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2024年5月19日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】  2024年5月19日

 一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4)

 ペンテコステは「教会の誕生」を記念する日です。二千年前、イエス・キリストは十字架にかけられ、死んで、葬られましたが、復活し、弟子たちのもとに帰ってきました。その後、天に帰りますが、今度は、聖霊として、ふたたび弟子たちのところに来られました。これが教会の誕生です。

 では、その教会はどのようなところでしょうか。教会では、神さまに祈り、神さまを賛美し、神さまの御言葉を聞きます。これは、いわば、神さまとわたしたちの関係です。

 さらに、教会には、神さまとわたしたちとの関係を基にした、わたしたちとわたしたちの関係があります。教会は神さまを親とする家族なのです。

 教会では「思い遣(や)り」が大切です。神さまがご自分の思い=愛をわたしたちに「遣る」つまり「くださる」こと、それが御子イエスの誕生であり、聖霊の降臨です。

 また、教会ではわたしたちも「思い」を「遣り」ます。それには、まずは、わたしたちの「自分自分」という思いをどこかに「やって」しまいます。自分中心の思いを手放すのです。

 そして、相手のことを考えます。自分の思いを、「自分を満足させたい思い」から「相手を大切にする思い」に変えるのです。愛を自分ではなく相手に「遣る」「渡す」のです。


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生きた水 [礼拝説教(使信)動画]

2024年5月12日 「生きた水」

https://youtu.be/VNmC87m_vIs
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2024年5月12日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。(ヨハネ7:38-39)

 ここに「水」と「霊」という言葉が出てきます。これらは、聖書全体を通して、神さまとイエス・キリストを表現するために用いられています。
 荒れ野を旅するイスラエルの民は喉の渇きをモーセに不満としてぶちまけますが、神さまは岩から水をほとばしり出させます。
 アブラハムとサラ夫妻に追い出されたハガルとその子イシュマエルも荒野で水もなく死にそうになり、子は泣きますが、神さまはそれを聞き、ハガルに井戸を示します。
 創世記によれば、神さまは土の塵で人間を作り、命の息を吹き込みます。これは霊そのものです。エゼキエル書には、枯れた骨の上に霊が吹くと、それが生き返る幻があり、これは、バビロン捕囚からの解放を示していると言われています。
 ヨハネによる福音書7章では、イエス・キリストはまもなく自分はいなくなることを弟子たちに告げますが、それは永久の別れではなく、じつは、イエス・キリストは弟子たちの心の中で生きた水として泉のように存在し、力と命を与え続けます。
 また、イエス・キリストは天から聖霊を弟子たちに送りますが、それは、生きた水と同じことなのです。
 イエス・キリスト、そして、神さまは、わたしたちに命の霊を吹き込みつづけ、命の泉でありつづけてくださいます。

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生きた水 [使信]

2024年5月12日 「生きた水」ヨハネ7:32-39

おはようございます。わたしたちときどき、少し疲れたなあ、ということがありますが、そういうとき、わたしたちはどのようにしてリフレッシュしようとするでしょうか。わたしの場合、たとえば、音楽ですね。掃除をするとき、ヘッドホンで、若いころよく聞いた音楽を聴きながら、掃除機を動かします。それから、あまり頭を使わないでよいような単純事務作業をするときも、音楽を流しています。

寝転がって、テレビドラマや映画を観ることも、疲れたときには良いかもしれません。それから、机に向かって、あるいは、電車やバスの中で、心に沁み込む本を読むことですね。あるいは、散歩もよいですね。柿生の駅までならたいて歩きますし、このあたりの20分くらいの散歩は大好きです。先日は、寺家まで行って田んぼのカエルや森の野鳥のさえずり、そよかぜや緑の光景を楽しんで来ました。

では、わたしたちが少しどころかひどく疲れて、もう力が出ないようなとき、どんなものがわたしたちを生き返らせてくれるでしょうか。たとえば、真夏の炎天下で汗を書いて喉がからからでもう歩くのも嫌になってしまったときに飲む冷たい水。あるいは、緑あふれる自然の中の新鮮な空気はいかがでしょうか。元気という言葉もあるように、空気の「気」は生命力につながるのかもしれません。

