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新しい道を歩む [礼拝説教(使信)動画]

2021年12月26日 「新しい道を歩む」

https://youtu.be/9V_K8FRSNko
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2021年12月26日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(マタイ2:12)

神はわたしたちにどのようにして語りかけるのでしょうか。聖書の言葉、あるいは、讃美歌の一節、礼拝で聞いた言葉、自分の中に浮かぶ言葉にならない思いをそのように感じることもあるでしょう。あるいは、東からやってきた占星術の学者たちのように、夢での天使のお告げを神の言葉と受け止める場合もあるでしょう。

いずれにせよ、学者たちはイエスと出会うことによって、「ヘロデのところへ帰るな」という神のメッセージを受け取ったのでしょう。

それは、ヘロデのような生き方を止めて、新しい生き方を求めることだったのではないでしょうか。ヘロデのような生き方とは、自分の立場が脅かされることにつねに怯え、それゆえに、そのような者を警戒し、動きを抑えるような生き方のことではないでしょうか。

わたしたちは、自分を傷つける相手からは避難したり距離を置いたりしなくてはなりませんが、そうではなく、自分にとって好ましくない相手をただ追い払おう、ただやっつけようとする生き方は止めようとすべきではないでしょうか。

自分中心の思いで人を傷つけたり斥けたりねじ伏せたりする生き方から、他者の思いを不可能ながらも想像し、傷つけたり抑えつけたりせずに、むしろ、いたわり、その人に任せる生き方へと変われるように願い求めるのがよいのではないでしょうか。

あるいは、自分の人生を不安がるばかりの生き方から、神に委ねる、あるいは、委ねようとする、新しい道、これまでとは別の道を選ぶのがよいのではないでしょうか。イエスとの出会いはそれへと導いてくれるのではないでしょうか。

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新しい道を歩む [使信]

2021年12月26日 マタイ2:1-12  「新しい道を歩む」

おはようございます。今週末には、新年、新しい年を迎えようとしています。しかし、12月31日が終わり1月1日になると、いったい何が新しくなるのでしょうか。日付が変わるだけで、どうして新しいということになるのでしょうか。それは、世の中のきめごとに過ぎません。カレンダーはきめごとに過ぎません。カレンダーが変わっても、わたしたちやわたしたちの人生が新しくなるわけではありません。

それでは、何がわたしたちやわたしたちの人生を新しくしてくれるのでしょうか。それは、わたしたちにとって大切な出来事ではないでしょうか。わたしたちは大切な出来事によって新しくされます。そして、聖書は、イエスとの出会いはわたしたちを新しくしてくれる大切な出来事であると物語っています。

イエスとの出会いには、神との出会いが含まれます。神との出会い、あるいは、神との再会、と言ってもよいでしょう。なぜならば、わたしたちの源、わたしたちにいのちを与えてくださったお方、わたしたちの出発点が神なのですから、神との出会いは神との再会なのです。イエスとの出会いは、わたしたちを神と再会させてくれます。そして、わたしたちは、神と再会することで、新しくしていただくのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書2章2節です。2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

ヘロデ王は不安になります。エルサレムの人びとも不安になります。いや、皆、もともと不安だったのかもしれません。ヘロデ王は、自分の地位、財産、生命をなくしてしまうのではないか不安でした。まわりの人も信頼せずに疑っていたことでしょう。彼は支配欲、私利私欲の化身で、それゆえに、不安の塊であったことでしょう。

エルサレムの人びとも、そのような王や支配者に対する恐怖、日毎の衣食住が確保できるか、それから明日も生きていけるかという不安にさいなまれていたことでしょう。

わたしたちも、また、病気、仕事、家族、人間関係、衣食住、教育、自分の心の苦しみなど、不安を抱えています。コロナも、また感染が拡大するのではなかろうかとか、何か閉じ込められたようなこの毎日がもう二年も続いている、いつまで続くのだろうかという不安を抱えています。この不安はどうしたらよいのでしょうか。

