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湖畔の朝食 [使信]

2024年4月14日 ヨハネ21:1₋14 「湖畔の朝食」
 おはようございます。わたしたちの人生は誰に導かれ、誰によって道を備えられているのでしょうか。わたしは自分からはあまり誰かに導いてもらおうとしてきませんでした。なんでも自分で努力すれば自分でできると思っていたのです。
 勉強も先生に教えてもらわなくても自分で本を読んで自分で理解すればよいと思っていました。そんなことだから、結局は勉強はあまりできない人生を送ることになってしまいました。けれども、関田先生だけはわたしを導いてくださいました。また、先生は、わたしの人生に必要なものを備えてくださいました。
 そして、関田先生ともうひとり、わたしの人生を導いてくださったお方、そして、わたしの人生に必要なものを備えてくださったお方は、神さまでした。
 ところで、牧師のことを英語ではpastorと言いますが、このpastorという単語には、「羊飼い」という意味もあります。つまり、教会は羊の群れであり、牧師は羊の群れを飼ったり、養ったり、導いたりすることが期待されているようです。
 けれども、わたしはまぶね教会の牧師として皆さんを飼っているのでしょうか? とんでもないですね。恐れ多いですね。わたしが教会に飼っていただいているのです。わたしが教会を養っているでしょうか。とんでもない。わたしが養っていただいているのです。わたしが教会を導いているでしょうか。とんでもない。わたしが導いていただいているのです。
 まぶね教会の牧師は教会の人を導くどころか、教会の人に導かれています。では、教会の皆さんはどうしたらよいのでしょうか。誰に導かれたら良いのでしょうか。
 それは、大丈夫です! まぶね教会の本当の牧師、本当の羊飼いは、神さまです。日本基督教団では、牧師は、補教師から正教師になるとき、按手礼というものを受けます。先輩牧師たちから頭の上に手を置いて祈ってもらうのです。
 その時に決まって歌う讃美歌の歌詞に「羊飼いの羊飼いよ」という一節があります。羊飼いの羊飼いとはイエス・キリスト、あるいは、神さまのことです。まぶね教会の今の羊飼いは怪しいですが、その羊飼いの羊飼いであるイエス・キリスト、そして神さまは確かなお方です。カール・バルトという神学者は、「牧師は羊飼いではない。羊飼いのしもべだ」と言ったそうですが、まさに、その通りだと思います。わたしなどは、羊飼いの役立たずのしもべです。
 教会の羊を飼い、養い、導いているまことの羊飼いは、イエス・キリストであり、神さまなのです。だから、教会は大丈夫です。
 昔、イスラエルの民は遊牧民族で、羊を飼っていました。けれども、羊を飼う自分たちを養い支えてくださるのは神さまだと信じていました。つまり、イスラエルの民は羊飼いだけれども、その羊飼いの羊飼いは神さまだと信じていました。言い換えれば、イスラエルの民は、自分たちは羊の群れ、神さまはその羊飼い、という信仰を持っていました。
 鄭富京先生が2月に「恵みと慈しみはいつも」という説教をしてくださいました。その時の聖書の個所を覚えておられますか。旧約聖書詩編23編でした。
 詩編23編1節。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
いきなり「主は羊飼い」「神さまは羊飼い」とダイレクトに言っています。「神さまは羊飼いのようなお方だ」となどと言わずに、「神さまは羊飼いです」と言い切ってしまうところがとてもよいと思います。
 「わたしには何も欠けることがない」とあります。いや、わたしにはお金が欠けています、という方もおられるかもしれません。わたしなどは、人間性が欠けております。忍耐力、おもいやりにも欠けています。
 しかし、この聖書の言葉はそういうことを言っているのではありません。この聖書が言っていることは、わたしの人生において、大事なところで、神さまはちゃんと備えていてくださる、ということではないでしょうか。
 これまでの自分の歩みを振り返って「ああ、神さまは大事なところでちゃんと備えてくださったのだなあ」とわたしたちは感謝しますし、これからの歩みにおいてもきっと神さまは備えてくださると確信いたします。
 そういう意味で、神さまがわたしの人生において欠かしたものは何もないと思います。ある詩に、「願ったものは手に入らなかったが、必要なものはすべて与えられた、必要なものはすべて備えられた」とあるとおりです。
 詩編23編の2節です。23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴う」「青草の原」とあります。昔は「緑の牧場」と言っていました。皆さんはどちらがお好みでしょうか。まあ、どちらも同じことですね。信号も青とも緑とも言われるがごとしです。
 詩編の時代の何百年かのちに、イエス・キリストが人びとをすわらせてパンや魚をわかちあわれたところも、やはり草地でした。
 マタイによる福音書にはこうあります。14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。
 ヨハネによる福音書にはこうあります。6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。
 つまり、新約聖書では、イエス・キリストは旧約聖書の詩編23編の羊飼いである神さまのイメージと重ねられているのです。
 詩編23節に戻ります。3節です。主は魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
「魂を生き返らせてくださる」とあります。今日のヨハネによる福音書に出てくる弟子たちも、イエス・キリストを十字架で失って意気消沈していましたが、イエス・キリストが復活して弟子たちのところに戻ってきて、弟子たちの魂を生き返らせます。
 「正しい道に導かれる」とあります。神さまはわたしたちを歩むべき道へと導いてくださいます。
 4節です。23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
 「死の陰の谷」とあります。イスラエルは荒れ野、乾燥地帯です。そこには、からからに渇き切った水一滴もない谷底があるそうです。この死の陰の谷底は、わたしたちの人生の困難、挫折、苦境とも重なります。
 しかし、そこにおいても神さまはわたしたちを導いてくださいます。だから、恐れなくてもよいのです。不安に思わなくてもよいのです。心配しなくてもよいのです。
 「あなたがわたしと共にいてくださる」とあります。神さまがわたしたち人間とともにいてくださる、これを聖書はインマヌエルと呼びます。インマヌエルは旧約聖書と新約聖書を貫くキーワード。聖書をひと言で言うとすれば、このインマヌエル、神さまが共にいてくださる、につきます。
 鞭、杖、とあります。神さまという羊飼いは、群れや進行方向から外れる羊を、群れ、進行方向に連れ戻してくださいます。また、前に進むように力づけてくださいます。
 5節です。23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
 「苦しめる者の前で、食卓を整えてくださる」とあります。人生の苦しみにおいても、神さまは必要なものを備えてくださいます。今日のヨハネ福音書ではイエス・キリストが弟子たちに朝食として魚の炭火焼きを用意していますが、この話もイエスが食卓を整えてくださる話と読めるのではないでしょうか。
 「頭に香油を注ぎ、杯を溢れさせる」とあります。これは、神さまがわたしたちの人生を味わい豊かな、意味深いものにしてくださることではないでしょうか。神さまはわたしの人生も味わい深いゆたかなものにしてくださいました。神さまはわたしに牧師という仕事を与えてくださり、嫌な上司もおらず、好きな本を読んで過ごす人生を許されています。まさに、わたしの人生の杯は神さまの恵みにあふれています。
 6節です。23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
「命ある限り」とあります。神さまとつながっている限りということでしょうか。わたしたちが地上の旅をしている今も、これを終えて天に帰ってからも、神さまがわたしたちとつながっていてくださいますから、恵みと慈しみはいつもわたしたちに注がれ続けるのです。
 「生涯、そこにとどまるであろう」とあります。わたしたちが人生において、「死の陰の谷」を歩むときも、あるいは「主の家」「神さまの家」、教会や神殿にいるときも、わたしたちは生涯、神さまの守りのもとにあるのです。
 詩編23編のお話はここまでにして、今日のヨハネによる福音書21章を振り返ってみましょう。
 1節です。21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
 「ティベリアス湖畔」とあります。「湖畔」と言えば、わたしはすぐに、「静かな湖畔の森の中から、もう起きちゃいかがとかっこうがなく」を思い出します。ティベリアス湖畔とありますが、これはガリラヤ湖畔のことです。
 「ご自身を現わされた」とあります。復活してイエス・キリストは何度かご自身の姿を何度か人びとの前に現わしました。復活直後には墓のすぐ近くで女性たちにおはようと声をかけました。 先週の聖書の箇所では、その日の夕方、弟子たちが鍵をかけて閉じこもっていた部屋の真ん中に現れました。
 3節です。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 「わたしは漁に行く」とあります。これは、ペトロという人間の思いです。ペトロの「わたし」の思いです。他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言いますが、これも、人間の思いです。人間の古い思いです。
 「その夜は何もとれなかった」とあります。人間が自分の思い、自分の力だけに頼ろうとした結果でした。自分の力で何とかしようとするとき、逆説的ですが、わたしたちは自分の無力を痛感いたします。
 4節です。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
人間が、わたしたちが、自分の力で何とかしようとするとき、わたしたちは無力です。しかし、その無力の闇の中に、イエス・キリストが現れてくださいます。「夜が明ける」とは、わたしたちの無力の夜が明けるということです。
 「それがイエスだとはわからなかった」とあります。わたしたちはイエス・キリストがここにおられても気づかないのです。逆に言えば、わたしたちが気づかないでもイエス・キリストはともにおられるのです。見えないけれども復活の主がともにおられるのです。そのことによって、わたしたちの夜は夜明けになるのです。
 5節です。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
 「食べものは、ありません」とあります。魚はとれない。食べ物もない。これは、わたしたちの現実です。わたしたちにはなにもありません。わたしたちには何もないと決めつけてしまっている面もあるでしょう。
 6節です。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
 「舟の右側に網を打ちなさい」というイエスの導きによって、魚がとれました。大漁でした。ここで先ほどの詩編23編5節が思い出されます。
 23:5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる
 詩編23編は、神さまという羊飼いの導きによって人生がゆたかになったことをうたっていますが、同じように、今日のヨハネによる福音書は、イエス・キリストの導きによって、弟子たちの人生は大漁となり、弟子たちの人生の食卓も整えられました。わたしたちは、お金持ちにならなくても、優秀にならなくても、イエス・キリストの導きによって、意味のある味わい深い人生を過ごせるのです。
 9節です。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
 「魚」、そして、「パン」とあります。今日の場面は、イエス・キリストが十字架で死んで復活したあとの場面ですが、先ほどお読みいたしましたように、イエス・キリストの十字架以前の話でも、イエス・キリストが草の原で人びととともにした食事もまたパンと魚によるものでした。
 11節です。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
 153匹とあります。一説によると地中海にはこれくらいの種類の魚がいるらしいです。つまり、これは、あらゆる人びとに神様の愛が伝えられていく、あらゆる人びとにイエス・キリストの福音が伝えられていく、神さまはどんな人でも愛することを意味しているようにも思われます。
 12節です。21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
 これは、イエス・キリストがここにいると確認しなくてもイエス・キリストがここにおられることを意味し、さらに言えば、わたしたちの目に見えなくてもイエス・キリストがここにおられることがあきらかにされているのです。イエス・キリストがここにいるとあえて言わなくても良い、目に見えなくても良い、イエス・キリストは空気のようにここにおられるということがあきらかにされているのです。
 13節です。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
 イエス・キリストはわたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。
 14節です。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 もう三度目とあります。週の初めの日の朝、その夕方、そして、その八日後、そして、今日。数え方によっては四度目のようにも思えます。
 いずれにせよ、今日の聖書の物語が伝えているメッセージのひとつは、わたしたちの人生を導いてくださり、また、必要なものを備えてくださるのは、神さまであり、イエス・キリストであるということです。
 目に見えないけれども、神さま、イエス・キリストはわたしたちとともにおられます。一晩中働いても魚一匹とれないようなときでも、食べるものがないようなときでも、神さま、イエス・キリストは目に見えないが、わたしたちとともにおられます。
 このことをインマヌエルと呼びます。インマヌエルとは神さまがともにおられるということです。イエス・キリストの復活はインマヌエル、神さまがわたしたちと共におられ、導いてくださる出来事でもあるのです。
 祈り:神さま、あなたは、イエス・キリストを羊飼いとして、わたしたちの人生を導き、わたしたちの人生に必要なものを備えてくださいます。心から感謝をいたします。神さま、導き手のないわたしたちの友をも導いて、その人生に必要なものを備えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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真ん中の平和 [使信]

