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イエスの受難 [使信]

2024年3月24日 ヨハネ19:13-30 「イエスの受難」

おはようございます。イエス・キリストはわたしたちにとってどのような存在、どのようなお方なのでしょうか。「イエス・キリスト」という言葉には、「キリストであるイエス、救い主であるイエス」という意味、あるいは、「イエスはキリストである、イエスは救い主である」という意味があります。イエス・キリストは、わたしたちにとって、どのような意味でキリストであり、どのような意味でわたしたちの救い主なのでしょうか。

いろいろな考え方があります。たとえば、イエス・キリストは、病気の人、罪人と呼ばれる人たちを大事にしました。つまり、当事のユダヤの宗教権力者から虐げられていた人たち、弱い立場にいた人たちを大切にしました。

その意味では、イエス・キリストは、わたしたちが、隣人、とくに、弱い立場にある人を愛し、人を虐げる人たちに抗議を示す生き方をしようとするときのリーダー、お手本であるとも言えるでしょう。

あるいは、イエス・キリストは、わたしたちに、神さまを愛すること、そして、隣人を愛すること、とくに、もっとも小さな者を愛することが、わたしたちが生きる上でいかに大切であるかを教えてくれました。それは、モーセが神さまからの十の戒め、十戒をイスラエルの民に伝えた姿を思い出させます。この意味でも、イエスはわたしたちのキリストであると言えるかもしれません。

 あるいは、イエス・キリストは、「神の国は近づいた」と宣言し、種のたとえなどによって神の国、神さまの愛のお治めがゆたかに育つことを教えてくれました。また、インマヌエル、神さまがわたしたちとともにいますことを教えてくれました。さらに言えば、イエス・キリストは、インマヌエルそのもの、神さまがわたしたちとともにいらしてくださる出来事そのものです。この意味でも、イエスはわたしたちのキリスト、救い主でありましょう。

今は受難節で、わたしたちはイエス・キリストの生涯をしのんでいますが、わたしにとっては、「救い主」「神の子」と呼ばれる人がこんなに苦しめられ、こんなに苦しんだことが、ある意味、わたしの救いとなりました。わたしもわたしなりに、人生、苦しんで来ましたが、「救い主」「神の子」と呼ばれるお方も苦しまれた、いや、わたしなどよりはるかに苦しまれた、と知り、わたしは、喜んだ、というよりは、救われた思いがしました。この意味で、イエス・キリストはわたしのキリスト、救い主であるのです。

イエス・キリストは、十字架において、わたしたちとともに苦しんでくださいました。イエス・キリストはその苦しみにおいて、わたしたちの苦しみを背負ってくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主です。

さらに、イエス・キリストは、十字架において、わたしたちの罪を背負ってくださいました。神さまから離れ、隣人から離れる、神さまを信頼しきれず、隣人を愛しきれない、いつも、自分は自分はと言い続ける、わたしたちのこの罪によって、わたしたちのこの罪を背負い、イエス・キリストは十字架についてくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主なのです。

ただし、わたしたちの苦しみとわたしたちの罪を安易に結びつけるべきではないでしょう。わたしたちが病気やその他のことで苦しんでいるのは何かの罪の罰を受けていると考えるべきではありませんし、誰かが苦しんでいるのを見て、ああ、あれはあんなことをした当然の報いだ、などと考えるべきではありません。

来週の日曜日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターです。そして、今週は受難週、イエス・キリストの十字架の苦しみをしっかりと見つめ、かみしめ、心に深く想う一週間です。

今日はイエス・キリストの受難物語をヨハネによる福音書から読んでいただきましたが、皆さん、今週は、ご自宅で、ぜひ、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の受難物語、ユダの裏切り、最後の晩餐あたりから十字架のあたりまでを読んで、イエス・キリストの十字架の苦しみをしのんでみてください。

今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書19章15節です。19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。

「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。イエス・キリストは、多勢に無勢で、自分を取り囲む大勢から激しい言葉、残酷な言葉、罵声を浴びせられています。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」などという、彼らのその言葉に正当性はありません。

彼らは、ただ自分の恨みや怒りをそのまま言葉にし、多勢の力でそれがあたかも正当であるかのように装い、自分たちは正しいと言い張ります。けれども、この言葉を浴びせられる方からすれば、こんな理不尽なこと、こんなでたらめなことはありません。彼らのこの言葉とこの行為は、相手の命、または、
それに匹敵するものを、奪いとります。イエス・キリストは、この苦しみを受けたのです。

彼らはまた「皇帝のほかに王はありません」と言います。これは、イエス・キリストに直接向けられた言葉ではありませんが、これも理不尽な言葉です。本来、ユダヤ人にとって神さまだけが王でした。人間の王はいなかったのです。しかし、ダビデ王、ソロモン王があらわれ、イエスの時代には、ヘロデ家の王がいました。そして、いまや、人びとはイエス・キリストの前で、ローマ皇帝が王だと言いだします。

これはイエス・キリストにとってなんと苦しいことでしょうか。イエス・キリストは「神の国」を宣べ伝えました。「神の国が来た」とは、神さまこそがわたしたちのまことの王です、という意味です。これを伝えたイエス・キリストにとって、「皇帝のほかに王はありません」という人びとの言葉は、神さまこそがまことの王であることを否定する耐えがたい言葉ではなかったでしょうか。

