SSブログ
中高生向けのお話 ブログトップ
前の10件 | -

わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し [中高生向けのお話]

イザヤ書43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し

 皆さん、おはようございます。劣等感とういう言葉があります。自分は駄目だな、まわりと比べて、自分は駄目だな、という気持ちのことですね。
 
わたしは、小学校の頃は、勉強の成績は悪くはありませんでしたが、それでも、勉強以外のことで、まわりから低く見られているな、自分は低い方だな、という気持ちは持っていました。反対に、自分よりテストの点が悪い人に対しては、劣等感の反対の優越感を抱いていました。小学校の頃のテストは100点とか90点台とかで、そうでない人よりも自分はすごいみたいな気持ちを持っていました。

 中学に入ってもだいたい同じような感じでしたが、中学生になると中間テスト、期末テストで学年で何番、といった数字が出てくるので、それによって、優越感を覚えたいという気持ちが強くなってきたように思います。

 ところが、高校に入ると、勉強の方でも、小学校や中学校のようにはいかず、だんだんと劣等感を感じるようになってきました。それでも、いわゆる良い大学に入って、優越感を持ちたいという思いはつねにありました。

 さらに、社会人になっても、まわりから優れた評価を得たい、人より偉いと思われたい、という気持ちは、つねにつきまとい、同時に、あるいは、反対に、自分はまわりからあまり評価されない、人から高く見られていない、という劣等感もふりはらうことはできませんでした。

 わたしには皆さんと同じ高校生の子どもがいます。高校三年生で、大学受験生です。子どもたちに対しても、学校のテストや模試で良い点をとってほしい、良いと思われる大学に行ってほしいという気持ちがあります。子どもにもそういう気持ちで接してしまうことが多いとつねに反省しています。

 けれども、どうでしょうか。子どもたちの成績が良くなければ、子どもたちのことを大切に思わないで良いのでしょうか。子どもたちの成績に関係なく、子どもたちのことを大切に思うのが親ではないでしょうか。いや、むしろ、子どもたちの成績が良くないとき、子どもたちが勉強やそれ以外のことでうまくいかずに苦しい気持ちになっているときに、勉強や何かがうまくいっているいないに関係なく、子どものことを大切に思うのが、親の仕事ではないかなと日々反省しています。

 子どもたちだけでなく、人間は、立派でなくても、生きているだけでも、とても大切な存在です。もし、その子ども、その人が、万が一いなくなってしまうことを想像したら、立派でなくても、生きているだけでも、いや、生きているからこそ、大切な存在だと思われるのではないでしょうか。

 今日の聖書は、神がわたしたち人間に向けた言葉です。その中で、神は「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と言っています。これは、人の目から見たら、あるいは、あなた自身の目から見たら、あなたは駄目に思われたり、自分でもそう思ってしまったりしているかもしれないけれども、わたしの目には、神であるわたしの目には、あなたは、とても価値のある存在で、貴い存在だよ、わたしはあなたを愛しているよ、という意味です。

 では、神はなぜ人を、わたしたちを愛するのでしょうか。それは人がわたしたちが立派であるとか成績が良いとかそういうことではなく、神は人を、わたしたちを創造した、創ってくれたからです。

 わたしたちは、自分が心こめて一生懸命に作ったものは、それが立派であろうと、人がどう思おうと大切にしますよね。神も同じです。神も、一生懸命に心を込めて、愛を込めて作ったから、人を、わたしたちを大切にしてくれる、貴い、値高いと言ってくれるのです。

 先ほど、わたしの子どもたちの話をしましたが、子どもたちも、他の人も、やはり、神が一生懸命に心を込めて、愛を込めて創った存在です。ですから、私も、その人がどんな人であろうとも、値高い、貴い、そのように思って、接することができたらと願っています。
nice!(0) 

[ [中高生向けのお話]

イザヤ書43:1-4
43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し

 皆さん、おはようございます。劣等感とういう言葉があります。自分は駄目だな、まわりと比べて、自分は駄目だな、という気持ちのことですね。
 
わたしは、小学校の頃は、勉強の成績は悪くはありませんでしたが、それでも、勉強以外のことで、まわりから低く見られているな、自分は低い方だな、という気持ちは持っていました。反対に、自分よりテストの点が悪い人に対しては、劣等感の反対の優越感を抱いていました。小学校の頃のテストは100点とか90点台とかで、そうでない人よりも自分はすごいみたいな気持ちを持っていました。