4節です。2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

エルサレムやユダヤの人びとにとっては、メシア、救い主の登場は、不安からの救いであったことでしょう。しかし、ヘロデ王は、メシアの生まれる場所を知ってメシアと思われる子どもを殺してしまうことが、不安を解消する手段でした。自分の不安を解決するために、人を犠牲にするのか、それとも、神に希望を抱くのか、わたしたちも問いかけられているのではないでしょうか。

「ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない」とあります。これは、旧約聖書のミカ書からの引用だと思われます。しかし、ミカ書にはこのようにあります。

ミカ5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。

つまり、ミカ書では、ベツレヘムは「いと小さき者」と言われているのですが、マタイ福音書は、それを引用する際に、ベツレヘムは「決していちばん小さいものではない」と言い変えているのだと考えられます。

ミカ書は、神の救いは、ベツレヘムのようなとても小さなところから始まる、と言っています。小さいところにこそ、弱いところにこそ、救い主があらわれる、神の力が働くと言っているのではないでしょうか。

じつは、新約聖書でもパウロが同じことを言っています。コリントの信徒への手紙二でパウロはこう述べています。

12:7わたしの身に一つのとげが与えられました。12:8 これについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

 パウロはとげを与えられたと言います。体かあるいは心に、突き刺さるような痛み、苦しみを抱えていたのではないでしょうか。パウロはそれを取り除いてくださいと神に繰り返し祈りますが、パウロは、「神の力は、自分の弱さの中にこそ、十分に発揮される」という神のメッセージを受け取るのです。パウロの痛み、ベツレヘムというちっぽけな村、わたしたちのもっとも弱い部分、そこにこそ神の力が注がれるのではないでしょうか。

今日のマタイ福音書がミカ書の「ベツレヘムはいと小さきもの」を「ベツレヘムは小さいものではない」と言い変えるとき、ベツレヘムの大きさではなく、小さいところ、弱いところに働く、神の力の強さを言っているのではないかとも思われます。

9節です。2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

ヘロデ王は自分の権力でイエスを探し当てて殺して自分の不安を解消しようとしますが、東からやってきた占星術の学者たちは、星に導かれて、つまり、自分ではない大きな力、神の力に導かれて、イエスと出会います。そして、喜びに満ち溢れます。学者たちは、イエスの中に、神を見たのではないでしょうか。イエスにおいて、神と再会したのではないでしょうか。

宗教を言い表す西洋の言葉には、たとえば、religionという英語の語源にも、再びつながる、再び結ばれる、という意味があります。つまり、西洋の言葉では、宗教とは、神とふたたび結ばれることなのです。つまり、神との再会のことなのです。

 11節です。2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

東からやってきた学者たちは、イエスと出会い、神と再会し、大きな喜びに満たされます。そして、それへの応答、それへの感謝を示します。それが、黄金、乳香、没薬の贈り物です。

けれども、神と再会し、神とふたたび結ばれた学者たちの応答は、感謝は、それだけではありません。もうひとつあります。それは、別の道を選ぶことです。イエスと出会う前、神と再び結ばれる前とは、違う道を歩むことです。

これまでとは別の道、新しい道、新しいことは、カレンダーに従うことではなく、イエスと出会い、わたしたちの源である神とふたたび結ばれることによって始まります。

新しい道を歩む。わたしたちは、どういうふうに新しくなりたいでしょうか。わたしは、たとえば、自分の気分よりももっと大きな精神に従う者になりたいと思います。心理的な感情よりも、精神的な感動を優先させるようになりたいと思います。大きなことより小さなことを、人に知られることより神に知っていただいていることを喜びたいと思います。

敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみといった、自分という人間が生み出すものに従って行動するのではなく、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実 柔和という、神からわかちあたえられた精神に導かれて生きたいと思います。神の精神に委ねることこそが、別の道、新しい道、新しくなることではないでしょうか。

しかし、わたしは100%の転換はしないでしょう。相変わらず、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみに揺さぶられることでしょう。しかし、そうでありつつ、それを自覚して、自分はそうなってしまっていることを告白しつつ、神の精神、神からわかちあたえられる霊に少しでも従わせてくださいと祈り続けたいと思います。

