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イエスがその足でしてくださったこと [使信]

使信 2024年3月10日 
 「イエスがその足でしてくださったこと」  ヨハネ12:1-8
 おはようございます。今日の聖書には香油、良い香りのする油の話が出てきますが、わたしは、香、香りにはあまり縁がありません。それどころか、香りで始まる小説、世界的な名作と呼ばれる小説に挫折したことがあります。
 それは、プルーストの「失われた時を求めて」という作品です。その冒頭に、「私は無意識に、紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌごと、ひと匙のお茶をすくって口に持っていった」とあります。そして、紅茶に浸したマドレーヌの香りによって、幼い頃の記憶が突然呼び起こされた、というのです。
 20世紀を代表する名作小説と言われていますが、ここから先の文章がとても難しいのです。センテンスが長いし、何が主語なのか、何が書かれているのか、意味がさっぱりわかりませんでした。それでも、世界の名作だからと思い、なんとか100頁位までわからないまま読み続けましたが、意味がわからないのに文字を読み続ける、その苦痛に耐えきれなくなり、ついに、ごみ箱に捨てました。千円もしない文庫本でよかったです。
 たしかに、元気を出させてくれる香りがあると思います。華やかな気持ちにしてくれる香りもあると思います。はんたいに、気持ちを落ち着かせてくれる香りもあります。わたしも線香の香りは嫌いではありません。
 今日の聖書で、マリアはなぜ、ナルドの香油と呼ばれる高価な香油をイエスの足に塗ったのでしょうか。さらには、それを自分の長い髪で拭ったのでしょうか。マリアはなぜ、人から驚かれたり、もったいないと言われたりするような、そのような行為をしたのでしょうか。
 それは、イエスがマリアにこれまで何かをしてくれたからなのでしょうか。そうであれば、イエスはマリアにこれまでどんなことをしてくれたのでしょうか。
 あるいは、今日の箇所は、イエスの死が近づいている、という文脈にあります。イエスはマリアの兄弟ラザロを生き返らせました。それを目撃した人びとはイエスを信じるようになりました。けれども、イエスを信じる人びとが増え、大勢の人びとの群れができると、暴動が起きるのではないかとローマ帝国は警戒し、ユダヤを滅ぼそうとするかもしれない、とファリサイ派や祭司長たちは恐れます。そして、そうならないうちにイエスを殺してしまおう、イエスの居場所を探して、イエスを逮捕しよう、ということになるのです。
 今日の聖書の話は、過越し祭の六日前に起こったとあります。ユダヤでは過越し祭では、犠牲の羊が神殿にささげられます。つまり、死の香りがし始めているのです。イエス自身、マリアが高価な香油を塗ってくれたのは、「わたしの葬りの日のために」と言います。このようにイエスの死がひしひしと近づく中で、マリアはどのような思いで、イエスの足に高価な香油を塗ったのでしょうか。イエスとマリアの間にはこれまでどのようなことがあったのでしょうか。
 今日の聖書の箇所に至るまでの、イエスとマリアの関係を振り返ってみましょう。エルサレムに近いベタニアというところに、マリアは姉妹のマルタ、そして、兄弟のラザロとともに住んでいました。ラザロはイエスに愛されていた者だと言われていますが、病気にかかってしまいます。
 マリアとマルタはそれを知らせにイエスのもとに人を遣わします。「兄弟ラザロの病気が重いのです、死にかけています、助けてください」、ということなのではないでしょうか。けれども、イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言います。
 それでも、イエスはラザロのもとに向かいます。先日もイエスは石で撃ち殺されるところだったのに、エルサレムにはそのような人々が待っていたのに、ベタニアはそのエルサレムに近いのに、イエスはラザロのもとに駆けつけるのです。
 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言って、イエスは死の危機にあるラザロのもとに駆けつけるのです。このイエスの心は、死が近づいているイエスの足に香油を塗ってイエスに仕えたマリアの心に似ているのかもしれません。
 駆けつけてくれたイエスをマルタは家の外に迎えに行きます。けれども、マリアは家の中で待っています。今日はヨハネによる福音書を読んでいますが、ルカによる福音書にも、このマリアとマルタのお話がでてきます。そこでは、マルタはイエスのもてなしで忙しく動き回りますが、マリアはイエスの足元にじっとすわって、イエスの話に耳を傾けます。ルカによる福音書における活動的なマルタと静かなマリアの姿が、今日のヨハネによる福音書にもうかがえるのかもしれません。
 ヨハネによる福音書ですと、外に出てイエスを待っていたマルタに呼ばれて、家の中で静かにしていたマリアもようやく立ち上がりイエスを迎えます。マリアはイエスに会うと、足元にひれ伏しました。これは、今日の聖書の箇所より前の話です。けれども、その中で、マリアがイエスの足元にひれ伏したとあるのは、今日のお話でも、マリアがイエスの足元にしゃがんでイエスの足に香油を塗ったことにどこかで通じているのかもしれません。
ラザロが死に瀕している、さらには、死んでしまったと聞いて駆けつけてくれたイエスにマリアは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。
 けれども、イエスはほんとうにここにいなかったのでしょうか。死にゆくラザロ、そして、その傍らに立つマリアとマルタと一緒に、イエスはいなかったのでしょうか。じつは、目に見えなくても、イエスはそこにいたのではないでしょうか。マリアはそれをわかっていなかったのではないでしょうか。
 マリアは涙を流します。すると、イエスも涙を流しました。ともに泣いてくれる人がいるとき、わたしたちの悲しみはさらに深まりますが、深まりつつも癒されて行きます。