16節です。19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

ローマ帝国からユダヤに派遣されてきた総督ピラトは、イエスを十字架刑にすることを認めました。「引き渡した」とあります。これでは、イエスがモノのようではありませんか。イエスはモノのように、イエスのいのちはモノのように、そして、ピラトにはその生殺与奪の権があるかのように、イエスは引き渡されたのです。自分の命がモノのように、右から左へと運ばれるモノのように扱われる苦しみをイエス・キリストは味わったのです。

 17節です。19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

「自ら十字架を背負い」とあります。十字架は死刑台です。自分がそこで殺されることになる死刑台を自ら運ばせられるのです。イエスはこの苦しみを背負わされました。けれども、イエスはその背負わされた苦しみを、あえて自ら背負いなおしたのかもしれません。人から強いられたものであったけれども、あえて、それをご自分で引き受けられたのです。わたしたちも人から背負わされたものにはNOと言って降ろす生き方も非常に大切ですが、それがどうしても避けることのできないものであれば、あえてそれを背負う生き方を考えるべき場合もあるのではないでしょうか。

18節です。19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
十字架は死刑です。イエスは死刑にされました。イエス・キリストは死刑にされることの苦しみを受けました。無実であるにもかかわらず、犯罪者とともに死刑にされました。けれども、それは、イエス・キリストはご自分の苦しみだけでなく、死刑にされる犯罪者の苦しみもともになさったことを意味するのではないでしょうか。

19節です。「19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

「ユダヤ人の王」とあります。これは、むろん、王への敬意ではなく、はんたいにこれは罪状書です。
これまでも、人びとはイエス・キリストのことを王と呼んできました。ある人は、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言って、イエス・キリストを称えました。ある人びとは、イエス・キリストを政治の上での王に仕立て上げようとしましたが、イエス・キリストはそれから逃れました。

イエス・キリストがエルサレムの都に入ってくるとき、人びとは、「これはイスラエルの王だ」と言って大歓迎しました。

しかし、あるとき、人びとは、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていました」と訴えました。つまり、イエス・キリストは自分は王であるなどと不遜なことを言ったと言うのです。

 イエス・キリストは「神の国が来た」「神さまこそがまことの王だ」と人びとに教えましたが、皮肉にも、人びとは、イエス・キリストは、自らユダヤ人の王であると名乗ったという罪状を付したのです。

23節です。19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

これは旧約聖書の詩編22編からの引用です。旧約聖書の詩編22編2節から読んでみましょう。
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

この詩編22編の言葉はイエスの十字架と深くつながっています。今お読みしたように、詩編22編には「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」とありますが、イエス・キリストも十字架上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、何故、われを見捨てたもう」と叫ばれました。

詩編22編には今お読みしたように「主に頼んで救ってもらうがよい」とありましたが、マタイによる福音書によりますと、イエス・キリストも人びとから、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」とののしられます。

 詩編22編はさらにつづきます。

22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

 今の詩編の最後に「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」とありますが、今日のヨハネによる福音書に、「「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである」とあるのは、この詩編22編のことです。

そして、詩編22編とあわせて読みますと、ヨハネ福音書で、兵士たちがイエス・キリストの服を分け、くじ引きにもしたということは、イエス・キリストを犬のように取り囲み、群がって、猛獣のように手足を砕いたということになります。なんとも残虐なことです。
 けれども、これは、わたしたち人間の罪の姿でもないでしょうか。わたしたちは、人を取り囲み、人を食い物にしていないでしょうか。人を利用していないでしょうか。人を押さえつけていないでしょうか。人を苦しめていないでしょうか。

わたしたちのこの罪の姿がイエス・キリストを十字架に追いやったのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストにわたしたちのこの罪を背負わせましたが、イエス・キリストはそれをあえて背負ってくださったのではないでしょうか。
 28節です。19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「すべてのことが今や成し遂げられた」とあります。これには、「もう終わりだ、わたしは今や死ぬ」という意味と、もう一つは、「イエス・キリストはなすべきことをすべてなした」という意味があると考えられます。イエス・キリストがなすべきこと、それは、つまり、わたしたちの苦しみと罪を背負ってくださることです。

「渇く」とあります。これも先ほどの詩編22編につながっています。
詩編22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
 つまり、「渇く」とは、ただ喉が渇いたということではなく、たえがたい苦難、助けてくれる人がいないことを意味するのです。取り囲まれる。「渇く」とは、迫られる。牙をむいて襲い掛かられる。骨がくだかれ、心が蠟のように溶ける。塵と死の中に打ち捨てられることを意味するのです。
 29節です。19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

「頭を垂れて息を引き取られた」とあります。イエス・キリストは十字架上でこれだけ苦しんで、十字架上で息を引き取られました。

イエス・キリストのこの苦しみ、十字架、死は、わたしたちにとってどのような意味があるのでしょうか。これをかみしめながら、この一週間を過ごしましょう。

祈り:神さま、イエス・キリストは、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」とののしられ、神さまこそが王であると教えて来たのに自分が王を名乗っていると中傷され、十字架につけられ、服を引き裂かれ、取り囲まれ、骨を砕かれ、心を蝋のように溶かされてしまいました。なんという苦しみしょうか。イエス・キリストのこの十字架の前でわたしたちは無実でしょうか。わたしたちは、このイエス・キリストから何を受け取るのでしょうか。神さま、わたしたちを誠実で深い祈りへとお導きください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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