2024年4月7日 ヨハネ20:19-29 「真ん中の平和」
 おはようございます。少し前にKYという言葉がよく使われました。これは20年くらいまえから、女子高生が使い始めたらしいです。KYのKは「空気」、Yは「読めない」を意味し、KYは「空気を読めない」ことを指すそうです。しかし、Yで「読めない」を意味するのは少し無理な気がします。「読む」ではなく「読めない」という否定形なら、YではなくYNとしてほしいなと思います。
 それはさておき、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないでしょうか。目に見えるものを越えて、目に見えるものの向こう側に、目に見えない愛を感じることの方が大切ではないでしょうか。
 何週間か前に、五感を越えた愛、つまり、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を越えた愛があるというお話をしました。
 しかし、わたしたちは、どうしても、五感に頼ってしまいます。日常生活はもちろん五感によって送っていますし、それは当然のことですが、孤独なとき、不安なとき、あるいは、怒っているとき、悲しいとき、それらをやわらげよう、それらを癒そうと、わたしたちは、やはり、五感に頼ってしまうのではないでしょうか。そういうとき、目に見えるものに頼ってしまうのではないでしょうか。
 今ここにいる目に見える誰かに、あるいは、今ここにいる声の届く誰かに、自分の気持ちをわかってもらいたいと思い、わかってもらおうとするのではないでしょうか。
 神さまが愛してくださるから大丈夫、神さまがともにいらしてくれるから大丈夫、というだけでは、わたしたちの心はおさまらなくて、どうしても、人との交わり、しかも、視覚や聴覚を通した交わり、具体的には誰かが横にいるとか、誰かの声が聞こえるとかいうことに、救いを求めてしまうのではないでしょうか。
 信頼できる友達が今はここにいなくてもあそこの街にいるというようなことを心に思うだけでは心が満たされず、今、そばにいてくれて、今、言葉を交わすことを求めてしまうのではないでしょうか。
 つまり、友達ではあるけれども、今目の前にはいない人、今会話をしていない人の友情、愛だけでは満足できなくて、今目に見えるもの、あるいは、今耳に聞こえるものを求めてしまうのではないでしょうか。
 今日の聖書の箇所からわたしが受けたメッセージは、見えない神さまの愛、五感を越えた神さまの存在、人間的な感覚では感じられなくても、今ここにおられる神さま、今ここにおられるイエス・キリストを信じるということです。信じるということも、じつは、人間的な五感を越えているということです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書20章19節です。20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 「週の初めの日の夕方」とあります。イエスは「週の初めの日の明け方」に復活し、その知らせは弟子たちにも届けられたはずでしたが、弟子たちはユダヤ人を「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。「ユダヤ人を」とありますが。しかし、弟子たちが恐れていたのは、「ユダヤ人」というよりも、目に見えるイエスはもうここにいない、今ここにいない、イエスが目に見えるかたちではここにはいない、ということを恐れていたのではないでしょうか。
 わたしたちも、目に見える形で誰かが今ここにはいないとき、恐れや寂しさや悲しみを感じます。小さな子どもは親の姿が自分の視界から消えてしまえば、「おかあさん、どこ」と泣きます。大切な家族が地上の旅を終えて、目に見える形ではここにいないとき、わたしたちは悲しみや寂しさを覚えます。そして、ときには、心に鍵をかけて、閉じこもってしまいます。
 けれども、そこに、予想もしなかったことが起こります。弟子たちは部屋の扉に鍵をかけていたのに、そこにイエス・キリストが入ってきて、真ん中に立ってくださるのです。
 わたしたちも、何かを恐れたり、何かを悲しんだりして、扉を開けないでいる時があります。けれども、イエス・キリストの方からその中に入ってきてくださり、わたしたちの心の真ん中に立ってくださいます。わたしたちの生活の真ん中に、人生の真ん中に立ってくださいます。
 「あなたがたに平和があるように」とイエス・キリストは言われました。平和とは、平安であり、安らぎであり、安心です。旧約聖書の言葉で言えばシャロームです。新約聖書の言葉で言えばエイレーネです。エイレーネ・・・英語のアイリーン、フランス語のイレーヌという名前もこのギリシャ語のエイレーネ、平和から来ているようです。日本で言えば、平和の和で、和子さんでしょうか。
 イエスはわたしたちの心の真ん中でこのように、平和があるように、シャロームがあるように、エイレーネがあるようにと言ってくださいます。もっと言えば、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださることが、平安、シャロームなのです。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、わたしたちのシャロームなのです。
 そして、イエス・キリストがわたしたちの心の中にいらしてくださることで、もうひとつ、すばらしいことが起こります。どんなことでしょうか。
 それは、わたしたちの愛する人びとも、そのとき、わたしたちの心の中にともにいてくれる、ということです。今生きている人も、あるいは、すでに地上の旅を終えた人も、わたしたちの心の中にいてくれるということです。復活したイエス・キリストがわたしたちの心の中にいて、わたしたちの平安、わたしたちのシャロームになってくださることで、わたしたちの大切な人びとも、地上の人も、天上の人も、目には見えなくても、わたしたちとともにいてくれるということです。
 20節です。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 「手とわき腹」とあります。これは、復活して、わたしたちの真ん中に現れてくださったイエス・キリストが、十字架につけられ、手に釘を打たれ、わき腹を槍でさされたあのイエス・キリストであることを意味します。わたしたちの苦しみを負ってくださり、傷つき倒れたイエス・キリストです。イエス・キリストの「手とわき腹」の傷は、イエス・キリストは、復活してもなおわたしたちの苦しみを負い続けくださることを意味します。「手とわき腹」は、イエス・キリストのわたしたちへの愛、いつくしみ、共感のしるしなのです。
 21節です。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 イエスは重ねて「わたしたちに平和、平安、安心、エイレーネ、シャローム」があるようにと言ってくださいます。イエス・キリストご自身がわたしたちの平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームであり、目に見えないイエス・キリストがわたしたちの心の中にいてくださるから、わたしたちの心の中には、平和、平安、安心、エイレーネ、シャロームは、じつは、たしかにあるのです。
 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とあります。神さまがイエス・キリストをわたしたちの心の平安、シャロームとして送ってくださったように、イエス・キリストもわたしたちを誰かの心の平安として送り出してくださるのです。わたしたちは誰の心のシャロームとなれるのでしょうか。
 22節です。20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 「彼らに息を吹きかけた」とあります。イエス・キリストの「息」とは、聖霊のことです。聖霊とは、神さまの息のことであり、神さまのいのちのことであり、神さまの愛のことであり、そして、神さまからの平安のことです。
 つまり、イエス・キリストがわたしたちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言ってくださることと、イエス・キリストがわたしたちに神さまの愛の息吹を吹きかけてくださることは、じつは同じことなのです。
 「あなたが赦せば、その罪は赦される」とあります。わたしたちが誰かを赦せば、わたしたちはその人に平安をもたらすのです。神さまのシャローム、神さまの愛をもたらすのです。
 24節です。20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」
 トマスは目に見える証拠を求めたのです。先ほど復活したイエス・キリストの「手とわき腹」はイエス・キリストがわたしたちを愛し苦しみを担ってくれたしるし、いつくしみのしるしと申し上げました。しかし、トマスはイエス・キリストの手の釘跡を愛のしるしではなく、「目に見える証拠」にしようとしたのです。
ここに、目に見える証拠、五感による証拠を求める人間の悲しさがあるのではないでしょうか。トマスが釘跡を指で触りたいというのは五感のうちの触感による確認をしたいということではないでしょうか。
 「神さまは本当におられるのです」という、熱心な信仰者の言葉はたしかにとてもすばらしいです。しかし、そこには、「その証拠があります」という補足は必要でしょうか。目に見える証拠なしに、神さまを信じることが、信仰ではないでしょうか。信仰とは、目に見える証拠によって事実を確認することではありません。信仰とは、目に見えない真実に信頼することなのです。
 26節です。20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 ふたたび、イエス・キリストが、閉ざされた部屋の中に入って来られました。今度は、閉ざされたトマスの心の中にも入って来られました。イエス・キリストは、ふたたび「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださいました。トマスは証拠を求めましたが、じつは、そんな証拠などは必要なかったのです。証拠などなくても、イエス・キリストの方から、トマスの心の中に入ってきてくださったのです。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とあります。目に見えないから信じないというのではなく、目に見えないもの、けれども、たしかにここに存在するもの、大切なものを信じなさい、というのです。「目に見えないけれどもたしかにいる大切なもの」とは、神さまであり、復活されたイエス・キリストであり、わたしたちの愛する人びとのことです。
 今日のお話の最初に、わたしたちは、空気を読む、その場の空気を気にすることより、愛を読む、愛を感じることの方が大事ではないか、目に見えるものを越えて、愛を感じることの方が大切ではないか、と申し上げました。
 愛を感じるとは、五感を越えて、見えるとか聞こえるとかいう人間の感覚を越えて、愛を感じることです。むろん、見えるとか聞こえるとかいった人間の感覚によって、愛を感じることも、それが過度にならないのであれば、否定されるべきではないでしょう。
 今目の前にいる目に見える人とのあたたかな交わり、そのやさしさの中で、神さまの愛を感じることもとても大切なことです。ただ、今目の前にその人がいることを求めすぎると、わたしたちは苦しくなってしまいます。目に見える愛、人間の感覚による愛は、求め過ぎるのではなく、自然に、それがあるところで感じるのが良いのではないでしょうか。
 わたしたちは、あるいは、桜の花や、緑の木立や、青い空のような自然を目の前にしたり、美しい光景を観たり、風の音や鳥のさえずりを聞いたりすることで、神さまの愛を感じることもあります。
 けれども、こうしたものが感じられない時でも、つまり、人の争いや孤独のただなかにいるときでも、あるいは、緑や青や赤のいろどりのない灰色の荒野にいるときでも、わたしたちは神さまの愛を感じたいのです。
 それは、どうすれば、できるのでしょうか。それは、わたしたちの心の奥底に神さまの言葉を秘めることだと思います。心の真ん中に一編の歌を抱くことだと思います。
 わたしたちの心の中に「いつくしみ深き友なるイエスは」という歌があれば、たとえ、わたしたちが人間の愛や自然の美しさを感じられない時でも、わたしたちは「いつくしみ深き友なるイエスを」という歌を心の真ん中でかなでることができるのです。そうすれば、そこにイエス・キリストがおられ、神さまの愛があるのです。
 「あなたがたに平和があるように」「世の終わりまでわたしはあなたがたとともにいる」というイエス・キリストの言葉が、わたしたちの心の奥底にあれば、目に見えなくても、五感によらなくても、神さまの愛、イエス・キリストの愛は、いつもわたしたちとともにあるのです。
 イエス・キリストがわたしたちの心の真ん中に入ってきてくださいました。目に見えない平安、目に見えないシャロームが、わたしたちの真ん中に、じつはいらしてくださるのです。たしかにいらしてくださるのです。
 祈り:神さま、わたしたちは目に見えるもの、耳に聞こえるもの、指で触れられるものを求めてしまいます。証拠として求めてしまいます。けれども、神さま、イエス・キリストは、わたしたち人間の五感を越えて、わたしたちの真ん中にきてくださり、わたしたちの平和、わたしたちのシャロームとなってくださいました。心より感謝いたします。神さま、愛を、平和を、平安を求めている友がいます。あなたが友の心の真ん中を訪ねて、友の平安になってください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024-03-31 [使信]