今、水と空気の話をしましたが、今日の聖書にこうあります。「7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」

ここにも、水と霊が出てきます。聖書においては、霊は息、風に通じる言葉ですから、霊は空気ともつながるのではないでしょうか。わたしたちが疲れ果てたときに、新鮮な空気を吸うことは、神さまの霊を吸うことにつながるのではないでしょうか。

神さま、イエス・キリスト、聖書の言葉(御言葉)は、わたしたちにとって、どのような存在でしょうか。神さま、イエス・キリスト、聖書の言葉は、わたしたちにとって、今お話ししたような、水や空気のような存在、つまり、わたしたちを生かしてくれるものではないでしょうか。今日はそのようなことを皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

聖書において、まず、水はどのようなイメージのものなのでしょうか。聖書の箇所をいくつかみてみましょう。

旧約聖書の詩編78:15にこうあります。78:15 荒れ野では岩を開き/深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。

これは、どういうことかと言いますと、旧約聖書の民数記にこういう話が載っています。イスラエルの人びとはエジプトを脱出して、約束の地を目指しますが、その途中で荒れ野をさまよいます。

そして、飲み水がないという事態に遭遇しました。イスラエルの人びとは、指導者であるモーセやアロンに文句を言います。喉が渇いてこんな死にそうな苦しい目に遭うならば、エジプトで死んでいた方がましだったというのです。そこで、モーセが杖で岩をたたくとそこから水がほとばしり出て、人びとは喉を潤し、さらには、いのちを保つことができました。

つまり、ここでは、神さまには、水と同じように、荒れ野で苦しみ精魂尽き果てようとしている民を生き返らせるイメージがあります。

新約聖書にも水にまつわるエピソードがあります。あるとき、イエスは井戸端である女性に水を飲ませてください、と頼みます。そして、こう言います。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とあります。ここには、水とともに泉という言葉が述べられています。神さまには水とともに泉のイメージがあるのです。

旧約聖書の詩編36:8にはこうあります。36:8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ36:9 あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。36:10 命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。

「命の泉はあなたにあり」とあります。ここでも神さまのことが泉として言い表されています。

 イザヤにはこうあります。41:17 苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。41:18 わたしは不毛の高原に大河を開き/谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし/乾いた地を水の源とする。

「谷あいの野に泉を湧き出させる」とあります。ここでも神さまには泉のイメージがあります。

さらには、神さまには井戸のイメージもあります。

 創世記によりますと、アブラハムとサラには子どもができず、アブラハムとハガルという女性の間に子どもができます。しかし、恨まれるようになり、ハガルと子どもは追い出されます。

 ハガルと子どもは荒れ野をさまよい、水が無くなり、死にそうになります。子どもは泣き声をあげます。すると、神さまはその泣き声を聞いて、ハガルに井戸を見つけさせます。その子はその水を飲んでいのちを保ち、成長していきます。ここでは、神さまは井戸と水のイメージで言い表されています。

 ここまでは、聖書において、神さまが水や泉や井戸のイメージで述べられていることを見てきました。

今日のヨハネによる福音書では、イエス・キリストのことが水ばかりでなく霊という言葉でも言い表されていますが、では、聖書において、霊はどのようなイメージのものなのでしょうか。

旧約聖書の創世記にこうあります。2:7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

「神さまは、人を土で作り、その鼻に命の息を吹き入れた」とあります。この「命の息」とくに「息」という言葉が、霊に通じるのです。つまり、霊は命の息、霊はわたしたちに命をもたらす、神さまの息だ、と旧約聖書は言うのです。

 旧約聖書のエゼキエル書には、枯れた骨が霊によって生き返る幻が出てきます。これは、バビロン捕囚によって骨のようになってしまったイスラエルの民が、そこから解放されることで命を取り戻すことの表現でもあります。

この箇所を少し読んでみましょう。37:1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。37:2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。

37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」37:4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

このように、旧約聖書で、霊は、体力も気力も失いかけた人間を生き返らせる神さまの力として、言い表されています。

新約聖書でも、霊はわたしたちに命を与えてくれる力として述べられています。たとえば、今日の聖書の箇所の少し前のヨハネによる福音書6:63にこうあります。 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 ここでも、霊は命と深く結びついています。

