クリスマスの心 [使信]
2021年12月24日 クリスマスイブ ルカ1:26-2:9 「クリスマスの心」
こんばんは。クリスマス、おめでとうございます。今日の聖書には、不思議なこと、すぐには信じられないことがいくつかでてきました。マリアのところに天使があらわれたこと、身重のマリアとヨセフは旅をしていたけれども、宿屋が見つからず馬小屋でイエスが生まれ飼い葉おけに寝かされたこと、羊と一緒に野宿をしていた羊飼いたちのところにたくさんの天使があらわれたこと、こうした話を聞くと、童話を読む子どものような心にはなりますが、ほんとうにそんなことがあるのか、という思いも心のどこかにあるのでしょうか。
天使は本当にいるのでしょうか。同じような質問をした子どもがいました。今から120年以上昔、1897年と言いますから、まだ20世紀にもなっていない19世紀の終わりに、バージニアという9歳の女の子がニューヨークの新聞社に手紙を書きました。
「こんにちは、しんぶんのおじさん。 わたしは八さいのおんなのこです。(あ、9歳ではなくて8歳でした)じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら新聞社に聞きなさい、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースは、ほんとうにいるのですか? ヴァージニア」
皆さんが八歳の女の子にこう聞かれたら、どう答えるでしょうか。わたしなら、なるべくバレないように、「そうだね、きっといると思うよ」と適当なことを言って、あとは、子どもが成長して自然に気づくのを待つことにすると思います。
けれども、このしんぶんのおじさんは、わたしよりもっと誠実でした。
ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。
でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、ぜんぶがわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。
ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。
じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。
もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。
サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。みんな、何を見たっておもしろくなくなるだろうし、世界をたのしくしてくれる子どもたちの笑顔も、きえてなくなってしまうだろう。
わたしは、このしんぶんのおじさんの返事の中で、サンタクロースというところを、天使に代えても良いように思います。さらには、イエス、あるいは、神に代えても良いように思います。
「愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。」
これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。
「愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、天使もイエスも神もちゃんといるし、愛も天使もイエスも神も、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。」
それから「もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。」
これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。
「もし天使やイエスや神がいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。」
そして「サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。」
これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。
「天使やイエスや神がいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。」
わたしたちは、天使とかイエスとか神とか言うと、何かはっきりとは信じられないものを感じますが、愛とか思いやりとか詩を楽しむ心、人を好きと思う心なら、たしかに感じたことがあるのではないでしょうか。
じつは、神は、わたしたちの心と、無関係ではないのです。どちらも、目には見えないけれども、大切なものですよね。神という漢字も、神がわたしたちの心とつながっていることを思わせます。
神という漢字には、もちろん、神という意味がありますが、精神とか神経という漢字熟語からわかるように、神という字には、心という意味もあるのです。
わたしたちの心の中には、自分の考え、自分の思い、自分の気持ちのように、自分のものがたしかにありますが、それだけでなく、愛や良心のように、かならずしも自分のものとは言い切れない、深い大きなものがあるのではないでしょうか。
天使があらわれ今夜イエスが馬小屋で生まれ飼い葉おけに寝ているという知らせを告げますが、わたしたちも、自分の心の奥底には、自分の心の上の方にある自分の悲しみや苦しみ、孤独という馬小屋の、奥底にある飼い葉桶には、神から届けられた愛や思いやりが横たわっているのではないでしょうか。そして、その愛や思いやりは、神がわたしたちに与えてくれたプレゼントであり、どうじに、わたしたちが誰かとわかちあうプレゼントなのではないでしょうか。
祈り:神さま、わたしたちの心は、冬の夜の馬小屋のように、冷たくなってしまうことがありますが、その飼い葉おけに、あなたが愛と思いやり、詩や歌、文学を楽しむ心、人を大切に思う心を横たわらせてくださると信じます。神さま、寂しく苦しい心を抱える人びとを、わたしたちを、あなたの愛で温めてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。アーメン。
