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見えなくても信じる [こども説教]

こども20210418   「見えなくても信じる」 ヨハネによる福音書28:19-29(p.210)
 皆さん、おはようございます。イエスさまが十字架につけられて死んでしまった後、お弟子さんたちは、しっかり鍵をかけて、家の中に閉じこもっていました。
 自分たちも、イエスさまと同じように苦しめられるのではないかと心配だったからです。けれども、その家の中にイエスさまが入ってきました。扉にしっかり鍵をかけていたのに。
 そして、イエスさまは、真ん中に立って、「みんなに平和があるように」と言いました。それは、「みんなが安心できますように。みんながやさしい心になれますように」という意味なのです。
 お弟子さんたちはこのことを、そこにいなくて見なかったほかの人たちに話しました。すると、トマスさんという人は、そんなことは信じられない、死んだイエスさまがこの家の中に入って来るなんて信じられない、ぼくもじっさいにイエスさまを見ないと信じられないと言いました。
それから一週間後、今度はトマスさんも一緒にいたとき、もう一度イエスさまが家の中に入って来て、また、「みんなに平和があるように」と言いました。すると、トマスさんも信じるようになりました。
じつは、わたしたちの心の中にもイエスさまがいるのです。けれども、そのイエスさまはわたしたちの目には見えません。じつは、神さまはわたしたちの心の中にいて「みんなに平和があるように」と言ってくださるのです。けれども、わたしたちにはそれは見えませんし、聞こえません。
でも、見えなくても、聞こえなくても、信じることが大事です。わたしのおじいちゃんふたりとおばあちゃんふたり、それから、わたしのおかあさんとおとうさんは、天国に行ってしまいましたので、目で見ることはできません。でも、天国から、わたしのことを見ていてくれると信じています。
それから、わたしたちには、心があります。でも、心を見たことがある人はいますか。心は見えませんよね。でも、わたしたちは、心があることを見なくても、しっかり信じています。
神さまも同じです。神さまは目には見えませんが、わたしたちは、信じたいと思います。

祈り:神さま、あなたは目には見えませんが、わたしたちの真ん中におられると聖書が教えてくれました。目に見えない神さまを信じることができますように。イエスによって祈ります。

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イエスさまに会う [こども説教]

こども20210404 イースター  「イエスさまに会う」 マタイによる福音書28:1‐10

 皆さん、おはようございます。今日は、イースターと言って、教会では、クリスマスと同じくらいに大切な日です。
 クリスマスはイエスさまの生まれたことをお祝いする日ですが、イースターはどういう日でしょうか。イースターは、イエスさまが十字架につけられて死んでしまったけれども、復活して、みんなのところに戻ってきたことをお祝いする日です。
 死んだ人が復活する、死んだ人が生き返るなんて、とても不思議に思えますが、聖書にはこういうことが書かれています。
 今から二千年前、ユダヤの国で、イエスさまが十字架につけられて死んでしまいました。そして、十字架から降ろされて、お墓に埋められました。それは金曜日の夕方のことでした。
 その次の日は土曜日で、その次の日の日曜日の朝、イエスさまのことをとても大切に思っていた二人の女の人が、イエスさまのお墓に行ってみました。この女の人はふたりともマリアという名前でした。
 すると、大きな地震が起こりました。そして、天使が降りてきました。天使はイエスさまのお墓にふたをしていた大きな岩を動かして、その岩の上にすわりました。
 ふたりのマリアさんはとても怖くなってしまいました。でも、天使は言いました。「恐がらなくてもいいですよ。イエスさまは、このお墓の中にはいません。復活したのです」
 マリアさんたちは、とても怖かったのですが、イエスさまがお墓の中で死んでいるのではなくて、生き返って、自分たちのところに帰ってきてくれる、と聞いて、とてもうれしくもなりました。
 そして、このことを他の人たちに知らせようと走っていくと、そこにはイエスさまが立っていました。そして、マリアさんたちに「おはよう」と言ったのです。マリアさんたちはとても喜んで、体をかがめてイエスさまの足に抱きつきました。
 すると、イエスさまが言いました。「みんなにガリラヤに行くように言いなさい。ガリラヤでみんなに会おう」。ガリラヤとは、イエスさまとみんなが一緒に過ごした場所のことでした。