新しい年が近づいています。しかし、それは、一年に一度のことです。けれども、イエスに出会い、神と再び結ばれることは、毎週の礼拝でも、毎日の聖書読書や祈りでも、神に思いを向ける瞬間ごとに起こるのです。つねに新しくされるこの道を歩き続けようではありませんか。

祈り:神さま、わたしたちは古い自分や自分の思いに執着してしまいますが、あなたは、わたしたちとつねにあらたにつながってくださり、わたしたちを新しくしてくださいます。心より感謝を申し上げます。あなたがわたしたちを新しくしてくださるのですから、わたしたちも新しくなるという祈りを強めることができますようにお導きください。神さま、痛み、苦しみ、孤独な友がいます。どうぞ、あなたがともにいてください。あなたがともにいることで、友を新しくしてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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クリスマスの心 [使信]

2021年12月24日 クリスマスイブ ルカ1:26-2:9  「クリスマスの心」

 こんばんは。クリスマス、おめでとうございます。今日の聖書には、不思議なこと、すぐには信じられないことがいくつかでてきました。マリアのところに天使があらわれたこと、身重のマリアとヨセフは旅をしていたけれども、宿屋が見つからず馬小屋でイエスが生まれ飼い葉おけに寝かされたこと、羊と一緒に野宿をしていた羊飼いたちのところにたくさんの天使があらわれたこと、こうした話を聞くと、童話を読む子どものような心にはなりますが、ほんとうにそんなことがあるのか、という思いも心のどこかにあるのでしょうか。

 天使は本当にいるのでしょうか。同じような質問をした子どもがいました。今から120年以上昔、1897年と言いますから、まだ20世紀にもなっていない19世紀の終わりに、バージニアという9歳の女の子がニューヨークの新聞社に手紙を書きました。

 「こんにちは、しんぶんのおじさん。 わたしは八さいのおんなのこです。(あ、9歳ではなくて8歳でした)じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら新聞社に聞きなさい、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースは、ほんとうにいるのですか?  ヴァージニア」

 皆さんが八歳の女の子にこう聞かれたら、どう答えるでしょうか。わたしなら、なるべくバレないように、「そうだね、きっといると思うよ」と適当なことを言って、あとは、子どもが成長して自然に気づくのを待つことにすると思います。

 けれども、このしんぶんのおじさんは、わたしよりもっと誠実でした。

 ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。

でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、ぜんぶがわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。

ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。

 じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。

もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。

サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。みんな、何を見たっておもしろくなくなるだろうし、世界をたのしくしてくれる子どもたちの笑顔も、きえてなくなってしまうだろう。

 わたしは、このしんぶんのおじさんの返事の中で、サンタクロースというところを、天使に代えても良いように思います。さらには、イエス、あるいは、神に代えても良いように思います。

「愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。」

 これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。

 「愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、天使もイエスも神もちゃんといるし、愛も天使もイエスも神も、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。」

 それから「もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。」

 これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。

 「もし天使やイエスや神がいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。」

そして「サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。」

これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。

 「天使やイエスや神がいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。」

 わたしたちは、天使とかイエスとか神とか言うと、何かはっきりとは信じられないものを感じますが、愛とか思いやりとか詩を楽しむ心、人を好きと思う心なら、たしかに感じたことがあるのではないでしょうか。

じつは、神は、わたしたちの心と、無関係ではないのです。どちらも、目には見えないけれども、大切なものですよね。神という漢字も、神がわたしたちの心とつながっていることを思わせます。

神という漢字には、もちろん、神という意味がありますが、精神とか神経という漢字熟語からわかるように、神という字には、心という意味もあるのです。

わたしたちの心の中には、自分の考え、自分の思い、自分の気持ちのように、自分のものがたしかにありますが、それだけでなく、愛や良心のように、かならずしも自分のものとは言い切れない、深い大きなものがあるのではないでしょうか。

