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2023年11月26日 [今週の聖書の言葉]

2023年11月26日

わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。(ヨハネ18:37)

 イエス・キリストのことを、軍事や政治、経済支配をする王になる、と勘違いした人々もいたようです。イエスを尋問しているローマ総督ピラトもイエス自身がそのようなことを考えているかどうか知ろうとしたのでしょう。
 けれども、イエスは「違う」と言います。イエスは、エジプトの王ファラオやヘロデ王やローマ皇帝、その総督ピラト、あるいは、旧約聖書のサウルやダビデのような王になることさえ考えていなかったことでしょう。
 では、イエスは何者かというと、「真理について証しをする」者と、ご自分から言われます。
 真理とは神さまのことではないでしょうか。そして、神さまの人への真(まこと)、誠実、愛のことではないでしょうか。さらに、「証しをする」とは、身をもってそれを実行するということではないでしょうか。
 つまり、イエス・キリストは、自分は上から人を支配するこの世の王とは正反対に、僕として神さまと人に下から仕える、と言っておられるのではないでしょうか。
 わたしたちの中にも、人を支配したい、自分の思うようにことを進めたい、そのために人には自分の考え通りにしてほしい、という欲望が潜んでいないでしょうか。わたしたちの中にも、こういう意味で王になろうとする姿勢がないでしょうか。
 けれども、イエス・キリストは、王ではなく僕となる道を示してくださいます。この僕であるイエス・キリストをこそ、むしろ、王として、ぎゃくに、わたしたちは、王にはならず、僕の道を歩めますようにと祈ります。

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2023年11月19日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2023年11月19日

イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。(ヨハネ6:32-33)

 イエス・キリストは「朽ちる食べ物」(6:27)ではなく、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6:27)と言われました。この働きは、具体的には、神さまがお遣わしになったイエス・キリストを信じることを指します(6:29)。

 「永遠の命に至る食べ物」とは、永遠なる神さまとわたしたちをつなげてくれるものであり、それは、聖書の言葉、神さまの御言葉であり、また、イエス・キリストご自身のことでもあります。

 上に引用した聖句の中で「天からのまことのパン」、「神のパン」、「天から降って来て、世に命を与えるもの」と呼ばれているものも、このことです。

 先日、心が折れるような絶望的なことがあり、翌日の大事な仕事までに心を整えられるだろうか、と不安になったことがありました。

 そのとき、イザヤ書18章1節の「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる」という神さまの言葉が与えられました。


 この言葉によって、神さまは絶望を希望に、不安を平安に変えてくださる、という望みが与えられ、救われました。神さまのパン、神さまの御言葉、イエス・キリストは、このようにわたしたちを神さまとつなぎ、生きるいのちを与えてくださいます。


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2023年11月12日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。(ヨハネ8:51)

 聖書において、生きるとは、神さまとつながっていることであり、死ぬとは、そのつながりが切れることです。つまり、生物として生きていても、神さまとはつながっていないことも、生物としての生命は終えても、神さまとつながっている、という意味で「生きている」こともありうるのです。
 ここで、イエス・キリストは「わたしの言葉を守る」と言っていますが、戒めや命令を遵守するだけでなく、言葉(とくに、聖書の言葉)を読むことで、わたしたちは、神さまとつながり、さらには、救われるのではないでしょうか。
 詩、文学、音楽、絵画、人の愛、自然の美しさも、わたしたちに神さまを思い起こさせ、神さまとつながらせてくれます。
 詩編は、大空や夜空は神さまの創造を、イエス・キリストは、野百合や小鳥が神さまの支えと守りを伝えている、と語っています。
 けれども、やはり、一番のものは、聖書であり、イエス・キリストでありましょう。
 わたしたちは、これらを通して、神さまとのつながりをつねに想い起し、とくに、苦しい時、不安の時は、神さまの御言葉に聞き、支えられる、救われる、この信仰生活を大事にし続けましょう。

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2023年11月5日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