 中学に入ってもだいたい同じような感じでしたが、中学生になると中間テスト、期末テストで学年で何番、といった数字が出てくるので、それによって、優越感を覚えたいという気持ちが強くなってきたように思います。

 ところが、高校に入ると、勉強の方でも、小学校や中学校のようにはいかず、だんだんと劣等感を感じるようになってきました。それでも、いわゆる良い大学に入って、優越感を持ちたいという思いはつねにありました。

 さらに、社会人になっても、まわりから優れた評価を得たい、人より偉いと思われたい、という気持ちは、つねにつきまとい、同時に、あるいは、反対に、自分はまわりからあまり評価されない、人から高く見られていない、という劣等感もふりはらうことはできませんでした。

 わたしには皆さんと同じ高校生の子どもがいます。高校三年生で、大学受験生です。子どもたちに対しても、学校のテストや模試で良い点をとってほしい、良いと思われる大学に行ってほしいという気持ちがあります。子どもにもそういう気持ちで接してしまうことが多いとつねに反省しています。

 けれども、どうでしょうか。子どもたちの成績が良くなければ、子どもたちのことを大切に思わないで良いのでしょうか。子どもたちの成績に関係なく、子どもたちのことを大切に思うのが親ではないでしょうか。いや、むしろ、子どもたちの成績が良くないとき、子どもたちが勉強やそれ以外のことでうまくいかずに苦しい気持ちになっているときに、勉強や何かがうまくいっているいないに関係なく、子どものことを大切に思うのが、親の仕事ではないかなと日々反省しています。

 子どもたちだけでなく、人間は、立派でなくても、生きているだけでも、とても大切な存在です。もし、その子ども、その人が、万が一いなくなってしまうことを想像したら、立派でなくても、生きているだけでも、いや、生きているからこそ、大切な存在だと思われるのではないでしょうか。

 今日の聖書は、神がわたしたち人間に向けた言葉です。その中で、神は「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と言っています。これは、人の目から見たら、あるいは、あなた自身の目から見たら、あなたは駄目に思われたり、自分でもそう思ってしまったりしているかもしれないけれども、わたしの目には、神であるわたしの目には、あなたは、とても価値のある存在で、貴い存在だよ、わたしはあなたを愛しているよ、という意味です。

 では、神はなぜ人を、わたしたちを愛するのでしょうか。それは人がわたしたちが立派であるとか成績が良いとかそういうことではなく、神は人を、わたしたちを創造した、創ってくれたからです。

 わたしたちは、自分が心こめて一生懸命に作ったものは、それが立派であろうと、人がどう思おうと大切にしますよね。神も同じです。神も、一生懸命に心を込めて、愛を込めて作ったから、人を、わたしたちを大切にしてくれる、貴い、値高いと言ってくれるのです。

 先ほど、わたしの子どもたちの話をしましたが、子どもたちも、他の人も、やはり、神が一生懸命に心を込めて、愛を込めて創った存在です。ですから、私も、その人がどんな人であろうとも、値高い、貴い、そのように思って、接することができたらと願っています。
nice!(0) 

 「殻を打ち破ってくださる愛の声」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20190106 ルカ3:15-22 p.106

 「殻を打ち破ってくださる愛の声」

 皆さん、おはようございます。イエスさまは、三十才くらいのころ、人びとの前で、神さまのことについてお話をするようになったのですが、その少し前、ヨハネという人が現われて、この人も、神さまのことを人びとに話していました。

 そこで、人びとは、このヨハネさんが救い主、メシアではないか、と勘違いします。ところが、ヨハネさんは、それをきっぱりと否定しました。ふつうなら、ヨハネさんもいい気になって、じつはわたしは救い主だ、などと言いだしても不思議ではないのですが、ヨハネさんは決してそんなことはしませんでした。

