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真ん中の平和 [使信]

2024年4月7日 ヨハネ20:19-29 「真ん中の平和」
 おはようございます。少し前にKYという言葉がよく使われました。これは20年くらいまえから、女子高生が使い始めたらしいです。KYのKは「空気」、Yは「読めない」を意味し、KYは「空気を読めない」ことを指すそうです。しかし、Yで「読めない」を意味するのは少し無理な気がします。「読む」ではなく「読めない」という否定形なら、YではなくYNとしてほしいなと思います。
 それはさておき、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないでしょうか。目に見えるものを越えて、目に見えるものの向こう側に、目に見えない愛を感じることの方が大切ではないでしょうか。
 何週間か前に、五感を越えた愛、つまり、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を越えた愛があるというお話をしました。
 しかし、わたしたちは、どうしても、五感に頼ってしまいます。日常生活はもちろん五感によって送っていますし、それは当然のことですが、孤独なとき、不安なとき、あるいは、怒っているとき、悲しいとき、それらをやわらげよう、それらを癒そうと、わたしたちは、やはり、五感に頼ってしまうのではないでしょうか。そういうとき、目に見えるものに頼ってしまうのではないでしょうか。
 今ここにいる目に見える誰かに、あるいは、今ここにいる声の届く誰かに、自分の気持ちをわかってもらいたいと思い、わかってもらおうとするのではないでしょうか。
 神さまが愛してくださるから大丈夫、神さまがともにいらしてくれるから大丈夫、というだけでは、わたしたちの心はおさまらなくて、どうしても、人との交わり、しかも、視覚や聴覚を通した交わり、具体的には誰かが横にいるとか、誰かの声が聞こえるとかいうことに、救いを求めてしまうのではないでしょうか。
 信頼できる友達が今はここにいなくてもあそこの街にいるというようなことを心に思うだけでは心が満たされず、今、そばにいてくれて、今、言葉を交わすことを求めてしまうのではないでしょうか。
 つまり、友達ではあるけれども、今目の前にはいない人、今会話をしていない人の友情、愛だけでは満足できなくて、今目に見えるもの、あるいは、今耳に聞こえるものを求めてしまうのではないでしょうか。
 今日の聖書の箇所からわたしが受けたメッセージは、見えない神さまの愛、五感を越えた神さまの存在、人間的な感覚では感じられなくても、今ここにおられる神さま、今ここにおられるイエス・キリストを信じるということです。信じるということも、じつは、人間的な五感を越えているということです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書20章19節です。20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 「週の初めの日の夕方」とあります。イエスは「週の初めの日の明け方」に復活し、その知らせは弟子たちにも届けられたはずでしたが、弟子たちはユダヤ人を「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。「ユダヤ人を」とありますが。しかし、弟子たちが恐れていたのは、「ユダヤ人」というよりも、目に見えるイエスはもうここにいない、今ここにいない、イエスが目に見えるかたちではここにはいない、ということを恐れていたのではないでしょうか。
 わたしたちも、目に見える形で誰かが今ここにはいないとき、恐れや寂しさや悲しみを感じます。小さな子どもは親の姿が自分の視界から消えてしまえば、「おかあさん、どこ」と泣きます。大切な家族が地上の旅を終えて、目に見える形ではここにいないとき、わたしたちは悲しみや寂しさを覚えます。そして、ときには、心に鍵をかけて、閉じこもってしまいます。
 けれども、そこに、予想もしなかったことが起こります。弟子たちは部屋の扉に鍵をかけていたのに、そこにイエス・キリストが入ってきて、真ん中に立ってくださるのです。
 わたしたちも、何かを恐れたり、何かを悲しんだりして、扉を開けないでいる時があります。けれども、イエス・キリストの方からその中に入ってきてくださり、わたしたちの心の真ん中に立ってくださいます。わたしたちの生活の真ん中に、人生の真ん中に立ってくださいます。
 「あなたがたに平和があるように」とイエス・キリストは言われました。平和とは、平安であり、安らぎであり、安心です。旧約聖書の言葉で言えばシャロームです。新約聖書の言葉で言えばエイレーネです。エイレーネ・・・英語のアイリーン、フランス語のイレーヌという名前もこのギリシャ語のエイレーネ、平和から来ているようです。日本で言えば、平和の和で、和子さんでしょうか。
 イエスはわたしたちの心の真ん中でこのように、平和があるように、シャロームがあるように、エイレーネがあるようにと言ってくださいます。もっと言えば、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださることが、平安、シャロームなのです。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、わたしたちのシャロームなのです。
 そして、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいらしてくださることで、もうひとつ、すばらしいことが起こります。どんなことでしょうか。
 それは、わたしたちの愛する人びとも、そのとき、わたしたちの心の中にともにいてくれる、ということです。今生きている人も、あるいは、すでに地上の旅を終えた人も、わたしたちの心の中にいてくれるということです。復活したイエス・キリストがわたしたちの心の中にいて、わたしたちの平安、わたしたちのシャロームになってくださることで、わたしたちの大切な人びとも、地上の人も、天上の人も、目には見えなくても、わたしたちとともにいてくれるということです。
 20節です。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 「手とわき腹」とあります。これは、復活して、わたしたちの真ん中に現れてくださったイエス・キリストが、十字架につけられ、手に釘を打たれ、わき腹を槍でさされたあのイエス・キリストであることを意味します。わたしたちの苦しみを負ってくださり、傷つき倒れたイエス・キリストです。イエス・キリストの「手とわき腹」の傷は、イエス・キリストは、復活してもなおわたしたちの苦しみを負い続けくださることを意味します。「手とわき腹」は、イエス・キリストのわたしたちへの愛、いつくしみ、共感のしるしなのです。