祈り:神さま、イエスさまが死んでしまって、みんなはもう会えない、と悲しんでいましたが、イエスさまは復活して、ガリラヤで会おうと言いました。わたしたちも、目には見えないイエスさまに心の中で会うことができますように。イエスさまによってお祈りします。

進級式の祈り:神さま、四月になりました。組や学年がひとつずつあがります。小学校や中学校、高校に入学するお友達もいます。この一年間も、神さまがひとりひとりを守ってください。イエスさまによってお祈りします。

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この人は神の子だった [こども説教]

こども20210328   「この人は神の子だった」 マタイによる福音書27 :45-54
 皆さん、おはようございます。皆さん、イースターって言葉を聞いたことがありますか。イースターとは、イエスさまが十字架について死んでしまったけれども、復活した・・・「復活した」とは「生き返った」という意味ですが・・・イエスさまが復活した日、それをイースターと言います。
 イースターはじつは毎年日にちが変わります。今年は、4月4日、来週の日曜日がイースターです。来週は、教会の一番うれしい日なのです。
 でも、イースターの前、つまり、イエスさまは復活する前に、十字架にかけられました。イエスさまが十字架にかけられると、昼間なのに、空は暗くなりました。お昼の十二時に暗くなり、午後三時までずっと暗かったのです。
 三時ごろ、イエスさまは十字架の上で叫びました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、魔法の言葉、呪文のように聞こえますが、そうではありません。
 「わたしの神さま、わたしの神さま、どうして、わたしを見捨てたのですか」という意味です。
 じつは、神さまはイエスさまを見捨てていませんでした。イエスさまがイースターに生き返るのは、神さまがイエスさまを見捨てていなかったことのしるしです。
 けれども、イエスさまも、十字架につけられて死んでしまうのは苦しかったのでしょう。だから、「わたしの神さま、わたしの神さま、どうして、わたしを見捨てたのですか」と叫んだのでしょう。
 わたしたちも、苦しい時、神さまはわたしを見捨ててしまったのではないかなあ、と思うことがあります。イエスさまはそんなわたしたちと同じ気持ちになってくれたのだと思います。
 イエスさまはもう一度「わたしの神さま、わたしの神さま、どうして、わたしを見捨てたのですか」と叫んで、息を引き取りました。死んでしまったのです。
 ところが、これを見ていた人は、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。どうして、十字架について死んだ人が神の子だったなんて思うのでしょうか。
 人が死ぬことはとても悲しいことです。けれども、わたしたちは人が死ぬとき、その人がすばらしい人だったことを思い出します。その人がしてくれたこと、その人が一所懸命に生きたことを思い出します。神さまがその人にいのちを与え、いつも一緒にいたことを思い出します。だから、人びとは、イエスさまを見て「本当に、この人は神の子だった」と言ったのではないでしょうか。
 今日は少し怖いお話でしたが、来週は、イエスさまが生き返る、うれしいお話です。
 お祈りいたしましょう。

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イエスさまも苦しい [こども説教]

