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「聖書にも、味わい深い逆説の言葉が満ちあふれています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(105)

「聖書にも、味わい深い逆説の言葉が満ちあふれています」

 急がば回れ、と言います。聞き慣れてしまっていますが、この言葉を初めて聞いたとき、強い印象を受けるのは、急ぐことと回り道をすることが正反対のことだからです。逃げるが勝ち、もそうです。ほんらい、逃げることと勝つことはまるでさかさまのことではないでしょうか。けれどもそれが組み合わされることで、聴き手の記憶に残り、再生も容易になります。

 これとはニュアンスが違いますが、わたしたちは、自分が苦しかったり辛かったりするときこそ、かえって、人のやさしさや愛情が身に染みる、と感じることがあります。これも、一種の逆説でしょう。

 第一志望の大学に落ちて第二志望に進学したことで、良い友達や先生と巡り会えたり、人生の新しい視野が開かれたというようなこともあるでしょう。逆説は物語を生みだします。わたしたちの言葉に表現力をあたえ、経験を味わい深いものにしてくれます。

 新約聖書によりますと、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」とか「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」とか、わたしたちの常識をひっくり返したような、それでいて、印象深く、反復しやすい言葉を残しました。

 「心の貧しい人々」とはどういう人びとのことを指すのか、いろいろな解釈があります。「心の」は誰かがあとからつけ加えたのであり、イエスは「貧しい人々」としか言っていないのではないか、という説があります。「心の」がついてもつかなくても、「貧しい」と「幸い」は普通には結び付きません。

 けれども、キリスト教徒は、この言葉を、たとえば、「自分の考えや精神力は乏しく頼りにならないと憂う人とこそ、神は一緒にいて力になってくれる、そのことが幸い」というように理解するのです。あるいは、「嘆き悲しんでいる人をこそ、神は一緒にいて慰めてくれる」というように理解するのです。

 逆説の言葉の持つアピール力と真実。イエスもこのことを良く知り、それを神の救いを言い表すために、しばしば用いたのです。

(マタイ5:3-4)

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「イエスは、自分を否定した弟子をも、否定することはありませんでした」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(104)

「イエスは、自分を否定した弟子をも、否定することはありませんでした」

 父は気の短い人でした。よく怒られ、怒鳴りつけられました。一方的にまくしたてられました。こちらの言うことには耳を傾けてくれませんでした。それでも、父が好きでした。父にほめられたかったし、話を聞いてほしかったのです。

 大学に入学したものの、まったく通わず、パチンコと麻雀で遊びほうけていました。二年からはしっかりやりなおそうと思ったものの、それも一か月と続きませんでした。このままだとどうしようもない。その大学を中退して、他の大学に再入学して一年からやり直そうと思いました。そして、そのことを手紙に書き、父に送りました。

 「おまえがそう決めたのなら、そうしたらよい」。これが父の返事でした。この言葉に救われました。厳しい父でしたが、ぼくがその大学に合格したことは、とても喜んでくれました。そこを中退することは、父を裏切るような思いがしましたが、父はぼくを赦してくれたのです。

 新約聖書によると、イエスが逮捕されたとき、弟子のペトロは、「イエスなんて男は知らない」と三度繰り返しました。じつは、イエスは、いわゆる「最後の晩餐」のあと、このことを予告し、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と語っていたのです。

 ペトロは、逮捕されたイエスに遠くからこっそりついて行きますが、ある人からイエスの仲間ではないかと問われると否定します。すると、鶏が鳴きました。

 その人から重ねて問われますが、重ねて否定します。まわりの人びとからも問い詰められますが、それでも否定します。そのとき、もう一度鶏が鳴きました。そのとき、ペトロはイエスの予告を思い出し、どっと泣き出しました。

 けれども、イエスはペトロのことを知らないと見捨てませんでした。イエスはこのあと十字架につけられ殺されますが、復活した、と聖書は物語ります。そのさい、天使が、「イエスは復活して、ガリラヤという場所で、ペトロを待っている」と告げるのです。

 自分のことを三度も否定したペトロを、イエスの方は否定することなく、赦したという美しい話を聖書は伝えているのです。

(マルコ14:66-72)
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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(102)「願うだけでなく、委ねようとしてみましょう」  [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(102)「願うだけでなく、委ねようとしてみましょう」 

 「今日の晩ご飯には何を食べたいですか」と訊かれても、とくに食べたいものがなければ、「おまかせします」と答える場合が多いのではないでしょうか。これは、相手を本当に信頼して委ねているというよりは、何も思いつかない、考えるのが面倒くさいから、相手にそれを押し付けている側面もあるかもしれません。けれども、「おまかせします」と言ったからには、どんな食べ物が出てきても文句を言わない節度も、そこにはあるのかもしれませんし、あまり変なものは出さないだろうという程度の信頼感もあるのかもしれません。