2024年3月31日 マタイ28:1-10 「起き上がる」
 おはようございます。そして、イースターおめでとうございます。さて、わたしはどうして、使信の最初に「おはようございます」と言うのでしょうか。そして、今日はどうして「イースターおめでとうございます」と言うのでしょうか。イースターの何がめでたいこと、愛すべきこと、喜ぶべきことなのでしょうか。
 今日の聖書には、イエスは「復活なさったのだ」「あの方は死者の中から復活された」とありますが、もともとの言葉の意味になるべく近い日本語で言えば、これは、「起こされた」「寝ている状態、横たわっている状態から起き上がらされた」ということになるそうです。
 「起こされる」、これは、わたしたちの人生で言えば、たとえば、病気からの回復、あるいは、苦境からの脱出、あるいは挫折からの再起ということに近いかもしれません。
 わたしたちの世の中は挫折に満ちています。イッペイさんもショウヘイさんもナオミさんもぜひ挫折から再起してほしいと願います。
 朝ドラの「ブギウギ」が終わりました。あの主人公にもさまざまな挫折がありました。最初に受験した音楽学校には不合格になりました。両親はじつは育ての親であることを知ってしまいました。愛する弟、戦争で死ぬのが怖いと言った弟が戦死しました。戦争で歌えなくなりました。愛し合って結ばれた夫が病気で死んでしまいました。けれども、彼女は、これらの挫折からそのたびに起き上がりました。敗戦後、笠置(かさぎ)シズ子さんや美空ひばりさんの歌によって、励まされた、生きる元気をもらった、という人も、すくなくないのではないでしょうか。
 大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部、ドラマでは、いまのところ、「まひろ」と呼ばれていますが、彼女は藤原道長との別れから再起できるのでしょうか・・・できるに決まっていますが、どのように再起するのでしょうか。
 イエスも挫折をしました。イエスは、神の国を宣べ伝え、病人を癒し、斥けられた人びとを愛しましたが、おそらくは、それゆえに、祭司長、律法学者、宗教支配者によって殺そうと計画されました。そして、ユダから売られます、ペトロに知らないと言われます。弟子たちが逃げていきます。
 最高法院で死刑の判決を受けました。ピラトによって死刑の許可がくだされました。ローマ兵や人びとから辱められました。十字架につけられました。そこで、死にました。暗い墓の中に葬り去れました。イエスは倒されたのです。イエスの死は挫折でもありました。イエスは殺され、倒れ、地面に横たえられたのです。
 けれども、死んで大地に身を横たえたイエスを神さまは起き上がらせました。神さまはイエスを起こしました。イエス・キリストは、ただ死んで復活したのではなく、挫折の死から復活したのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書28章1節です。28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
 「安息日」とは、金曜の日没から土曜日の日没のことです。そして、「週の初めの日」とは、土曜日の日没から日曜日の日没ということになりますが、「週の初めの日の明け方」とありますから、これは朝の話、つまり、日曜日の朝のお話です。今日と同じ日曜日の朝のことです。教会が日曜日の朝に礼拝をするのは、これにちなんでのことです。日曜日はお出かけしたいから、朝のうちに礼拝を済ませておこう、ということではありません。
 「墓を見に行った」とあります。マグダラのマリアたちは、イエスは死んだまま墓に横たわっていると考えていたのです。イエスは挫折の死の状態のままだと思っていたのです。ここには、あきらめが感じられます。イエスの死は、イエスについて生きて来た彼女たち自身が挫折することでもあったのです。
 けれども、挫折とあきらめをひっくり返すような出来事が生じます。28章2節です。28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
天使が「石をわきへ転がした」とあります。イエスは、挫折の死により倒れ、暗い墓に寝かされ、そこに閉じ込められていました。けれども、「石をわきへ転がす」とは、イエスが閉じ込められた空間の扉を開くことを意味します。そのことは、さらに、倒れて寝ているイエスを起き上がらせ、明るい光の外へ連れ出しました。「その上にすわった」とあります。天使はイエスを閉じ込めた石を制覇したのです。天使はイエスを閉じ込めた闇を打ち破ったのです。
 この天使がしたことは、そのまま神さまがイエスにしたことでありましょう。挫折して、死んで、倒れ、闇に閉じ込められたイエスを、神さまは起き上がらせ、扉を開け、光の中に導いたのです。
5節です。28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
 「恐れることはない」とあります。これは、この不思議な出来事に恐れることはない。ということだけでなく、自分たちの師であるイエスが挫折の死を遂げてもう会えない、もうここにはいない、自分たちには助けも支えもない、と恐れる必要はない、ということでもありましょう。
 「あの方はここにはおられない」とあります。イエスは挫折の死によって倒れたままでいるのではありません。イエス・キリストは墓に閉じ込められたままではありません。あの方は起き上がった、あの方は起き上がって、光に満ちあふれた広い世界へと出て行かれた、と天使は言うのです。天使はイエス・キリストは「復活なさった」と言います。復活とは、挫折して一度は死んだ者が、しかし、起き上がって、闇にとどまらず、闇から光へと出て行くことなのです。
 7節です。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」「死者の中から復活された」。
 イエス・キリストは挫折の死から起き上がりました。神さまが起こしたのです。イエス・キリストは、挫折の死から復活しました。
 皆さまには何度もお話ししたことで恐縮ですが、これしか話のネタがないので、今日もお話しいたします。わたしは、数年前に20年近く務めた前の職場を辞めることになりました。このことは大きな挫折でした。
 あれはひとつの死でした。あんなに打ちのめされたことはありませんでした。先週、イエスを人びとが取り囲み理不尽に責め立てたという話がありましたが、そのときのわたしもそんな状態を痛感していました。
 しかし、数年経った今、数年前とはまた違う人生の展開を与えられています。何よりも、まぶね教会で日々有意義に過ごさせていただいておりますし、思いがけなく、いや、これは嘘で、わたしから「わたしにできる仕事があれば」と売り込んだのですが、その結果、農伝で授業を受け持ったり、また、神学生とともに歩むことができたり、しっかりと、起き上がって歩いています。
 イエス・キリストは「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」とあります。「あなたがた」とは、弟子たちのことです。弟子たちは逃げました。しかし逃げなかった女性たちが弟子たちに「イエス・キリストはあなたがたより先にガリラヤに行かれる」と告げるのです。
 ガリラヤは弟子たちのふるさとです。弟子たちもイエス・キリストとともにガリラヤからエルサレムに出て来て挫折したのです。これは、日本で言えば、地方から東京に出て来て挫折したみたいなものかもしれません。その弟子たちがガリラヤにもどることは、挫折した弟子たちの再起を意味するのではないでしょうか。そして、イエス・キリストがそのガリラヤに「先に行く」とは、イエスが弟子たちに先立って、再起し、それによって、弟子たちも再起する、ということではないでしょうか。
わたしたちは人生においてたびたび挫折しますが、この挫折からの再起は、イエス・キリストの再起、イエス・キリストの復活によって導かれます。イエス・キリストの復活によって、わたしたちは人生における挫折からの復活が可能になります。
 イエスが挫折の死から復活したという物語は、わたしたちも挫折しても立ち上がることができることを意味します。挫折したわたしたちを神さまが立ち上がらせてくれることを意味します。暗い墓に閉じ込められたイエス・キリストを神さまが起き上がらせ、光へと導いたように、わたしたちが闇の中で倒れても、神さまが起こして下さり、光へと進ませてくださいます。
 9節です。28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
 復活したイエス・キリストは「行く手に立っていて、おはよう」と言われました。わたしたちは挫折から起き上がってもどうしたらよいのか、不安です。この先やっていけるのか不安です。けれども、わたしたちのこの先、わたしたちの行く手には、イエス・キリストが立っておられるのです。イエス・キリストがわたしたちの行く手に、先に行って待っていてくださるのです。
 そして、「おはよう」と言ってくださるのです。わたしの使信やメッセージは、「おはようございます」で始まります。これは、挫折の死から起き上がったイエス・キリストが「おはよう」と言ったことを、皆さんに思い出していただくためです。つまりは、イエスは復活した、起き上がったことを思い出していただくためです。
 10節です。28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 「ガリラヤへ行くように」とあります。これは、神さまはあなたたちを挫折の死から起き上がらせてくださるのだから、あなたたちも起き上がって、前に進もうではないか、というメッセージではないでしょうか。
 神さまがわたしたちを起き上がらせてくださいます。わたしたちも起き上がって、光の中へと歩みましょう。
 祈り:神さま、あなたは、挫折して死に、暗い墓に閉じ込められたイエス・キリストを起き上がらせてくださいました。そして、わたしたちも、人生において、何度倒れても、あなたは、起き上がらせてくださいます。ですから、わたしたちは、死をも恐れることはありません。あなたが起き上がらせてくださいます。神さま、今、道に倒れている友を、どうぞ、起き上がらせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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イエスの受難 [使信]

2024年3月24日 ヨハネ19:13-30 「イエスの受難」

おはようございます。イエス・キリストはわたしたちにとってどのような存在、どのようなお方なのでしょうか。「イエス・キリスト」という言葉には、「キリストであるイエス、救い主であるイエス」という意味、あるいは、「イエスはキリストである、イエスは救い主である」という意味があります。イエス・キリストは、わたしたちにとって、どのような意味でキリストであり、どのような意味でわたしたちの救い主なのでしょうか。

いろいろな考え方があります。たとえば、イエス・キリストは、病気の人、罪人と呼ばれる人たちを大事にしました。つまり、当事のユダヤの宗教権力者から虐げられていた人たち、弱い立場にいた人たちを大切にしました。

その意味では、イエス・キリストは、わたしたちが、隣人、とくに、弱い立場にある人を愛し、人を虐げる人たちに抗議を示す生き方をしようとするときのリーダー、お手本であるとも言えるでしょう。

あるいは、イエス・キリストは、わたしたちに、神さまを愛すること、そして、隣人を愛すること、とくに、もっとも小さな者を愛することが、わたしたちが生きる上でいかに大切であるかを教えてくれました。それは、モーセが神さまからの十の戒め、十戒をイスラエルの民に伝えた姿を思い出させます。この意味でも、イエスはわたしたちのキリストであると言えるかもしれません。

 あるいは、イエス・キリストは、「神の国は近づいた」と宣言し、種のたとえなどによって神の国、神さまの愛のお治めがゆたかに育つことを教えてくれました。また、インマヌエル、神さまがわたしたちとともにいますことを教えてくれました。さらに言えば、イエス・キリストは、インマヌエルそのもの、神さまがわたしたちとともにいらしてくださる出来事そのものです。この意味でも、イエスはわたしたちのキリスト、救い主でありましょう。

今は受難節で、わたしたちはイエス・キリストの生涯をしのんでいますが、わたしにとっては、「救い主」「神の子」と呼ばれる人がこんなに苦しめられ、こんなに苦しんだことが、ある意味、わたしの救いとなりました。わたしもわたしなりに、人生、苦しんで来ましたが、「救い主」「神の子」と呼ばれるお方も苦しまれた、いや、わたしなどよりはるかに苦しまれた、と知り、わたしは、喜んだ、というよりは、救われた思いがしました。この意味で、イエス・キリストはわたしのキリスト、救い主であるのです。

イエス・キリストは、十字架において、わたしたちとともに苦しんでくださいました。イエス・キリストはその苦しみにおいて、わたしたちの苦しみを背負ってくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主です。

さらに、イエス・キリストは、十字架において、わたしたちの罪を背負ってくださいました。神さまから離れ、隣人から離れる、神さまを信頼しきれず、隣人を愛しきれない、いつも、自分は自分はと言い続ける、わたしたちのこの罪によって、わたしたちのこの罪を背負い、イエス・キリストは十字架についてくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主なのです。

ただし、わたしたちの苦しみとわたしたちの罪を安易に結びつけるべきではないでしょう。わたしたちが病気やその他のことで苦しんでいるのは何かの罪の罰を受けていると考えるべきではありませんし、誰かが苦しんでいるのを見て、ああ、あれはあんなことをした当然の報いだ、などと考えるべきではありません。

来週の日曜日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターです。そして、今週は受難週、イエス・キリストの十字架の苦しみをしっかりと見つめ、かみしめ、心に深く想う一週間です。

今日はイエス・キリストの受難物語をヨハネによる福音書から読んでいただきましたが、皆さん、今週は、ご自宅で、ぜひ、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の受難物語、ユダの裏切り、最後の晩餐あたりから十字架のあたりまでを読んで、イエス・キリストの十字架の苦しみをしのんでみてください。

今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書19章15節です。19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。

「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。イエス・キリストは、多勢に無勢で、自分を取り囲む大勢から激しい言葉、残酷な言葉、罵声を浴びせられています。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」などという、彼らのその言葉に正当性はありません。

彼らは、ただ自分の恨みや怒りをそのまま言葉にし、多勢の力でそれがあたかも正当であるかのように装い、自分たちは正しいと言い張ります。けれども、この言葉を浴びせられる方からすれば、こんな理不尽なこと、こんなでたらめなことはありません。彼らのこの言葉とこの行為は、相手の命、または、
それに匹敵するものを、奪いとります。イエス・キリストは、この苦しみを受けたのです。

彼らはまた「皇帝のほかに王はありません」と言います。これは、イエス・キリストに直接向けられた言葉ではありませんが、これも理不尽な言葉です。本来、ユダヤ人にとって神さまだけが王でした。人間の王はいなかったのです。しかし、ダビデ王、ソロモン王があらわれ、イエスの時代には、ヘロデ家の王がいました。そして、いまや、人びとはイエス・キリストの前で、ローマ皇帝が王だと言いだします。

これはイエス・キリストにとってなんと苦しいことでしょうか。イエス・キリストは「神の国」を宣べ伝えました。「神の国が来た」とは、神さまこそがわたしたちのまことの王です、という意味です。これを伝えたイエス・キリストにとって、「皇帝のほかに王はありません」という人びとの言葉は、神さまこそがまことの王であることを否定する耐えがたい言葉ではなかったでしょうか。

16節です。19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

ローマ帝国からユダヤに派遣されてきた総督ピラトは、イエスを十字架刑にすることを認めました。「引き渡した」とあります。これでは、イエスがモノのようではありませんか。イエスはモノのように、イエスのいのちはモノのように、そして、ピラトにはその生殺与奪の権があるかのように、イエスは引き渡されたのです。自分の命がモノのように、右から左へと運ばれるモノのように扱われる苦しみをイエス・キリストは味わったのです。

 17節です。19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

「自ら十字架を背負い」とあります。十字架は死刑台です。自分がそこで殺されることになる死刑台を自ら運ばせられるのです。イエスはこの苦しみを背負わされました。けれども、イエスはその背負わされた苦しみを、あえて自ら背負いなおしたのかもしれません。人から強いられたものであったけれども、あえて、それをご自分で引き受けられたのです。わたしたちも人から背負わされたものにはNOと言って降ろす生き方も非常に大切ですが、それがどうしても避けることのできないものであれば、あえてそれを背負う生き方を考えるべき場合もあるのではないでしょうか。

18節です。19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
十字架は死刑です。イエスは死刑にされました。イエス・キリストは死刑にされることの苦しみを受けました。無実であるにもかかわらず、犯罪者とともに死刑にされました。けれども、それは、イエス・キリストはご自分の苦しみだけでなく、死刑にされる犯罪者の苦しみもともになさったことを意味するのではないでしょうか。

19節です。「19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

「ユダヤ人の王」とあります。これは、むろん、王への敬意ではなく、はんたいにこれは罪状書です。
これまでも、人びとはイエス・キリストのことを王と呼んできました。ある人は、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言って、イエス・キリストを称えました。ある人びとは、イエス・キリストを政治の上での王に仕立て上げようとしましたが、イエス・キリストはそれから逃れました。

イエス・キリストがエルサレムの都に入ってくるとき、人びとは、「これはイスラエルの王だ」と言って大歓迎しました。

しかし、あるとき、人びとは、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていました」と訴えました。つまり、イエス・キリストは自分は王であるなどと不遜なことを言ったと言うのです。

 イエス・キリストは「神の国が来た」「神さまこそがまことの王だ」と人びとに教えましたが、皮肉にも、人びとは、イエス・キリストは、自らユダヤ人の王であると名乗ったという罪状を付したのです。

23節です。19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

これは旧約聖書の詩編22編からの引用です。旧約聖書の詩編22編2節から読んでみましょう。
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

この詩編22編の言葉はイエスの十字架と深くつながっています。今お読みしたように、詩編22編には「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」とありますが、イエス・キリストも十字架上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、何故、われを見捨てたもう」と叫ばれました。

詩編22編には今お読みしたように「主に頼んで救ってもらうがよい」とありましたが、マタイによる福音書によりますと、イエス・キリストも人びとから、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」とののしられます。

 詩編22編はさらにつづきます。

22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

 今の詩編の最後に「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」とありますが、今日のヨハネによる福音書に、「「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである」とあるのは、この詩編22編のことです。

そして、詩編22編とあわせて読みますと、ヨハネ福音書で、兵士たちがイエス・キリストの服を分け、くじ引きにもしたということは、イエス・キリストを犬のように取り囲み、群がって、猛獣のように手足を砕いたということになります。なんとも残虐なことです。
 けれども、これは、わたしたち人間の罪の姿でもないでしょうか。わたしたちは、人を取り囲み、人を食い物にしていないでしょうか。人を利用していないでしょうか。人を押さえつけていないでしょうか。人を苦しめていないでしょうか。

わたしたちのこの罪の姿がイエス・キリストを十字架に追いやったのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストにわたしたちのこの罪を背負わせましたが、イエス・キリストはそれをあえて背負ってくださったのではないでしょうか。
 28節です。19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「すべてのことが今や成し遂げられた」とあります。これには、「もう終わりだ、わたしは今や死ぬ」という意味と、もう一つは、「イエス・キリストはなすべきことをすべてなした」という意味があると考えられます。イエス・キリストがなすべきこと、それは、つまり、わたしたちの苦しみと罪を背負ってくださることです。

