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新しい道を歩む [使信]

2021年12月26日 マタイ2:1-12  「新しい道を歩む」

おはようございます。今週末には、新年、新しい年を迎えようとしています。しかし、12月31日が終わり1月1日になると、いったい何が新しくなるのでしょうか。日付が変わるだけで、どうして新しいということになるのでしょうか。それは、世の中のきめごとに過ぎません。カレンダーはきめごとに過ぎません。カレンダーが変わっても、わたしたちやわたしたちの人生が新しくなるわけではありません。

それでは、何がわたしたちやわたしたちの人生を新しくしてくれるのでしょうか。それは、わたしたちにとって大切な出来事ではないでしょうか。わたしたちは大切な出来事によって新しくされます。そして、聖書は、イエスとの出会いはわたしたちを新しくしてくれる大切な出来事であると物語っています。

イエスとの出会いには、神との出会いが含まれます。神との出会い、あるいは、神との再会、と言ってもよいでしょう。なぜならば、わたしたちの源、わたしたちにいのちを与えてくださったお方、わたしたちの出発点が神なのですから、神との出会いは神との再会なのです。イエスとの出会いは、わたしたちを神と再会させてくれます。そして、わたしたちは、神と再会することで、新しくしていただくのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書2章2節です。2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

ヘロデ王は不安になります。エルサレムの人びとも不安になります。いや、皆、もともと不安だったのかもしれません。ヘロデ王は、自分の地位、財産、生命をなくしてしまうのではないか不安でした。まわりの人も信頼せずに疑っていたことでしょう。彼は支配欲、私利私欲の化身で、それゆえに、不安の塊であったことでしょう。

エルサレムの人びとも、そのような王や支配者に対する恐怖、日毎の衣食住が確保できるか、それから明日も生きていけるかという不安にさいなまれていたことでしょう。

わたしたちも、また、病気、仕事、家族、人間関係、衣食住、教育、自分の心の苦しみなど、不安を抱えています。コロナも、また感染が拡大するのではなかろうかとか、何か閉じ込められたようなこの毎日がもう二年も続いている、いつまで続くのだろうかという不安を抱えています。この不安はどうしたらよいのでしょうか。

4節です。2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

エルサレムやユダヤの人びとにとっては、メシア、救い主の登場は、不安からの救いであったことでしょう。しかし、ヘロデ王は、メシアの生まれる場所を知ってメシアと思われる子どもを殺してしまうことが、不安を解消する手段でした。自分の不安を解決するために、人を犠牲にするのか、それとも、神に希望を抱くのか、わたしたちも問いかけられているのではないでしょうか。

「ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない」とあります。これは、旧約聖書のミカ書からの引用だと思われます。しかし、ミカ書にはこのようにあります。

ミカ5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。

つまり、ミカ書では、ベツレヘムは「いと小さき者」と言われているのですが、マタイ福音書は、それを引用する際に、ベツレヘムは「決していちばん小さいものではない」と言い変えているのだと考えられます。

ミカ書は、神の救いは、ベツレヘムのようなとても小さなところから始まる、と言っています。小さいところにこそ、弱いところにこそ、救い主があらわれる、神の力が働くと言っているのではないでしょうか。

じつは、新約聖書でもパウロが同じことを言っています。コリントの信徒への手紙二でパウロはこう述べています。

12:7わたしの身に一つのとげが与えられました。12:8 これについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

 パウロはとげを与えられたと言います。体かあるいは心に、突き刺さるような痛み、苦しみを抱えていたのではないでしょうか。パウロはそれを取り除いてくださいと神に繰り返し祈りますが、パウロは、「神の力は、自分の弱さの中にこそ、十分に発揮される」という神のメッセージを受け取るのです。パウロの痛み、ベツレヘムというちっぽけな村、わたしたちのもっとも弱い部分、そこにこそ神の力が注がれるのではないでしょうか。

今日のマタイ福音書がミカ書の「ベツレヘムはいと小さきもの」を「ベツレヘムは小さいものではない」と言い変えるとき、ベツレヘムの大きさではなく、小さいところ、弱いところに働く、神の力の強さを言っているのではないかとも思われます。

9節です。2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

ヘロデ王は自分の権力でイエスを探し当てて殺して自分の不安を解消しようとしますが、東からやってきた占星術の学者たちは、星に導かれて、つまり、自分ではない大きな力、神の力に導かれて、イエスと出会います。そして、喜びに満ち溢れます。学者たちは、イエスの中に、神を見たのではないでしょうか。イエスにおいて、神と再会したのではないでしょうか。

宗教を言い表す西洋の言葉には、たとえば、religionという英語の語源にも、再びつながる、再び結ばれる、という意味があります。つまり、西洋の言葉では、宗教とは、神とふたたび結ばれることなのです。つまり、神との再会のことなのです。

 11節です。2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

東からやってきた学者たちは、イエスと出会い、神と再会し、大きな喜びに満たされます。そして、それへの応答、それへの感謝を示します。それが、黄金、乳香、没薬の贈り物です。

けれども、神と再会し、神とふたたび結ばれた学者たちの応答は、感謝は、それだけではありません。もうひとつあります。それは、別の道を選ぶことです。イエスと出会う前、神と再び結ばれる前とは、違う道を歩むことです。

これまでとは別の道、新しい道、新しいことは、カレンダーに従うことではなく、イエスと出会い、わたしたちの源である神とふたたび結ばれることによって始まります。

新しい道を歩む。わたしたちは、どういうふうに新しくなりたいでしょうか。わたしは、たとえば、自分の気分よりももっと大きな精神に従う者になりたいと思います。心理的な感情よりも、精神的な感動を優先させるようになりたいと思います。大きなことより小さなことを、人に知られることより神に知っていただいていることを喜びたいと思います。

敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみといった、自分という人間が生み出すものに従って行動するのではなく、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実 柔和という、神からわかちあたえられた精神に導かれて生きたいと思います。神の精神に委ねることこそが、別の道、新しい道、新しくなることではないでしょうか。

しかし、わたしは100%の転換はしないでしょう。相変わらず、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみに揺さぶられることでしょう。しかし、そうでありつつ、それを自覚して、自分はそうなってしまっていることを告白しつつ、神の精神、神からわかちあたえられる霊に少しでも従わせてくださいと祈り続けたいと思います。

新しい年が近づいています。しかし、それは、一年に一度のことです。けれども、イエスに出会い、神と再び結ばれることは、毎週の礼拝でも、毎日の聖書読書や祈りでも、神に思いを向ける瞬間ごとに起こるのです。つねに新しくされるこの道を歩き続けようではありませんか。

祈り:神さま、わたしたちは古い自分や自分の思いに執着してしまいますが、あなたは、わたしたちとつねにあらたにつながってくださり、わたしたちを新しくしてくださいます。心より感謝を申し上げます。あなたがわたしたちを新しくしてくださるのですから、わたしたちも新しくなるという祈りを強めることができますようにお導きください。神さま、痛み、苦しみ、孤独な友がいます。どうぞ、あなたがともにいてください。あなたがともにいることで、友を新しくしてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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