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2024年1月28日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:31-32)

 「真理はあなたたちを自由にする」とはどういう意味でしょうか。21節に「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とあります。これは、わたしたちが自分の思いの中に閉じ込められて、神さまや隣人とつながっていない状態のことでありましょう。これは、「自由」とは正反対の束縛です。
 けれ ども、イエス・キリストは、「わたしは上のものに属している」(23節)と言います。これは、神さまにつながっている、それゆえに、隣人ともつながっている、つまり、愛に属している、ということでしょう。これこそ、自由なのです。
 「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29節)。
 神さまとともにいる。神さまがともにいてくださる。神さまの愛の御心に従おうとする。これが自由なのです。
 「真理はあなたたちを自由にする」。これは、神さまとイエス・キリストがわたしたちを神さまとイエス・キリストに結びつけてくださる、ということではないでしょうか。 自由とは奔放のことではなく、愛の中に生かされることなのです。

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2023年12月31日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】2023年12月31日

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:12)

 ヘロデ王は自分の王座を脅かすかもしれない者が生まれると聞いて、不安になり、それを解消するために、ベツレヘム周辺の二歳以下の男児を皆殺しにしました。
 現代の世界でも、隣国に対する不安を軍備増強や武力行使、戦争によって解消しようとする事態が絶えません。わたしたち個人にあっても、暴力を用いて殺傷することはしないにしても、態度や言葉の強さで他者を抑えつけ、自分の思いを通してしまうことがないでしょうか。
 「ヘロデのところへ帰るな」という神さまのお告げは、そのような道をもう歩むな、というように聞こえます。「別の道」とは、そのような道ではない、新しい道のことではないでしょうか。
 憲法9条で日本は武力と戦争を放棄していますが、争いばかりのわたしたち人間世界にとって、これは古いどころか、「別の道」「新しい道」です。
 戦争のことだけではありません。わたしたちは人を制するのではなく人を愛するという新しい生き方、古くから言われていて、それでいて、わたしたちにとって新しい生き方をしたいと祈ります。
 自分の力で何とかしようとして人を抑えつけるのではなく、神さまに委ねて人と共に生きる「別の道」「新しい道」を神さまは創ってくださいます。この道を歩みましょう。

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2022年3月27日 [今週の言葉]

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(マルコ9:5)

 山の上でイエスの服が真っ白に輝き、天にいるはずの旧約預言者エリヤとモーセが現れたのを見て、ペトロはこのような言葉を口にしました。興奮して舞い上がっていたのではないでしょうか。
 イエスら三人のために仮小屋を建てることは、聖なるものを大切にすることのようにも思えますが、違うようにも考えられます。つまり、ディズニーランドでとても楽しい思いをした子どもが、ぼくはもうずっとここにいる、明日からの嫌な学校生活には戻らない、と言い出すのと、ペトロの発言は似ているようにも思えるのです。
 山を下りてからイエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言います。
 ペトロたちが山の上で見たのは、復活するイエスの姿の「予告編」のようなものだったのかも知れません。しかし、「死者の中から復活する」とあるように、復活の前には死があるのです。死を無視して、復活の「予告編」だけを語ってはならないのです。
 わたしたちの人生にはいくつか喜びがありますが、それは、悲しみを乗り越えてのものがほとんどではないでしょうか。希望をもつ前には絶望の期間があり、楽しみの前には苦しみがあり、治癒の前には病があったのではないでしょうか。
 わたしたちは、一足飛びに救いを求めてしまいます。しかし、小春日和から春に至るには、厳しい冬の寒さを経なければなりません。言い換えれば、この冬を超えれば、春が来るのです。この苦しみを経れば、喜びが待っているのです。

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2022年2月6日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4:26-27)

