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2021-04-29 [牧師の本棚]

「『利他』とは何か」(若松英輔、中島岳志、國分功一郎他著、集英社新書、2021年)

https://ibuho.hatenablog.com/entry/2021/04/29/095728
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死者からの最良の贈り物 [牧師の本棚]

誤読ノート513 「死者からの最良の贈り物」

「詩集 愛について」 (若松英輔著、2020年、亜紀書房)

 七、八年前でしょうか。初めて読んだ若松さんの本に、「死者」という言葉がありました。ぼくは、それは、「他者」のことだと思いました。「他人」ではありません。深い愛を感じつつも、自分の中に取り込んで自分の良いように決めつけてしまわず、むしろ、自分で解釈してしまってはならない尊さ、神秘をもった、敬愛すべき存在のことだと思いました。だから、「死人」ではなく「死者」と表すのだと。

 若松さんの大切な人びとの何人かは「死者」となりました。死人には口はありませんが、死者は生者とつながっています。

 「約束してくれた/家も車もなくて/旅行にも行けなかった
  でも ひとつの/悲しみを/のこしてくれた
  それで十分」

 「悲しみでは/いつも あなたに/会えるから」(p.64) 

 悲しみでいつもあなたに会う・・・奇妙に聞こえるかも知れませんが、案外、身近なことかも知れません。たとえば、十字架につけられたイエスを想い、悲しみ、涙を流し、イエスと出会う人びとがいなかったでしょうか。

 「でも あなたの言葉は/その 赤色の滴りを/いのちの水に/変えてくれた
  あなたが/目には映らない姿で/存在していることは/分かっていた」(p.77)

 イエス・キリスト。救い主イエス。イエスはどのような意味でキリスト、救い主なのでしょうか。イエスは死者の代表なのかもしれません。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリントの信徒への手紙一15:20)。

 「あなたは/大切な人」と書き出した詩には、こうあります。「私よりも/わたしの人生を 深く/慈しんでくれる人」「私が わたしを/見失っても/いつも わたしを/観てくれる人」(p.86-88)

自分の狭い枠に閉じこもっている「私」を本当の「わたし」にしてくれる「あなた」は、人生の旅を先に終えなおここにいてくれる「死者」であるかもしれませんし、イエス・キリストであるかもしれません。これは死者をイエス・キリストと同列にして神格化しているのではなく、むしろ、イエスを人格化していると考えます。では、「本当の『わたし』」とはどんな「わたし」なのでしょうか。

 「あなたは/彼方の世界へとつながる/扉となったのです」(p.92)

 「私」は彼方の世界へとつながって「わたし」になるのです。「私」は世界の根源とつながって、永遠とつながって「わたし」になるのです。

 若松英輔さんの表す「死者」は、このように「わたし」を回復してくれる「他者」であったのです。

  https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E6%84%9B%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E8%8B%A5%E6%9D%BE-%E8%8B%B1%E8%BC%94/dp/4750516422/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%84%9B%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6&qid=1589414155&sr=8-2

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死者と話せば、前に進める [牧師の本棚]

誤読ノート512 「死者と話せば、前に進める」

「『井上ひさし』を読む 人生を肯定するまなざし」 (小森陽一/成田龍一編著、2020年、集英社)

 井上ひさしさんは死んだので、戯曲や小説はもう出ないけれども、本書のような出版のおかげで、文字通り「『井上ひさし』を読む」ことが続けられます。

 しかも、小森陽一、大江健三郎、辻井喬、平田オリザ、ノーマ・フィールド、そして、井上ひさし自身、といった面々と一緒に、「日本人のへそ」「吉里吉里人」から「ロマンス」「組曲虐殺」にいたるまで、珠玉の作品を横断できます。

 「歴史的な記憶をどう思い起こし、死者とかかわりなおすのか」(小森、p.23)。「父と暮らせば」「頭痛肩こり樋口一葉」など、井上作品ではたしかに死者は常連でした。

 しかし、死者は、広島のおとったんのように、過去に戻ろうとする生者をむしろ未来へと押し出します。

 「過去を考えるとき、現実にならなかったものも共存させて考える、その方向でリアリティーを全開にしてみせるというのが劇作家のやれることだし、小説家も言葉だけでつくる舞台でそうしたいと、ぼくは考えます」(大江、p.129)。

 現実にならなかった過去であっても、書き手の言葉によってリアリティーを与えられ、あらたな現実を生み出す力になるのではないでしょうか。言葉を発する者皆の課題でもあると思います。

 本書がまさに死者との対話そのものかもしれません。そもそも、文を読むことそのものが死者との対話であるとも言えるのですが。そして、文を読むことは前に進むことなのです。