 むしろ、イエスさまこそが本当の救い主だ、だから、イエスさまにこそ耳を傾けなければならないと訴えました。そして、イエスさまは、聖霊と火によって、わたしたちの殻を焼き払ってくださる、とヨハネは教えました。

 イエスさまが、聖霊と火によってわたしたちの殻を焼き払ってくださる、とはどういうことでしょうか。わたしたちは、自分の殻を閉じて、人の言うことに耳を傾けなかったり、自分だけで何でも決めよう、判断しようと思ったり、自分の考えが一番正しいと思ったりすることがないでしょうか。

 けれども、ほんとうは、自分の殻に閉じこもらないで、人の声にも耳を傾けた方が、人生の幅は広がり、豊かになるはずです。より良い人生になるはずです。また、今とは違う自分に、今の自分を乗り越えた新しい自分になれるのではないでしょうか。

 イエスさまは、わたしたちが今の殻を打ち破るのを手伝ってくださるのです。わたしたちが、今とは違う自分に変われますようにと、お祈りをすれば、イエスさまは、わたしたちを新しく造り替えてくださるのです。

 さて、今日の聖書で、イエスさまはヨハネから洗礼を受けました。すると、天が開き、「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえてきました。これは、直接には、神さまがイエスさまにかけた声ですが、天が開けて、その下の地上に響き渡ったことでしょうから、わたしたちにも向けられた言葉だと思って良いことでしょう。

 わたしたちは、誰からも愛されていないなどと思ってしまうことがありますが、じつは、神さまは、わたしたちのことを愛する子と思っていてくださるのです。わたしたちは、何もできない、誰からも愛されない子ではありません。神さまから愛されているのです。そのことを信じて、わたしたちが自分を閉じ込めている殻を打ち破り、新しい自分に生まれ変わり、新しい年をスタートさせようではありませんか。

nice!(1) 

「神さまに駆け寄って良い、いや、神さまが駆け寄ってきてくださる」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20181223 ルカ2:6-12 p.102
 
「神さまに駆け寄って良い、いや、神さまが駆け寄ってきてくださる」

 皆さん、おはようございます。今読んだ聖書の箇所には、イエス・キリストが生まれたときのことが書かれています。

 それによると、ひとつは、生まれたばかりのイエスさまは、飼い葉桶に寝かされていました。飼い葉桶とは、馬の食べるわらや草をいれる桶です。ですから、イエスさまは、馬小屋で生まれたと思われます。イエスさまをお腹に宿していたお母さんのマリアとお父さんのヨセフは旅をしていたのですが、宿屋に泊ることができず、イエスさまは、その夜、馬小屋で生まれた、と考えられます。

 イエスさまの生まれたときのことで、もうひとつのポイントは、イエスさまが生まれたという知らせを真っ先に受けたのは、野宿をしていた羊飼いたちだった、ということです。

 羊飼いたちは、町には入れませんでした。町の人びとからは、匂いがするとか、汚いとか言われていたのだと思われます。それで、羊飼いたちは、町の外の野原で、暗くて寒い夜を過ごしていました。羊を狙って猛獣が襲ってくるかもしれません。羊飼いたちは、とても心細く、あるいは、とてもこわく、不安で、心も体もぶるぶるふるえていたことでしょう。

 ところが、その真っ暗闇に、突然、まばゆい光とともに、天使が現われました。「恐れるな」と天使は言いました。それは、天使が現われても恐れるな、ということだけではなく、寒い闇夜で野宿をして心細くても恐れるな、という意味があったのではないでしょうか。

 天使は言葉を続けます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」

 「民全体に」と天使は言いました。これは、「すべての人に」ということです。町には入れてもらえない羊飼いたちにも、心細く震えている人びとにも、ということです。「大きな喜び」とは、心細く震えている羊飼いを救ってくれる救い主が今日生まれた、ということでしょう。

 羊飼いたちは、天使のこの知らせを聞いて、とても驚き、しかし、とても喜んだことでしょう。けれども、少しだけためらったかも知れません。救い主はダビデの町に生まれた、と天使は言ったからです。自分たちは、町には入れてもらえないのに、と羊飼いたちはためらったかも知れません。