「渇く」とあります。これも先ほどの詩編22編につながっています。
詩編22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
 つまり、「渇く」とは、ただ喉が渇いたということではなく、たえがたい苦難、助けてくれる人がいないことを意味するのです。取り囲まれる。「渇く」とは、迫られる。牙をむいて襲い掛かられる。骨がくだかれ、心が蠟のように溶ける。塵と死の中に打ち捨てられることを意味するのです。
 29節です。19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

「頭を垂れて息を引き取られた」とあります。イエス・キリストは十字架上でこれだけ苦しんで、十字架上で息を引き取られました。

イエス・キリストのこの苦しみ、十字架、死は、わたしたちにとってどのような意味があるのでしょうか。これをかみしめながら、この一週間を過ごしましょう。

祈り:神さま、イエス・キリストは、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」とののしられ、神さまこそが王であると教えて来たのに自分が王を名乗っていると中傷され、十字架につけられ、服を引き裂かれ、取り囲まれ、骨を砕かれ、心を蝋のように溶かされてしまいました。なんという苦しみしょうか。イエス・キリストのこの十字架の前でわたしたちは無実でしょうか。わたしたちは、このイエス・キリストから何を受け取るのでしょうか。神さま、わたしたちを誠実で深い祈りへとお導きください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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イエスがその足でしてくださったこと [使信]

使信 2024年3月10日 
 「イエスがその足でしてくださったこと」  ヨハネ12:1-8
 おはようございます。今日の聖書には香油、良い香りのする油の話が出てきますが、わたしは、香、香りにはあまり縁がありません。それどころか、香りで始まる小説、世界的な名作と呼ばれる小説に挫折したことがあります。
 それは、プルーストの「失われた時を求めて」という作品です。その冒頭に、「私は無意識に、紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌごと、ひと匙のお茶をすくって口に持っていった」とあります。そして、紅茶に浸したマドレーヌの香りによって、幼い頃の記憶が突然呼び起こされた、というのです。
 20世紀を代表する名作小説と言われていますが、ここから先の文章がとても難しいのです。センテンスが長いし、何が主語なのか、何が書かれているのか、意味がさっぱりわかりませんでした。それでも、世界の名作だからと思い、なんとか100頁位までわからないまま読み続けましたが、意味がわからないのに文字を読み続ける、その苦痛に耐えきれなくなり、ついに、ごみ箱に捨てました。千円もしない文庫本でよかったです。
 たしかに、元気を出させてくれる香りがあると思います。華やかな気持ちにしてくれる香りもあると思います。はんたいに、気持ちを落ち着かせてくれる香りもあります。わたしも線香の香りは嫌いではありません。
 今日の聖書で、マリアはなぜ、ナルドの香油と呼ばれる高価な香油をイエスの足に塗ったのでしょうか。さらには、それを自分の長い髪で拭ったのでしょうか。マリアはなぜ、人から驚かれたり、もったいないと言われたりするような、そのような行為をしたのでしょうか。
 それは、イエスがマリアにこれまで何かをしてくれたからなのでしょうか。そうであれば、イエスはマリアにこれまでどんなことをしてくれたのでしょうか。
 あるいは、今日の箇所は、イエスの死が近づいている、という文脈にあります。イエスはマリアの兄弟ラザロを生き返らせました。それを目撃した人びとはイエスを信じるようになりました。けれども、イエスを信じる人びとが増え、大勢の人びとの群れができると、暴動が起きるのではないかとローマ帝国は警戒し、ユダヤを滅ぼそうとするかもしれない、とファリサイ派や祭司長たちは恐れます。そして、そうならないうちにイエスを殺してしまおう、イエスの居場所を探して、イエスを逮捕しよう、ということになるのです。
 今日の聖書の話は、過越し祭の六日前に起こったとあります。ユダヤでは過越し祭では、犠牲の羊が神殿にささげられます。つまり、死の香りがし始めているのです。イエス自身、マリアが高価な香油を塗ってくれたのは、「わたしの葬りの日のために」と言います。このようにイエスの死がひしひしと近づく中で、マリアはどのような思いで、イエスの足に高価な香油を塗ったのでしょうか。イエスとマリアの間にはこれまでどのようなことがあったのでしょうか。
 今日の聖書の箇所に至るまでの、イエスとマリアの関係を振り返ってみましょう。エルサレムに近いベタニアというところに、マリアは姉妹のマルタ、そして、兄弟のラザロとともに住んでいました。ラザロはイエスに愛されていた者だと言われていますが、病気にかかってしまいます。
 マリアとマルタはそれを知らせにイエスのもとに人を遣わします。「兄弟ラザロの病気が重いのです、死にかけています、助けてください」、ということなのではないでしょうか。けれども、イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言います。
 それでも、イエスはラザロのもとに向かいます。先日もイエスは石で撃ち殺されるところだったのに、エルサレムにはそのような人々が待っていたのに、ベタニアはそのエルサレムに近いのに、イエスはラザロのもとに駆けつけるのです。
 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言って、イエスは死の危機にあるラザロのもとに駆けつけるのです。このイエスの心は、死が近づいているイエスの足に香油を塗ってイエスに仕えたマリアの心に似ているのかもしれません。
 駆けつけてくれたイエスをマルタは家の外に迎えに行きます。けれども、マリアは家の中で待っています。今日はヨハネによる福音書を読んでいますが、ルカによる福音書にも、このマリアとマルタのお話がでてきます。そこでは、マルタはイエスのもてなしで忙しく動き回りますが、マリアはイエスの足元にじっとすわって、イエスの話に耳を傾けます。ルカによる福音書における活動的なマルタと静かなマリアの姿が、今日のヨハネによる福音書にもうかがえるのかもしれません。
 ヨハネによる福音書ですと、外に出てイエスを待っていたマルタに呼ばれて、家の中で静かにしていたマリアもようやく立ち上がりイエスを迎えます。マリアはイエスに会うと、足元にひれ伏しました。これは、今日の聖書の箇所より前の話です。けれども、その中で、マリアがイエスの足元にひれ伏したとあるのは、今日のお話でも、マリアがイエスの足元にしゃがんでイエスの足に香油を塗ったことにどこかで通じているのかもしれません。
ラザロが死に瀕している、さらには、死んでしまったと聞いて駆けつけてくれたイエスにマリアは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。
 けれども、イエスはほんとうにここにいなかったのでしょうか。死にゆくラザロ、そして、その傍らに立つマリアとマルタと一緒に、イエスはいなかったのでしょうか。じつは、目に見えなくても、イエスはそこにいたのではないでしょうか。マリアはそれをわかっていなかったのではないでしょうか。
 マリアは涙を流します。すると、イエスも涙を流しました。ともに泣いてくれる人がいるとき、わたしたちの悲しみはさらに深まりますが、深まりつつも癒されて行きます。
 兄弟ラザロをなくしたマリアとマルタのところにイエスがその足で駆けつけたのは、このようにともに涙を流すためではなかったでしょうか。イエスの足は、悲しむ者とともに悲しむイエスをそこに運ぶためにあったのではないでしょうか。
 イエスがその足でマリアとマルタのところに駆けつけたのには、もう一つの理由があるように思います。それは、死は終わりではない、ということを告げるためではないでしょうか。ラザロは死んでしまったけれども、そのことで、マリアとマルタとのつながりは終わってしまうのではない、ということを告げるために、イエスはその足でふたりのもとに駆けつけたのではないでしょうか。
 「あなたの兄弟ラザロは復活する」「わたしは復活である、命である」とイエスは言ったのですが、この言葉は、ラザロは死んでしまったけれども、イエスが、ラザロのいのちとマリアとマルタのいのちをつなげていてくださることを意味しているのではないでしょうか。
 本日の聖書の箇所で、マリアはイエスの足に高価なナルドの香油を塗りますが、イエスのその足は、マリアにとって、悲しむ自分のところに駆けつけてくれ、ともに涙を流してくれ、そして、死は終わりではない、ラザロとのいのちのつながりはこれからも続くことを教えてくれたイエスの足だったのではないでしょうか。
 イエスはその生涯において、その足で、悲しむ人、苦しむ人、斥けられた人のところに赴きました。イエスはガリラヤの貧しい庶民のところに赴き、神さまの国がやって来たよ、神さまの愛がわたしたちを治めてくれるよと、慰めの言葉を語りかけたのです。
 旧約聖書のイザヤ書にこのような言葉があります。52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。
 「あなたの神は王となられた」というのは、神さまこそが王となってわたしたちを治めてくださる、愛で治めてくださる、だから、安心していいですよ、平安でいてください、というメッセージですから、「神の国が近づいた」というイエスのメッセージと同じなのです。
 そして、イザヤはそのような良い知らせ、つまり、福音を伝える人の足は美しい、と言うのです。イエスの足もそのように美しい足だったのではないでしょうか。
 そのような足の持ち主であるイエスがまもなく死をむかえようとしています。マリアはどんな思いでしょうか。どんな思いでその足に香油を塗ったのでしょうか。
 大切な人が天に召されたとき、わたしたちは悲しみます。遺族の悲しみを思います。同時に、天に召された人に感謝します。召された人の人生の思いをふりかえり、それを少しでもわかちあおう、受け継ごうとするのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ラザロが死んでイエスがマリアとマルタのところに駆けつけたというのは、今日の聖書より少し前のお話で、今日の聖書は、その続きになるのです。
 ヨハネによる福音書12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
 過越しの祭りが近づき、この祭りで神殿にささげられる羊のように、死にゆくことを前にしたイエスの足に、マリアは純粋で高価なナルドの香油を塗ります。一リトラとはおよそ330グラムくらいということですから、マリアはコップ一杯と少しの香油を心を込めてイエスの足に注いで塗ったのでしょう。
 純粋で非常に高価な香油とありますが、これは、マリアの心、イエスに仕えるマリアの心も、純粋で高価、価高い、神さまの眼からは価高いことを意味しているのではないでしょうか。マリアは、イエスの足に、自分のもとに駆けつけて涙を流し、死は終わりではないことを教えてくれたイエスの足に高価な香油を塗ることで、イエスの死を悲しみ、同時に、イエスの生涯に感謝し、そして、イエスの心を少しでもわかちあおう、引きつごうとしたのではないでしょうか。
 「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。イエスを思うマリアの美しくも悲しい心と、マリアと一緒に涙を流したイエスの悲しくも美しい心で、その家がいっぱいになったのではないでしょうか。
 4節です。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
 ユダはこんなことを言いましたが、貧しい人びとのことなど思っていませんでした。反対に、イエスがその足でなさった愛のわざを思い起こし、その足に香油を塗ったマリアは、イエスの心をわかちあい、イエスの心をひきついで、自分もその足で、これからは目に見えないイエスとともに、貧しい人びとのところに、イエスが目に見えなくなっても訪ね続ける貧しい人々のところに足を運ぶのではないでしょうか。
 わたしたちもそうでありたいと思います。受難節です。イエス・キリストは十字架への道を歩みつつありますが、わたしたちは、イエス・キリストがわたしたちにしてくださったことに感謝しつつ、イエス・キリストのお心をマリアとともにわかちあい、ひきつぎ、イエス・キリストとともに歩む者でありたいと願います。
 祈り:神さま、イエス・キリストはその足でわたしたちのもとに、悲しむ者のもとに、苦しむ者のもとに、平安でない者のもとに、貧しい者のもとに、駆けつけてくださいます。わたしたちが、その足をマリアのように大切に思うことができますように。そして、わたしたちがこの足でイエス・キリストとともに心傷める者のもとに赴くことができますように、どうぞお導きください。わたしたちが自分の十字架を背負って、イエス・キリストにともに歩んでいただけますように。今もっとも苦しんでいる友のもとにイエス・キリストの足音が聞こえますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。



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物質と霊 [使信]