では、今日の聖書の箇所ではどうでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書7:32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。

「群衆がイエスについてこのようにささやいている」とあります。これは、人びとがイエスのことをメシアではないか、イエスはキリストではないかと言い始めたことを指しています。

イエスは五千人の人びととパンと魚をわかちあいました。また、湖の上を歩いて行かれました。ご自分のことを「命のパン」と言い表されました。また、「6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と語ったり、「6:65 「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」などと言ったりしました。こうしたことによって、人びとはイエスのことをキリストであるかもしれないと思い始めたようです。

けれども、これによって、祭司長やファリサイ派の敵意を買い、彼らは、イエスを逮捕しようとしたのです。

33節です。7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

 ここには、イエスの死が述べられています。これは、弟子たちにとっては、イエスとの別離でもあります。これは、じつは、永遠の別れではないのですが、弟子たちはそれをわかっていません。

「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」とあります。これは、じつは、イエスは弟子たちから遠く離れてしまうということよりは、イエスはわたしたちの目に見える証拠や論理による認識を超えた存在となるということでしょう。

35節です。7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。

ここにも、弟子たちの無理解が現われています。当時、ユダヤ人はユダヤの地だけでなく、地中海沿岸の諸地域にも移住していました。つまり、イエスはそのような地域、外国にでも行ってしまうのだろうか、と弟子たちは的外れなことも考えたようです。

37節です。7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

「聖書に書いてあるとおり」とありますが、これは、先ほど申し上げた旧約聖書の出来事のことです。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野で喉が渇いたと訴えたとき、モーセが杖で石を打つと水がほとばしり出たというお話のことです。

しかし、これは、昔の話だけではなく、イエス・キリストは、ご自分のことを、人びとの渇き、心や人生の渇きを、今、潤す水に例えているのです。それは、旧約においては、先ほど見たように神さまのイメージでもありました。

39節です。7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

「御自分が信じる人々が受けようとしている霊」とあります。これは、ヨハネによる福音書のいくつかの箇所に出てきます。

たとえば、15:26にはこうあります。15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

また、16:13にこうあります。16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

ここでは、真理の霊と言われています。真理の霊は弁護者とも言われているように、神さまがわたしたち人間を誠実に支えてくださることを示していると思われます。

また、ヨハネによる福音書の最後の方では、イエス・キリストが十字架で殺され、自分たちも危ないと家の中に隠れていた弟子たちのところに復活してイエス・キリストが現われてこう言われます。「20:22彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 ここでは、霊は、不安だらけだった弟子たちに、しっかりと生きていく勇気を与え、そのように促しています。

今日の聖書において、弟子たちは自分たちが愛し心の支えであったイエスと別れなくてはなりませんでした。しかし、それは永遠の別れではなかったのです。

イエスは目に見えなくなっても、弟子たち、そして、わたしたちの心の中の泉として、生きた水として、いらしてくださるのです。わたしたちに、いのちを与えてくださる、つまり、困難においても生きぬく力を注いでくださるのです。また、イエス・キリストは、聖霊として、新鮮な空気のように、疲れたわたしたちを生き返らせ、今日も生きる力を与えてくださるのです。

祈り:神さま、イエス・キリストは地上を去り、わたしたちの目には見えない存在になりましたが、わたしたちの心の中の泉、生きた水として、また、わたしたちに吹き込まれる命の息、霊として、わたしたちとともにいらしてくださいます。心から感謝いたします。神さま、孤独で力の出ない友を思います。どうぞ、あなたが、友の心の中で生きた水、泉となってください。どうぞ、あなたのいのちの息吹、聖霊が友の胸の中に満ちますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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世に勝っている [礼拝説教(使信)動画]

2024年5月5日 「世に勝っている」

https://youtu.be/Dm_EqKeCOWo
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世に勝っている