 天使があらわれ今夜イエスが馬小屋で生まれ飼い葉おけに寝ているという知らせを告げますが、わたしたちも、自分の心の奥底には、自分の心の上の方にある自分の悲しみや苦しみ、孤独という馬小屋の、奥底にある飼い葉桶には、神から届けられた愛や思いやりが横たわっているのではないでしょうか。そして、その愛や思いやりは、神がわたしたちに与えてくれたプレゼントであり、どうじに、わたしたちが誰かとわかちあうプレゼントなのではないでしょうか。

 祈り:神さま、わたしたちの心は、冬の夜の馬小屋のように、冷たくなってしまうことがありますが、その飼い葉おけに、あなたが愛と思いやり、詩や歌、文学を楽しむ心、人を大切に思う心を横たわらせてくださると信じます。神さま、寂しく苦しい心を抱える人びとを、わたしたちを、あなたの愛で温めてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。アーメン。

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天使の知らせ [礼拝説教(使信)動画]

2021年12月19日 「天使の知らせ」

https://youtu.be/nN4dfa5JeeA
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2021年12月19日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる』」(ルカ2:10)
 
 この病気はどうなるのか、足腰は悪くなるばかりなのか、家族の人生はどうなるのか、自分の日々の生活は維持できるのか、仕事は続けられるのか・・・わたしたちは、さまざまな不安や恐れを抱え、このままではいけない、どうしたらよいのか、しかし、どうにもならない、このままだとだめだ、と怯えています。
 わたしたちの心は、苦しみや悲しみや寂しさやいらだちや憎しみや憤怒でいっぱいです。ときどき楽しいことがあっても、それもまた否定的な想いの下に隠れてしまいます。
 二千年前、暗闇で野宿をしていた羊飼いたちも、恐怖や孤独や絶望に囲まれていたのではないでしょうか。けれども、天使は言います。「恐れるな。喜びの知らせがある」。
 この天使の声はわたしたちに届いているでしょうか。わたしたちは天使の声に耳を傾けているでしょうか。自分の声ばかり聞いているのではないでしょうか。
 天使はまばゆい姿で現れ高らかに語るとは限りません。むしろ、天使の言葉は、わたしたちには、別の姿で届くのではないでしょうか。
 わたしたちが目を閉じ、自分の思いを横に置き、黙祷し、静寂に耳を傾けるとき、聖書の言葉の表面の奥の深いところにある神のメッセージを求めるとき、一輪の花を咲かす深いところのいのちの力を想うとき、わたしたちには、恐れなくてもよい、大丈夫だ、あなたを創造し生かし続けるいのちの力がいつも注がれている、という喜びの知らせが聞こえてくるのではないでしょうか。

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天使の知らせ [使信]

2021年12月19日 ルカ2:1-20  「天使の知らせ」

おはようございます。クリスマスおめでとうございます。さきほど読んでいただいた聖書の個所では、羊飼いたちは天使の声に耳を傾けました。わたしたちは、天使の声を、天からの声を、神の声を、聴こうとしているでしょうか。それとも、自分の声にしか、興味がないでしょうか。言い変えますと、もしかしたら、わたしたちは、自分の浅い声、深みのない声、聞きやすい声しか聞いていないのではないでしょうか。わたしたちは、自分や世界や花や海や川や本や聖書の、表面の奥の深いところに神の声を聞こうとしているでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。ルカによる福音書2章1節です。2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

ローマ皇帝からの知らせがありました。いや、これは知らせではなく、有無を言わさない命令です。「全領土の住民」とあります。つまり、皇帝にとっては、人間は自分の領土の中身、領民に過ぎないのです。自分の所有物に過ぎないのです。

「登録をせよ」とは、皇帝の臣民となれ、ということであり、皇帝に税を納めよ、ということであり、場合によっては、徴用や徴兵に応ぜよ、ということではないでしょうか。その登録のために、人びとは長い道のりの移動を余儀なくされます。イエスの母マリアも、出産が近いにも関わらず、それに従わざるを得ませんでした。けれども、移動先で泊まる宿も見つかりません。命令とは、このようなものです。