使信 2024年3月3日  「物質と霊」  ヨハネ6:60-71
 おはようございます。今日は、NHKの朝ドラではなく、民放のドラマのお話をしたいと思います。「君が心をくれたから」というドラマです。二十代の男女の物語ですが、女の子の五感が徐々に失われて行くというお話です。あるとき、男の子が交通事故で死にかけるのですが、そこに死の世界の人があらわれて、女の子が五感を差し出すのなら、男の子のいのちは助かると言うのです。
 女の子は、男の子のいのちを助けるために、それを受け入れます。そうやって男の子は助かりますが、女の子は、味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚の五感をひとつずつ失っていきます。ドラマでは、味覚、嗅覚、触覚はすでに失われ、今は、視覚を失いつつある状態です。
 では、この女の子が五感すべてを失ったときどうなるのか、ということが、視聴者の間で話題になり、インターネットでも、あれこれ言われています。わたしは、五感が失われても、第六感があった、ということになるのではないか、と予想しています。
 第六感と言っても、いわゆる「感」、「感」が働く、というときの「感」ではなくて、人間には、五感以外に、愛がある、というお話になるのではないか、あるいは、そういう可能性があるのではないか、と思っています。
 わたしたちは愛を感じます。愛はどこで感じるのでしょうか。味覚ではありません。嗅覚でもありません。触覚でも、視覚でも、聴覚でもありません。もちろん、おいしい料理から作った人の愛情を感じたり、手を握ったり抱きしめられたりすることでも、あるいはその人の姿を見たり、その人の声を聴いたりすることで、愛を感じることもあると思いますが、愛を感じるのはそれらの感覚のひとつに限定されるのではありません。
 塩味が利いているかどうかは味覚でないとわかりませんが、愛のスパイスが利いているかどうかは、どれか一つの感覚に限定されるのではありませんし、むしろ、たとえば視覚や聴覚によって愛を感じたように思われても、じつは、視覚や嗅覚は補助手段であって、ほんとうは、それ以外のところで、わたしたちは愛を感じているのではないでしょうか。
 では、わたしたちは愛をどこで感じるのでしょうか。愛を感じるのは、やはり、愛ではないでしょうか。聖書では、霊を感じるのは霊である、とあります。コリントの信徒への手紙一でパウロは、霊的なことを説明するのは霊的なものだと述べています。
 つまり、わたしたちが神さまのことを感じられるのは、神さまの霊がわたしたちの中に宿ってくださっていて、わたしたちの中にいてくださる神さまの霊、聖霊が、聖霊なる神さまをわたしたちに感じさせてくださる、と言うのです。
 この場合の霊は、神さまの霊のことであり、守護霊やいわゆる霊感などとはまったく関係ありません。わたしたちの中に宿ってくださる神さまの霊が、わたしたちと世界全体を包み込むように働きかけてくださる神さまの霊を感知するのです。
 ところで、パウロは、ローマの信徒への手紙で、愛は霊によって与えられる、つまり、愛は神さまという霊からわたしたちに与えられる、と言うのです。すなわち、霊と愛は同質なのです。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう言っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」。つまり、霊からは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和が生まれてくると。ここに並べられている霊の実りを見ても、霊が愛と深くつながっていることがわかるでしょう。
 パウロにとって、霊の反対と言うか、霊と比べられるべきものは肉です。わたしたちの肉体、わたしたち人間の思い、神さまのことを思わないわたしたち人間の行動や想いが肉です。この肉からは、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみが生じると言います。つまり、肉、あるいは、肉の思いは、愛とは正反対、そして、霊とは正反対であると言うのです。
 創世記2章にはこうあります。2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
 わたしたち人間は土、つまり、物質でできています。しかし、神さまはそこに「命の息」を吹き入れてくださいます。この「命の息」とは、「命の息」というくらいですから、生命のことでもありますが、これは同時に、神さまの愛、神さまの霊のことでもありましょう。
 わたしたち人間は、土、肉、カルシウム、タンパク質、脂肪、水分という物質からできていますが、神さまはそこに霊を吹き込んでくださったのです。わたしたちの肉体という物質の中に神さまの霊が吹き込まれている・・・ここに今日の説教題、「物質と霊」というコムズカシイ説教題の意味があります。「物質と霊」などというと難しい哲学のお話のように聞こえますが、平たくいうと、わたしたち人間には神さまのいのちの息が吹き入れられている、ということなのです。
 さて、土からできたわたしたちに神さまが吹き入れてくださった「命の息」は、生命であり、霊であり、愛である、と申し上げましたが、生命、霊、愛を別の言葉で言い換えますと、それは、つながりです。生命も霊も愛も、何かと何かのつながりなのです。生命はいのちといのちのつながり、霊は神さまとわたしたちのつながり、愛は神さまとわたしたち、わたしたちとわたしたちのつながりです。
 わたしたちは「肉体」という言葉を使いますが、肉と体は違います。肉は物質であり、さきほど申し上げましたように、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみといったものを生じます。つまり、他の人とつながろうとしない、自分勝手、自己中心なのです。
 けれども、肉体の「体」、体は生命や愛や霊と同じようにつながりです。頭、手、胴、内臓、足などのつながりが体です。あるいは、わたしたちは、体によって、言葉や視覚や聴覚、触覚などによって、他の人とつながります。
 キリスト教会には使徒信条という一世紀の庶民的な信仰者に遡ると言われる信仰告白があり、多くの教会がそれを礼拝で唱え、洗礼式もそれに基づいてなされますが、それには、「わたしは体のよみがえりを信じます」という一節があります。
「体のよみがえり」とは「肉のよみがえり」ではありません。「肉のよみがえり」ですと、ゾンビ映画になってしまいますが、「体のよみがえり」は永遠の愛の物語です。つまり、わたしたちは、よみがえり、復活を信じるわけですが、それは、個体、個人の肉体の蘇生を信じるのではなく、愛によって結ばれたつながりが永遠であることを信じるのです。
 肉体とは区別されるべき体という言葉には、聖書やキリスト教ではこのような意味合いがあるのです。肉、物質に、命の息、神さまの霊、神さまの愛を吹き入れていただいて、わたしたちは、肉体ではなく、体になるのです。
 わたしたちは物質のことばかり、肉のことばかり考えていないでしょうか。今晩は焼肉にしようとかハンバーグにしようとかポーク生姜焼きにしようとか、頭の中は肉のことでいっぱいになっていないでしょうか。お魚や野菜もいただきましょう。
 というか、わたしたちは、目に見える物質や肉のことばかりでなく、目に見えない神さま、目に見えない霊、目に見えない愛のことにも、心を傾けましょう。目に見えないもの、と言っても、これは、空気や電波のことではありません。空気は目に見えなくても物質ですし、電波も目には見えませんが、物質の世界のエネルギー、波のことです。わたしたちは、物質の世界の向こうにある、あるいは、物質の世界の根本にある、あるいは、物質の世界に重なり合っている、目に見えない神さま、目に見えない霊、目に見えない愛の世界に心を傾けましょう。
 ただし、神さまは、目に見えないと言っても、今申し上げましたように、空気でも電波でもありません。神さまの霊も、空気や電波のような物質世界のものではありません。神さまの霊は、物質とはまったく異なるものです。創られたもの、被造物とはまったく異なるものです。けれども、わたしたちはこれを理解しにくいのです。しかし、先週の説教のように、イエス・キリストは、目に見えない神さまを何とか私たちに伝えようとしてくださるのです。たとえ話や愛の行為によって、目に見えない神さまとその愛をわたしたちに伝えようとしてくださるのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書6章60節です。6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
 弟子たちが「ひどい話」と言っているのは何のことでしょうか。それは、今日の聖書の箇所の少し前のところです。
 ヨハネによる福音書6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
 イエス・キリストはここで「パン」という言葉を使っていますが、これは、物質のパンの話をしたのではなく、目に見えない神さまのこと、霊のことなのですが、弟子たちや聞いている人は、それをまったく理解しなかったのです。
 そこで、イエス・キリストは話を繰り返します。ヨハネによる福音書6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
 ここにも、肉とか血とかパンとかいう言葉が出てきますが、これも物質のことではなく、目に見えない神さまのこと、神さまの霊のことを話しておられるのですが、弟子たちや人々は理解せずに、「ひどい話だ」と言うのです。
 61節です。6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
 「人の子がもといた所」とあります。これは、イエス・キリストがもといた所、つまり、天のことです。天とは、空の高いところのような気がしますが、それだけですと、宇宙であり、星であり、天体であり、あくまで、物質界、神さまが創られた世界、被造世界のことになってしまいます。天とは、創造以前の世界、物質以前の世界、霊の世界のことです。そして、イエス・キリストは、この天とつながっておられるのです。
 63節です。6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
 「命を与える」とありますが、これは生物としての生命のことだけでなく、神さまとつながった命、永遠なる神さまとつながった命、永遠の命のことです。この命をわたしたちにもたらしてくださるのは、神さまなのです。神さまの霊なのです。物質でも肉でもありません。
 永遠なる神さまとつながった命を与えてくれる「霊」とは、神さまご自身のことです。神さまがわたしたちに指し伸ばしてくださったつながりのことです。神さまがわたしたちに注ぎ続けてくださる愛のことなのです。
 64節です。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 物質、肉、人間は、神さま、霊を裏切ってしまいます。それでも、神さまは、霊は、わたしたちをお見捨てになりません。『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』とイエス・キリストは言われますが、イエス・キリストは、神さまからお許しを得てくださるのです。
 ヨハネによる福音書14章2節にはこうあります。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
 イエス・キリストは十字架への道を歩まれ、十字架につかれ、父なる神さまのお許しを得て、つまり、わたしたちの罪を赦してくださるという父なる神さまのお許しを得て、わたしたちをご自分のもとに引き受けてくださるのです。
 66節です。6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
 イエス・キリストのお話にもかかわらず、弟子たち、人びとは離れて行きます。物質と霊、肉と霊の違いは、やはり理解しにくいのです。神さまとわたしたちとの違い、創造者と被造物の違い。なぜ、違いが大切なのでしょうか。同じことも大切ですが、違うことも大切です。
 違いが大切なのは、わたしたちは神さまではなく、神さまに創っていただいたものだからです。わたしたちにある善いものは、すべて神さまからいただいたものだからです。違いが大切なのは、わたしたちは有限、限界がありますが、神さま、霊、愛は永遠であることを知るためです。
 68節です。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 わたしたちは被造物であり、有限であり、神さまとはまったく異なるものですが、イエス・キリストは、そのわたしたちを霊であり、永遠であり、霊である神さまとつなぎあわせてくださるのです。
 イエス・キリストはそれを伝えようとしましたが、理解されずに、十字架につけられました。けれども、十字架は死刑台から、天と地をつなぐ道に、天と地をつなぐはしごに変わったのです。その結果、有限なわたしたちにも、永遠なる神さまのことが伝えられているのです。
 神さまは、イエス・キリストを通して、わたしたちが神さまとつながることをおゆるしくださいました。物質と肉にどっぷりつかったわたしたちを、イエス・キリストは、霊である神さまとつなげてくださるのです。
 祈り:神さまは、わたしたちは、自分中心の思い、物欲、この世の欲にまみれています。霊の思い、神さまの思い、愛とはまったくかけ離れてしまっています。けれども、神さま、イエス・キリストは、み言葉とご降誕とご生涯と十字架と復活によって、わたしたちを霊なるあなたとつないでくださいました。神さま、イエス・キリストが創ってくださったこの道筋によって、わたしたちをあなたの霊で満たしてください。愛で満たしてください。わたしたちを少しでも愛の人、霊の人へと導いてください。神さま、わたしたちの友をあなたの愛、あなたの霊で満たしてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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見えるようになる [使信]