 けれども、そのためらいは、すぐに消え去りました。なぜなら、天使はこう言ったからです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。救い主は飼い葉桶の中に寝ている。救い主は馬小屋にいる。それなら、羊に触って汚いからと言われていた羊飼いたちも、馬小屋なら、斥けられることはないからです。

 わたしたちは、もしかしたら、他の人からいろいろ嫌なことを言われて、自信をなくして、自分は神さまなんかから程遠い、神さまになって近づけないと思っているかも知れません。けれども、神さまのひとりご、救い主イエス・キリストが馬小屋で生まれたということは、どんな人でも神さまのところに駆け寄って良い、いや、むしろ、神さまの方がわたしたちのところに駆け寄ってきてくださるというメッセージなのではないでしょうか。
nice!(0) 

「目に見えない神さまを伝えてくれるイエス・キリストをお迎えする」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20181209 ルカ4:14-21 p.107

 「目に見えない神さまを伝えてくれるイエス・キリストをお迎えする」

 皆さん、おはようございます。クリスマスまであと16日です。クリスマスを待つ期間を教会では待降節と言います。今日はその待降節の第二週です。ですから、二本のろうそくに火が灯っています。

 クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。では、イエス・キリストはどんなお方だったのでしょうか。それは一言では言えません。イエス・キリストがどんなお方だったか説明するには、そうとうの時間が必要です。イエス・キリストにはさまざまな側面があるからです。

 けれども、今日の聖書は、その一面を述べています。それは、イエス・キリストには「神さまの霊」が満ちていたということです。言い換えますと、イエス・キリストには、神さまの愛や神さまの力、わたしたちを生かす力が満ちていたということです。

 今日の聖書の中に「貧しい人に福音を知らせる」とありました。「福音」とは「うれしい知らせ」ということです。わたしたちが生きている世界には貧しくて苦しんでいる人びとがたくさんいます。わたしたちはこの人びとのことを忘れてはならないでしょう。それから、貧乏ではないけれども、心が貧しい人びともいます。心が充たされていない人びともいます。わたしたちもそうかも知れません。そういうわたしたちに、イエスさまは福音、うれしい知らせを伝えてくれるというのです。

 それは、どういう知らせでしょうか。それは、神さまが一緒にいてくださる、神さまが愛してくださる、神さまが平和をくださる、という知らせです。イエス・キリストは、わたしたちにそのようなことを知らせてくださるお方なのです。

 それから、今日の聖書には「目の見えない人に視力の回復を告げる」ともありました。聖書を読んでいますと、イエスさまは、じっさい目の見えない人の目を見えるようになさいました。それから、目が見えるけれども、イエスさまが一緒にいてくださることがわからない人に、それがわかるようにしてくださいました。イエスさまは、神さまは目に見えないけれども、たしかにここにおられ、わたしたちを愛してくださることを伝えようとしてくださるのです。

 待降節はアドベントとも言いますが、アドベントは、このようにわたしたちに神さまが一緒にいてくださることを、そして、神さまがわたしたちを愛してくださることを伝えてくれるイエスさまをお迎えする期間なのです。

nice!(0) 

「弱く見える部分が、かえって必要」 [中高生向けのお話]

M高校での奨励です。

新約聖書p.316 コリントの信徒への手紙一 12:14-22
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