しかし、天使の知らせは、皇帝の命令とは正反対のものでした。

8節です。2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

天使は誰に知らせを告げたのでしょうか。貧しい羊飼いです。羊とともに泥や埃や糞尿にまみれ、凍てつくように寒い夜、野宿をせざるを得なかった羊飼いたちに、天使は知らせをもたらしました。

どんな知らせでしょうか。「恐れるな」。畏敬の念を抱く、近づきがたいものとしてかしこまり敬う、そういう意味での神への畏れは必要です。しかし、神の前で恐怖に怯える必要はありません。ひどいめに遭うかもしれないとがたがた震える必要はありません。

神は、わたしたちに、恐怖ではなく、むしろ、平安をもたらしてくださいます。だから、恐れるな、神を恐れることはないのです。さらには、わたしたちは人生をも、自分の生きている世界をも、何ものをも恐れなくてよいのです。神がともにおられるのですから。神は、インマヌエル、つまり、神がわたしとともにいます、と呼ばれるお方なのですから。これが、天使の知らせです。

天使は言葉を続けます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。大きな喜びは「全領土の住民」ではなく「民全体」に伝えられます。ローマ皇帝の命令は自分の支配下、自分の所有物である住民にくだされますが、天使の知らせは、すべての人びと、誰の所有物でもない、ひとりひとり大事な存在であるすべての人びとに届けられるのです。

しかも、ローマ皇帝の所有物としての登録命令ではなく、「大きな喜び」が届けられるのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」「あなたたちは救われる」という大きな喜びです。

12節です。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

先日、二十年近く年前の映画をインターネットで観ました。東京ゴッドファーザーズというアニメ映画ですが、子ども向けというわけではなく、大人に訴えるメッセージを持っていました。

 三人の主人公はゴミ捨て場で赤ちゃんを見つけます。そして、その赤ちゃんの親を探すのですが、そうしながら、三人は自分の大切な人びととのつながりを回復させていきます。飼い葉桶、粗末なまぶね、ゴミ捨て場を深く見つめることこそが、わたしたちが失った大切なものを取り戻させてくれるのかもしれません。

わたしたちにとっての、貧しいまぶね、ゴミ捨て場とは、いったい何のことでしょうか。わたしたちの人生の、ちいさな粗末なまぶね、ゴミ捨て場とは何でしょうか。それは、病であり、失敗であり、挫折であり、暴力や暴言を受けることであり、それを発してしまうことであり、何もかもうまく行かないことであり、先行きの不安であり、大きな孤独であるかもしれません。わたしたちは、そこに、その奥底に、生後間もない乳飲み子を見つけることができるでしょうか。赤ちゃんの泣き声、悲しくもあり、うれしくもある赤ちゃんの泣き声を聞くことができるでしょうか。

14節です。2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

「いと高きところには栄光、神にあれ」とあります。「栄光、神にあれ」です。「栄光、皇帝にあれ」ではありません。「偉い人に栄光あれ」「権力者に栄光あれ」でもありません。「ただ神にのみ、栄光あれ」です。

「地には平和」。この地とはどこのことでしょうか。粗末な家畜小屋やそのまぶねや、羊や羊飼いたちが震えている野原も、この地には含まれることでしょう。わたしたちの人生のゴミ捨て場、わたしたちの人生のどん底、この社会の底辺も、また、この地に含まれることでしょう。そこに、平和あれ、と天使は知らせます。

「御心に適う人に平和あれ」と天使は言います。神のお眼鏡に適う立派な人、立派な行動、立派な精神の人に平和あれ、ということでしょうか。わたしには、むしろ、神が無条件で愛するすべての人、頼るすべがなく神に委ねるしかない人、人生のゴミ捨て場をさまよう心破れたすべての人に、平和がありますように、と聞こえます。

15節です。2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

わたしたちは、粗末なまぶねに寝かされている乳飲み子を探し当てることができるでしょうか。この世のかたすみに、神の子を見いだすことができるでしょうか。わたしたちの心のゴミ捨て場に、わたしたちの人生のゴミ捨て場に、神の子を見いだすことができるでしょうか。