使信 2024年2月25日  「見えるようになる」  ヨハネ9:1-12
 おはようございます。読書は、わたしたちがそれまで知らなかったことを教えてくれます。わたしは最近、農業というか、農について学びたいと思い、本を何冊か読んでみました。
 「農はいのちをつなぐ」という本は、農は農業というよりは、やはり農であり、つまり、農は産業ではなく、いのちといのちをつなぐ営み、つながれたいのちといのちの営みだと教えてくれました。たとえば、田んぼを見ますと、田んぼには稲といういのちだけでなく、そこには、おたまじゃくしもいるし、ゲンゴロウもいるし、とんぼの幼虫、ヤゴもいるし、稲以外の雑草も育っています。田んぼはそれらのいのちのつながりだと言うのです。
 また、わたしたちがいただく食べものもいのちであるし、食卓にはさまざまないのちが並んでいると言うのです。わたしたちはそれらのいのちをいただくのですが、それらを絶滅させるような形でではなく、むしろ、それらのいのちが絶えることなくつながっていくようないいただきかたをしなければなりません。いのちをいただくものは、いのちの再生も考えなくてはならないというのです。
 そして、田んぼで農を営むということは、おたまじゃくしやカエルやトンボや諸々の草とまた来年も会えるようないのちの循環の営みであるというのです。わたしは、今まで考えなかったこのようなことをこの本に教えられました。
 それから、「食べものから学ぶ現代社会」という本は、現代社会がそのような農の営みを危機に追いやっていることを教えてくれました。コンビニでスイーツとか唐揚げとかを売るためのポイントは、砂糖と塩と油脂だそうです。これらで魅力的なスイーツや唐揚げのような商品を作り、それらを食べたいという欲をわたしたちに促して、コンビニというか、コンビニ企業は売り上げの増加に励んでいるそうです。
 このようなコンビニ食品は、コンビニ食品だけでなく食品産業で売られる商品としての食べ物は、大量の小麦やとうもろこしを使いますが、それは、いのちをつなぐ農というよりは、工業のような産業となってしまった大規模農業によって生産されます。それらの大規模機械化農業が世界中で行われ、トラクターなどを動かすために大量の石油が使われ排気ガスが出されます。
 また、限界を超えて植物を育てさせられることで、土も疲弊していきます。地球を浄化してくれるはずの森の木が倒され、畑にされてしまいます。こうやって自然環境が世界中でこれまでなかったレベルの大きな危機に直面しています。地球は温暖化し、すでに大規模な自然災害が頻発しています。こういうことをこの本に教えられました。
 もう一冊、「旧約聖書と環境倫理」という本は、旧約聖書は、星や川や土も人格とみなしている、旧約聖書では、星や川や土も神さまと人格的な交流をしているし、場合によっては、人間もこれらのものと人格的に交わっている、というように旧約聖書を読むこともできるということを教えてくれました。
 いのちをつなぐ営みとしての農、農が工業化され、食料商品の大量生産大量消費ゆえに地球環境が危機にあること、旧約聖書には自然を人格とみなしているという観点があること、これらを学んで、わたしは、目を開かれるような思いがいたしました。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書9章1節です。9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 「生まれつき目の見えない人」とありますが、神さまやイエス・キリスト、そして、聖書と出会わなければ、わたしたちの心の目も、神さまのことが見えていないのではないでしょうか。あるいは、わたしたちは幼子のころは、神さまのことを感じていたかもしれませんが、その心の目が閉ざされてしまったのではないでしょうか。
 9章2節です。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 イエスの弟子たちは、この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか、と尋ねていますが、わたしたちは生まれながら罪の性質を備えているとはいえ、罪を犯すとすればそれは生まれてから犯すものでしょうから、生まれたときから目が見えない人のことでこのように訊くこと自体、間違っているように思われます。
 さらに、病気、障がい、災害、不幸などは、罪を犯した人に神さまが与える罰である、という考え方は、苦しんでいる人を二重に苦しめます。イエスが出会った病気や障がいを抱えた人びとも、このように二重に苦しんでいたのではないでしょうか。
 これに対して、イエスさまはNO!と言われました。人びとを二重の苦しみから解き放とうとしてくださったのです。イエスさまは、この人が生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したからではない、と断言なさったのです。
 誰の犯した罪の罰をこの人は受けているのか。イエスさまにとってそんなことは問題になりませんでした。そもそも、イエス・キリストは罰という考え方から自由でした。イエスさまにとって神さまは罰をくだすよりも、愛を注ぐお方なのです。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」・・・神の業がこの人に現れるためである、とはどういう意味でしょうか。
 「神の業」とはどういうことでしょうか。ひとつは、神さまに救われる、ということのように思われます。もうひとつは、今日の聖書の箇所の文脈で言いますと、神の業とは目が見えるようになること、神さまのことが見えるようになること、神さまのことを知ること、神さまはインマヌエルの神さまである、神さまはアガペーの神さまである、それを知ることが、それを心の目で見えるようにしていただくことが、わたしたちの救いであり、そのようにしてわたしたちを救ってくださることが神さまの業のように思われます。
 それから、「ためである」「神の業がこの人に現れるためである」とありますが、これは、「そういう結果になる」というように、わたしは理解しています。
 わたしたちの心が神さまに対して閉ざされているのは、神さまがわたしたちの中に入ってきてくださるためである、と言っても良いのですが、それよりも、わたしたちの心は神さまに対して閉ざされているけれども、神さまがわたしたちの心を開いて入ってきてくださる、と言い変えた方がわかりやすいように思います。
 4節です。9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
 「わたしをお遣わしになった方の業」とは神の業、神さまの業のことですが、イエス・キリストはそれをわたしたちに示してくださっておられます。神さまの業をイエス・キリストがわたしたちに示してくださること自体が、神さまの業でもあります。けれども、それが妨げられる時が来る、そのような夜が来る、とイエスさまは言われるのです。
 一時的ではありますが、そのような神さまの業が妨げられる時が来る、と言うのです。それが、イエス・キリストの十字架とそこに至る苦難の道でありましょう。受難節は、イエス・キリストの十字架とそれに至る苦難の道のりをしのぶ期間ですが、この十字架の出来事によって、神の業が、一時的に妨げられると言うのでしょう。
 5節です。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。
 イエス・キリストは、世の光である、と言われました。イエス・キリストが世の光、わたしたちの光である、とはどういうことでしょうか。
 光は、闇夜を歩く人びとの足元を照らしてくれます。道案内をしてくれます。光があれば、わたしたちは闇夜をも前に進むことができます。
 光は、闇夜とともに、わたしたちの暗い心を照らしてくれます。光は、わたしたちの折れそうな心を励ましてくれます。光は、絶望したわたしたちの心に希望をもたらしてくれます。
 光は、そして、わたしたちに神さまを指し示してくれます。神さまを見ていないわたしたちの心に、光は神さまを示してくださいます。光は、目に見えない神さまをわたしたちに示してくださいます。
 6節です。9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
 これは、古代世界の医療行為なのでしょうか。そうかもしれません。けれども、もっと大事なことは、目の見えなかった人が、イエス・キリストを通して神さまと出会ったということです。これまで神さまと出会っていなかった人が、イエス・キリストを通して、神さまと出会ったということです。
 神さまはわたしたちの目には見えません。けれども、イエス・キリストは、目に見えない神さまをわたしたちの心に示してくださいます。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。イエス・キリストはこのように言われました。
 神さまは、善人だけでなく悪人にも、正しい者だけでなく正しくない者にも、太陽の光と雨の潤いを注いでくださいます。これは、とくに、自分は悪人である、自分は正しくないと思っている人びとには、わたしもそうですが、これは、非常に大きな救いです。
 神さまはこのようにわたしたちを無条件に愛してくださる。このような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださるのです。
 あるいは、イエス・キリストはこのように言われました。マタイによる福音書6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 わたしたちはあれこれ思い煩いますが、空の鳥や野の花が神さまにすべてを委ねているように、神さまはわたしたちがすべてをお委ねできるお方である、神さまはわたしたちが全面的に信頼できるお方である、そのような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 このようにして、神さまは小さな希望を大きな希望に、小さな愛を大きな愛に育ててくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
 このように、神さまはすみっこの一匹であるわたしたちをお見捨てにならず探し求めてくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに教えてくださいます。
 このようにイエス・キリストが今まで知らなかった神さまのお姿をわたしたちに示してくださり、わたしたちがこのように愛と慈しみに満ちた神さまと出会うことができるようになりました。これこそが、見えなかった目が開かれることであり、神さまの御業、救いの御業だとわたしは考えます。
 最後にもう一か所聖書の箇所をお読みいたします。マルコによる福音書15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 受難節の第2週です。イエス・キリストはご自分が十字架の道のりを歩み、十字架につけられることを通して、神さまはわたしたちとともに十字架の上で苦しんでくださるお方であり、神さまはわたしたちの罪に罰で報いるのではなく、むしろ罪をともに背負ってくださるお方であることを、わたしたちに示してくださるのではないでしょうか。
 神さまは目には見えませんが、イエス・キリストはそのご生涯とお言葉を通して、わたしたちがこれまで知らなかった神さまのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。
 祈り。神さま、あなたはわたしたちの目には見えません。わたしたちの心はあなたに対して閉ざされています。けれども、神さま、イエス・キリストはそのご生涯とそのお言葉を通して、あなたのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。わたしたちの心の目を開いてくださり、神さまと出会うという救いをわたしたちにもたらしてくださいます。感謝いたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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誘惑に負けないよ [使信]

説教 2024年2月18日  「誘惑に負けないよ」  マタイ4:1-11
 おはようございます。今日は、「受難節」第一主日です。受難節とは、イエス・キリストが十字架について死んで、けれども、復活なさるまでの、七週間弱、四十六日間のことを指します。
 キリスト教会では、この受難節の期間、イエス・キリストの十字架のお苦しみ、そして、十字架にいたるまでのお苦しみの道のり、そのイエス・キリストのお姿を心に思い浮かべながら過ごします。そして、イエス・キリストのお苦しみと十字架の意味、そこにはどのような意味があるのかをかみしめます。
 イエス・キリストは、裏切られ、捕まえられ、ののしられ、裁判を受け、鞭打たれ、十字架につけられました。なんと苦しいことでしょうか。しかし、それは、わたしたちのために、イエス・キリストはそうしてくださったのでした。わたしたち罪人の代わりに、イエス・キリストは十字架で罰を受けてくださった、このことを、十字架に込められたこの意味を、わたしたちは、受難節の期間、深くかみしめようではありませんか。
 さきほど、わたしたちは、ご一緒に使徒信条を唱え、信仰を告白いたしました。この使徒信条には、三本の柱があります。一本目は、「わたしは、天地の創り主、全能の父である神を信じます」です。わたしたちは、この世界をお創りになられた父なる神さまを信じます。これが使徒信条の一本目の柱です。
 二本目は、「わたしはその独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます」です。わたしたちは、この世界をお創りになられた神さまの独り子、イエス・キリストを信じます。これが使徒信条の二本目の柱です。
 三本目は、「わたしは聖霊を信じます」です。
 わたしは父なる神さまを信じます。わたしは御子イエス・キリストを信じます。わたしは聖霊を信じます。つまり、三位一体の神さまを信じます。これが使徒信条の柱なのです。
 使徒信条は、これに続いて、この三位一体の神さまがわたしたちにしてくださる恵み、救いを述べています。つまり、神さまは、わたしたちを「聖なる公同の教会」に招いてくださいます。「公同の教会」とは「共通の教会」という意味です。世界にはたくさんの教会があり、それぞれ個性や特徴や賜物がありますが、イエス・キリストの教会、という意味では、共通しています。
 「公同の教会」とは、また、すべての信徒の教会、いや、まだ信徒にはなっていない方がたも含めて、すべての人びとの教会、また、天の人びとも含めて、目に見える枠組みを超えた教会、世界の教会全体という意味でもありましょう。神さまは、わたしたちをこの教会に招いてくださいました。
 さらに、神さまは、「聖徒の交わり」に招いてくださいました。聖徒とはめだかの学校の誰が生徒か先生か生徒のことではなく、また、立派な聖人のことでもなく、神さまが招き入れてくださった人びとのことです。
 使徒信条では、つづけて、「罪の赦し、体のよみがえりを信じます」と告白します。イエス・キリストはわたしたちの罪をお赦しくださいます。わたしたちの罪とはどのような罪のことでしょうか。それは、のちほどお話しいたします。
 「体のよみがえり」とは、聖書にはあまり詳しく書かれていませんが、肉体というよりも霊の体のよみがえりのことです。今のわたしたちの肉体の姿とはまったくちがう在り方です。聖書には詳しくは書かれていません。しかし、それは、神さまとつながっている体であり、愛する人びととつながっている体です。「永遠のいのち」、永遠なる神さまとつながった体です。
 このように使徒信条では、三位一体の神さまと、その神さまがわたしたちに与えてくださる救いの出来事を告白しているのです。
 では、使徒信条はどのような役割を果たしているのでしょうか。ひとつは、ここにいるわたしたちの信仰は、ひとそれぞれであり、多様であり、それは、教会のゆたかさでもありますが、どうじに、わたしたちそれぞれの信仰には大きな共通点があります。それが、三位一体の神さまへの信仰であり、公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、体のよみがり、永遠のいのちへの信仰です。
 使徒信条の役割の二番目は、先ほど公同の教会という言葉がありましたが、公同の教会で行われる、今日このような公同の礼拝において、使徒信条は、まだ、公の信仰告白をしていない人びとに三位一体の神さまのこと、そして、その神さまがわたしたちになしてくださる救いを伝えることにあります。
 みっつめに、使徒信条は、もともと、キリスト教が始まったばかりのころ、今から二千年近く前の信仰者たちが、迫害を乗り越えるために告白してきたものだと言われています。信仰者は、迫害を受けながらも、わたしは神さまを信じます、イエス・キリストを信じます、聖霊を信じます、公同の教会を信じます、罪の赦しを信じます、復活を信じます、永遠のいのちを信じます、と信仰を告白しながら、迫害を乗り越えてきたのです。
 キリスト教会の洗礼とは、この使徒信条に基づいて、神さまを信じることを心に深く刻み込まれる礼典のことです。まだ洗礼を受けておられない方がたには、やがて、ぜひ洗礼をお受けになることをお勧めいたします。
 洗礼とは、言い換えれば、わたしたちが神さまの物語のひとりにしていただくこと、神さまの合唱曲の音符のひとつにしていただくことではないでしょうか。
 ところで、今、迫害と申しましたが、わたしたちはどうでしょうか。今、わたしたちは目に見える形で、表立った迫害は受けていないかも知れません。けれども、わたしたちの信仰は、誘惑を受けていないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書4章1節です。4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 イエスさまはこの世で、荒れ野で誘惑を受けられましたが、神さまの霊が導いてくださり、支えてくださり、それを乗り越えられました。
 四十日間とあります。モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒れ野を四十年間さまよったことが思い出されます。
3節です。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
 イエス・キリストは誘惑に負けて石をパンに変えたでしょうか・・・いかがでしょうか・・・今日はあとで「キリストには代えられません」という賛美をいたしますが、キリストは石をパンに変えられませんでした。
 もっとも「かえる」という漢字が違います。キリストは石をパンに変えないという場合は、変化の変という漢字ですが、「キリストには代えられません」という場合は、代表の代という漢字ですね。今日の週報の下書きで、わたしは間違って、「キリストにはかえられません」の「かえる」を変化の変で入力していて、ある方に、その間違いを教えていただいたのでした。ありがとうございます。
 わたしたちは、目に見えない神さまを信頼するのではなく、パンのような目に見えるものにすがろうとしてしまいます。それが誘惑です。適度なパンは必要ですが、過度なパンは要りません。
わたしたちは、石をパンに変えようとする魔法のようなテクニックにすがろうとする誘惑を受けやすいのです。
 けれども、先週の神学生の説教にもあったと思いますが、申命記8章3節にはこうあります。8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
 神さま以外のもの、神さまの御言葉以外のものを、わたしたちの、自分の根本の頼みにしてはならないのです。そうして、神さまから離れてしまうこと、それが罪です。
 もちろん、わたしたちには衣食住が必要です。健康も、ある程度のお金も、頼りになる人間関係もある程度は必要です。けれども、それらは、永遠ではなく、なくなってしまうこともあります。ですから、それらを「適度」には求めても、神さまを慕い求めるかのようにそれらを慕い求めてはならない、過度に求めてはならない、目に見えるそれらのもの、神さまではないそれらのものを根本の支えにしてはならないのです。
 お金も衣食住も人間関係も適度であればわたしたちの適度な支えになりますが、わたしたちの根本の支えは神さまであり、神さまの御言葉です。
 たとえば、わたしは苦しい時・・・これでも、けっこう苦しむのです。これでも、しょっちゅう苦しむのです。そういう時、わたしは親しい人に理解しもらいたいと思います。人に話を聞いていただくのは良いと思います。けれども、それが過度になってはならないでしょう。30分や1時間、人に話を聞いていただくことはよいことだし、必要なことでもあると思いますが、何時間も何時間も、24時間、いつでも、誰かに話を聞いてもらいたいということになれば、それは、そのことに依存しているのであり、神さまに信頼することを忘れてしまっているのです。
 わたしたちは人に聞いていただくことで支えられますが、そのこと以上に、神さまを支えとしたい、神さまの御言葉を支えといたしましょう。パンではなく、神さまこそが、神さまの御言葉こそが、わたしたちの根本の支えなのです。たとえ人が話を聞いてくれなくても、神さまの御言葉を支えとする信仰を神さまは与えてくださるのです。
 5節です。4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
 「主を試してはならない」とはどういうことでしょうか。たとえば、今度何かの試験を受けるとします。神さま、今度の試験に合格させてください。これは良いのです。けれども、今度の試験に合格したらあなたを信じますが、そうでなければ、もうあなたを信じません。これはどうでしょうか。神さま、あなたは本当にいるのですか。いるなら試験に合格させてください。合格したら信じます。これはいかがなものでしょうか。
 あるいは、神さまと前もってこのような取引をしていなくても、突然、思いがけなくよくないことが起こったので、神さまはひどいことをする、と言って、信仰をやめてしまうのはいかがなものでしょうか。
 結果にこだわりすぎるのは、石をパンに変えようとすることに似ていないでしょうか。目に見えることがらで神さまと取引をする。ここにも誘惑とわたしたちの罪があります。
 『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』これは、じつは、詩編91編12節からの引用です。そこにはこうあります。91:12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
 これは、高いところから落下してても、あなたは地面に敷き詰められている石にたたきつけられることはない、というように読めます。
 けれども、聖書を読むときは、前後の文脈も大事です。詩編のこの言葉の少し前にはこうあります。91:2 主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
 つまり、この詩編が全体で言おうとしていることは、具体的なことではなく、神さまはわたしたちを守ってくださる方であり、わたしたちがより頼むことをおゆるしくださるお方であるということなのです。あなたの足が石に打ち当たらない・・・というのは、具体的な出来事というよりは、神さまがいかにわたしたちをお守りくださるかということのたとえなのです。それは、具体的なことというよりは、神さまは何があろうとわたしたちの人生全般をお守りくださるということなのです。
 聖書の言葉を文脈を無視して読んでしまう、そのような誘惑はわたしたちをも待っています。けれども、そのような聖書の読み方は、今日の悪魔のような聖書の読み方は、わたしたちの身に起こる出来事によって、目に見える結果によって、神さまへの信仰が左右されてしまうことになりかねません。
 わたしたちは、たしかに、良い結果を求めて祈ります。けれども、自分にとって良い結果が出ようと、あるいは、今は良い結果が出ているように思えなくても、それでも、神さまがともにいてくださり、人生を導いてくださることを信じぬこうではありませんか。私はそうしてきました。良い結果が出るのは神さまのおかげです。心から感謝しています。けれども、良い結果が出るように思えないときでも、神さまはわたしを支え続けてくださる、だからこそ、神さまを信頼します。
 望んだ結果が出なくて、良い結果が見えなくて、長いトンネルを歩いているように苦しんでいる方もおられると思いますが、今はそう見えても、神さまは今もともにいてくださり、今も導いていてくださいます。わたしはそう信じます。
 その意味では「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」という御言葉はその通りだと思います。
 イエスさまはこう言われました。「一羽のすずめが落ちる時、天の父がかならず一緒にいてくださる」。これはこのように落ちていくものの真下にいて、いっしょに落ちてくださり、最後は地面にたたきつけられないようにクッションのように受け止めてくださる、こういうイメージだと言われています。
 8節です。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
 わたしたちは、世界制覇、世界征服などは考えていないかもしれません。けれども、たとえば、誰かとふたりでいて、意見が違うとき、自分の意見を通そう、自分の意見に従わせようとしていないでしょうか。
 私など、妻には、いつも、自分の考えを押し付けようとしてしまっています。すみません。信徒の方がたにも自分の考えを受け入れてもらおうとしてしまっています。神さまにお委ねしていないのですね。
 自分の問題も、自分の考えや知識や行動や計画で解決しようとしてしまい、神さまに委ねることを忘れてしまっています。ここに、わたしの罪があります。周りの人、自分が生きる世界を、自分で支配しよう、自分で仕切ろうとしてしまっています。その誘惑に負けてしまっています。
 しかし、イエスさまは言われました。「ただ主に仕えよ」。わたしたちは、自分の力ではなく、主にお仕えいたしましょう。わたしたちは、神さまのお導きを信頼いたしましょう。
 11節です。4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 「悪魔は離れ去った」とあります。イエス・キリストが、聖霊のお力によって、悪魔と悪魔の誘惑を斥けてくださったのです。それは、わたしたちも、目に見えるものや自分の力を根本の支えにしようとする誘惑に、わたしたちも打ち克たせてくださるためです。
 わたしたちは、このイエス・キリストを信じ、聖霊を信じましょう。使徒信条にあるように、父なる神さまと御子イエス・キリストと聖霊の神さまに委ね切りましょう。
 父なる神さまと御子イエス・キリストと、今日、イエス・キリストとともに悪魔を斥けてくださった聖霊の三位一体の神さまをこそ、わたしたちの最大の支えといたしましょう。
 そして、今日、公同の教会、公同の礼拝、聖徒の交わりに招かれていることを信じ、わたしたちの深い罪、その深さにもかかわらず、キリストの十字架によって赦されていることを、そして、体のよみがえり、神さまとつながった永遠のいのちを信じぬこうではありませんか。
 今日からあらたな気持ちで、もう一度、三位一体の神さまを信じ始め、信じぬこうではありませんか。洗礼を受けてこの信仰の道に入りましょう。この信仰の道はけっして楽ばかりではありませんが、イエス・キリストは誘惑と罪に打ち克ってくださいました。聖霊がわたしたちを導いてくださいます。
 神さまと神さまのお言葉をこそ、人生の最大の支えとするこの道を今日から歩き始めましょう。ともに歩きましょう。
 お祈りをいたします。神さま、わたしたちには、衣食住やお金、人間関係など、適度な支えをいただいていますが、わたしたちは、あたかもそれが神さまであるかのようにそれにすがってしまい、神さま、あなたご自身と、あなたの御言葉を慕い求めることを忘れてしまいます。けれども、イエス・キリストは荒れ野において、聖霊とともにその誘惑を斥けてくださいました。神さま、あなたと御言葉を根本の支えとする道を今日、この日曜日から、あらたに歩ませてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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少しも無駄なく [使信]