2024年5月5日 「世に勝っている」ヨハネ16:25-33
 おはようございます。電車に乗ろうとすると、ドアの右端と左端に陣取っている人たちがいて、乗り込みにくい、車両の奥まで進みにくい、と皆さんは、感じたことはないでしょうか。あるいは、電車から降りる時に、同じくドアの右端と左端に陣取っている人たちのせいで、なかなか降りられない、という場面がないでしょうか。その位置にいる人は、そういうときは、一度ホームに降りるのが常識だと思うのですが、ホームに降りてしまうと、ドアの右端や左端の位置、席に座れない場合は、立っているのが比較的楽なその位置を他の人にとられてしまうということで、ホームに一度降りようとしない人が多いようにおもいます。
 あるいは、わたしが電車に乗る際に、まず降りる人を待っているのに、それをわたしが乗るのをぐずぐずしているように思うのか、うしろからわたしを押しのけて電車に乗り込もうとする人たちもいます。まあ、困ったものですね。
 わたしは、バスで奥の方の座席にすわって終点で降りる時は、たいてい、ほかの人に先に降りていただくようにしています。他の人を押しのけて、我先に降りる必要はありません。
 相手と意見が違うときも、わたしは、なるべく相手に譲るようにしています。けれども、十代、二十代のころは、なかなか譲ろうとはしませんでした。自分の正しいと思う考えを通そうとしました。三十代、四十代、五十代では、譲ることを少し覚え、なるべく譲るようにしてきましたが、六十代になって、また、自分を通してしまう場面が増えてきたように思います。
 今日の聖書で、イエスは「わたしは世に勝っている」と言っていますが、「勝つ」とはどういうことでしょうか。わたしたちは小さいころから「勝つ」ことを教えられてきました。それは他の人より勝ることであり、他の人を押さえつけることでもなかったでしょうか。わたしたちは、そういう「勝つ」を教えられてきました。
 良い成績をとる、ということは、周りの人より良い点をとる、周りの人より優位に立つことであるとわたしたちは教えられてきました。わたしたちは、そして、点数だけでなく順位を喜ぶようになってしまいました。
 勉強だけでなく、ふだんの会話でも、相手の言うことに対して、「それは違う」と言って、自分の意見を主張しようとしてしまっています。何かを決めるような話し合いの場でも、自分の提案を通そうとしてしまいます。他の意見も聞いて、なるほど、そういう考えもあるね、とならない場合もしばしばあります。
 けれども、「勝つ」ということは、ほんとうは、そういうことなのでしょうか。イエスが「わたしは世に勝っている」と言っているのは、そういう意味なのでしょうか。イエスが言っている「勝つ」「世に勝つ」とはどういうことなのでしょうか。
 それは、むしろ、わたしたちの中に沁み込んでしまっている「勝つ」、相手を押しのけるという意味での「勝つ」を克服することではないでしょうか。わたしたちが人を押しのけて勝とうとする勝ち方に、イエスは勝っておられるのではないでしょうか。 
 つまり、この場合の勝つとは、相手を屈服させるのではなく、力によって勝つ、という勝ち方を克服することではないでしょうか。
 わたしが若いころに「最後に愛は勝つ」という歌が流行りました。 「心配ないからね 君の想いが 誰かにとどく明日がきっとある どんなに困難でくじけそうでも 信じることを決してやめないで どんなに困難でくじけそうでも 信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。こういう歌です。
 これは、誰かを愛すれば、その思いは必ず届く、という意味のようであり、人生にどんな困難があっても信じれば乗り越えられる、という意味のようでもあります。「誰かを愛すれば、その思いは必ず届く」・・・学生時代にこの歌を聴いて、やっぱりそうだよな、と胸が高鳴りましたが、じっさいには、わたしが誰かに恋心を抱いても、届かないことはしばしばあった、というか、届いたことはあまりなかったように思います。
 ところで、この歌で言っている「愛」とは何なのでしょうか。最後に勝つ愛とはなんなのでしょうか。それは、あくまで、人間の愛、人間の強い思いのことではないでしょうか。そして、ここにこの歌の限界があるのかもしれません。
 聖書にもこれと少しだけ似ている言葉があります。ローマの信徒への手紙13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。13:8 愛は決して滅びない。
 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 わたしは、昔、結婚式場でキリスト教タイプの結婚式の仕事をしていましたので、この聖書の言葉はじつは数百回は声に出して読んでいます。わたしが読むこの聖書の言葉を聞いて結ばれたご夫婦が世の中には何百組もおられるはずです。結婚式後、再会したご夫婦は一組しかいませんが。
 それとは別の話ですが、わたしのクリスチャンの友人は、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」という言葉を聞いて、クリスチャンになることを決意したと言います。その人は、いちばん大事なものが、「信仰」ではなく、愛であるということに救われた、と言います。