わたしたちの小さな弱いいのちのなかに、苦しんでいる人びとの小さないのちの中に、神の子を、神のいのちを見いだせるでしょうか。

人間的には、あるいは、社会的には、最低の状況の中で、自分はダメだ、あの人はダメだ、という騒音の中で、わたしたちは、天使の声を、神の子の声、神の声を聞くことができるでしょうか。「恐れるな、大きな喜びを告げる」という声を聞き、この世の底辺、自分のどん底で、光を見つけることができるしょうか。

わたしたちは、天使の知らせに耳を傾けようではありませんか。天使の知らせは、皇帝の命令でもなければ、わたしたちのひとりよがりの考えや、わたしたちの自暴自棄の呪いでもありません。天使の知らせは、この世界の、一輪の花の、大きな空の、わたしたちの心の深いところにおられる神の声です。声にも言葉にもならない神の声です。いや、聖書を読むことで、うかびあがってくる神の声です。

天使の声は、わたしたちの良心の声のようでもありますが、わたしたちの思いを否定する神の声でもあります。わたしたちは「恐い」と言いますが、神の声は「恐がるな」とそれを否定してくれます。わたしたちは「もうだめだ」と言いますが、神の声は「まだ大丈夫だ」とそれを否定してくれます。

クリスマスです。わたしたちは、目に見えないほど深いところから聞こえてくる、聞こえない声に耳を傾けましょう。この世界を創造し、わたしたちを生かしてくれる神の愛の声を、「恐れるな」「大きな喜びがある」という天使の声を、粗末なまぶねで泣く乳飲み子の声の奥底に聞き取ろうではありませんか。

祈り:神さま、あなたは天使を通して「恐れるな」「大きな喜びがある」と語りかけてくださいます。わたしたちは、世の中と自分自身の喧騒の中で、そのもっと深いところに耳を傾け、シャロームと響くあなたの声を聞き取ることができますように。あなたのシャローム、平安の声を胸に抱いて、この世の荒野を歩みぬくことができますように、お支えください。神さま、野宿をしている友がいます。命令に苦しめられている友がいます。神さま、どうぞ、友をそこから解き放ちて、大きな喜びをもたらしてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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「束縛を解かれ、新しい人生を」 [礼拝説教(使信)動画]

2021年12月12日 「束縛を解かれ、新しい人生を」

https://youtu.be/ZWDMxJMwFHY
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2021年12月12日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:4)

わたしたちは、自分が過去になしたことや受けたことによって苦しめられます。それは、他者や自分を傷つけることであったり、自分が傷つけられることであったりするでしょう。わたしたちは、そのような過去に囚われてしまっています。
 その縄目から赦されるすべ、そこから解き放たれるすべはあるのでしょうか。聖書は、神に立ち返る道を示してくれます。それは、悪いことを止めて善いことを始める、ということに限られません。
 わたしたちは、神から心と体を与えられた者であり、神はわたしたちの心身の源泉ですが、わたしたちは傷ついたことで、そこから遠のいたり、それを忘れたりしてしまいます。
 聖書は、そのようなわたしたちに、源である神に立ち返るように、自分のルーツにもう一度触れるように、教えてくれます。しかも、神は、わたしたちから遠く離れているのではなく、じつは、目には見えないけれども、わたしたちのすぐそばに、日常の内奥にいるというのです。
 洗礼とは、そのような神に気づき、もういちど神とつながろうとする道のひとつでありましょう。劇的な変化、魔法の出来事が必ずしも起こるわけではありません。
 けれども、自分や世界の深いところに、神というこんこんと湧きだすいのちの泉があることを思うとき、わたしたちの人生も確かに深くなるのではないでしょうか。

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束縛を解かれ、新しい人生を [使信]

2021年12月12日 マルコ1:1-8  「束縛を解かれ、新しい人生を」

おはようございます。先週、新百合ヶ丘駅の向こう側にある、川崎市アートセンターで、市民劇団による劇を見てきました。チャールズ・ディケンズというイギリスの小説家が書いた「クリスマス・キャロル」というお話をもとにしたものです。