こども20210314  「イエスさまも苦しい」 マタイによる福音書26:69-75 (p.55 )
 皆さん、おはようございます。おひさしぶりですね。クリスマス以来ですね。今日は、皆さんにお会いできて、とてもうれしいです。
 さて、今、日本中、世界中は、コロナウィルスというものによって起こる病気で苦しんでいます。わたしたちも、学校やお仕事や毎日の生活で、いままでとは違う、ちょっと苦しいことを感じています。
 じつは、イエスさまも苦しんだのです。いま、教会は、イエスさまの苦しみのことを心に思い浮かべる期間なのです。この期間を受難節、あるいはレントと呼びます。
 イエスさまは、どんなことで苦しんでいるかというと、力の強い人たちにつかまえられ、悪口を言われ、傷つけられ、そして、十字架につけられて、殺されてしまうのです。そして、自分の仲間からも、知らない、と言われてしまうのです。
 イエスさまは、力の強い人たちにつかまえられる少し前に、自分の仲間である弟子たちに、「私が捕まえられると、あなたたちの誰かが私のことを知らないと言います」と言いました。
 ペトロさんは、「たとえみんながイエスさまを知らないと言っても、私はそんなことをしません」と言いました。けれども、イエスさまは、「あなたは、にわとりが鳴く前に、わたしのことを三度知らないと言います」と言いました。
 そして、イエスさまはつかまってしまいます。ペトロは自分も捕まってしまうのは怖いけれども、気になるので、そのうしろにそっとついていきました。
 すると、ある人が言いました。「あなたは、つかまったイエスと一緒にいた人ですね」。しかし、ペトロは「なんのことだ。わたしにはわからない」と答えました。
 また、ある人が言いました。「この人は、イエスと一緒にいました」。しかし、ペトロは「イエスなんて人は知らない」と答えました。
 もう一人の人が言いました。「あなたはたしかにイエスの仲間だ。話し方が同じだ」。しかし、ペトロは答えました。「イエスなんて人は知らない」・・・
 その時です。鶏が鳴きました。ペトロは、あなたは、にわとりが鳴く前に、わたしのことを三度知らないと言います」というイエスさまの言葉を思い出して、そこを逃げ出し、激しく泣き出しました。
 イエスさまのことを知らないなんて言ってしまって、ペトロさんはとても苦しくなったのではないでしょうか。そして、イエスさまも、ペトロさんにこんな人など知らないと三度も言われて、とても苦しかったのではないでしょうか。
 お祈りをいたします。神さま、わたしたちは今コロナなどで苦しんでいます。しかし、苦しんでいるのはわたしたちだけではありません。イエスさまも苦しまれました。イエスさまが私たちと一緒に苦しんでくださることを思い出させてください。イエスによって祈ります。

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神さまといっしょ [こども説教]

こども20201213  「神さまといっしょ」  ルカ1:26-31 (p.100 )
 皆さん、おはようございます。きょうは何本のろうそくに火がともりましたか。そうです。三本ですね。では、来週は何本になりますか。そうです。四本ですね。
 このろうそく四本に火がともると、いよいよクリスマスです。では、クリスマスはどういう日ですか。そうです。イエスさまのお誕生をお祝いする日ですね。
 ところで、お誕生日には、わたしたちは、なんて言いますか。「お誕生日、〇〇〇〇〇」。そうですね。「お誕生日、おめでとう」と言いますね。そして、さっき読んでいただいた聖書の中でも「おめでとう」と言われていた人がいました。それは誰でしょうか。そうです。マリアさんです。
 いまから二千年前のある日、ひとりの天使がマリアさんのところにやってきました。この天使の名前は、ガブリエルと言います。このガブリエルがマリアさんのところにやってきました。
 そして、言いました。「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられる」「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられる」 ここで、天使はマリアさんに「おめでとう!」って言っていますね。
 天使ガブリエルはどうしてマリアさんに「おめでとう」って言ったのでしょうか。その理由もガブリエルが言っています。「主があなたとともにおられる」「主があなたとともにおられる」
 「主」とは神さまのことです。「神さまがあなたと一緒にいますよ」と天使ガブリエルはマリアさんに言ったのです。
「神さまがあなたと一緒にいますよ」。この言葉を教会で前に聞いたことはないでしょうか。そうです。「神さまが一緒にいます」。これは聖書の言葉では、インマヌエルという言葉になります。
 アーメンは「そのとおりです」、そして、インマヌエルは「神さまが一緒にいます」という意味です。
 さて、マリアさんは少し心配になりました。いきなり天使があらわれましたし、天使は、あなたのお腹にはイエスさまがいますよ、などと言うのですから。
 けれども、マリアさんは考え直しました。インマヌエル、神さまがわたしと一緒にいるのなら、きっと大丈夫だと。神さまにお任せしましょうと。
 わたしたちも、ときどき心配なことがありますが、インマヌエル、神さまが一緒にいてくださることを思い出したいと思います。

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インマヌエル [こども説教]

