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2024年4月21日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】
 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。(ヨハネ21:17)

 復活したイエス・キリストとペトロの間には、このような問答が三度繰り返されました。これは、イエスが十字架にかけられる直前に、ペトロが「そんな人は知らない」とイエスを三度否定したことに対応していると言われています。
 復活したイエス・キリストは、このようなペトロを叱責するためではなく、むしろ、赦すためにペトロに現れたのだとも考えられます。
 ここで、キリストはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言いました。羊とは、イエス・キリストを信じる者のことであり、これから信じる者のことであり、つまり、すべての人びとのことではないでしょうか。
 旧約聖書の時代、イスラエルの人びとは羊を飼っていました。けれども、自分たち自身が、神さまという羊飼いに導かれる羊であるとも知っていました。
 神さまという羊飼いは、詩編23編にあるように、わたしたちに必要なものが「欠けることがない」(詩編23:1)にしてくださいます。また「青草の原に休ませ」(23:2)てくださいます。これは、大勢の人びとと草地で食事をわかちあう福音書のイエスの姿とかさなります。
 この羊飼いは「死の陰の谷」(23:4)、わたしたちの人生の苦境をも導いてくださいます。「命ある限り」(23:6)、つまり、神さまとわたしたちとのつながりにおいて、この羊飼いは「恵みと慈しみ」(23:6)をもたらしてくださいます。

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2024年4月14日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:6)

 イエスが十字架で死んで墓に葬られた後、弟子たちは、イエス抜きの生き方をしていたようです。「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」(21:3)という弟子たちの言葉にも、自分の力だけでなんとかしようという姿勢がうかがえます。
 しかし、それは自分たちの無力に直面することでもありました。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(21:3)。
 けれども、そこに変化が生じます。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」(21:4)。夜は明けたのです。イエスが戻ってきたのです。
 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21:6)。自分たちの力だけでやろうとしてだめだったところに、イエスが現われ、導いてくれたのです。そうすると、不漁から豊漁へと変わりました。
 人生もこれと同じです。イエス・キリストを信じることでお金持ちになったり出世したり幸運に恵まれたりするわけではありませんが、人生がゆたかになります。
 神さまに委ね、神さまの言葉に平安を得、神さまに感謝し、神さまを賛美し、神さまに祈る。これはじつにゆたかな人生です。
 この人生の豊漁に、イエス・キリストはつねにわたしたちを招いてくださいます。

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2024年4月7日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年4月7日

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:26)

 イエスは十字架で死んで墓に葬られてしまいました。弟子たちは自分たちにも同じことが起こることを恐れ、さらには、これからは師であるイエスがいないことをも恐れ、鍵をかけ、部屋の中に閉じこもっていました。
 けれども、イエス・キリストは閉ざされたわたしたちの心の真ん中に入ってきて、「平和があるように」と言ってくださいます。キリストご自身が平和、シャロームとなり、わたしたちの心の芯にいらしてくださいます。
 トマスは復活したイエスを見ないと信じないと言いました。目に見える証拠を求めたのです。けれども、キリストは「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言われました。
 信じるとは、目に見える証拠に確信を得ることではなく、わたしたちの心の真ん中におられる目に見えないイエス・キリストの平安に支えられ、それに委ねることなのです。

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2024年3月31日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(マタイ28:7)