原作の舞台は、クリスマスイブのロンドンですが、この劇では、大みそかの新百合ヶ丘になっていました。しかし、どちらも、ある意味閉じ込められた状態にある人、閉塞状態にある人が、目に見えない力、目に見えないものによって、周りの人や周りの世界に開かれていくお話、新しい生き方を始めるお話しでした。

この劇団は、ときどき、劇団員募集のオーディションをしているので、わたしも応募してみたいなと思いましたが、日曜日にも公演があるので、止めておくことにしました。

さて、今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書1章1節です。1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

「神の子」とあります。これはどういう意味でしょうか。わたしは、これは、イエスが神の大事な何かを伝えている、ということではないかと思います。あるいは、イエスは神と大切なものを共有している、あるいは、イエスの中に神のいのちが生きている、という意味ではないかなと思います。

「キリスト」とあります。キリストは、旧約聖書のメシアをギリシャ語にした言葉ですが、本来は、油を注がれた者という意味で、それが、救い主を指すようになった、ということです。イエス・キリストとは、イエスはキリストである、あるいは、キリスト、救い主であるイエスという意味ですが、イエスは、どのような意味で、わたしたちのキリスト、つまり、救い主なのでしょうか。

わたしは、それは、イエスがわたしに神を示してくださる、神を見せてくださる、イエスがわたしを神と結び合わせてくださる、わたしを神のもとに連れ戻してくださる、そういう意味で、イエスはわたしにとってキリストである、と感じています。

それから、「福音」とあります。福音の福は幸福の福、つまり、幸せな、うれしい、喜ばしい、という意味です。福音の音は、おとずれ、知らせ、という意味です。つまり、福音とは、うれしい知らせ、喜ばしい知らせ、決定的に喜ばしい知らせという意味で、英語では、Good News 良い知らせ、と言われることがあります。

わたしたちにとって、イエスはどういうお方でしょうか。イエスは、どういう意味で、神の子であり、キリストなのでしょうか。

わたしにとって、イエスは、わたしよりずっと強く神を感じているお方で、それゆえに、わたしに神を教えてくださるお方、わたしを神と引き合わせてくださるお方、イエスは言葉と行いによってわたしに神を現わしてくださるお方、そういう意味で、イエスはわたしのキリストであると、わたしは感じています。

3節です。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

 これはイザヤ書に基づいています。イザヤ書40章1節から読んでみましょう。40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

イザヤ書40章はイエスより500年以上前の書ですが、バビロン捕囚からの解放を背景にしています。ユダヤの民はバビロニアという大国によって国を滅ぼされて、バビロンに連れて行かれましたが、イザヤ書のこの個所はそこからの解放を歌っています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよ」とはバビロン捕囚から解放されるということです。「苦役の時」とか「彼女の咎」とかあるのは、ユダヤの民は、国を滅ぼされたのは、自分たちが神から離れてしまったからだ、と深く反省したからです。もっとも、わたしたちは、苦しんでいる人は神から罰を受けているからだ、などと考えるべきではないと思います。いずれにせよ、イザヤ書のこの個所は、苦しみから解放される時が来た、束縛から解放される時が来たことを歌っています。

荒野の道、荒れ地に広い道、とあるのは、バビロンからユダヤまで帰って来る道のことです。これは、エルサレムの都、破壊されてはしまったが神殿があったところまで帰って来る道、神の元に帰って来る道のことです。

その五百年後、このイザヤ書を引き合いに出すことで、マルコは、イエスの登場によって、これと同じことが起こる、五百年前のバビロン捕囚からの解放と同じことが起こる、神の元への帰還、立ち返りがふたたび起こる、と言っているのではないでしょうか。

4節です。1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

「罪の赦し」とあります。「罪」とはどういうことでしょうか。一言で言えば、エゴイズム、自分中心のことだと思います。自分が自分が、となってしまって、神や隣人に思いが行かないことだと思います。