 21節です。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 イエスは重ねて「わたしたちに平和、平安、安心、エイレーネ、シャローム」があるようにと言ってくださいます。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームであり、目に見えないイエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださるから、わたしたちの心の中には、平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームは、じつは、たしかにあるのです。
 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とあります。神さまがイエス・キリストをわたしたちの心の平安、シャロームとして送ってくださったように、イエス・キリストもわたしたちを誰かの心の平安として送り出してくださるのです。わたしたちは誰の心のシャロームとなれるのでしょうか。
 22節です。20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 「彼らに息を吹きかけた」とあります。イエス・キリストの「息」とは、聖霊のことです。聖霊とは、神さまの息のことであり、神さまのいのちのことであり、神さまの愛のことであり、そして、神さまからの平安のことです。
 つまり、イエス・キリストがわたしたちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言ってくださることと、イエス・キリストがわたしたちに神さまの愛の息吹を吹きかけてくださることは、じつは同じことなのです。
 「あなたが赦せば、その罪は赦される」とあります。わたしたちが誰かを赦せば、わたしたちはその人に平安をもたらすのです。神さまのシャローム、神さまの愛をもたらすのです。
 24節です。20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」
 トマスは目に見える証拠を求めたのです。先ほど復活したイエス・キリストの「手とわき腹」はイエス・キリストがわたしたちを愛し苦しみを担ってくれたしるし、いつくしみのしるしと申し上げました。しかし、トマスはイエス・キリストの手の釘跡を愛のしるしではなく、「目に見える証拠」にしようとしたのです。
ここに、目に見える証拠、五感による証拠を求める人間の悲しさがあるのではないでしょうか。トマスが釘跡を指で触りたいというのは五感のうちの触感による確認をしたいということではないでしょうか。
 「神さまは本当におられるのです」という、熱心な信仰者の言葉はたしかにとてもすばらしいです。しかし、そこには、「その証拠があります」という補足は必要でしょうか。目に見える証拠なしに、神さまを信じることが、信仰ではないでしょうか。信仰とは、目に見える証拠によって事実を確認することではありません。信仰とは、目に見えない真実に信頼することなのです。
 26節です。20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 ふたたび、イエス・キリストが、閉ざされた部屋の中に入って来られました。今度は、閉ざされたトマスの心の中にも入って来られました。イエス・キリストは、ふたたび「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださいました。トマスは証拠を求めましたが、じつは、そんな証拠などは必要なかったのです。証拠などなくても、イエス・キリストの方から、トマスの心の中に入ってきてくださったのです。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とあります。目に見えないから信じないというのではなく、目に見えないもの、けれども、たしかにここに存在するもの、大切なものを信じなさい、というのです。「目に見えないけれどもたしかにいる大切なもの」とは、神さまであり、復活されたイエス・キリストであり、わたしたちの愛する人びとのことです。
 今日のお話の最初に、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないか、目に見えるものを越えて、愛を感じることの方が大切ではないか、と申し上げました。
 愛を感じるとは、五感を越えて、見えるとか聞こえるとかいう人間の感覚を越えて、愛を感じることです。むろん、見えるとか聞こえるとかいった人間の感覚によって、愛を感じることも、それが過度にならないのであれば、否定されるべきではないでしょう。
 今目の前にいる目に見える人とのあたたかな交わり、そのやさしさの中で、神さまの愛を感じることもとても大切なことです。ただ、今目の前にその人がいることを求めすぎると、わたしたちは苦しくなってしまいます。目に見える愛、人間の感覚による愛は、求め過ぎるのではなく、自然に、それがあるところで感じるのが良いのではないでしょうか。
 わたしたちは、あるいは、桜の花や、緑の木立や、青い空のような自然を目の前にしたり、美しい光景を観たり、風の音や鳥のさえずりを聞いたりすることで、神さまの愛を感じることもあります。
 けれども、こうしたものが感じられない時でも、つまり、人の争いや孤独のただなかにいるときでも、あるいは、緑や青や赤のいろどりのない灰色の荒野にいるときでも、わたしたちは神さまの愛を感じたいのです。
 それは、どうすれば、できるのでしょうか。それは、わたしたちの心の奥底に神さまの言葉を秘めることだと思います。心の真ん中に一編の歌を抱くことだと思います。
 わたしたちの心の中に「いつくしみ深き友なるイエスは」という歌があれば、たとえ、わたしたちが人間の愛や自然の美しさを感じられない時でも、わたしたちは「いつくしみ深き友なるイエスを」という歌を心の真ん中でかなでることができるのです。そうすれば、そこにイエス・キリストがおられ、神さまの愛があるのです。
 「あなたがたに平和があるように」「世の終わりまでわたしはあなたがたとともにいる」というイエス・キリストの言葉が、わたしたちの心の奥底にあれば、目に見えなくても、五感によらなくても、神さまの愛、イエス・キリストの愛は、いつもわたしたちとともにあるのです。
 イエス・キリストがわたしたちの心の真ん中に入ってきてくださいました。目に見えない平安、目に見えないシャロームが、わたしたちの真ん中に、じつはいらしてくださるのです。たしかにいらしてくださるのです。
 祈り:神さま、わたしたちは目に見えるもの、耳に聞こえるもの、指で触れられるものを求めてしまいます。証拠として求めてしまいます。けれども、神さま、イエス・キリストは、わたしたち人間の五感を越えて、わたしたちの真ん中にきてくださり、わたしたちの平和、わたしたちのシャロームとなってくださいました。心より感謝いたします。神さま、愛を、平和を、平安を求めている友がいます。あなたが友の心の真ん中を訪ねて、友の平安になってください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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