 これは、信仰が大事ではない、ということではなく、自分の信仰には自信を持てなかった、自分の信仰はそんなに大きなものではない、神さまに救ってもらうに値するほど自分の信仰は強くない、けれども、神さまの愛は大きい、神さまの愛がもっとも大きい、この言葉に救われて、洗礼を受けたそうです。
 信仰、希望、愛。これらは、わたしたちのものでもありますが、どうじに、神さまから与えられたものでもあります。けれども、信仰と比べて、希望や愛は、神さまから与えられたものである度合いが強いように思います。さらには、希望や愛は、神さまご自身でさえあります。
 つまり、「その中で最も大いなるものは愛である」という言葉には、わたしたち人間の思いよりも、人間の事柄よりも、神さまの方が圧倒的に大きなものなのだ、という意味があるのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書の箇所の最後の言葉「わたしは既に世に勝っている」とはどういう意味なのでしょうか。このことを考えながら、今日の聖書の最初の言葉から順に振り返ってみましょう。
 ヨハネによる福音書16章25節 です。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 
 「父について知らせる」とあります。イエス・キリストが弟子たちに、父なる神さまのことを知らせる、という意味です。この父なる神さまとの関係も、「わたしは既に世に勝っている」という、イエス・キリストの今日の最後の言葉につながっているように思います。
 つまり、今日の聖書の箇所では、わたしたちと父なる神さま、イエス・キリストと父なる神さまの関係が述べられていますが、イエス・キリストは既に世に勝っているとは、イエス・キリストが父なる神と深くつながっている、イエス・キリストが父なる神と一体である、ことと切り離すことができないのではないでしょうか。
 26節です。16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
 「父ご自身があなたがたを愛しておられる」とあります。つまり、ここでは、父なる神さまが弟子たちを深く愛しておられることが言われています。また、イエス・キリストは父なる神さまのもとからお越しになっておられ、弟子たちは、父なる神さまのもとからお越しになったこのイエス・キリストを愛しておられる、ことが言われています。
 28節です。16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
 「父のもとから出て、父のもとに行く」とあります。ここでは、イエス・キリストと父なる神さまの深い関係が言われています。
 30節です。16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
 「あなたが神のもとから来られた」とあります。つまり、ここでも、父なる神さまとイエス・キリストの深い関係が言われています。さらには、そのことを弟子たちが「わたしたちは信じます」と告白していることが言われています。
 32節です。16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
 この箇所では、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」が大事だと思われます。つまり、イエス・キリストはひとりではない、神さまがともにおられる、ということです。
 33節です。16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 このようにして見てきますと、「わたしは既に世に勝っている」とは、イエス・キリストが父なる神さまと一緒にいることと切り離せないことがわかるのではないでしょうか。
 さらには、イエス・キリストは父なる神さまと一緒にいることで世に勝っているわけですが、このイエス・キリストの弟子であることで、わたしたちも父なる神さまと一緒にいるのであり、わたしたちが世で苦難があっても、同時に、イエス・キリストの平和、平安、父なる神さまの平安があることが言われています。
 イエス・キリストが世に勝っている、とはどういう意味でしょうか。それは、この世の苦難の中にありつつも、この世界の創り主であり、かつ、目に見えるこの世界を超えた神がともにいてくださる、ということではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストが世に勝っているということを、別の角度からも考えてみたいと思います。それは、イエス・キリストはわたしたち人間の価値観(肉の思い)に勝っておられる、人間の絶望に勝っておられる、そして、死に勝っておられる、ということです。