こども20201129  「インマヌエル」  マタイ1:18 -23 (p.1 )
 皆さん、おはようございます。今日はここにこんなものが置いてあります。これは、アドベントリースと言って、今日からクリスマスまで、火をつけるろうそくの本数が、今週は一本、来週は二本、そのつぎは何本? そう三本、そのつぎは? そう四本、そのように増えていきます。
 アドベントとは、クリスマスが来るのを待つ四週間のことです。そして、クリスマスは、誰の誕生日でしょうか。そうです。イエスさまの誕生日ですね。
 いま読んでもらった聖書に、イエスさまが生まれるときのことが書いてありました。ヨセフさんはマリアさんと結婚する約束をしていました。けれども、マリアさんのおなかには結婚する前に赤ちゃんがやってきました。
 ヨセフさんは、マリアさんは自分と結婚の約束をしていたのに、ほかの男の人と仲良くなってしまったのではないかなと疑って、もうマリアさんと結婚するのを止めてしまおうと思いました。
 ところが、ヨセフさんが寝ていると夢に天使が現れて、「マリアさんと結婚しなさい。マリアさんのお腹に宿ったのは、神さまの子ども、イエスさまです」と言いました。そして、「それは、神さまがいっしょにいてくださるしるしなんです」と教えてくれました。
 クリスマスにイエスさまが生まれるってことは、神さまがわたしたちみんなと一緒にいてくださるしるしなんです。神さまがわたしたちと一緒にいてくださる、聖書の言葉では、これをインマヌエルと言います。インマヌエルは「神さまが一緒にいます」という意味の聖書の言葉です。アーメンという言葉には「そのとおりです」という意味がありますが、インマヌエルはアーメンとと同じくらいに大切な言葉です。ぜひ覚えてください。

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神さまはうそをつきません [こども説教]

こども20201108  「神さまはうそをつきません」  マタイ21:28-30 (p.41 )
 皆さん、おはようございます。今日読んでいただいた聖書のお話は、こんなお話でした。
 ある人に子どもがふたりいました。お兄さんと弟さんです。ある日、そのお父さんはお兄さんに「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いましたが、お兄さんは「いやです。行きません」と答えました。けれども、そのあとで、お兄さんは考え直して、ぶどう園に行って働いたのです。
 それから、そのお父さんは弟さんにも言いました。「今日、ぶどう園に行って働きなさい」。すると、弟さんは「お父さん、わかりました」と答えました。けれども、弟さんはぶどう園には行きませんでした。
 さて、お兄さんと弟さんのどちらが、お父さんの願い通りにしましたか。お兄さんでしょうか。弟さんでしょうか。口ではわかりましたと言いながら、ぶどう園に行かなかった弟さんの方でしょうか。それとも、口ではいやですと言いながら、考え直して、ぶどう園に行ったお兄さんの方でしょうか。
 そうです。お兄さんの方が、お父さんの願い通りにしましたね。じつは、この話は、神さまとわたしたちのことなのです。たとえば、わたしたちは、教会で、「イエスさまは、お友達と仲良くしようね、と教えてくださいました」というお話を聞いても、ときどきお友達とけんかをしてしまうことがありますよね。
 良いことを教えてもらっても、そして、口ではそうしますと言っても、そうできないときがあります。そうしようと思っても、そうできないときがあります。
 それは、仕方のないことなのですが、気を付けなければならないのは、口では良いことを言いながら、それを守らないことが癖になってしまうことです。口で言うことと、じっさいにすることが違ってしまう、それがあたりまえになってしまって、自分でも、それに気づかなくなってしまう、それが一番残念なことです。
 心ではそう思っていないのに、口では良いことを言ってみたり、ほんとうはする気がないのに、口さきだけで、するする、と言ってみたりしないように気を付けたいですね。
 神さまはそういうことはしません。年間聖句に「わたしの目に あなたは価高く、貴く、
わたしはあなたを愛している」とあります。これは、神さまの言葉です。
 神さまはわたしたちに「わたしはあなたのことがとても大切です。わたしはあなたを愛している」と言ってくださいます。そして、それは、口先だけでなく、神さまは、じっさいにわたしたちを大切にし、愛してくださるのです。
 お祈りをいたしましょう。神さま、あなたは口先だけでなく、わたしたちのことをとても大事にし、とても愛してくださいます。ありがとうございます。わたしたちも、口先だけでなく、家族や友達や周りの人を大事にすることができるように育ててください。イエスさまによってお祈りいたします。

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こわがらなくてもいいよ [こども説教]

