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イエス・キリストの働きは続く [使信]

2024年4月28日 「イエス・キリストの働きは続く」 マタイ28:19-20
 皆さん、おはようございます。ただいま読んでいただいた聖書に「洗礼」という言葉が出てきますが、洗礼とはどういうことでしょうか。あるいは、キリスト教ではよく洗礼を受ければ救われると言いますが、救われるとはどういうことなのでしょうか。あるいは、今日の聖書にはイエスが命じたことを守るとありますが、聖書の言う律法、そして、イエスの戒めとはどのようなものでしょうか。さらには、わたしたちはどのようにしたら救われるのでしょうか。
 今日の聖書の箇所をもう一度読んでみましょう。マタイによる福音書28章19節です。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
 今読んだところによりますと、洗礼は、ひとつには、父と子と聖霊の名によって授けられる、とあります。それから、洗礼は、イエスの弟子になること、イエスの命令、戒め、イエスの言葉を守ることに結びついています。さらには、洗礼は、イエスが世の終わりまで、いつもともにおられること、さらには、神さまがわたしたちとともにおられること、つまり、インマヌエルということと結びついています。
 まず、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるということですが、父とはこの世界の創造者である神さまのことです。子とはその御子であるイエス・キリストのことです。そして、聖霊とは、創造者とイエス・キリストから送られてくる神さまの霊、聖なる霊のことです。この父と子と聖霊、創造者と御子イエス・キリストと聖霊は、三つの存在があるように思えますが、そうではなく、父と子と聖霊はひとつの神である、とキリスト教は教えます。これを三位一体と言います。
 つぎに、イエスの弟子になるということですが、これは、ひとつは、イエスとともに神の国を人びとに伝える者になるということでしょう。神の国とは、神さまがわたしたちを治めていてくださる、神さまこそがわたしたちのまことの王である、ということです。イエスの弟子になる、ということは、神さまこそがわたしたちのまことの王ですよ、と人びとに伝える働きの一員になることでありましょう。
 イエスの弟子になるとは、さらに、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とイエスが言ったように、イエスの命じることに従う者になるということでもあるでしょう。では、イエスはどんなことを命じているのでしょうか。そのまえに、イエス以前の旧約聖書はどんなことを命じているのでしょうか。
 旧約聖書には、十戒というものがあります。十の戒めです。そこには、まず、神さま以外のものを神として拝んだり、神さまのようにして自分の支えにしてはならない、ということが言われています。また、安息日を守りなさい、とあります。これは、一週間のうちの一日は、神さまを礼拝し、神さまと平安に過ごす時間、自分にとっての安息の時間にしなさい、ということです。それから、殺すな、あなたは殺してはならない、盗むな、あなたは盗んではならない、偽証をするな、嘘をついてはならない、という戒めがあります。
 では、イエスはどのようなことを戒めているのでしょうか。マタイ22:36-38にこのようにあります。22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 つまり、イエスは、旧約聖書の教えをまとめると、神さまを愛することと隣人を愛することになる、このふたつが大切だ、と言っています。たしかに、十戒の中にも、神さま以外のものを神のように拝んではならないとありましたが、これは、神さまだけを神さまとして愛するということでしょうし、殺さない、盗まない、嘘をつかないということは、隣人を愛することでありましょう。
 イエスは、これ以外にも、いくつかの戒めを述べています。マタイによる福音書を振り返ってみますと、まず、こうあります。
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
 つまり、これは、神の言葉、神さまの言葉に従って、神さまの言葉を拠り所として、神さまの言葉に支えられて生きなさい、という戒めと考えることができるでしょう。
 5:13 「あなたがたは地の塩である。5:14 あなたがたは世の光である。
 これは、あなたたちは、この世界の中で、塩や光のような役目を果たしなさない、塩のように人びとの生活にうるおいと味わいをもたらし、人びとの生活が腐らない、悪くならないように、長く保たれるように、あなたがたは務めなさい、また、人びとの暗い心に光を照らすような生き方をしなさい、ということではないでしょうか。
 5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。
 これは、今争っている相手と争い続けるのではなく、和解しなさい、仲直りしなさい、という戒めでしょう。
 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 これは、誰かにひどいことをされてもやり返すな、という戒めでしょう。
 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
 これは、欲しいという者には与えなさい、という戒めでしょう。
 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 これは、この通りの意味で、敵をやっつけるのではなく、敵を愛し、自分を苦しめる者を呪うのではなく、その人のために祈りなさい、という戒めです。
 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。
 これは偽善をするな、自分はこんな良いことをしていますよ、と人に自慢してはならない、という戒めでしょう。
 ずいぶんたくさんありますね。もう少し続きます。
 7:1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 これも、ここに書かれている通りですが、この人は間違っている、わたしは正しい、というように人を裁いてはならない、という戒めでしょう。
 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 これは、神さまに祈り求めなさい、神さまの救いを求めなさい、神さまの言葉の中に救いを求めなさい、そうすれば、救いは見つかる、ということではないでしょうか。
 7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
わたしたちは、楽な方、楽な道を選ぼうとしますが、困難な道を避けるな、という戒めではないでしょうか。