 兄弟ラザロをなくしたマリアとマルタのところにイエスがその足で駆けつけたのは、このようにともに涙を流すためではなかったでしょうか。イエスの足は、悲しむ者とともに悲しむイエスをそこに運ぶためにあったのではないでしょうか。
 イエスがその足でマリアとマルタのところに駆けつけたのには、もう一つの理由があるように思います。それは、死は終わりではない、ということを告げるためではないでしょうか。ラザロは死んでしまったけれども、そのことで、マリアとマルタとのつながりは終わってしまうのではない、ということを告げるために、イエスはその足でふたりのもとに駆けつけたのではないでしょうか。
 「あなたの兄弟ラザロは復活する」「わたしは復活である、命である」とイエスは言ったのですが、この言葉は、ラザロは死んでしまったけれども、イエスが、ラザロのいのちとマリアとマルタのいのちをつなげていてくださることを意味しているのではないでしょうか。
 本日の聖書の箇所で、マリアはイエスの足に高価なナルドの香油を塗りますが、イエスのその足は、マリアにとって、悲しむ自分のところに駆けつけてくれ、ともに涙を流してくれ、そして、死は終わりではない、ラザロとのいのちのつながりはこれからも続くことを教えてくれたイエスの足だったのではないでしょうか。
 イエスはその生涯において、その足で、悲しむ人、苦しむ人、斥けられた人のところに赴きました。イエスはガリラヤの貧しい庶民のところに赴き、神さまの国がやって来たよ、神さまの愛がわたしたちを治めてくれるよと、慰めの言葉を語りかけたのです。
 旧約聖書のイザヤ書にこのような言葉があります。52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。
 「あなたの神は王となられた」というのは、神さまこそが王となってわたしたちを治めてくださる、愛で治めてくださる、だから、安心していいですよ、平安でいてください、というメッセージですから、「神の国が近づいた」というイエスのメッセージと同じなのです。
 そして、イザヤはそのような良い知らせ、つまり、福音を伝える人の足は美しい、と言うのです。イエスの足もそのように美しい足だったのではないでしょうか。
 そのような足の持ち主であるイエスがまもなく死をむかえようとしています。マリアはどんな思いでしょうか。どんな思いでその足に香油を塗ったのでしょうか。
 大切な人が天に召されたとき、わたしたちは悲しみます。遺族の悲しみを思います。同時に、天に召された人に感謝します。召された人の人生の思いをふりかえり、それを少しでもわかちあおう、受け継ごうとするのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ラザロが死んでイエスがマリアとマルタのところに駆けつけたというのは、今日の聖書より少し前のお話で、今日の聖書は、その続きになるのです。
 ヨハネによる福音書12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
 過越しの祭りが近づき、この祭りで神殿にささげられる羊のように、死にゆくことを前にしたイエスの足に、マリアは純粋で高価なナルドの香油を塗ります。一リトラとはおよそ330グラムくらいということですから、マリアはコップ一杯と少しの香油を心を込めてイエスの足に注いで塗ったのでしょう。
 純粋で非常に高価な香油とありますが、これは、マリアの心、イエスに仕えるマリアの心も、純粋で高価、価高い、神さまの眼からは価高いことを意味しているのではないでしょうか。マリアは、イエスの足に、自分のもとに駆けつけて涙を流し、死は終わりではないことを教えてくれたイエスの足に高価な香油を塗ることで、イエスの死を悲しみ、同時に、イエスの生涯に感謝し、そして、イエスの心を少しでもわかちあおう、引きつごうとしたのではないでしょうか。
 「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。イエスを思うマリアの美しくも悲しい心と、マリアと一緒に涙を流したイエスの悲しくも美しい心で、その家がいっぱいになったのではないでしょうか。
 4節です。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
 ユダはこんなことを言いましたが、貧しい人びとのことなど思っていませんでした。反対に、イエスがその足でなさった愛のわざを思い起こし、その足に香油を塗ったマリアは、イエスの心をわかちあい、イエスの心をひきついで、自分もその足で、これからは目に見えないイエスとともに、貧しい人びとのところに、イエスが目に見えなくなっても訪ね続ける貧しい人々のところに足を運ぶのではないでしょうか。
 わたしたちもそうでありたいと思います。受難節です。イエス・キリストは十字架への道を歩みつつありますが、わたしたちは、イエス・キリストがわたしたちにしてくださったことに感謝しつつ、イエス・キリストのお心をマリアとともにわかちあい、ひきつぎ、イエス・キリストとともに歩む者でありたいと願います。
 祈り:神さま、イエス・キリストはその足でわたしたちのもとに、悲しむ者のもとに、苦しむ者のもとに、平安でない者のもとに、貧しい者のもとに、駆けつけてくださいます。わたしたちが、その足をマリアのように大切に思うことができますように。そして、わたしたちがこの足でイエス・キリストとともに心傷める者のもとに赴くことができますように、どうぞお導きください。わたしたちが自分の十字架を背負って、イエス・キリストにともに歩んでいただけますように。今もっとも苦しんでいる友のもとにイエス・キリストの足音が聞こえますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。



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