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E4%BA%95%E4%B8%8A%E3%81%B2%E3%81%95%E3%81%97%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%82%92%E8%82%AF%E5%AE%9A%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%96%E3%81%97-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E6%A3%AE-%E9%99%BD%E4%B8%80/dp/4087211142/ref=tmm_pap_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=1588918678&sr=8-1

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ひとりぼっちでないことで、つまり、社会で、心はケアされる [牧師の本棚]

誤読ノート511 「ひとりぼっちでないことで、つまり、社会で、心はケアされる」

「新増補版 心の傷を癒すということ: 大災害と心のケア」 (安克昌、2020年、作品社)

 「世界は心的外傷に満ちている。“心の傷を癒すということ”は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである」(p.258)。

 心に傷害を負った三十年前、ぼくは、一方では、自分の心を自分の体内で治癒するための書を漁ったが、他方では、自分の内的救いを求めるだけで社会の救いを放置してよいのかという引け目があった。そんなとき、社会の問題をも重視する信田さよ子さんのような精神治療家にも出会った。人の心と社会とは別問題ではなかったのだ。

 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい』」(マタイによる福音書8:3-4)。

 イエスの時代、病者は社会の外にはじき出された。病が癒えれば社会に戻れた。言い換えれば、社会とのつながりを回復することが、イエスの「癒し」だった。本書の著者の安克昌さんなら、「ケア」と言うかも知れない。

 「被災直後の人たちには、自分たちが見捨てられていないと感じる必要がある」(p.27)。医学的にPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断される病者を軽視してはならない。しかし、「世界は心的外傷に満ちている」。被災者には、あるいは、いろいろな形で傷ついている人びとには、人とのつながり、社会とのつながりが大切だ。

 「心のケアを最大限に拡張すれば、それは住民が尊重される社会を作ることになるのではないか」(p.69)。

 「住民が尊重される」とは人権や衣食住の保証とあわせて、その人の心が大切にされることであろう。しかし、それは「あなたの気持ちはよくわかります」ということではない。

 「わかりますよ、と言ったとたんに、私の姿勢そのものが嘘になってしまう」(p.74)。けれども、安さんは、しょせん人の気持ちなどわからない、とクールに言いたいのではない。「(わたしの苦しみなど誰にも)わかりっこないけど、わかってほしい」ということをわかろうとする、「品格」のある、やさしい人なのだろう。品格とやさしさこそが、人が社会で生きる意味ではないか。

 本の中でしかあったことがないけれども、ぼくは、39歳で夭逝した、同じ年生まれの安さんが好きだ。尊敬する。

https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E5%A2%97%E8%A3%9C%E7%89%88-%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%82%B7%E3%82%92%E7%99%92%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8-%E5%A4%A7%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%A8%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2-%E5%AE%89-%E5%85%8B%E6%98%8C/dp/486182785X/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%82%B7%E3%82%92%E7%99%92%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8&qid=1588660397&sr=8-2

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定住生活に非定住の自由と愛を回復させるには、一緒にご飯を [牧師の本棚]

誤読ノート510 「定住生活に非定住の自由と愛を回復させるには、一緒にご飯を」

「福音家族」 (晴佐久昌英、オリエンス宗教研究所、2020年)

 イエスは、血縁に関係なく、人びととともに旅をしたり、食事をしたりしていました。晴佐久神父の言う「福音家族」も、血縁に関係なく、ともに食事をする共同体です。そこには、イエスから受け継いだ「無期限のつながり」「無償の分かち合い」「無条件の助け合い」(p.115)があります。

 「無期限のつながり」とは「何があろうとずっと一緒」「この世の都合による期限がない」ということです。誰も追い出されることがありません。「家族とは人の選択によるものではない」からです。「無償の分かち合い」とは見返りを求めることのない「純粋贈与」(p.117)であり「平等に分ける」ことです。「無条件の助け合い」とは「相手がだれであれ、互いに助け合う」(p.118)ことです。

 「福音」とは「すべての人は神に愛されている」という「幸福なおとずれ=知らせ」のことだと思いますが、「人々が本当に求めているのは、福音の理解ではなく、福音体験です」と晴佐久さんは言います。

 聖書の言葉を引用しながら「神はあなたを愛している」と書いてあると教えるのでもなく、そういう理屈なのだと理解することでもなく、その共同体に排除されることなく、受け入れられ、一員としてその場にいることができる、そのような幸福な体験を人びとは求めている、というのです。