こども20201025  「こわがらなくてもいいよ」  マタイ10:28-30 (p.18 )

 皆さん、おはようございます。皆さんの一番こわいものは何でしょうか。おばけでしょうか。それとも、ごきぶりでしょうか。それとも、暗いところでしょうか。夜、真っ暗になると、こわくありませんか。それとも、ひとりぼっちになるときでしょうか。誰か知っている人がいないと、こわくないですか。

 ぼくにも、こわいものがあります。注射は、すこしこわいですね。でも、がまんします。針がささるところをみないようにして、早く終わってほしいなあ、と思いながら、がまんします。

それから、歯医者さんもこわいですね。歯医者さんで、口を開けて、歯医者さんがぼくの口の中で何かしているとき、痛いことをされないか、けっこうこわいです。

そういうときは、頭の中で讃美歌を歌います。この讃美歌では言葉が変わってしまったのですが、主我を愛す、って讃美歌があります。

主我を愛すとは、イエスさまがわたしを愛してくれる、という意味です。イエスさまがわたしを愛してくれる、イエスさまはわたしより強いので、わたしが弱くても、怖がらなくて大丈夫、という意味の讃美歌です。

さて、今日の聖書で、イエスさまは、恐れるな、と言っています。恐れるな、というのは、こわがらなくてもいいよ、という意味です。

さきほどの聖書にすずめが出てきました。わたしたちはお店ですずめが売られているのは見たことがありませんが、今から二千年前、イエスさまの住んでいたユダヤの国では、すずめ一匹100円で売られていたそうです。

もっと大きな鳥や、もっとあざやかな色の鳥、もっとめずらしい鳥だったら、1000円とか10000円とかするかもしれませんが、すずめは小さいしあざやかな色ではないしめずらしくもないので、100円で売られていたのです。

けれども、そんな小さな弱いすずめでも、神さまは地面に落としたりしないよ、地面に落ちそうになったら神さまが守ってくれるよ、とイエスさまは教えてくださいました。

神さまは小さなすずめを守るように、わたしたちも守ってくださいます。最初にお話ししたように、わたしたちには、こわいもの、こわいことがいくつかあります。でも、すずめを守るように、神さまはわたしたちを守ってくださいますから、勇気を持ちましょう。

勇気ってわかりますか。勇気とは、こわいと思っても、その気持ちに負けないことです。わたしたちは、あまり危険なことはしてはいけませんが、しなくてはならないことは、こわくても、勇気をもって乗り越えていきたいと思います。

きっと神さまが守ってくださいます。だから、こわがらなくてもいいよ、とイエスさまは教えてくださいました。

お祈りいたしましょう。神さま、わたしたちは、しなくてはならないことなのに、こわくなってしまうことがあります。そんなとき、神さまが守ってくださることを信じて、勇気を持つことができますように。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。

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いのちとこころ [こども説教]

こども20201011  「いのちとこころ」  創世記2:7 (p.2)
 皆さん、おはようございます。聖書には旧約聖書と新約聖書があります。この一冊の中に旧約聖書と新約聖書の両方が入っているのです。旧約聖書とは、古くからある聖書という意味です。新約聖書とは、新しくできた聖書という意味です。でも、古いとか新しいとか言っても、どちらも、今から二千年以上前のことですから、とても昔からあるお話なのです。
 新しい方の新約聖書には、おもに、イエスさまのことが書かれています。古くからある旧約聖書には、おもに、神さまのことが書かれています。
 神さまのどんなお話が書かれているかというと、先週読んだ旧約聖書のページには、神さまが、わたしたちが生きているこの世界の光や太陽や月や星、それから、陸や海、そして、草や木や、魚や鳥や動物、そして、人間を創ってくださったことが書かれていました。
 そして、今日読んだ聖書には、神さまが人間を創ってくださったときのことが、さらに詳しく書かれています。
 もう一度読んでみましょう。創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
 神さまは、わたしたちの体を造ってくださっただけなく、わたしたちの体に、命の息を吹き込んでくださったのです。
 命の息ってなんでしょうか。たとえば、わたしたちが図工の時間に、粘土で人間の形を造っても、それは動きませんよね。紙や木で人間の形を造っても、それも動きません。粘土や紙や木で作っただけでは、いのちも心もないのです。
 しかし、神さまは、わたしたちには、命と心をくださいました。わたしたち人間には、体だけでなく、命と心があるのです。先ほどの聖書で、神さまが吹き込んだ命の息とは、わたしたちが今生きているこの命と心のことなのです。
 命は人間が創り出すことはできません。心も人間が創り出すことはできません。命も心も、神さまがわたしたちにくださった一番大事なものなのです。
 そして、神さまは、わたしたちの命と心をとても大切にしてくださいます。だから、わたしたちも、自分の命と心、それから、家族やお友達の命と心、すべての人の命と心を大切にしましょう。
 お祈りをいたします。神さま、あなたは、わたしたち一人一人の中に、命と心を吹き込んでくださいました。そして、あなたは、それをとても大切にしてくださいます。ほんとうにありがとうございます。神さま、わたしたちも自分の命と心も、自分以外の人の命と心も大切にすることができますように。イエスさまによってお祈りします。