では、「罪の赦し」とはどういうことでしょうか。これは、わたしたちがどこまでも自分中心であるにもかかわらず、いのちを与えられ、生かされていることだと思います。

「悔い改め」とはどういうことでしょうか。これは、わたしたちが自分中心であるにもかかわらずいのちを与えられ生かされていることに感謝して、その恩に応えて、神と隣人の方を少しでも向こうとすることでしょう。100%神と隣人の方を向くことは不可能ですが、1%でも2%でも10%でも、いや数字に関係なく、少しでも、いまよりは神と隣人の方を向こうとすることが、悔い改めでありましょう。

では、「洗礼」とはどういうことでしょうか。洗礼は、聖書に出てくるように川や、あるいは、海や、礼拝堂にある浴槽などで、頭の天辺まで水に浸かるやり方もありますが、現在の多くの教会では、頭に水を何滴か、タオルでふける程度にかけるようにしています。まぶね教会もこの方式です。鶴見川やそこの池に浸したりはいたしませんので、ご安心ください。

この洗礼は、一方では、人間の決断、神を信じてこれから新しく生きるように心がける決断であるともいえますが、他方では、つまり、神の側から見れば、神がその人を新しくしてくださる、束縛を解かれ、新しい人生を歩むようにしてくださることでもありましょう。

8節です。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。

洗礼式では、水に浸ったり、水をかけられたりしますが、それは、死を意味すると考えられます。これまでの自分、古い自分、束縛されていた自分が、いちど死んで、生き返るのです。その新しいいのちを吹き込んでくれるのが、聖霊と考えられます。つまり、洗礼式では、牧師などの人間が水をかけますが、そこには、目に見えない神がおられ、聖霊、神の息吹を吹き込んでくださると考えるのです。

最初に、クリスマス・キャロルのお話をしました。それによれば、スクルージというケチで非道な経営者が、クリスマスイブにあらわれた目に見えない存在によって、心をあらたにされ、従業員の待遇をよくしたり、貧しい人びととわかちあったりするようになります。

わたしは、この話は、聖書のザアカイの話に似ているように思いました。ザアカイは、イエスが自分を訪ねてくれることによって、生き方をすっかり変えてしまいます。財産の半分をまずしい人びととわかちあい、不正に取り立てた税金を四倍にして返すというのです。

けれども新しい人生とは、悪が善になる、悪人が善人になる、ということばかりではありません。新しい人生とは、束縛されてきた人が解き放たれることです。

たとえば、イエスは重い皮膚病の人を癒します。それは、これまで「清くない」と言われ周りから差別されていた人が、その周りのまなざし、自分を「清くない」と見るまなざしから、解放されることだと思います。

あるいは、道端に座っていた目の見えない人がイエスに出会うと、その人は、目が見えるようになり、それまでは座り込んでいたのが、立ち上がって歩きはじめるようになるのです。

イエスを通して神と出会い、これまでの束縛を解かれ、あらたに歩みを始める、この意味で、イエスはキリストであり、神の子なのではないでしょうか。

病気、人間関係、貧しさが、わたしたちを束縛しています。けれども、わたしたちは、イエスとの出会いによって、イエスによって神と結び合わされることによって、これまでの苦しい思いの積み重ねから解き放たれることを信じようではありませんか。

イエスと出会い、イエスが示す神の愛に触れ、それに委ねて、神の愛にすべてを委ねて、喜びの人生を歩み始めようではありませんか。そのようなアドベント、そのようなクリスマスになることをお祈りいたします。

祈り:神さま、あなたが天地を創造し、わたしたちを創造し、いまなお、日々創造し続けてくださることを、イエスを通して、わたしたちに示してくださいました。感謝いたします。わたしたちは、ひとりひとり、ひどく疲れ、ひどく傷つき、ひどく失望していますが、イエスを通して、いのちの源であるあなたとふたたび結ばれ、あらたないのちをいただくことを信じます。神さま、苦しんでいる友がいます。束縛されている友がいます。どうぞ、友を縄目から解き放ってください。イエス、わたしたちのキリストによってお祈りいたします。


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