物欲、この世の欲にまみれています。霊の思い、神さまの思い、愛とはまったくかけ離れてしまっています。けれども、神さま、イエス・キリストは、み言葉とご降誕とご生涯と十字架と復活によって、わたしたちを霊なるあなたとつないでくださいました。神さま、イエス・キリストが創ってくださったこの道筋によって、わたしたちをあなたの霊で満たしてください。愛で満たしてください。わたしたちを少しでも愛の人、霊の人へと導いてください。神さま、わたしたちの友をあなたの愛、あなたの霊で満たしてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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