 「復活された」とありますが、これは、「起こされる」「倒れている者が起こされる」という意味の言葉でもあります。
 イエスの死は、ただの死ではなく、ある意味、挫折の死でもありました。神の国を宣べ伝え、病人を癒し、斥けられている人びとを訪ねましたが、それは、当事の宗教支配者たちの不興を買い、命を狙われます。
 そして、売られ、逮捕され、不当な裁きを受け、死刑を宣告され、十字架につけられ、死んで、暗い墓穴に閉じ込められます。イエスの短い人生は挫折の死で終わりました。イエスを慕った弟子たちや女性たちも挫折しました。倒れました。
 すべてが終わり、イエスとはもう会えない、という絶望が支配しました。けれども、この挫折と絶望を打ち破る出来事が起こったのです。
 神さまは、挫折して倒れ死んだイエスを起き上がらせて、暗い墓穴から明るい光の世界へ導き出したのです。
 イエスに従っていた人びとも、挫折から起こされました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(28:10)
 ガリラヤを故郷とし、そこでイエスともに歩んだ人びとにとって、エルサレムで挫折したのちガリラヤに戻ることは、挫折から立ち上がることでした。
 わたしたちも人生において何度か倒れますが、そのつど神さまが起こしてくださいます。死もわたしたちの終わりではありません。神さまが起こしてくださいます。

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2024年3月24日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:30)
 イエス・キリストは十字架でどのように苦しまれたのでしょうか。ヨハネ福音書によりますと、人びとはイエスを前にして「殺せ、殺せ、十字架につけろ」(19:16)と叫びます。
 イエスは十字架を背負わされ、「されこうべの場所」(ゴルゴタ)まで歩かされます。そこで、人びとはイエスを十字架につけます。左右には犯罪人の十字架が並んでいます。
 十字架の頭部には「ユダヤ人の王」と記されました。けれども、これは敬意ではなく、罪状です。ユダヤ人の王を僭称したという嘲笑の意もあるかもしれません。
 兵士たちはイエスの服をわけあいます。イエスは「渇く」と言います。これは詩編22編に重なります。「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:18-19)。「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(詩編22:15-16)。
 服の分割とイエスのかわきは、イエスの心身が引き裂かれ、打ち砕かれることを意味しているのではないでしょうか。
 そして、イエスは息を引き取ります。イエス・キリストの苦しみの前でわたしたちは何を思うのでしょうか。わたしたちは無実なのでしょうか。
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2024年3月10日 [今週の聖書の言葉]

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)

 「そのとき」とは「過越祭の六日前」(12:1)であり、イエスが比喩的に「わたしの葬りの日」(12:7)と言った日のことです。この箇所の直前の11章末によれば、祭司長やファリサイ派がイエスを「殺そうとたくらんで」(11:53)、「逮捕」(11:57)のための命令が出ていました。
 このようなときに、マリアはなぜイエスの足に高価な香油を注いだのでしょうか。イエスの足はマリアに何をしてくれたのでしょうか。
 11章によりますと、マリアとマルタの兄弟ラザロが死にますが、イエスはその足で駆けつけてくれました。そして、マリアとともに涙を流してくれました(11:35)。さらには、墓に葬られたラザロを呼び出してくれました(11:44)。
 つまり、悲しむとともに悲しみ、さらには、死は終わりではない、死によってラザロとマリアのつながりは終わらないことを教えてくれるためにイエスの足はマリアのところに来てくれたのではないでしょうか。
 今度は、マリアが死を前にしたイエスとともに悲しみますが、同時に、そのイエスの思いを受け継ごうとします。つまり、マリアもその足で、イエスとともに悲しむ者を訪ねる者となろうとしている、さらには、死がすべての終わりではないことを告げる者になろうとしているのではないでしょうか。マリアがイエスの足に高価な油を塗ったことにはこのような祈りが込められていたのではないでしょうか。

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2024年3月3日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

「霊」「命」とはなんでしょうか。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。わたしたちは土(物質)からできていますが、神さまはわたしたちに「命の息」を吹き入れてくださいました。これが「霊」です。
 つまり、「霊」とは「生命」ですが、これは有限な物質としての生命であるばかりでなく、永遠なる神さまとつながった永遠のいのちです。つまり、霊は、わたしたちの中に宿ってくださる神さまご自身です。この霊がわたしたちの中にいてくださいますから、わたしたちや世界に働きかけてくださる霊なる神さまをわたしたちは感じることができるのです。
 さらに、この霊は、愛と密接につながっています。パウロは、愛は霊が与えてくださる(ローマ15:30)と言い、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」(ガラテヤ5:22)と言います。
 イエス・キリストはこの霊、愛、目に見えない神さまのことを人びとに伝えますが、人々はそれを物質や肉と区別できず、理解しません。そして、イエス・キリストを十字架に追いやってしまいます。
けれども、神さまは、本来は死刑台である十字架を、神さまとわたしたち、霊と物質をつなぐ橋にしてくださいました。わたしたちは、イエス・キリストを通して、とりわけ、十字架と復活を通して、目に見えない神さまと結ばれるのです。