 「肉の思い」と申し上げましたが、ガラテヤの信徒への手紙にこうあります。ガラテヤ5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 わたしたちにも、偶像礼拝、つまり、神さまではないものに神さまのようにしがみついてしまう思い、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみがあります、と告白せざるを得ません。わたしたちは、相手に勝って生きていこうという価値観に染まってしまっています。けれども、キリストは、わたしたちのこの世的価値観に勝ってくださるのです。
 ガラテヤの信徒への手紙は続きます。ガラテヤ5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 霊の結ぶ実とは、じつは、もともとは、イエス・キリストのお心であり、そして、イエス・キリストがわたしたちに注ごうとしてくださるお心のことです。イエス・キリストのお心は、愛であり、喜びであり、寛容であり、誠実であるのです。わたしたちの心、世の思いとはまったく異なります。その意味で、イエス・キリストは世に勝っているのです。
 また、イエス・キリストはこのお心を、聖霊によって、わたしたちにも注ぎ込んでくださり、わたしたちの中にも、愛、喜び、寛容、誠実の心を育てようとしてくださいます。世の中はわたしたちに敵意、憎しみを蔓延させようとしますが、イエス・キリストは、愛、喜び、寛容、誠実を育てようとしてくださいます。その意味でもイエス・キリストは世に勝っておられるのです。
 イエス・キリストが世に勝っておられることについて、さらに申し上げますと、わたしたちは、病気や仕事や人間関係などのことで難しいことが起こると、もう駄目だと思ってしまいます。絶望に陥ってしまいます。
 けれども、イエス・キリストは、神さまがわたしたちとともにおられる、神さまがわたしたちを愛してくださることを示してくださいます。さらには、イエス・キリストご自身がわたしたちとともにいらしてくださり、ご自身がわたしたちを愛してくださることで、絶望に勝る希望を与えてくださいます。イエス・キリストご自身がわたしたちの希望なのです。その意味で、イエス・キリストは世の絶望、わたしたちの絶望に勝っておられるのです。
さいごに、イエス・キリストは、十字架につけられ死なれましたが、そこから、復活なさいました。これは、イエス・キリストが死に打ち克ってくださったことであり、わたしたちも、死によってすべてが終わってしまうのではないことを示してくださったのです。「どうせ死んだらすべてがおしまい」というこの世の価値観に、イエス・キリストは勝ってくださったのです。
 今日は、「イエス・キリストは世に勝っておられる」ということは、神さまがともにいらしてくださること、インマヌエルそのものであること、また、イエス・キリストは、わたしたちの人間的な、肉的な考え、人を押さえつけてしまう考えや、わたしたちの絶望、そして、死んだらすべておしまいというわたしたちの考えに勝ってくださることをご一緒に学びました。
 わたしたちは、負けているのではありません。イエス・キリストが世に勝ってくださったのです。イエス・キリストは、この世の悪の価値観、この世の絶望に勝ってくださるのです。このイエス・キリストに支えられてわたしたちも困難や苦しみを乗り越えて歩み続けましょう。
 祈り。神さま、あなたはイエス・キリストとともにおられます。あなたはわたしたちとともにいてくださいます。それが、あなたの勝利であり、イエス・キリストの勝利であり、わたしたちの勝利です。神さま、イエス・キリストは、わたしたちがこの世の争いの価値観、絶望の価値観、死の価値観に打ち克てるように、聖霊を注いでくださいます。イエス・キリストのお心をいただいて、わたしたちもこの世の肉の思いに打ち克つことができますように、お支えください。神さま、今、苦しんでいる友のすぐそばにいてください。その友がこの世に負けないようにお支えください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2024年5月5日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:32-33)

イエス・キリストが「既に世に勝っている」とはどういうことでしょうか。上の聖書の引用で、最初の段落では、弟子たちが逃げ去りキリストはひとり十字架の苦しみを受ける時が来ているが、父なる神さまが共にいてくださるので、この苦難を乗り越えられる、ということが言われています。
そして、下の段落では、弟子たち、あるいは、読者であるわたしたちにも苦難があるが、キリストが「世に勝っている」ことによって、わたしたちもそれを乗り越えられることが示されています。
つまり、キリストが世に勝っている、ということは、キリストとそしてわたしたちには、世の困難にはるかにまさる神さまがともにおられる、ということではないでしょうか。
また、キリストは、優劣や強弱というこの世の原理、肉の思い、苦難の中でのわたしたちの絶望、さらには、死んだら終わりという人間の虚無感に、打ち克ってくださり、愛と平和、キリストの心、霊の実り、絶望に勝る希望、死に勝る復活をわたしたちにもたらしてくださいます。

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