 仕事を同僚や上司や部下に任せた場合はどうでしょうか。そこには、自分の想像するものとは違う結果が出ても受け入れるという覚悟と、どんな結果が出るとしてもこの人のすることなら大丈夫だろうという信頼がある、あるいは、求められるのではないでしょうか。

 わたしたちは、人に何かを期待するときも、お願いばかりするのではなく、相手に任せることも大事でしょう。やりなさい、やってくださいと四六時中お願いするばかりでなく、きっとやってくれるだろう、どんなものかはわからないけれども相手なりの結果を出してくれるだろう、と信用することも大事です。

 行きたい大学、就きたい仕事。そういう願いはあるけれども、たとえどこの大学に行っても、どんな仕事に就いても、道は拓かれる、なんとかなるという、底の深い楽観が人生には求められます。

 新約聖書によれば、イエスは十字架につけられ死ぬことがわかっている前夜、神にこのように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 神を信頼して、アッバ(「父さん」というようなニュアンス)、あなたは大きな力を持っておられます、と呼びかけます。そして、明日十字架という死刑を受けないで済むようにしてくださいと願います。けれども、どういう結果になろうともあなたに委ねます、お任せします、と付け加えるのです。

 わたしたちも、こうなりますようにと強く願うことも大事ですが、いま願っていることについてどんな結果が出るかはわからないけれども、それでも人生はなんとかなる、大丈夫だと信じることが大切ではないでしょうか。

(マルコ14:16)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(101)「~~したら、ではなく、今できるだけのことを」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(101)「~~したら、ではなく、今できるだけのことを」 

定年退職後、被災地などでのボランティア活動に打ち込んでいる人びとがいます。ぼくは、宝くじで2億円当たれば、家族で住める住宅を数千万円で買い、残りのお金を二十年の生活費、子どもの学費として、定職には就かず、各地での支援活動、それから、ある種のデモ、抗議活動に足を運び、移動時間や合間に、本を読んだり、映画や芝居を観たりして過ごしたいと思います。

けれども、考え直してみますと、まだ宝くじが当たっていなくても、苦しんでいる人びとのところに赴くことはできますし、正義や平和を訴えることもできます。読書も観劇もできます。~~したら、~~してから、ではなく、今できるだけのことをすることが大切なのではないでしょうか。

中学生や高校生のころ、試験が近づくと、今度こそ良い成績をと思い、計画表を作りますが、その日は立案で終わりにし、勉強そのものは翌日からということにしていました。そして、翌日はどうもやる気がでず、勉強する日を一日減らして計画を立て直して、また、翌日からということになり、そんなことを前日まで繰り返していました。大切なことは、あしたからの計画ではなく、その日にできるだけの勉強をすることだったのです。

新約聖書によりますと、ある女性がイエスのところに来て、高価な香油をイエスの頭にかけました。すると、まわりの人たちは彼女を責めます。「もったいない。売れば三百万円にはなった。それを貧しい人びとに施せばよかったのに」。

けれども、イエスはこの女性は「良いことをした」「できるかぎりのことをした」と評価します。彼女は、これを売ってから、などとは考えず、今自分にできる精一杯のことをして、イエスを歓迎したのです。そのとき彼女の持っていた最高のものはその香油であり、そのとき彼女にできたことはそれをイエスのあたまにかけてもてなすことだったのです。

たほう、イエスはまわりの人びとを批判します。あなたたちは、この女性は香油を換金して貧しい人びとに渡すべきだったなどと言う。では、あなたたちのまわりには貧しい人びとがたくさんいるのに、あなたたちは何もしないのか。この女性が今できるだけのことをわたしにしてくれたように、あなたたちは今できるだけのことをその人びとにしないのか。

計画や思案も大事ですが、今こそそのときだと見極め、今できるだけのことをすることも、それと同じくらいに、大事なのではないでしょうか。

(マルコ14:1-9)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(100) 「世界が自分を何とかしてくれると信頼できれば、自分以外のためにお金を使うことができるようになります」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(100) 「世界が自分を何とかしてくれると信頼できれば、自分以外のためにお金を使うことができるようになります」

財界人や芸能人などが、百万、千万、億の単位で、寄付や支援や献金し、マスコミに取り上げられることがあります。けれども、残るお金も、千万、億、十億の単位です。小学生が貯金箱の小銭を全部献金しました。一万円にもならないかも知れません。けれども、一円も残りません。前者だけがすばらしいことのようにもてはやされるのはどうでしょうか。