「神の国」とは「神のいのちの力が働いている場」と考えることができるかもしれません。イエスはこの種蒔きのたとえにおいて、神について、ふたつの大事なことを述べているように思われます。
 ひとつは、「(人が)夜昼、寝起きしているうちに」という言葉には「人が夜寝ている間にも」という意味合いが感じられます。つまり、蒔かれた種は、人間の力ではなく、神の力によって育つ、ということでありましょう。
わたしたちは、あれこれ自分の力でやろうとして、うまく行けば自信を持ち、うまくいかなければ失望したりしますが、わたしたちの人生には、そして、わたしたちの中には、自分ではなく神が育ててくれるものがあるのではないでしょうか。わたしたちの中には、神が育ててくれる植物があるのではないでしょうか。
 もうひとつは、「その人は知らない」とあるように、わたしたちは、そのような神の力、神が育ててくれるものに気づかなかったり、すこし気づいたとしても、完全には知り得なかったりするのではないでしょうか。
 神の気配、神の存在、神の力に気づくことは大事ですが、どうじに、神はわたしたちが把握しきれない存在、わたしたちがわかったつもりになってしまってはいけない存在なのです。
 わたしたちは、わたしたちをはるかに超えた神の力、いのちの力に気づきつつ、神をわかったつもりにならないで、むしろ、これまで知らなかった神のあらたな恵みに少しでも深く触れたい、と祈りつつ、前に進み続けたいと思います。
 神を知ったと思えば、神からの恵みもその人にはそれだけしか見えないかも知れませんが、神を知り得ないが少しでも深く知りたいと思えば、その人はより多くの恵みに気づくのではないでしょうか。そして、それもまた、神がわたしたちの中に植物を成長させてくださっておられることではないでしょうか。

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2021年11月14日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マルコ13:5)

 災害、病気、悪政、貧困、挫折、失業、暴力、暴言、虚偽など、わたしたちの人生にはさまざまな困難が生じます。そのとき、わたしたちは何を頼りに、何を支えとすればよいでしょうか。
 家族や友、場合によっては見知らぬ人が大きな助けになる場合もあるでしょう。人と人とのつながりの中で生かされることは非常に大切です。けれども、残念なことに、わたしたちを惑わす人もいます。救ってくれるように見えた人がそうでなかったこともあります。一見救いに見える派手な言葉にわたしたちは惹かれてしまいがちです。
 世の中から聞こえてくる情報が助けになる場合もあるでしょう。正確な情報を得て判断することも大切です。けれども、わたしたちは、ふたしかなうわさや強引な言葉に、揺さぶられてしまうこともないでしょうか。
 職場や人間関係でひどい目に遭うこともあるでしょう。誹謗中傷を受けたり、言い分を聞いてもらえずに処分されたり、解雇されたりすることもあるでしょう。そういうときどうしたらよいのか、わたしたちにはわかりません。
 濡れ衣を晴らしたり、相手の非を明らかにしたり、謝罪してもらったりすれば、心が楽になれるような気もしますが、それには多大な時間と費用と労力が必要な場合があるでしょう。そんなことをすれば、苦しめられた記憶が際限なく繰り返され、ますます苦しくなったり、そんなことをしても、相手がこちらの願う通りにはしてくれないこともあるでしょう。どうしたらよいのでしょうか。
 イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言います。この言葉には、苦しみの中でも神があなたとともにいる、神はあなたをけっして見棄てず、むしろ、あなたとともに苦しみを負ってくれる、という前提があるのではないでしょうか。

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2021年8月22日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31-32)

 わたしたちは母の胎に宿って二か月くらいの時、身長は数ミリ、体重も数グラムで、ぶどう1粒くらいだったそうです。誕生時は、個人差はありますが、数十センチ、数キログラムになる場合があります。成人になると、百数十センチ、数十キログラムにもなる人もいます。つまり、身長は数百倍、体重は一万倍くらいになるのです。
 植物の場合も、小さな種や苗木が、何千倍、何万倍に成長します。動植物の成長する力には驚かされます。成長する力は生命の力でもありましょう。そして、生命の力は、神の力でありましょう。神の力が働いている場を、神の国、あるいは、天の国と呼びます。
 小学校一年生の時、大きなマスのノートにひらがなを初めて書いて以来、今日までわたしたちは一体どれだけの文字を書いてきたことでしょうか。小学校に上がる前、初めて言葉を発して以来、今日までわたしたちは一体どれだけの言葉を紡いできたことでしょうか。たとえ、それが記録に残っていなかったとしても、その時間が積み重ねられて、わたしたちの人生の丘があります。
 自分の歩みを振り返ってみて、小さな種を大きく育ててきた、小さな夢を大きく実現してきた、と言えるようなことがなかったとしても、わたしたちの何十年もの、呼吸、足跡、考えたこと、感じたこと、出会った人、すれ違った人、触れた言葉は、莫大なものです。やはり、からし種は大きな木になり、いのちの営みは積み上げられてきているのです。神のいのちの力は働いているのです。