 わたしたちの大事な人の何人かは地上の旅を終えていますが、わたしたちは、その人びとと今もつながっていることを感じています。
 上の聖書には「永遠の命」という言葉がありますが、これは、どういう意味でしょうか。永遠とは、永久とは少し違います。永久とは何千年、何万年という時間を無限に伸ばしていったものですが、永遠とはそのような時間を超越したものであり、長いというよりは、むしろ、深いものではないでしょうか。永遠には、わたしたちと世界の根源に至る深さが感じられます。
 命とは何でしょうか。英語のlifeという単語は、日本語では、生活、人生、生命、いのちと訳されます。日々の生活、その集積である人生、生物としての生命です。しかし、いのち、という言葉は、生命の終わりによっても終わらない何かを指す場合があります。
 「永遠の命」とは、わたしたちと世界の根源である神さまにつながっているいのちのことではないでしょうか。神さまとのつながりは、生まれた時から始まり、地上の人生を終えたのちも続きます。
 わたしたちが、地上の旅を終えた人びととの永遠のつながりを感じるとき、意識していなくても、そこには、永遠なる神、永遠なるイエス・キリストとのつながりがあるのではないでしょうか。わたしたちは、神さま、イエス・キリストという永遠なるお方を通して、愛する人びととも永遠につながったいのちを生きているのです。

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2023年10月29日 [今週の聖書の言葉]

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。 (ヨハネ1:1-3)

 この「言」とはどういう意味でしょうか。ある神父さんはこれを「神さまのおもい」と説いています。そうしますと、この個所は、世界の初めには、神さまのおもいがあった、そのおもいは神さまと一体であった、それは神さまご自身であった、この神さまのおもいによって世界とわたしたちは創造された、という意味になります。
 また、10節の「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」は、神さまのおもいがこの世界にあったが、世界のわたしたちはそれを受け入れなかった、ということになるでしょう。
 しかし、12節の「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」は、神さまのおもいを受け入れた人は、神さまの子、つまり、神さまのおもいを受け継ぐ者とされる、ということになるでしょう。
 さらに、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」は、神さまのおもいは、イエスというひとりのお方において、具体的に現れた、イエス・キリストはわたしたちと同じ人間としてわたしたちの間に生まれ、生きてくださり、神さまのおもいを現された、というように受け取ることができるでしょう。
 では、神さまのおもいとはどういう思いでしょうか。それは、たとえば、インマヌエル=「神さまはわたしたちととわにともにいてくださる」、アガペー=「神さまはわたしたちを無条件で愛してくださる」、シャローム=「神さまはわたしたちに平和、平安をくださる」と言い表すことができるでしょう。
 イエス・キリストにはこの三つの神さまのおもいが現れているのでしょう。

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2023年10月22日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。(ルカ19:11)

 人びとは、神の国は、ローマ帝国を武力で倒すような人間の国としてすぐに現れる、イエス・キリストはその指導者である、と勘違いしていたのではないでしょうか。そして、これにつづく「ムナ」のたとえ話は、キリストがこの誤解を解くために語られたのではないでしょうか。
 このたとえ話では、王は国民から「この人を王にいただきたくない」(19:14)ような人物に描かれています。さらには、国民が「どれだけ利益を上げたかを知ろう」(19:15)とし、「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しく」(19:21)、「その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与え」(19:24)、「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」(19:27)と命じるのです。
 これは、とうてい、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」のような神の国のたとえではなく、むしろ、この世の支配者のことでありましょう。キリストは、神の国はこのようなこの世の支配者の国とはまったく違う、と言っておられるのではないでしょうか。
 では、神の国とはどのような国でしょうか。ここで、キリストは直接は言っておられませんが、それは、戦争をしたり、そのために国民を兵士として徴用したり、国民の財産を接収したりせず、むしろ、神さまを中心にして、平和が満ち溢れ、たがいにわかちあい、仕えあう国ではないでしょうか。神さまの愛と平和が漲る国です。

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2023年10月8日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。(ルカ17:1)

 ここからの10節の理解にはいろいろありえますが、イエス・キリストがわたしたちに信仰生活のあり方を教えてくださっているようにも読むことができるでしょう。
 まず、わたしたちの言葉や行動によって誰かがつまずかない、つまり、神さまや教会から離れないようなわたしたちの信仰生活が求められているのではないでしょうか。
 「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」(17:3)
 わたしたちが誰かにその人の非を伝えることは難しく、相当の慎重さが求められますが、もし、相手がそれを受け入れてくれれば、和解する信仰が大切でしょう。
 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(17:6)。
 ここは、信仰の力などたいしたことがないように思えても、じつは大きな力があり、わたしたちを支えてくれる、という意味だと思われます。それ以外には、小さくてもわたしたちは本当に信仰を持っているのか、それは、このような派手なことを求める信仰になってしまっていないか、という問いかけにとることもできるでしょう。
 「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(17:10)。
 信仰は神さまに救われるために果たすべきノルマ、義務ではなく、むしろ、神さまに救われたことの喜び、感謝ではないでしょうか。