使信 2024年2月11日  「少しも無駄なく」  ヨハネ6:1-15
 おはようございます。今日の使信の題は、「少しも無駄なく」としました。これは、先ほどお読みいただいた聖書の中にある言葉ですが、皆さんは無駄はなるべくしないようにしておられるでしょうか。
 わたしは、たとえば、目の前で電車のドアがしまり、一本逃して、次の電車を10分ほど待たなければならなくなったようなとき、以前は、時間をとても無駄にしてしまったような気がしていましたが、最近は、いや、おかげで、移動時間が長くなって、その分、移動中に本を読む時間も増えてよかった、と思うようになってきました。
 たしかに、時間を無駄にしたくない、無駄に時間を過ごしたくない、という気持ちは、いつも私の中にあります。ですから、ぼーっと、だらだらとテレビを観て過ごす、というようなことはいたしません。映画は、心の糧として、寝転がって、タブレットで観ることは楽しみにしていましたが、最近は、あまり良い映画がインターネット配信で見つからないので、ねしなは、映画ではなく、新書を読むことにしました。
 散歩は、本を読みながらではできませんが、ムダとは思っていません。足腰のためによいし、このあたりだと、緑が目に入ったり、鳥のさえずりが聞こえたりしないわけではありません。
 睡眠中も、本は読めませんが、無駄だとは思いません。寝ることは大切にしていますが、還暦を過ぎてからは、夜中に二度、三度目が覚めるようになりました。まあ、目的なしに、だらだらとテレビを観るのがいちばん無駄かもしれませんね。
 ところで、無駄と言えば、わたしたちは、わたしは無駄に生きているのではないか、わたしなんか生きていても無駄なのではないか、と思ってしまうことがないでしょうか。なかには、自分以外の人さまについて、こんな人は生きていても無駄だと考える、おそろしい人もいるようです。
 わたしの人生には何の意味もなかったとか、わたしが生きている意味があるのかとか、わたしたちは思っていないでしょうか。なかには、人さまについて、こんな人には生きている意味がないなどと考える、おそろしい人もいるようです。
 意味とか無駄とかいうとき、わたしたちは、何かができる、何かができないという尺度にとらわれているのではないでしょうか。何かができることに意味があり、何かができない人は無駄な人と考えていないでしょうか。けれども、果たしてそうなのでしょうか。
 何もできない、かつてできていたことができない、多くの人ができていることができない人は、ほんとうに無駄なのでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。
 ヨハネによる福音書6章2節です。6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
 「イエスが病人たちになさったしるし」とあります。先週の礼拝の聖書の箇所では、イエス・キリストは病人を癒されました。どんなお話だったか覚えておられるでしょうか・・・あてませんから、安心してください・・・
 先週の聖書の箇所は、38年間病気で苦しんでいた人をイエス・キリストが癒されて、「床を担いで歩きなさい」と言われた、というお話でした。自分で思い出せなくても、言われたら、ああそうだった、と思い出せるなら、大丈夫だそうです。ご安心ください。
 この出来事を見た大勢の群衆がイエス・キリストの後を追った、と今日の聖書にはあります。この群衆は、同じような病気の癒しを期待したのでしょうか。あるいは、イエス・キリストは、病気の癒し以外のことをするかどうか、ということに関心があったのでしょうか。
 旧約聖書の列王記という書物にこんなお話があります。紀元前9世紀のことですが、エリヤという預言者がいました。エリヤはひとりの貧しいやもめを訪ねます。やもめは壺の底に残っていた最後の小麦粉でパンを焼きますが、ふしぎなことに、壺の粉はなくなっていないのでした。そんなことが繰り返されます。そうやって、やもめとその息子とエリヤはパンを食べ続けることができました。
 ところが、その息子が死んでしまいます。しかし、エリヤが三度その息子の上に身を重ね、祈ると、ふしぎなことに、息子が生き返ります。
 ここで、皆さんにご注目いただきたいのは、旧約聖書の預言者のエリヤは、パンを増やし、病人を癒しましたが、今日の新約聖書のイエス・キリストも、先週のところでは、病人を癒し、今週はパンを増やすということです。このように、新約聖書のイエス・キリストの行動の中には旧約聖書とつながっているものがあるのです。
 3節です。6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
 「イエスは山に登り」とあります。ここにも旧約聖書の響きがあります。旧約聖書の預言者モーセはシナイという山に登り、そこで神さまから十戒をいただき、それを民に取り次ぎました。同じように、イエスは山に登ります。これを見た人びと、また、この話を聞いた当時の人びとの中には、モーセを思い出した人もいたことでしょう。
 5節です。6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
 「フィリポを試みるためであった」とあります。イエス・キリストはフィリポの何を試みようとしたのでしょうか。「ご自分では何をしようとしているか知っておられた」とありますが、イエス・キリストは何を知っておられたのでしょうか。
 11節以下に、イエス・キリストがわずかのパンと魚で大勢の人びとを満腹にさせたとありますから、そのことを、イエス・キリストは前もってご自分でわかっていたけれども、それを知らないフィリポはどうするか見てみようとした、ということでしょうか。
 あるいは、深読みすれば、人びとをほんとうに養うものは、パンだけではなく、イエス・キリストご自身、神さまの言葉であるイエス・キリストご自身である、ということでしょうか。
 7節です。6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
 200デナリオンとあります。1デナリオンは一日働いた賃金くらいだそうですので、1デナリオンを1万円としますと、200デナリオンは200万円くらいでしょうか。そこに5000人の人がいたそうですから、200万円を5000人で割りますと400円になります。ひとりあたり400円の食料だと足りないでしょうか。たしかに、お昼におそばとサラダを食べようとコンビニで買ってもすぐに500円を超えてしまいますね。
 8節です。6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 パン五つとあります。五千人で食べますと、ひとりあたり、ひとつのパンの千分の一、ということになります。大勢の人びとの前で、こんなわずかのものは役に立たないでしょうか。大勢の人びとの前で、小さな少年の持ってきたわずかなものなどは無駄なのでしょうか。
 リーストコインという言葉があります。リーストとは、英語のリトルの最上級ですね。最上級というか最低級と言いますか、リトルの比較級がレス、最上級がリーストで、もっとも小さいという意味ですね。日本で言えば、1円ということになりますが、リーストコインの募金は1円でも5円でも10円でも50円でも100円でも500円でもよいようで、なんなら、コインではないお札でもよいようですが、皆が少しずつ持ち寄って、困難な状況にある方々にささげようということなのでしょう。
 五つのパンと二匹の魚は5000人の人びとの前では意味がなく無駄であるように思われましたが、少年にとってはそのとき持っていたすべてでした。すべてということが尊いのです。
 わたしたちも持てるものや力はとても小さいですが、もてるすべてということに意味があります。わたしたちは、よく、わたしには何もできない、ただ生きているだけ、などと言います。しかし、生きているだけ、ということは、生きていることがすべて、ということであり、それがすべてであるなら、生きているだけ、ということにはひじょうに大きな意味があるのではないでしょうか。
 ただ生きているだけ、ということは、生きているということがわたしのすべてであり、それがその人のすべてであるならば生きていることは何よりも尊いのではないでしょうか。
 10節です。6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
 「人々を座らせなさい」とあります。そして、「そこには草がたくさん生えていた」とあります。ここにも、旧約聖書の響きがあります。
 それは詩編23編です。23:1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 詩編23編には、牧者である主、神さまがわたしを「緑の牧場に伏させ」とあります。そして、今日の聖書の箇所では、イエス・キリストが大勢の人びとを草がたくさん生えているところに座らせるわけです。これは、みごとに重なるではありませんか。イエス・キリストは詩編23編の光景をここに再現しているのです。
 詩編23編にはさらに、「23:5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」とあります。これは、口語訳聖書で、「わたしの前に宴を設け」のところは、新共同訳では、「わたしに食卓を整えてくださる」とあります。
 つまり、詩編23編では羊飼いである神さまがわたしに食卓を整えてくださり、今日の聖書の箇所では、イエス・キリストが大勢の人びとと食事をわかちあっているのです。これも、みごとに重なります。やはり、イエス・キリストは詩編23編の光景をここに再現しているのです。
 さらに、詩編には、口語訳では「わたしの杯はあふれます」、新共同訳では「わたしの杯を溢れさせてくださる」とあります。ポイントは、あふれる、溢れさせてくださる、という言葉です。
 今日の聖書のヨハネによる福音書6章に戻ります。12節です6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
 「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」とあります。これはまさに「あふれる」「溢れさせてくださる」ということではないでしょうか。イエス・キリストの食卓には、あふれるばかりの恵みがあったのです。
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」とあります。ここには、二つの意味があると思います。
 ひとつは、わたしたちは神さまからいただいた恵みを無駄にしないようにしましょう、ということです。わたしたちは神さまに与えられたこの人生を大切に生きましょう、今与えられているいのちを大切に生きましょう。
 役に立ちましょう、ということではありません。神さまがせっかくあたえてくださったこの人生、神さまがせっかく与えてくださった今日のいのちを、感謝して喜んで生きましょう。そうすれば、神さまの恵みは無駄にならないのです。
 わたしたちが、神さまの恵みに気づき、感謝し、喜ぶならば、自分が役に立っているように思えなくても、神さまの恵みは無駄になっていないのです。
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」。この言葉のもうひとつの意味は、神さまが創られたものに、神さまが創ってくださったわたしたちに無駄なものなど何もない、ということです。何もできない、ただいるだけ、と言いますが、いるだけでよいのです。いるだけでたいしたものなのです。
 ところで、イエス・キリストは、ただパンだけを通して、わたしたちを養っておられるのでしょうか。イエス・キリストは言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。
 人はパンだけでなく、神さまの言葉で生きるのです。では、神さまの言葉とは何でしょうか。今日の聖書の箇所のもう少し先で、イエス・キリストはこう言っておられます。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 イエス・キリストが与えるパンとは、イエス・キリストの肉である、と言っています。では、肉とは何でしょうか。同じくヨハネによる福音書の1章にこうあります。1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
 この肉となった言とはイエス・キリストのことです。つまり、イエス・キリストがわたしたちにくださるパンとは、神さまの言のことなのです。
 わたしたちは、食パンだけでなく、神さまのお言葉、イエス・キリスト、イエス・キリストのお言葉によって養われるのです。そして、神さまのお言葉のゆたかさ、イエス・キリストのゆたかさはあふれるばかりである、と今日の聖書は物語っているのではないでしょうか。
 神さまのお言葉、聖書の御言葉には、神さまのあふれるばかりの恵みがあります。わたしたちはそれをしっかりといただきましょう。それを無駄にせず、わたしたち自身を養い、さらにゆたかな日々を、さらに歩み続けようではありませんか。
 祈り。神さま、わたしたちの心と精神と魂と霊は飢え乾いています。けれども、あなたは、あなたの御言葉とイエス・キリストによって、それをあふれるばかりに満たしてくださいます。心から感謝いたします。神さま、わたしたちがあなたからの恵みを、あなたの救いの御言葉を無駄にすることなく、むしろ、感謝して、喜んでいただくことができますように。神さま、わたしたちがあなたのあふれるばかりの愛を、見過ごして無駄にするのではなく、ゆたかにいただいて、わたしたちの心と霊が満たされますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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床を担いで歩く [使信]