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2024年2月25日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:3)

 イエス・キリストがなす「神の業」とはどういうことでしょうか。この人は目が見えるようになりました。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(9:7)。
 イエス・キリストによって目が見えるようにしていただくことは、わたしたちの目には見えない神さまをわたしたちの心の目に見えるようにしていただくことではないでしょうか。キリストがなす「神の業」とは、わたしたちの霊の眼に神さまを見せてくださる、あるいは、示してくださることではないでしょうか。
 キリストは目に見えない神さまをさまざまな方法でわたしたちに示してくださいます。たとえば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。この言葉で、神さまはわたしのような悪人、正しくない者をも愛してくださることを、キリストは示してくださいました。
 あるいは、「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」。この言葉で、神さまはすみっこの一匹であるわたしたちをお見捨てにならず探し求めてくださるお方であることを、キリストはわたしたちに示してくださいます。
 このように、イエス・キリストはご生涯と御言葉によって、目に見えない神さまの愛をわたしたちに見えるようにしてくださるのです。これも、これが神の業なのです。

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2024年2月18日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4)
 
わたしたちは、生きていくために「適度な」衣食住は必要です。お金も人間関係も「適切な範囲内」であれば、わたしたちの支えになります。
 けれども、わたしたちの「根本の」支えは、神さまであり、神さまの御言葉です。
 たとえば、わたしたちがお金が足りなくて悩んでいるとき、ひたすらお金だけを求めるでしょうか。それとも、適切な範囲でお金を何とかしようとしつつも、神さま、この不安と苦しみの中で、わたしをお支えください、と祈るでしょうか。
 もし、お金の工面ができ、すっかり安心してしまい、神さまを忘れてしまうのなら、その時、お金がわたしたちの神になってしまっているのです。そして、それからも、神さまを信頼することなく、ただお金を求め、お金が手に入れば安心してしまうということになってしまいます。これはお金の偶像崇拝です。
 お金以外にも、人間関係による安心、自分の地位、周りからの評価「だけに」すがろうとし、神さまを根本の支えとして、神さまに信頼することを忘れてしまう誘惑がわたしたちにはつねにつきまといます。
 けれども、イエス・キリストはこの誘惑に打ち克ってくださいました。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 わたしたちもこのイエス・キリストに従って歩み、神さまと神さまの御言葉をこそ根本の支えといたしましょう。

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2024年2月11日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:12-13)

 ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは自らのことをこのように語っておられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51)。
 キリストの与えるパンはキリストの肉であると。では、肉とは何でしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)。
 肉とは「言(ことば)」なのです。つまり、イエス・キリストは神さまの言なのです。神さまの言とは、旧新約聖書に記された神さまの言葉、あるいは、神さまについての言葉のことでもありますが、イエス・キリストご自身のことでもあります。
 つまり、神さまの言とは、音声や文字のことだけでなく、わたしたちへの神さまの語りかけ、愛そのものであるのです。
 今日の聖書の箇所で、イエス・キリストが多くの人びとを少しのパンで養ったということは、神さまの御言葉やイエス・キリストの愛が、この世界の中で、たとえ小さなもの、わずかなものに見えても、それは無駄ではない、むしろ、神さまの言やイエス・キリストの愛は、目に見えなくても、じつは、屑だけでも十二の籠を満たすパンのように、とてもゆたかなものである、ということでしょう。

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