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神さまのいるところ [こども説教]

こども20200927  「神さまのいるところ」  コリントの信徒への手紙一3:16 p.302
 皆さん、おはようございます。皆さんは、神さまはどこにいると思いますか。神さまは教会にいると思いますか。まぶね教会のどこかに神さまはいると思いますか。神さまはみんなの心の中にいると思いますか。
 神さまはみんなのおうちにいると思いますか。神さまは学校にはいるでしょうか。神さまは、日本にいるでしょうか。神さまは、外国にいるでしょうか。アメリカにいるでしょうか。神さまは、この地球にいるでしょうか。それとも、宇宙にいるでしょうか。宇宙のどこかに、神さまの国があって、神さまはそこにいるでしょうか。
 さっき読んだ聖書にこんな言葉がありました。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。
 これはパウロさんという、イエスさまのお弟子さんの書いた手紙なのですが、わたしたちは神さまの神殿です、とパウロさんは書いています。神殿って、何でしょうか。昔の人は、神殿というところに神さまがいる、って思っていたんですね。神殿は何でできていたでしょうか。神殿は、石や木でできていました。
 ところが、パウロさんは、わたしたちが神殿ですよ、と言うのです。わたしたちは、石や木ではできていませんよね。でも、パウロさんは、わたしたちが神殿です、と言うのです。これは、どういう意味でしょうか。
 これは、神さまは、わたしたちの中にいる、という意味なのです。わたしたちの口の中を覗いても見えないけれども、神さまはわたしたちの中にいるよ、とパウロさんは言うのです。
 見えないのに、目に見えないのに、神さまがわたしたちの中にいるって、不思議ですよね。でも、少し考えてみてください。わたしたちの心はどこにありますか。わたしたちの心も、口の中を覗いてみても見えませんが、わたしたちの中にありますよね。
 それから、愛はどこにありますか。愛ってちょっと難しいかもしれないけれども、愛とは、やさしい心、大切に思う心のことです。愛も見えませんけど、ありますよね。
 同じように、神さまも目に見えないけれども、わたしたちの中にいてくださるのです。神さまは、わたしたちの心の中にいる、と言ってもいいのです。
 では、どういうときに、神さまは、わたしたちの心の中にいるのでしょうか。ひとつは、わたしたちが、心の中で、「神さま」って思うときです。わたしたちが心の中で「神さま」って思ったら、神さまはわたしたちの心の中にいるのです。
 それから、こうやって、礼拝をしたり、お祈りしたり、聖書を読んだり、讃美歌を歌ったりするときも、神さまはわたしたちの心の中にいるのです。
 そして、もうひとつ、わたしたちが仲良くするとき、けんかをしないで仲良くするとき、家族やお友達や誰かのことを大切に思うとき、誰かのことを大事に思うとき、やさしい気持ちになるとき、目には見えないけれども、神さまはわたしたちの心の中にいます。
 心の中、心の中って言いましたが、目には見えないけれども、わたしたちと一緒にいる、わたしたちの隣にいる、そう思っても大丈夫です。 
 お祈りをいたしましょう。神さま、あなたは目に見えませんが、いつもわたしたちと一緒にいてくださいます。わたしたちはときどき「神さま」って心の中で思い出すことができますように。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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