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2021年5月9日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:1-4)

施しや善行をなすときは、人に見せたり、ほめられようとしたりしないようにと、イエスは戒めています。こうした行為はほんらい利他的なもの、他者を利するためのものであるはずなのに、賞賛が目的ならば、利己的、自分を利するためのものになってしまうのではないでしょうか。

しかし、愛は、持っている人が持っていない人に、強い人が弱い人に与える一方的なものではなく、ふたりの間(あわい)に働く双方向のものです。施しや善行も、一方的に見えますが、じつは、そこには、双方向の力が働いているのではないでしょうか。

愛は、ゆたかな者が貧しい者に渡すものではなく、ふたりの間に働く力です。S極とN極の間でたがいに引きあう力のようなものです。しかも、この愛は、じつは、人から出ているものではありません。
ヨハネの手紙には「神は愛である」とあります。愛は、人から出るものではなく、人と人との間に働く神の力、あるいは、神自身のことなのです。

施しや善行も、愛と同じように考えることができるでしょう。これは、誰かが誰かになす誇らしい行為のことではなく、神の愛が働く場と考えることができるでしょう。

たとえば、食糧は、誰かが誰かに施すものではなく、わかちあうものです。人目につく必要はありません。誰かがほめられる必要もありません。食糧がわかちあわれる場に神の愛が働いている。このことがすでに神からの報い、いや、祝福なのです。

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主のいのちをともにわかちあう [今週の言葉]

 私たちは聖餐式で、姉妹兄弟とともにパンとぶどう酒をいただきますが、これにはどのような意味があるでしょうか。
 キリストは最後の晩餐でパンを取り、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(一コリント11:23)と言われました。パンはキリストの体です。つまり、キリストのいのちを意味します。そこにはキリストの愛が満ちあふれています。しかし、これはただ単にキリストの体であるばかりでなく、「あなたがたのための」キリストの体なのです。つまり、他ならぬこの私たちのためにキリストが与えてくださった体であり、いのちであり、愛であるのです。キリストは十字架にかかってその身をささげることで、罪ゆえに死んで滅びるしかなかった私たちに新しいいのちを与えてくださったのです。聖餐式のパンにはそのような意味があります。
 キリストはまた杯をとって「これは、多くの人のために流されるわたしの血」(マルコ14:24)と言われました。つまり、聖餐式のぶどう酒は、キリストが私たちの罪のために流してくださった血を現わすのです。血は本来、私たちが犯した罪の罰として流されるものです。キリストは私たちに代わって血を流してくださいました。しかし、罪のないお方が罪ある者に代わって血を流すことによって、罰としての血が救いとしての血となったのです。罪の罰としての死がいのちを与えるための死となったのです。
 それゆえに、聖餐式では「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリント11:26)と唱えられますが、この「主の死」とは、私たちが罪ゆえにキリストにもたらした死であると同時に、キリストが私たちを救ってくださる死、いのちを与える死であることを思い起こしたいと思います。つまり、聖餐式は単なる「主の死」ではなく「主の救いの死」「主の死と復活」を告げ知らせているのです。
 さて、このように私たちは聖餐式を通していただくキリストの体と血によって死から生へと引き上げられますが、私ひとりではなく「わたしたち」がキリストのいのちをいただくことも大事にしたいと思います。わたしたちはキリストの体に「あずかる」ばかりでなく、キリストの体を「わかちあう」のです。わたしたちは姉妹兄弟とともに等しくキリストの体にあずかっているのです。そして、キリストの体、キリストのいのちを等しくわかちあわせていただくことによって、それ以外のものも等しくわかちあうような生活にわたしたちは招かれているのです。
 使徒言行録には「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き」(2:44-46)とあります。「パンを裂き」とは聖餐式を思わせます。この記事は聖餐式と皆が一つになる生活が強くつながっていたことを示しているように思われます。


洗礼式の三つの側面 [今週の言葉]