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2023年10月1日 [今週の聖書の言葉]

「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(ルカ16:29)

 これは、イエス・キリストのたとえ話の中で、死後、陰府の炎に苦しむ金持ちが兄弟たちに警告したいと言ったことに対するアブラハムの返答です。つまり、死者から生者にわざわざ注意を送らなくても、「モーセと預言者」、つまり、旧約聖書を読めば、この金持ちのように地獄で苦しむことはないというのです。
 しかし、これは、死後の苦しみを避けるためにというよりは、イエス・キリストご自身が伝えたいことは、旧約聖書の神さまのメッセージを大切にしなさい、ということでしょう。
 キリストによれば、旧約聖書は、「あなたの神さまを何よりも大切にしなさい」と「あなたの隣人を何よりも大切にしなさい」のふたつに要約されます。これが「モーセと預言者」が伝えていることであり、死者が人びとに気をつけなさいなどと言う必要はないというのです。
 金持ちは、贅沢三昧をし、神さまも隣人も顧みませんでした。そして、陰府の炎に苦しみました。いや、神さまも隣人も顧みない地上の生活そのものがじつは地獄なのではないでしょうか。
 貧しいラザロは空腹で、病に苦しみました。しかし、そこには神さまがともにおられたのではないでしょうか。たとえ話では天の宴会でラザロはアブラハムとともにいたとありますが、じつは、地上で苦しんでいる時も、神さまがラザロとともにおられたのではないでしょうか。
 人を顧みない金持ちの生き方は、神さまからも人からも離れた生き方です。そうではなく、わたしたちは神さまと人を愛する生き方を祈り求めましょう。

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2023年9月24日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。(ルカ16:9)

お金や財産には、なにかしら、陰がつきまといます。正当に得たお金であっても、たとえば、自分より貧しい人々、苦しんでいる人々がいることを思えば、たんじゅんに喜ぶわけにもいきません。

けれども、富にそのような陰があっても、有意義に使うことも可能でしょう。自分以外の誰かのことを覚えて用いることもできるでしょう。

わたしたちは神さまから与えられた恵みをどのように使えばよいでしょうか。たとえば、わたしたちの時間は、わたしたちだけのためにではなく、人と共に生きるために用いることができるのではないでしょうか。

わたしたちの力、労力、心、言葉も、自分のためだけでなく、人と共に生きるために使うことができることでしょう。

「富で友達を作りなさい」という表現から、「神さまからの恵みは、人と共に生きるために用いなさい」というメッセージを読み取ることもできるのではないでしょうか。

しかし、わたしたちは人と共に生きることが得意ではありません。わたしたちと共に生きてくれる人もそんなに多くはないかもしれません。

友達はほとんどいない、という場合もあるでしょう。けれども、神さま、そして、イエス・キリストが友達になってくださいます。

キリストは讃美歌の歌詞にあるように、「いつくしみ深い友」です。神さまがわたしたちとともに生きてくださるから、わたしたちも人と共に生きたいと願います。

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2023年9月10日 [今週の聖書の言葉]

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:27)

 わたしたちは自分自身や自分に近い存在にこだわり、そこに良いことがあれば喜び、それを期待していますが、はんたいに、望ましくないこと、苦しいことも起こることを予想したり、覚悟したりしているでしょうか。また、そのようなことが起こった場合、覚悟してそれを引き受けているでしょうか。
 わたしたちのこの覚悟のことを、イエス・キリストは「自分の十字架」と呼び、わたしたちをここに招いておられるのではないでしょうか。
 キリストご自身は、ファリサイ派や律法学者たちからの批難、民衆の離反、弟子たちの無理解と裏切り、離脱、そして、十字架につけられ、死ぬことを前もって覚悟しておられ、じっさいにそれが起こった時は、しっかりとそれを受け止められました。
 わたしたちの人生にも厳しいことが起こりますが、それを覚悟することが大切です。同時に、そのとき、わたしたちは独りではなく、キリストご自身がわたしたちとともに、わたしたち以上に苦しんでくださることを知っていることも大切です。
 わたしひとりではこの苦しみに耐えられないが、キリストがともに苦しんでくださる。これがわたしたちの救いです。
 パウロは言います。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(二コリント12:10)。
 キリストがともに苦しんでくださる。そのときわたしたちは苦しみつつもキリストに満たされる。だから、苦しみに対する覚悟ができる。パウロの信仰がうかがわれます。

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