前者はなぜ全財産を寄付しないのでしょうか。あしたからの生活があるからです。あしたからも今と同じレベル以上の生活をしたいからです。子どもはどうして全財産を献金できたのでしょうか。全財産を失っても保護者が衣食住を提供してくれる、生活を支えてくれることを信じていたからではないでしょうか。いや、「衣食住の提供」や「生活の支え」などという考え以前に、明日のことを思い煩うことがなかったからではないでしょうか。信頼するとか大丈夫とかいう言葉以前の、世界への根本的な信頼が子どもにはあるからではないでしょうか。

聖書によりますと、人びとが賽銭を入れる様子をイエスが見ていました。賽銭箱の前には、金持ちがつぎつぎにやってきて、おそらくは人目につくように、高額を投じていました。ところが、そこに、貧しい未亡人がひとりやってきて、ひそかに銅貨を二枚、ささげました。今のお金で言えば、100円くらいにあたるでしょう。

これを見て、イエスは、この女性は誰よりも多く入れた、と言いました。なぜでしょうか。それは彼女の全財産だったのです。彼女は100円しか持っていませんでした。それをささげれば一文無しです。もう何も買うこともできません。けれども、彼女は神にそれをささげたいと願ったのです。

金持ちたちは高額を投じても、それよりも高額が手元に残ります。それがあるから、高額を投じることができたのです。それでも、彼らは生活を脅かされることはありません。彼らは、財産によって自分たちのすべてを支えていたのです。

たほう、彼女には何も残りませんでした。いや、神への信頼だけが残ったのです。神を信頼したから、全財産を神にささげることができたのです。けれども、これは賭けではありません。彼女は、神に委ねたのです。

わたしたちは全財産を何かにささげることはできません。(ささげる必要もありません。最低限度+アルファは確保すべきです。)けれども、今よりも多くを誰かのために使うことができるようになるかも知れません。今よりも痛みをもって、誰かのためにお金を使うことはできるようになるかも知れません。

そうすると、自分の生活は大丈夫だろうか、という不安が起こるかも知れませんが、貯金箱ごとささげた小学生やこの未亡人のように、世界と神が自分を支えてくれる、なんとかしてくれる、という信頼もまた育って行くのではないでしょうか。

(マルコ12:38-44)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(99) 「人生においていちばん大事なふたつでひとつ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(99) 「人生においていちばん大事なふたつでひとつ」

いちばん大事なものは何? きまっているよ、友達さ♪ 中村雅俊さんの「青春貴族」では、こう歌われています。

たしかに友達は大事です。友との対話は慰めであり、友の言葉は励ましであり、友の存在は支えです。友達以外にも、家族、信念、音楽、書物、いのち、からだ・・・大切なものはいろいろあります。

けれども、このようにわたしたちの感覚に働きかけてくるものだけでなく、それを超えていたり、把握しにくかったりするものをも、わたしたちは古来より大切にしてきました。それは、世界の真理と呼ばれたり、根源と呼ばれたり、神と呼ばれたり、超越者と呼ばれたり、一者と呼ばれたりしてきました。

ようするに、わたしたちとわたしたちが生きる世界をここに産み出し、ここにあらしめ続けている、宇宙の根本の力です。それは、言語によっても感覚によっても捉えやすいものではありませんが、それをまったく想わないで済まされるものでもありません。

宇宙の根本は、わたしたちの根本であり、それは遡るという意味での根本でもあり、今の土台、今の足もとを支えてくれるものという意味での根本でもあります。たとえ、それがよくわからないものであっても、それを何よりも大切にしようという心がわたしたちには備えられています。

聖書によりますと、何が一番大切な戒めですかと訊かれて、イエスは、全身全霊を込めて神を愛することが一番大切であり、二番目は、自分以外の人びとを愛することだ、と答えました。そして、これらにまさる戒めはない、と付け加えていますから、このふたつは、一番目と二番目というよりも、もっとも大事なふたつのこととして、さらに言えば、両面一体のこととして、不可分なのでしょう。じじつ、聖書の中では、神を愛することと人を愛することがセットで語られることがよくあります。

山川啓介さんが作詞し中村雅俊さんが歌った「青春貴族」の語るように、隣人、友達がいちばん大事、で良いのです。けれども、聖書は、それを否定せず、それと両立させる形で、神も一番大事だと言っています。

自分と世界を生み出した根源であり、今も足もとを支える土台である超越者に、わからないなりに想いを馳せ、感謝の念を持つ、どうじに、自分以外の人びとを大切にする(わたしたちが自分以外の人を大切にしたとき、その人がわたしたちの友達、隣人になるのです)、これが人生において大切なことではないでしょうか。