 「福音の理解よりも福音の体験を」とは、かなり斬新な表現ですが、さらに革新的なことには、晴佐久さんはこう記しています。「入門講座はあくまでも福音家族への入門であって、洗礼を受けなくとももはや家族という、福音体験の場なのです」(p.62)。「洗礼を受けなくとも」という言葉が出てくる入門講座は革命でしょう。

「そもそも、福音家族体験をしたならば、それはすでに広い意味での洗礼を受けているのであり、狭い意味での水の洗礼はそんな家庭の奉仕職として受けるのですから、すべての福音家族が受洗する必要はありません」。

これは洗礼はどうでもよいと言っているのではありません。一方で、神の愛を感じるような幸福な共同体を経験することがすでに神の愛を受ける(広い意味での)洗礼体験である(イエスが洗礼を受けたとき「これは私の愛する子」という神の声が響いたと福音書にあります)と無償の愛を伝えながら、水の洗礼を受けた者はそのような広い意味での洗礼体験を人びとにもたらす奉仕職に任じられているという厳しいことも言っています。

血縁によらない者同士が家族として食事をする。これは、晴佐久さんによれば、原罪からの救済に関わることでもあります。原罪は、人類の定住と農耕の開始により決定的になったというのです。「定住は排除と戦争をもたらし、農耕は不平等と自然破壊をもたらした」(p.78)。

けれども、ここからの救済は、遊動・狩猟の生活に戻ることではなく、「人間の言葉を、真の価値と幸福を生み出す、より優れた愛の言葉に高め、定住農耕や科学技術を、真の平和と平等を生み出す、より優れた愛のわざに進化させる」(p.79)にあります。これこそが、イエス・キリストの意味であり、使命の本質だと晴佐久さんは言います。

 ・・・と書き連ねると難しく感じますが、家制度によって権力に管理・支配されないで、愛と平等に生きるためには、血縁によらない(ひいては、国家の管理する団体によらない・・・)自由な共同体を形成すること、つまり、家族や組織の枠にこだわらず、食事をともにし、時間をともにすることだ、ということではないでしょうか。

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聖書の登場者を継ぐ詩人 [牧師の本棚]

誤読ノート509 「聖書の登場者を継ぐ詩人」

「新編 志樹逸馬詩集」 (志樹逸馬著、若松英輔編、亜紀書房、2020年)

 詩人はキリスト者でした。

「もう先に来て 祈っている人がある
 わたしもすわって 聖書を開く」(「教会への道」、p.159)

 詩人は、野の花に神の営みを見たイエスの弟子でした。

「庭さきの花は 
 天と地をつなぐ 
 自然の微笑」(「花」、p.169)

 詩人は、イエスにひかりを見た福音史家ヨハネの後継者でした。

「痺れた手ですくってもすくっても 
 ひかりは いくらでも
 地上に溢れていた」(「ひかり」、p.26)

 詩人は、サマリヤの人の末裔でした。

「友の多くを失い 
  私は病み衰えた
  だが 渇きに飲む水は甘く
  妻は側らにあった」(「(二十八年間)」、p.73)

 詩人より先に来て祈っていたのはイエス、そこはガリラヤあるいは天だったのではないでしょうか。

https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E7%B7%A8-%E5%BF%97%E6%A8%B9%E9%80%B8%E9%A6%AC%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E5%BF%97%E6%A8%B9-%E9%80%B8%E9%A6%AC/dp/4750516244/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%BF%97%E6%A8%B9&qid=1588307954&sr=8-1

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「おだやかでない人生を支えるおだやかな祈り」 [牧師の本棚]

誤読ノート508 「おだやかでない人生を支えるおだやかな祈り」

「短章集 ― 蝶のめいてい/流れる髪」 (永瀬清子、詩の森文庫、2007年)

 詩人の生まれるひと月前に、父は、「心をおだやかに」と母とお腹の子のために、祈ってくれたと言います。「その祈りはおだやかとものどかとも云えぬ私の一生をいつもフットライトのように見えぬ角度から照射していたのにちがいなく」(p.118)。祈りとは、叶わせるというよりは、照らすものなのでしょう。

 「船が蹴たてている白い長い泡だち/それは無窮の海と云うものの一番めざめている部分だ/私の中の苦しみが/私をゆすりさますと同じに」(p.14)。

泡だちと苦しみの深いところには、祈りにも似た無窮の海があります。

 「額に光をはめて、暗黒へ降りていく鉱夫(※そのまま引用しました)のように進んでいくのが詩人だ」

 詩は祈りです。そして、祈りは闇路の光です。暗黒の底には黒いダイヤモンドが横たわっています。

 「すべての詩は祈願の心に要約される。たとえ感情の種々の要素が詩の上に花咲いても、一番深い所にナムと云う声がある」(p.29)。

 南無。アーメン。然り。

 「若いイチョウの木やユリの木は、もし私がその木だったらあのように枝をのばすだろう、と思う風に好ましく自由に枝をのばしています・・・私は朝の光の中でその緑を、あるいは黄葉を満喫し、そしてその時、私の書きたいと思う事を心の中でつかむのでした」(p.205)。