 洗礼式には、1)受ける私たちが信仰告白をする 2)神様が私たちに新しいいのちを与えてくださる 3)教会に新しい枝が連なる、という三つの側面があります。
 成人の洗礼式では、洗礼を受ける人は使徒信条に基づいて信仰告白をします。「天地の造り主、全能の父なる神」への信仰、「人となり苦しみを受け、死んでよみがえられた神のひとり子、イエス・キリスト」への信仰、そして、聖霊への信仰、つまり三位一体の神様への信仰が告白されます。また、聖なる公同の教会に属し、罪が赦され、復活と永遠のいのちを与えられるという信仰も告白されます。
 この意味では洗礼式には私たちがキリスト教信仰を告白する側面がありますが、洗礼式の中心である洗礼そのものは神様の業であることを忘れてはなりません。信仰告白は洗礼の条件でありますが、信仰告白も神様に導かれてなされるという意味では、洗礼において現われる神様の恵みに支えられているということもできるでしょう。
 さて、洗礼は水の中に全身を沈めることで古い自分、ただ滅び行く罪人である自分が一度死ぬことであり、同時に、水の中から浮かび上がることで、罪が赦され、新しい自分、赦された罪人としてもう一度生かされることを現わしています。
 それはキリストの恵みによってなされます。なぜなら、「わたしたちはキリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ローマ6:3)からです。つまり、洗礼とは私たちがキリストと結ばれることであり、「キリストと共に葬られ、その死にあずかる」(6:4)ことであり、さらには、「復活の姿にもあやかれる」(6:5)だからです。
 言い換えますと、私たちが洗礼において死んで生きることができるのは、キリストがすでに十字架にかかって死に、そこから復活してくださったからなのです。洗礼を受けるということは、私たちが十字架と復活のキリストと一体にしていただくことです。洗礼を授かるということは、私たちはひとりで死んでひとりで滅びるのではなく、キリストとともに死んで、キリストとともに生かされる、という恵みにあずかることなのです。
 最後に、ひとりの人の洗礼は教会全体の喜びです。なぜなら、教会はキリストの体であり、洗礼を受ける人がキリストと一体になることは、キリストの体である教会に枝として連なることだからです。
イースターやクリスマスなどの礼拝で姉妹や兄弟の洗礼式があることによって、教会とそれにつらなる私たちは、キリストとともに古い自分が死に、キリストともに自分が新しくされる恵みをあらためて受け取ることができるのです。


イエス様とともに神様に愛される [今週の言葉]

 イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。洗礼は神様に罪を赦され、新しく生まれ変わって生きることを意味しますが、神の子イエス様にも罪があったのでしょうか。神様が私たち人間と同じ「肉」を引き受け、人間の子として生まれてくださったのがイエス様であるならば、イエス様は私たちと同じ罪をもその身に引き受けてくださったのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネのもとには、たくさんの人々が集まったと言います。この人々は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)というヨハネの呼びかけに応じて、罪を告白し、洗礼を受けたのです。イエス様も洗礼を受ける時、この人々と同じ立場に立たれたのではないでしょうか。神様中心、隣人中心ではなく、自己中心となり、また、神様を完全に信頼することができず、時に神様のみ心から離れたことをなし、そして、隣人を赦すことができず、傷つけてしまう、そのような罪深い私たちとともに悔い改めて、罪を告白し、神様の国を受け入れようとされたのではないでしょうか。イエス様は私たちとともに罪を担うために、そして、罪を赦されるために洗礼を受けられたのです。
 さて、イエス様が洗礼を受け、水の中から上がられた時、「天が開き」、「神の霊が降って来た」((3:16)と言います。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」(3:17)という声が天から聞こえたと聖書は記しています。
 これは、洗礼を受けたイエス様が神様の国に受け入れられたことを示しているのではないでしょうか。「天が開く」とは神様の国の門がイエス様に向かって開かれたことを示し、天から神の霊が降るとは、神様の国と私たちの間に通路ができたということではないでしょうか。
イエス様は私たちと同じ立場に立ち洗礼を受けて下さいました。つまり、私たちの罪深い姿は洗礼を受けるイエス様という一点に絞られていったのですが、逆に、イエス様に向かって天が開かれ聖霊が降る時、神様の国はイエス様という一点を通して、私たち全体へと開かれてきたのではないでしょうか。
 イエス様が洗礼において私たちと同じになって下さったことによって、私たちはイエス様が神様から受ける愛にともにあずかることができるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声を、私たちはイエス様と一緒に聞くことが赦されているのです。


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