 皆さん、おはようございます。わたしにも皆さんと同じ高校生の子どもがいますが、先日、部活の試合で、腰を痛め、翌朝、整形外科に行くことになりました。ところが、その整形外科は常連の患者さんで満員でした。けれども、「できれば診察の後、学校に行きたいので、緊急で見ていただけないでしょうか」とお願いしたら、そうしてもらえました。
 わたしたちの普通の感覚で言えば、早く来た順に診察してもらうのが当然で、あとから来たのに、さきに見てもらうのはずるいようにも思われますが、その人の症状の重さや治療の緊急性に応じて、医療機関では、順番が変わることもあります。いわば、今苦しんでいる人、困っている人が、優先されるということです。
 皆さんの中には、部活やクラスで、リーダー的な役割をしている人もいると思います。リーダーは、部員全体、クラス全体を把握しなければなりませんが、同時に、その中で、おとなしい人や元気のない人、何か悩んでいそうな人にも気配りをしなければならないのではないでしょうか。
 小学校の遠足の山登りなどで遅れてしまう子が出てくると、先生によっては、その子を支えようとすると聞いたこともあります。
 日本や世界の各地には、貧しい人など、困難な立場にある人をサポートする社会福祉制度がありますが、ちかごろは、それを不公平だ、という人もいるようです。けれども、自分が貧しかったり、困難な立場にあったりすれば、ほとんどの人は、社会福祉は不公平は制度ではなく、むしろ、大切な社会の仕組みであると考えることでしょう。
 先ほど読んだ聖書は、こういうことを言っていました。じつは、ここでは、キリスト教の教会が人間の体にたとえられているのです。そして、教会という体は、いろいろな部分から成り立っている、と言っています。けっして、ひとつのものだけから成り立っているのではないと。人の体にたとえれば、足だけ、耳だけから成り立っているのではなく、足もあれば手もあり、耳もあれば目もあります。耳は聞く役割を果たし、鼻は臭いを嗅ぐ役割を果たします。つまり、教会には、じつに様々な人びとがいて、そのひとりひとりが大切な役割を担っているというのです。
 そして、ぎゃくに、ひとりひとりの役割はたがいに異なっていても、全体では一つの体のような働きを教会はしているともいうのです。だから、誰かが誰かに向かって、「あなたは要らない」「あなたは必要ない」などと言ってはいけない、というのです。
 さらには、もしかしたら誰かから要らないと思われたり、わたしたちがあの人は要らないと思ったりするような人びと、いわば弱く見える人びとがかえって必要だというのです。
 教会だけでなく、社会も同じではないでしょうか。わたしたちは、強い人びとが必要だと考えてしまいます。優れた人びとが必要だと考えてしまいます。けれども、教会だけでなく、部活でも、クラスでも、弱く見える人、わたしたちが要らないなどと思ってしまう人びとが必要なのではないでしょうか。
 「弱く見える部分が、かえって必要」というと、反対に強い人が差別されているように思われるかも知れませんが、そうではありません。弱い人と強い人がいれば、まずは、弱い人を支えなければ、公平な社会にはならないということだと思います。
 皆さんも、部活やクラスだけでなく、これから、大学や社会でリーダーの役割を果たすことがあると思いますが、そのとき、聖書には「弱く見える部分が、かえって必要」とあり、礼拝では「弱い人びとを優先する」と言われていたことを、思い出していただけたらと思います。
nice!(0) 

「採点しない神さまに感謝して、自分の成長を祈り求めたい」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20181014 マタイ7:15-20 p.12

「採点しない神さまに感謝して、自分の成長を祈り求めたい」
 
 皆さん、おはようございます。外見は羊のようにやさしいのに、中身は狼のように怖い人がいます。ほんとうは、外見はどうであれ、中身が羊のようにやさしい人が、わたしたちの生きている世界では、求められているのではないでしょうか。

 ぶどうの木は、ぶどうという良い実を結びます。いちじくの木は、いちじくという良い実を結びます。ぶどうもいちじくも、それを食べる人に、水分や栄養分や味覚を与えてくれます。

 わたしたちも、ぶどうやいちじくのように、出会う人の心に、潤いやビタミンや、おいしい味わいをもたらすような人になれたら、それは、とてもすばらしいことです。

 わたしたちも、羊のように、出会う人の心に、やわらかさやあたたかさをもたらすような人になれたら、それは、とてもすばらしいことだと思います。

 イエスさまは、わたしたちにとって一番大切なことは、神さまを愛することと、隣人を愛することだと教えてくださいました。

 神さまを愛するとはどういうことでしょうか。それは、自分の力ではどうしようもない、自分を助けてくれるものは何もない、と思ってしまうようなときでも、神さまだけはわたしたちと一緒にいてくださり、支えてくださると信じることです。どんなに厳しいことが起こっても、もうだめだと思っても、神さまが道を切り開いてくださると信じることです。

 隣人を愛するとはどういうことでしょうか。それは、相手を傷つけないようにすることです。相手の気持ちを大切にすることです。自分が遠慮するというよりも、相手のことを大事にしながら、相手と向かいあうことです。