(マルコ12:28-34)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(98) 「人を通して、自分のlifeを神さまにささげる、お返しする」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(98) 「人を通して、自分のlifeを神さまにささげる、お返しする」

 翁長雄志さんは人生の最後の四年間を沖縄の人びとにささげました。もともと自民党員で保守政治家でしたが、米軍基地の存在によって沖縄の人びとが苦しめられていることをこれ以上放置できず、辺野古新基地建設を阻止するために、県知事となり、強行する国に全身全霊で抵抗したのでした。知事の任期の最後の年に67歳の若さで亡くなったことは、翁長さんがまさにそのいのちを沖縄の人びとを守るためにささげたことを、悲しくも痛ましくも、たしかに物語っています。

 尾畠春夫さんは66歳で鮮魚店を畳む前後から、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本大地震などの被災者支援のボランティアに手弁当等で駆けつけていたそうです。そして、2018年の猛暑の中でも西日本豪雨の被災者支援活動に携わっておられました。この間、行方不明者の捜索活動にも参加しておられたそうですが、この8月、山口県で祖父母の家の近くで三日間迷子になっていた二歳児の救援にも加わり、30分も経たないうちに見つけ出し、話題になりました。その後も中国地方の豪雨被災者支援に参加するそうです。日本の各地に軽自動車で駆けつけ、自給自足で活動するそうです。

 新約聖書の中に、イエスのこのようなたとえ話があります。ある人がぶどう園を作り、農夫に貸し出し、時が来ると、収穫のために僕を派遣する、というのです。「ある人」は神、「ぶどう園」はこの世界、「農夫」はわたしたち人間のたとえだと考えられます。

 では、「収穫」は何を意味するのでしょうか。これは、自分の人生、自分自身を神にささげる、あるいは、返すことではないか、とわたしは考えます。

 わたしたちは、わたしの人生はわたしのもの、わたしのいのちもわたしのもの、わたし自身もわたしのもの、と考えています。けれども、聖書は、わたしたちは神によって創られたものだ、と語っています。たしかに、わたしたちを創ったのはわたしたちではありませんね。わたしたちはわたし以外の力によって創られたのです。他の宗教と同じように、聖書も、いのちは与えられたもの、と教えます。

 わたしたちのいのち、人生(どちらも英語ではlife)は、与えられたもの、あるいは、神から借りているものなのではないでしょうか。ですから、それは、神にお返しするものなのです。

 地上の旅を終えるときは、もちろん、神にいのちをお返しするのですが、生きているうちからも、翁長さんや尾畠さんのような、他者に自分の時間をささげる生き方で、神にお返しすることができるのではないでしょうか。

 何も政治家や精力的なボランティアでなくても、誰かに話をしたい人がいたら、わたしたちは自分の30分をその人にささげることができるのではないでしょうか。ささげるという言い方がおこがましいなら、わかちあう、と言ってもよいのです。誰かの話に耳を傾けるということは、自分が話す時間をその人にささげることなのです。

(マルコ12:1-12)
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「イエスは誰をも追い出しません」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(97)

「イエスは誰をも追い出しません」

 かつて女性には参政権がありませんでした。政治から締め出されていたのです。(日本では今も女性の政治家は少ないですが・・・)。それだけではありません。それ以外にも女性が「入ってはならない」とされる場がたくさんありました。いまもあります。

 ひじょうに申し訳なく、残念なことに、東アジアのいくつかの国の人々に向かって「ここから出て行け」という罵声をぶつける日本人がいます。そして、それをそうさせたままでいる日本人もいます。

 さいきん「LGBTは生産性が云々」と発言した国会議員がいますが、これも、その人びとを社会から締め出す行為ではないでしょうか。言うまでもなく、この暴言は氷山の一角で、性的少数者を排除しようとする言動はさまざまな場に根深く存在しています。

 新約聖書によりますと、子どもたちがイエスのところに来ようとすると弟子たちはそれを妨げました。けれども、イエスは子どもたちを迎え入れました。

 二千年前の子どもたちも、労働力になりませんから、それこそ、生産性が低いと見なされ、おとなからは、軽んじられたり、追いやられたりしていました。けれども、イエスは、そのような社会の暴虐に抗い、子どもたちを抱き上げました。

 この話からふたつのことを教えられます。ひとつは、イエスの弟子たちが子どもたちを斥けたように、上で述べたとおり、わたしたちもさまざまな人びとを排除しています。弟子の姿はわたしたちの姿です。けれども、わたしたちは、弟子たちのような者から、イエスのような者へと、変わって行くように促されているのではないでしょうか。