使信 2024年2月4日  「床を担いで歩く」  ヨハネ5:1-18
 おはようございます。キリスト教の洗礼を受けるということはどういうことでしょうか。わたしは、洗礼にはふたつの側面があると思います、ひとつは、神さまの方からわたしたちにしてくださる側面です。それは、神さまがわたしたちに愛を注いでくださる、神さまのいのちの息、聖霊を注いでくださる、わたしたちを新しくしてくださる、神さまがわたしたちを受け入れてくださるということです。
 洗礼のもうひとつの側面は、わたしたちが人間としてなす側面です。それは、イエスに従って生きるという決意表明のようなものです。イエスに従って生きるとは、具体的には、神さまを信頼して神さまに委ねたイエスのように、わたしたちが生きるということでしょう。イエスに従って生きるとは、また、神さまの愛、神さまの御心に従ったイエスのように、わたしたちも愛に生きるということでしょう。
 神さまの愛、神さまの御心に従って生きる、ということは、この世の価値観とは違うように生きるということでしょう。人や自分やものごとを優劣、優か劣かで判断したり、正しいか正しくないかで判断し、自分を正しい側に置こうとしたり、「自分は自分は」とどこまでも自分中心であったりする・・・そのような価値観とは違う、神さまの愛の御心、人を分け隔てしない、自分中心にならない、人を大事にする生き方をすることでしょう。
 洗礼を受ける、ということには、わたしは、このような意味を考えます。では、今日の聖書に出てくる「床を担いで歩く」とはどのようなことを意味するのでしょうか。
 いつでもどこでも横になれるように、床を担いで歩く、ということでしょうか。わたしは学生時代、四畳半の和室に下宿していて、そこは、万年床と言って、布団を敷きっぱなしにしていました。和室というのは、本来は、朝起きると布団をたたんで、押し入れにいれるものなのですが、最近は和室でも、ベッドを置いていることも多いようですね。ベッドというのも、押し入れを開けて布団を引っ張り出して敷かなくても、いつでも横になれますから、万年床みたいなものですね。
 床を担いで歩くとは、あるいは、自分の人生のこれまでのすべてを担いで、担って生きることでしょうか。今日の聖書のお話で言えば、病気で苦しんだ38年の人生、あるいは、それ以上の人生を担って、背負って生きるということでしょうか。
 わたしは現在63歳ですが、ふりかえれば、中学1年生だった13歳から63歳までの50年間は、今振り返る立場に立てば、あっという間でした。そして、50年間のいろいろなことを覚えています。もっとも最近のことは良く忘れます。人の名前などどんどん忘れます。一度見た映画や一度読んだ本の内容もどんどん忘れます。
けれども、たとえば、中学校の卓球部のこととか、友達と悪いことをしたこととか、高校入試のこととか、高校時代のバドミントン部のこととか、大学入試当日のこととか・・・受験会場に行ったら、時間を間違えて、3時間も早く着いてしまったので、パチンコをして時間をつぶしたこととか、仕事をし始めてからのいくつもの場面とか、結婚することになりうれしかったとか、家族とか、仕事上で起こった大きな苦しみの数々とか、そういうものは覚えています。そういうものを何十年分も背中に背負って生きているのかもしれません。
 床を担いで歩くとは、あるいは、律法よりもイエス・キリストの言葉に従って歩く、世の中の規則や常識よりも、イエス・キリストの愛の言葉、イエス・キリストの励まし、イエス・キリストの促しによって生きるということでしょうか。それが床を担いで歩く、ということのようにも思えます。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書5章2節です。5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
 「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」とあります。これらの人びとは、イエス・キリストがここだけでなく、ガリラヤやユダヤの各地で出会った人々でもあります。イエス・キリストは病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人を訪ね、友となられました。
 この人々が「横たわっていた」とあります。起き上がれなかったのではないでしょうか。この人々は起き上がれないでいたのではないでしょうか。けれども、あとで、8節に出てきますが、イエス・キリストはこの横わたって起き上がれなかった人びとに「起き上がりなさい」と声をかけたのです。
 「起き上がりなさい」。これは、強制の命令ではなく、招きでありましょう。イエス・キリストは、「起き上がれ」と言って、その人びとを見張ったり蹴っ飛ばしたりしたのではなく、イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言って、この人びとの手を握りしめたのでありましょう。
 5節です。5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
「38年も」とあります。「もう長い間」病気で苦しんできた、とあります。これは、人生そのものの苦しみのことでありましょう。むろん、人生は苦しみだけではありません。人生にはゆたかな喜びもあります。けれども、人生には、苦しみという通奏低音があります。
 「人生には、苦しみという通奏低音があります」・・・かっこいいですね。しかし、むろん、人生には、「喜び」という通奏低音もあります。キリスト教信仰とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。福音とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。
 7節です。5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 助けてくれる人がいない。他の人が我先に行ってしまう。これは、この世界の常識的な価値観ではないでしょうか。人を助けない。人を押しのけてでも自分の道を行く。競争、自分中心、他の人への無関心。これが、この世界を支配している価値観ではないでしょうか。
 8節です。5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
 イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。わたしは、今年から、あるキリスト教雑誌で、一年に三回、その月の号の特集を企画する仕事をいただきました。
 その最初は3月末に発行される4月号で、わたしがその号で企画した特集は「復活」ということです。聖書で物語られている復活は、わたしたちの世界や社会での生活にどのようなメッセージを持っているかということを考える特集です。
 そこでは、復活は、死後の復活だけでなく、死ぬまでの人生における何度かの再起、起き上がりのこととしても語られます。聖書の語るイエス・キリストの復活は、わたしたちの人生における再起、七転び八起きにもつながっているということです。
 わたしも63年と3か月の人生、何度か倒れましたが、その都度、起き上がってきました。神さまに、イエス・キリストに、起き上がらせていただきました。これまではなんとか起き上がってきたが、もうだめだ、もうこれは起き上がれない、死ぬとはこういうことなんだな、と思うような倒れ方もしましたが、それでも、起き上がらされました。
 イエス・キリストが起き上がらせてくださるのです。イエス・キリストの「起き上がりなさい」という言葉が起き上がらせてくださるのです。自分で何とか起き上がったつもりでも、イエス・キリストのお言葉、イエス・キリストの人格、イエス・キリストの出来事、イエス・キリストの力、イエス・キリストご自身が起き上がらせてくださるのです。
 「その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」とあります。聖書の物語では「すぐに」とありますが、わたしたちの人生では「すぐに」というわけにはいきません。けれども、ゆっくりであっても、わからないくらい遅い歩みであっても、神さまは、イエス・キリストは、たしかに、たしかに、わたしたちを起き上がらせてくださいます。
 10節です。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
 イエス・キリストに38年の病を癒していただいたこの人は、ここで分岐点に立たされています。律法に従って、安息日に床を担ぐことを止めるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従って、安息日でも床を担いで歩くのか、という分岐点です。
 律法に縛られるのか、それとも、イエス・キリストによって律法の束縛から解き放たれるのか、どちらを選ぶのか、という分岐点です。
 あなたはナニナニしなくてはならない、という律法に縛られるのか、それとも、あなたはナニナニできる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、人を愛さなければならない、この人を助けなければならない、この人に仕えなければならない、という律法に縛られるのか、それとも、わたしたちは、人を愛することができる、この人を助けることができる、この人に仕えることができる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、律法や規則で縛られ、優劣のような人間的な尺度に縛られ続けるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従う、いや、イエス・キリストの「床を担いで歩きなさい」という言葉によって解放され、優劣の尺度ではなく愛と慈しみに生きようとするのか、どちらでしょうか。
 38年の病気を癒された人にとって、律法の安息日の規則に違反してまで、床を担いで歩く、とは、今日からは律法やこの世の価値観ではなく、福音、イエス・キリストの愛の御心に従って生きていきます、ということを意味していたのではないでしょうか。
 13節です。5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
 38年間病気だったこの人は、以前はイエス・キリストが誰であるのか知らなかったのですが、いまや、自分を癒してくれたのは、自分を起き上がらせてくれたのは、イエス・キリストだと知っているのです。
 16節です。5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
 ユダヤ人がイエス・キリストを殺そうとしたとありますが、イエス・キリストを十字架の死に追いやったのは、わたしたち人間の罪、自己中心、エゴイズム、他者を押さえつける生き方に外なりません。ユダヤ人がイエスを殺そうとした、という言葉には、わたしたちのことが含まれていると思います。
 人びとがイエス・キリストを迫害した理由は、安息日の律法の規定を犯したからだとあります。世の中の決め事、世の中の常識に背くとされることをしたゆえに、イエス・キリストは十字架に追いやられました。
 また、神さまを父と呼んだこと、ご自分を神さまと等しい者としたことも、その理由だと言います。神さまを父と呼ぶ、神さまと一体であると言われる。これは、イエス・キリストにとって、神さまとの親しさ、神さまとの親密なつながりを意味しているのではないでしょうか。イエス・キリストは、神さまの愛、神さまの慈しみ、神さまのお力を、誰よりも強く感じておられた、知っておられたのです。
 けれども、これらのことは、世の人びと、つまり、わたしたちの価値観からすれば、神さまへの冒涜に映ったのです。そして、わたしたちは、イエス・キリストを十字架に追いやりました。
 二週後から受難節が始まります。イエス・キリストの十字架を前にした40日間が始まります。イエス・キリストが十字架につけられた理由は、イエス・キリストが、律法、世の価値観ではなく神さまの愛、神さまの御心に従ったことにあります。それほどまでに、神さまと親密になられた。それゆえに、イエス・キリストは十字架につけられたのです。
 わたしたちは、このイエス・キリストに従うのです。わたしたちも、この世の価値観、優劣、自己中心、そして、ナニナニしなければならないという規則万能の価値観ではなく、神さまの愛、神さまの愛の御心に従って行けるように祈り求めようではありませんか。
 また、わたしたちも、イエス・キリストとともに、神さまを父と呼ぶほどの親密感と信頼を持てるように祈り求めようではありませんか。
 そうやって、わたしたちは、律法に背いてでも、わたしたちの床を担いで、律法ではなくイエス・キリストに従えるように祈り求めようではありませんか。
 祈り。神さま、わたしたちは倒れてしまっています。起き上がれないでいます。けれども、イエス・キリストは、起き上がりなさい、とわたしたちの手をつかんで、引き寄せてくださいます。心より感謝いたします。神さま、わたしたちも、起き上がり、世の価値観ではなく、あなたの愛の御心に従うことができますように、わたしたちを整えてください。神さま、わたしたちもあなたを父と呼ぶ親密感、信頼感をお与えください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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