こんばんは。クリスマス、おめでとうございます。今日の聖書には、不思議なこと、すぐには信じられないことがいくつかでてきました。マリアのところに天使があらわれたこと、身重のマリアとヨセフは旅をしていたけれども、宿屋が見つからず馬小屋でイエスが生まれ飼い葉おけに寝かされたこと、羊と一緒に野宿をしていた羊飼いたちのところにたくさんの天使があらわれたこと、こうした話を聞くと、童話を読む子どものような心にはなりますが、ほんとうにそんなことがあるのか、という思いも心のどこかにあるのでしょうか。
天使は本当にいるのでしょうか。同じような質問をした子どもがいました。今から120年以上昔、1897年と言いますから、まだ20世紀にもなっていない19世紀の終わりに、バージニアという9歳の女の子がニューヨークの新聞社に手紙を書きました。
「こんにちは、しんぶんのおじさん。 わたしは八さいのおんなのこです。(あ、9歳ではなくて8歳でした)じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら新聞社に聞きなさい、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースは、ほんとうにいるのですか? ヴァージニア」
皆さんが八歳の女の子にこう聞かれたら、どう答えるでしょうか。わたしなら、なるべくバレないように、「そうだね、きっといると思うよ」と適当なことを言って、あとは、子どもが成長して自然に気づくのを待つことにすると思います。
けれども、このしんぶんのおじさんは、わたしよりもっと誠実でした。
ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。
でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、ぜんぶがわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。
ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。
じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。
もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。
サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。みんな、何を見たっておもしろくなくなるだろうし、世界をたのしくしてくれる子どもたちの笑顔も、きえてなくなってしまうだろう。
わたしは、このしんぶんのおじさんの返事の中で、サンタクロースというところを、天使に代えても良いように思います。さらには、イエス、あるいは、神に代えても良いように思います。
「愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、愛もサンタクロースも、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。」
これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。
「愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、天使もイエスも神もちゃんといるし、愛も天使もイエスも神も、ぼくらにかがやきをあたえてくれる。」
それから「もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。」
これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。
「もし天使やイエスや神がいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。」
そして「サンタクロースがいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。」
これをこのように言い換えてみてはどうでしょうか。
「天使やイエスや神がいなかったら、むじゃきな子どもの心も、詩をたのしむ心も、人を好きって思う心も、ぜんぶなくなってしまう。」
わたしたちは、天使とかイエスとか神とか言うと、何かはっきりとは信じられないものを感じますが、愛とか思いやりとか詩を楽しむ心、人を好きと思う心なら、たしかに感じたことがあるのではないでしょうか。
じつは、神は、わたしたちの心と、無関係ではないのです。どちらも、目には見えないけれども、大切なものですよね。神という漢字も、神がわたしたちの心とつながっていることを思わせます。
神という漢字には、もちろん、神という意味がありますが、精神とか神経という漢字熟語からわかるように、神という字には、心という意味もあるのです。
わたしたちの心の中には、自分の考え、自分の思い、自分の気持ちのように、自分のものがたしかにありますが、それだけでなく、愛や良心のように、かならずしも自分のものとは言い切れない、深い大きなものがあるのではないでしょうか。
天使があらわれ今夜イエスが馬小屋で生まれ飼い葉おけに寝ているという知らせを告げますが、わたしたちも、自分の心の奥底には、自分の心の上の方にある自分の悲しみや苦しみ、孤独という馬小屋の、奥底にある飼い葉桶には、神から届けられた愛や思いやりが横たわっているのではないでしょうか。そして、その愛や思いやりは、神がわたしたちに与えてくれたプレゼントであり、どうじに、わたしたちが誰かとわかちあうプレゼントなのではないでしょうか。
祈り:神さま、わたしたちの心は、冬の夜の馬小屋のように、冷たくなってしまうことがありますが、その飼い葉おけに、あなたが愛と思いやり、詩や歌、文学を楽しむ心、人を大切に思う心を横たわらせてくださると信じます。神さま、寂しく苦しい心を抱える人びとを、わたしたちを、あなたの愛で温めてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。アーメン。
2021-12-24 08:22
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