 もうひとつは、イエスは、わたしをも受け入れてくれるということです。わたしたちも、また、上述のような理由で、あるいは、社会的な枠組みには数えられないようなことで、たとえば、いじめのような形で、あるいは、「変な人」とか、「問題のある人」「怖い人」「暴力的な人」とか言われて、人から疎んじられ、蔑まれ、距離を置かれたり、仕事や人間関係の面で、不利益や苦悩を負わされていないでしょうか。

 わたしたちもまた、ある「場」から、「ここには入れませんよ」と宣告されていないでしょうか。けれども、イエスだけは、そういうわたしたちを迎えてくれる、容れてくれる、そのようなメッセージをも、この話から受け取るのです。

(マルコ10:13-16)

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「子に塩を持たせる」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(96)

「子に塩を持たせる」

 災害級と呼ばれる猛暑が続きますが、子どもたちの運動部活動もまた続きます。親としては熱中症が心配です。本当は、35度を超える日は練習を中止にして欲しいし、二日練習したら一日休ませるぐらいの体調配慮を指導者に望みたいのですが、なかなかそうはいきません。親にできることは、せいぜい、水分と塩分の補給をさせるために、塩タブレットや塩分を含む飲料水を持たせるくらいのことです。

 「敵に塩を送る」ならぬ「子に塩を持たせる」です。ところで、子どもたちに持たせたいものは、塩だけではありません。子どもたちには、他の人に対してやさしい心を持たせたいです。また、目標を目指して、自分で方法を考え、計画し、実行し、身につけていく、そういう自立心を持たせたいです。あるいは、人と出会い、人に愛され、人を愛する、それを喜ぶ精神を持たせたいです。それには、親自身が子どもたちに、いたわりと敬意と愛を送らなければならないことでしょう。

 新約聖書によりますと、イエスは弟子たちに言いました。「自分自身の内に塩を持ちなさい」。これはどういう意味でしょうか。イエスは続けて言いました。「そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 つまり、自分の中に塩を持つことは、他の人と平和に過ごすことにつながる、というのです。ならば、自分の中にある塩とは、他の人と平和に過ごすことを促す何かのことになるでしょう。

 塩は食べ物に味をつけます。わたしたちは、誰かの人生が、誰かの今が「おいし」くなるような、味わい深いものになるような生き方をしたいと思います。それが、その人と平和に過ごすことではないでしょうか。

 塩は食べ物が腐るのを防ぎます。食べ物のいのちを守ります。わたしたちは、誰かのいのちを守るような、誰かの生を大切にするような生き方をしたいと思います。それが、誰かと平和に過ごすことではないでしょうか。

 そのような塩をわたしたちは心に持ち続けたいと思います。

(マルコ9:42-50)

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「リーダーではなくサーバントに」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(95)

「リーダーではなくサーバントに」

 サーバントは「召使い」の意味ですから、サーバント・リーダー・シップという言葉は、「リーダーは、まず相手に奉仕し、その後、相手を導くものである」という考え方を表わす、とネットにありました。
 
 ようするに、社長は上から威張り散らすよりも従業員に奉仕するような態度の方が会社をうまく導ける、部長も部下に謙虚にサービスする方が良い上司になれる、ということでしょう。
 
 けれども、ここには、大きな問題があります。それは、サーバントになることはリーダーとして君臨することの手段に過ぎない、社長が従業員に奉仕するのも社長の座を確かにするため、部長が部下にサービスするのも同じ目的に過ぎない、という点です。ほんとうはサーバントではなくリーダーになりたいのです。
 
 新約聖書を見ますと、イエスは、似たようなことを言っています。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。
 
 この言葉を文字通りに解すれば、サーバントリーダーシップと同じことで、「すべての人に仕える者になる」ことは「いちばん先になる」ための手段ということになります。
 
 けれども、キリスト教ではそうは考えません。イエスはのちに十字架で処刑されます。つまり、社会の最底辺に落とされる、死刑囚という召使いや奴隷以下の位置に落とされますが、それは、イエスがリーダーとして君臨するためだとはキリスト教では言いません。リーダーになるとかならないとかではなく、ただ、イエスがわたしたちの一番下に置かれたと受け止めるのです。
 
 西日本の豪雨による過酷な被害。そこには、多くのボランティアが駆け付けています。クリスチャンたちもそうしています。ただひたすら被災者に仕えようとしています。仕えることでリーダーになろう、サーバントリーダーシップを発揮しよう、などとは考えていないのです。リーダーになるのではなく、ただサーバントになろうとしているのです。イエスがそこに置かれたように。
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