 わたしたちは、このように神さまを愛し、隣人を愛する人に、少しずつ成長できたら、それは、とてもすばらしいことです。

 しかし、ここで注意したいことがあります。じつは、神さまはわたしたちを採点しません。わたしたちがどれだけ神さまを愛しているか、どれだけ隣人を愛しているか。そういう採点をしません。採点の結果、わたしたちを不合格にすることもありません。神さまはわたしたちを採点することなく、受け入れてくださいます。それが神さまの愛なのです。

 けれども、わたしたちは、その神さまの愛に感謝して、少しでも、神さまを愛することができるように、隣人を愛することができるように、そのような目標を持ちながら、歩んでいきたいと思います。

nice!(1) 

「神さまはきっと良い物をお与えくださいます」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180930 マタイ7:7-12 p.11
 
「神さまはきっと良い物をお与えくださいます」

 皆さん、おはようございます。今日の聖書で、イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言っておられます。

 皆さんは、何を求めているでしょうか。何を探しているでしょうか。自分が求めているもの、探しているもの、たとえば、行きたい大学、つきたい仕事、英語やスポーツ、芸術など身につけたい技術のような目標を目指して、一所懸命に努力することは、とても大切です。求めれば与えられる、探せば見つかる、門をたたけば開かれる、と信じて、精一杯できるだけのことをすることは、非常に大事なことです。そして、そのとおり、求めれば与えられる、と信じて、努力を重ね、努力を続ければ、それが叶うこともめずらしくないでしょう。

 けれども、イエスさまが言っているのは、自分が必死に求めれば、それを「自分で」手に入れることができる、ということではありません。自分が必死に探せば、それに「自分で」辿り着くことができる、自分が必死に門を叩けば、門を押し広げることができる、ということではありません。

 「手に入れる」ではなく「与えられる」とあります。「開けることができる」ではなくて「開かれる」とあります。神さまがそうしてくださるのですね。けっして自分一人の力でそうできるということではありません。神さまが助けてくださるのです。

 それから、「求めなさい、そうすれば、『それ』が与えられる」「探しなさい、そうすれば、探しているものが、見つかる」と言っているのではありません。そうではなく「良い物」が与えられるのです。

 11節をご覧ください。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 神さまは、かならずしも、わたしたちが願っているものをくださるのではありません。そうなるかも知れませんし、そうならないかも知れません。いずれにせよ、神さまは「良い物」をお与えくださるのです。

 わたしたちは、何か目標があるとき、それを一所懸命に求めたいと思いますし、神さまにもお祈りしたいと思いますが、たとえ、どういう結果が出ても、それは、神さまからいただいた良い物だと信じることも大切です。

 一所懸命に求め、神さまに祈り続けたならば、たとえ、どんな結果が出ても、それは、神さまからいただいた良い物だと受け止めることができるのではないでしょうか。

 たとえ、どんな結果になろうとも、神さまはわたしたちとともにいてくださり、わたしたちをこよなく愛してくださいます。じつは、それこそが、本当に意味での、良い物ではないでしょうか。

nice!(0) 

 「鳥のように、花のように、神さまに」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180916 マタイ6:25-31 p.10

 「鳥のように、花のように、神さまに」

 皆さん、おはようございます。皆さんは、入りたい学校に合格できるだろうかとか、部活の来週の試合で勝てるだろうかとか、あしたの英語のスピーチをうまくできるだろうかとか、心配で心配でたまらなかった経験はないでしょうか。

 今から二千年前、イエスさまの時代も、イエスさまのまわりの人びとは不安や心配を抱えていました。食べるもの、飲むもの、着るものが手に入るだろうかという不安は、いまのわたしたちよりずっと強かったと思います。つまり、あしたも生きていけるだろうか、あさっても生きていけるだろうか、といういのちに関わる不安です。

 25節をもう一度読んでみましょう。6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

 あした食べるものがあるだろうか、あした飲むものがあるだろうか、あした着る物があるだろうか、あしたも生きていけるだろうかと心配する人びとを支えようと、イエスさまは、「大丈夫だよ。あなたには食べ物より大切な命そのものがあるではないか。衣服より大切な体そのものがあるではないか」と言われます。
 