 朝、窓に大樹と向こうが丘を眺めながら、深呼吸をしています。おだやかとものどかとも云えぬものを吐き出して、おだやかに、ナム、アーメンという祈りが湧き上がってくるのを待ちながら。
 
https://www.amazon.co.jp/%E7%9F%AD%E7%AB%A0%E9%9B%86%E2%80%95%E8%9D%B6%E3%81%AE%E3%82%81%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%84-%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%8B%E9%AB%AA-%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%A3%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B0%B8%E7%80%AC-%E6%B8%85%E5%AD%90/dp/4783720126/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%B0%B8%E7%80%AC%E6%B8%85%E5%AD%90&qid=1587951084&sr=8-1

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品格を伴う正義 [牧師の本棚]

この本には「まず社会の品格と社会の正義とを求めよ」と題した川本隆史さんの一文が載せられています。

その冒頭に「まづ神の國と神の義とを求めよ」(「マタイ傳」六:三三)とあります。

川本隆史さんは「正義」などを論じる倫理学者ですが、カトリックでもあるそうです。

「社会の正義」も「神の義」も、たしかに「正しさ」ではありますが、それは、この人は正しい、あの人は正しくない、正しいものは正しくないものを罰する、正しくないものは正しいものに罰せられる、そのような「正しさ」ではないでしょう。

川本さんは安さんの言葉を引きます。「傷ついた人が心を癒すことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていくきびしい社会を選ぶのか・・・・」

「社会の品格」、そして、「神の國」とは、気取ったエリート主義、「自分は正しい」という国家主義的支配のことではなく、傷ついた人を切り捨てない共同体のことではないでしょうか。

ただし、「傷ついた人を切り捨てない」とは、「傷ついていない人」がいて、その人が「傷ついた人」を「切り捨てる/捨てない」の選択権を持っている、ということではなく、自分が人を傷つけていることに心を痛めつつ、自分の傷にも痛み、そのなかで、誰かの傷に無感覚でいないことではないでしょうか。


https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E5%A2%97%E8%A3%9C%E7%89%88-%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%82%B7%E3%82%92%E7%99%92%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8-%E5%A4%A7%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%A8%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2-%E5%AE%89-%E5%85%8B%E6%98%8C/dp/486182785X/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=KCHIANK16ZMQ&dchild=1&keywords=%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%82%B7%E3%82%92%E7%99%92%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8&qid=1587711153&sprefix=%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AE%2Caps%2C346&sr=8-2
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「テセウスの船」・・・「過去も現在も未来も、唯一のものではなく、様々な可能性がある」 [牧師の本棚]

誤読ノート505 「過去も現在も未来も、唯一のものではなく、様々な可能性がある」

「テセウスの船」(東元俊哉、講談社、2019年)

 テレビドラマの原作になったコミック。

 ギリシャ神話にこうある。テセウスの船は部品を変えながら長く保存された。ある時点ではついに最初の部品はすべて交換されてしまったことになる。これは元々の船と同じものと言えるのか。

 現代で言えばこういうことか。ある学校は100年前に創設された。100年後、教員も生徒も校舎も場所も100年前とは違う。これは元々の学校と同じものと言えるだろうか。

 このコミックはこれの応用。わたしは現在教員をしている。しかし、数十年前には、他の選択肢もあった。(学校や職業の選択だけでなく、全ての言動には他の選択肢が無数にあっただろう・・・)。わたしが数十年前にタイムスリップし、教員ではなく、会社員になる選択をしたとする。そして、数十年が経つ。会社員のわたしは教員のわたしとは同じ人間なのだろうか。

 ある家族に大惨事が起こった。生き延びたその一人がタイムスリップし、それを防いだ。家族の運命は大きく変わった。これは同じ家族なのだろうか。

 ある大惨事を防いだとしても、別の大惨事に見舞われる可能性はなかったのだろうか。

 こう考えると、歴史はひとつの道だけでなく、さまざまな可能性があったのであり、未来も同様なのだ、と思えてくる。
 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%86%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%88%B9-%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF-%E5%85%A810%E5%B7%BB%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88-%E6%9D%B1%E5%85%83%E4%BF%8A%E5%93%89/dp/B0833VKRWW/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E3%83%86%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%88%B9&qid=1584581892&sr=8-1