 さて、このように、イエスの戒めをざっと見てきましたが、わたしたちがこれらの戒めを守れば、神さまはわたしたちを救ってくれるのでしょうか。そもそも、わたしたちはこのような戒めを守り切れるのでしょうか。わたしたちはこの戒めを守れば、救われるのでしょうか。
 このイエス・キリストの復活を信じたパウロはどのように言っているのでしょうか。パウロは自分の書いた手紙の中でこう言っています。
 ローマの信徒への手紙ローマ3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
 つまり、パウロは、律法の戒めを守ることによってではなく、イエス・キリストを信じることによって救われます、と言っています。
 さらには、こう言っています。5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
 死んでくださった、ということは、キリストがわたしたちを救うために死んでくださった、ということであり、それは、「不信心な者のために」だ、と言います。
 つまり、パウロは、イエス・キリストを信じる人は救われる、と言いつつ、どうじに、イエス・キリストを信じない不信心な人さえも神さまは救ってくださる、とも言っているようにも思えます。
 また、パウロの手紙の中には、「イエス・キリストの信仰」という言葉が出てきますが、これは、二通りの意味に解釈されます。「イエス・キリストの信仰」という言葉は、じつは、「イエス・キリストの信実」とも訳されます。つまり、イエス・キリストのまこと、イエス・キリストの誠実、と訳すこともできるでしょう。
 そしてこれは、わたしたち人間のイエス・キリストへの誠実さ、わたしたち人間がイエス・キリストに向ける誠実さ、まこと、という意味が考えられます。しかし、もうひとつは、イエス・キリストがわたしたちや神さまに対して持っている誠実さ、イエス・キリストが神さまやわたしたちに対して持っておられるまこと、という意味も考えられます。
 そうしますと、パウロは、わたしたちがイエス・キリストを信じれば救われる、と言っているようにも思えますが、イエス・キリストがわたしたちに誠実だからわたしたちは救われると言っているようにも思われるのです。
 さて、もういちど、救いとはどういうことか、考えてみましょう。
 これは、まず、わたしたちが死んだ後、地獄ではなく、天国に行くこと、と考えられます。しかし、これを少し言い換えれば、わたしたちが死んだ後も、神さまとつながっていること、とも言えるでしょう。そうすると、何も死んだ後でなくても、この世でも、わたしたちが神さまとつながっていれば、わたしたちは救われている状態にあるのかもしれません。
 あるいは、救いとは、神さまに愛されていることだとも思われます。神さまから大切に思われていること、それがすでに救いだと考えられます。神さまはすべての人を愛しておられます。この意味ですべての人はすでに救われているとも考えられます。
 あるいは、救われるとは、あるいは、神さまとともにいることだとも考えられます。神さまは今すべての人とともにおられる、とわたしは信じています。この意味ですべての人はすでに救われている、とわたしは信じています。
 あるいは、神さまを信じたらその結果救われるということだけでなく、わたしたちが神さまを信じる状態にあることそのものが救いであるとも考えられます。これはすべての人に必ずしもあてはまらないかもしれません。神さまを信じているという人ばかりではないからです。しかし、神さまを信じたら救われるというよりも、神さまを信頼すること自体がすでに救いであるとも考えられます。
 あるいは、神に仕え人に仕えた結果救われるというだけでなく、神さまのみに仕えること、神さまと隣人を愛すること自体がすでに救いの状態、すでに平安の状態であるとも言えるのではないでしょうか。
 あるいは、人を殺さない、盗まない、嘘をつかない結果救われるだけでなく、人を殺さない、盗まない、嘘をつかない、それ自体が救いの状態であると言えるのではないでしょうか。
 さらには、神さまの言葉によって生きる、地の塩・世の光になる、争っている相手と和解する、やられてもやり返さない、求める者には与える、敵を愛し、迫害者のために祈る、偽善者にならない、人を裁かない、神さまを求める、狭い門から入る、これらの状態にあることがすでに救いの状態にあることではないでしょうか。
 最後に、イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。これについて、考えてみましょう。
 今日の午後、まぶね教会では教会総会が開かれ、今年の方策が協議されます。
 今年度の〈基本理念〉として以下のことが提案されます。
(1) 聖書の福音を若い世代に伝える
(2) イエス・キリストの体としての教会の働きを次世代に残す
(3) そのためにどうすればよいか、教会全体で考える
(1)「聖書の福音を若い世代に伝える」
 旧約、新約聖書が語っている神の創造、導き、守り、選び、赦し、救い、愛などのメッセージを、人生の根本の支えとして、若い世代に伝える。
(2)「イエス・キリストの体としての教会の働きを次世代に残す」
 教会は(1)のような聖書のメッセージ、神の御言葉を、言葉と行動、礼拝、聖書の学びと諸活動によって伝えてきた。この「言葉と行動」による教会の働きを次世代に引き継いでもらう。
(3)「そのためにどうすればよいか、教会全体で考える」
 若い世代に聖書のメッセージを伝え、教会の「言葉と行動」の働きを継承してもらうためにはどうしたらよいか、教会全体で考える。聖書のメッセージの伝え方、教会組織、活動の維持の方策を真剣に考える。
 わたしたちの教会はどうなっていくのでしょうか。福音と教会の働きを若い世代に伝えていくことはそうとうに難しいことです。まさに、狭き門です。
 しかし、イエス・キリストは、世の終わりまで、わたしたちと、そして、わたしたちの次の世代、若い世代、次世代とともにいてくださると言っておられるのではないでしょうか。
 これから、教会がどうなるのか、わたしたちにはよくわからないし、かなり不安なのですが、たしかなことは、神さまがともにおられること、インマヌエルは続くということです。インマヌエルはつづくし、信仰は続くし、神さまの愛の戒めは生き続けるのです。
 祈り。神さま、イエス・キリストは、あなたを愛し、隣人を愛することをわたしたちにつねに教えてくださいます。そして、世の終わりまで、あなたがともにいらしてくださることを教えてくださいます。どうか、わたしたち、教会があなたを信じ、イエス・キリストを信じ、歩み続けることができますように。イエス・キリストの言葉と、あなたによって導かれているわたしたちの歩みが、世の終わりまで続いて行きますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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