 そして、「空の鳥を見なさい」と言われます。「空の鳥は、畑で麦などの穀物を作ったりしないけれども、神さまは支えてくださるよ」と言われます。空の鳥は、あしたの食べるものがあるか、飲み物があるか、という心配もしないと思いますが、それでも、神さまは支えてくださる、ということなのではないでしょうか。さらに言えば、空の鳥は、神さまが支えてくださると信頼しきっているから、あれこれ心配しない、ということかも知れません。
 
 イエスさまは、また、「野の花を見なさい」と言われます。「野の花は、糸をつむいで、きれいな布を織ったりしないのに、あんなにきれいに咲いている。神さまが支えてくださる」と言われます。野の花もまた、あれこれ心配せずに、神さまを信頼しきっている、ということかも知れません。
 
 わたしたちも、いろいろと不安や心配を抱えています。空の鳥、野の花のように、完全に神さまにお任せすることはできないし、心をまったく乱さないようにすることもできません。
 
 けれども、不安や心配があるとき、空の鳥、野の花を思い浮かべて、「神さま、わたしは不安ですが、あなたにお委ねすることができますように」と心の中でお祈りをしてみてはいかがでしょうか。

nice!(0) 

 「目に見える宝と目に見えない宝」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180902 マタイ6:19-21 p.10

 「目に見える宝と目に見えない宝」

 皆さん、おはようございます。今日の聖書では、地上にではなく天に、富を積み上げなさい、とイエスさまが言っています。地上に富を築きあげても、それは、虫に食われたり、さびたり、盗まれたりするが、天に積み上げる富は、そんなふうにはならない、とも言っています。

 これは、どういう意味でしょうか。わたしたちは生きていくためにお金が必要ですが、それ以上にお金を蓄えても天国には持って行くことができません。また、たとえば、わたしたち大人の場合、仕事がうまくいかなくなったり、仕事を辞めさせられたりすると、お金はあっという間になくなってしまいます。

 お金だけではありません。人間関係、つまり、友達も人生の財産と言われますが、ずっと続くと思われた友達との関係が切れてしまうことは、人生にはつきものです。あるいは、中学や高校のとき、勉強やスポーツができても、それが一生つづくわけではありません。

 また、最近の大災害を見ますと、道路や橋、線路、建物も、永遠ではなく、大雨で水が氾濫し、どっと押し寄せてくれば、あっという間に壊れてしまいます。

 残念で悲しいことですが、また、きびしいことですが、目に見えるものは、永遠ではなく、壊れたり、なくなったりすることがあるのです。

 けれども、イエスさまは「地上に富を積んではならない」という言葉で、目に見えるものを築き上げていくことを禁じているのではないと思います。目に見えるものを作り上げていく、築き上げていくことが、とても大事な場合はいくつもあります。たとえば、災害で失われた道路や橋や建物は、ふたたび立ち上げなければなりません。

 イエスさまが言いたいことは、目に見えるものを作りあげてはならない、ということではなく、目に見えるものだけでなく、目に見えないものも大事にしなさい、目に見えないものも少しずつ築き上げていきなさい、ということだと思います。

 それは、信仰です。神さまを信じる心です。たとえ、目に見えるものがうまくいかなくなったり、こわれたり、なくなったりしても、神さまがわたしを根本では支えていてくださる、と神さまを信頼する心です。
 
 神さまを信じる心だけでなく、神さま自身も目に見えません。神さまがわたしたちを愛していてくださることも、神さまがわたしたちを支えていてくれることも目に見えません。けれども、わたしたちは、神さまに造られたものとしてここに生きています。

 わたしたちとわたしたちが生きているこの世界を創ってくださった神さま、目に見えない神さまご自身が、じつは、天の宝なのです。神さまという目に見えない宝が、天という目に見えない世界にすでにあるのですから、わたしたちも、神さまを信じる信仰という目に見えない宝を積み上げていきたいと思います。

nice!(0) 
前の10件 | - 中高生向けのお話 ブログトップ