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誤読ノート461 「キリスト教の主要テーマの数々が、難しくではなく、深く掘り下げられている対談」 ・・・「キリスト教講義」(若松英輔、山本芳久、文藝春秋、2018年) [牧師の本棚]

誤読ノート461 「キリスト教の主要テーマの数々が、難しくではなく、深く掘り下げられている対談」

「キリスト教講義」(若松英輔、山本芳久、文藝春秋、2018年)

 プロテスタントとしてぼくが長年慣れ親しんできた考えを、カトリックの山本さんの言葉は心地良く刺激してくれる。

 たとえば、エロスとアガペー。エロスは(見返りを)求める愛。アガペーは(見返りなしに)与える愛。神のアガペーは人間のエロスとはまったく異なる、と学んできた。

 けれども、山本さんは言う。自分にとって魅力的なものを求める(エロス)のなかで、それを独占せずにわかちあおう、与えよう(アガペー)という思いが出てくる。「エロースがあるなかからアガペーが生まれてくる」(p.67)。つまり、自分に好ましいものを求めることを断念し、自分を犠牲にして人に与えるのではなく、自分が善きものを求め、得たものを、今度は他者と共有するというのである。その方が、自己犠牲を自分に強いるより、人間の自然にあっていると。さらにいえば、「キリスト教とは、何か不自然なことを説く自己犠牲的な教えだという理解が結構あると思う」が「トマスの解釈を見ると、むしろ人間の自然なあり方を受容しつつ、同時に神に開かれていく姿勢が見て取れる」(p.82)と。

 たとえば、受肉。神が(肉なる)人になること。プロテスタントのぼくは、神がぼくらと同じ人間になって、その弱さや苦しみを身に帯びてくれた、と学んできた。

 けれども、山本さんは言う。(トマス・アクィナスによれば)「変化するのは神ではなくて、被造物――人間――の方なのだ」(p.106)。言い換えれば、「人間性を神性に一致させる」あるいは「人間と神とが深く結びつく」ということです。これは、人間が神のような絶対者になることではなく、むしろ、神の聖、善、愛、アガペーを少しでも共有できる可能性のように思いました。

 たとえば、恩寵(神の側からの一方的な恵み)と人間の自由意志。ぼくは、人間の自由意志などはあてにならない。それは人を犠牲にして自分の利益を得ることだけにしか使われず、自由意志で神に近づくことなどできない、と学んできた。

 けれども、山本さんは言う。「人間は幸福への憧れのようなもの、そして、『恩寵』と協働する力ももともと持っているけれども、自分一人で実現するだけの力は持っていない。信じられないほどの『恩寵』に参与させられることで、心底追い求めていたものが自らの思いを越えた仕方で現れ、実現する。そこで、『恩寵』と『自由意志がともに必要だ』(p.114)。

 これらの山本さんの言葉に対して、若松さんは別の角度から、みごとに補う。

 たとえば、山本さん曰く、「私の基本的な立場は、日本のキリスト教は西洋のキリスト教からもっともっと学ぶべきだというものです。というのもキリスト教の基本的な教義が明確に確立するまでには、五百年程度の時間がかかっているからです」(p.204)。

 これは、たしかにするどい指摘だ。じっさい、山本さんはトマスを通して、プロテスタントに欠けている部分を教えてくれている。学ぶべきことはまだまだたくさんあった。

 けれども、若松さんの言葉は山本さんを補う。「自分たちの伝統の中にある仏教とある密度で対峙してみることで、キリスト教のある側面が新たに見えてくる可能性があるのではないかと考えています。仏教の光に照らされたキリスト教の一側面に何かがあるかもしれない」(p.205)。若松さんは、日本の精神史(宗教、思想、哲学、文学、批評、芸術・・・)において「目に見えない根源」への接触、言及を見いだし、さまざまな著述の中で、読者に幾重にも伝えてきた。それらは、キリストを日本に伝えるための補助手段などの域ではない。むしろ、キリスト教とたがいに照らし合う対等の光だ。

 本書は「愛」「神秘」「言葉」「歴史」「悪」「聖性」の六章から、キリスト教の歴史と現在における根本的なテーマを網羅し、掘り下げている。読者は、知識の習得以上に、深い思索と霊の旅に誘われる。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E8%8B%A5%E6%9D%BE-%E8%8B%B1%E8%BC%94/dp/4163909451/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1550704915&sr=8-1&keywords=%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E8%AC%9B%E7%BE%A9

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