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「神は居場所をくださる、神が居場所になってくださる」  [若者向け説教]

高校奨励「神は居場所をくださる、神が居場所になってくださる」 ルカ2:1-7

 おはようございます。2年生の聖書の授業を担当しています林です。今から45年くらい前、わたしは九州の、とある県立高校に入学しました。

 高校生活は、友達と話をしたり、遊んだり、基本的には、楽しかったのですが、心の深いところには、重たいものを抱えていたように思います。

 それは、やはり、勉強とか大学受験とかのことでした。その高校では、中間テスト、期末テストごとに、全科目の点数を合計して、学年順位を出します。その点数や順位の書かれたカードが、まずは、わたしたち生徒に配られ、つぎに、それを保護者の住所を書いた封筒に入れるように指示されるのです。

 悪い成績ですと、郵便でその成績カードが家につくまでドキドキして過ごし、それが家につけば、親からひどく叱られる、というようなことを何度も繰り返しました。

 勉強はあまりしませんでしたが、成績のことは、いつも心の重荷になっていました。

 大学受験についても、同じようなことでした。いわゆる進学校でしたので、有名な大学を志望校とすることが当たり前の雰囲気がありました。

 わたしも、勉強はしないのに、有名大学に行きたいという気持ちだけはありました。けれども、模試の結果などは、とうぜん、それにふさわしいものではなく、そのことがいつも心の重荷になっていました。

 けっきょく、高校三年生の時、受けた三つの大学入試は、発表を見に行く必要もないくらい、できなくて、とうぜん、皆不合格でした。

 そして、一年浪人することになりました。その一年間も、心の奥底は重苦しかったのですが、こんどは、なんとか大学に合格できました。

 大学に入り、親元を離れ、ひとり暮らしを始めたわたしは、それまでの重苦しさを投げ捨てたかのように、心は軽くなり、軽くなりすぎて、毎日楽しく遊んで暮らしました。

 そうやって、一年半が過ぎました。大学の授業に出ず、毎日遊び暮らしたわたしは、留年どころか、卒業の見通しも立てなくなり、もはやその大学でやり直す意欲はわかず、そこは中退したいと思い始めました。

 けれども、中退しても、働くつもりもなく、別の大学に行きたいと思いました。そして、その気持ちを手紙に書いて、親に出しました。

 今の大学を中退して、他の大学に入学し直すことを親が認めてくれるかどうか、わたしは不安でした。それが認めてもらえなければ、自分の居場所、自分の人生の居場所がなくなってしまうような恐ろしさを感じていました。

 手紙を出して一週間後、親からの返信が届きました。そこには、おまえがそうしたいなら、そうしていいよ、と書いてありました。わたしは、とても救われた気持ちになりました。

 そして、つぎの四月からは、別の大学に入学し直しました。それは、21歳の時でしたので、三年浪人したのと同じことになりましたが、そこでは、大学四年間と大学院二年間を過ごしました。とても充実した6年間でした。6年間、そこがわたしの居場所になったのです。

 さて、あと一か月すれば、クリスマスです。クリスマスには、毎年、イエスが生まれた時の聖書の物語が読まれます。

 さきほどの聖書はその一部です。それによると、イエスの母親と父親は、母親が身ごもっているにも関わらず、旅をしていました。自分の生まれた町に帰り、住民台帳に登録をせよ、との命令がローマ皇帝によってくだされたのです。

 けれども、イエスの親たちは、その晩泊まる宿を見つけることができませんでした。つまり、ふたりには居場所がなかったのです。

 ところが、神はそんなふたりに、そして、生まれてくるイエスに、居場所をあたえてくれました。それは、それが、馬小屋であり、飼い葉おけでした。

 この物語と同じように、神はわたしたちに居場所を与えてくださいます。先ほど、わたしの大学生の時のことをお話ししましたが、わたしのその後の人生でも、居場所をなくすような出来事は何度か起こりましたが、そのつど、代わりの居場所が与えられました。

 皆さんも、自分には居場所がない、と感じるときがあると思います。それでも、神がきっと皆さんに居場所を与えてくれる、とわたしは思います。

 今日読んだところではありませんが、聖書は、イエスの誕生の物語で、イエスはインマヌエルと呼ばれる、それは、「神がわたしたちと一緒にいる」「神がわたしたちと一緒にいる」という意味である、と語っています。

 神さまがわたしたちと一緒にいてくださる。それは、神さまこそがわたしたちの居場所であるということではないでしょうか。クリスマスは、神さまがわたしたちに居場所をくださる、神さまこそがわたしたちの居場所である、と物語っています。

 お祈りをしましょう。神さま、わたしたちは、ときどき、自分の居場所を失ってしまいますが、そんなとき、あなたがわたしたちの居場所をくださることを思い出すことができますように。イエスによって祈ります。アーメン。

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2021-11-28 [礼拝説教(使信)動画]

2021年11月28日「神はいつ、どこに」

https://youtu.be/wH4IiY-AyJg
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2021年11月28日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(マルコ13:32)

 マルコ福音書によれば、イエスは、大きな苦難が訪れ、太陽や月や星に異常が起こり、それに続いて「人の子」と呼ばれる者が神の力を帯びて雲に乗ってやってくる、と語りますが、「その日、その時は、だれも知らない、神だけが知っている」と付け加えます。
 大地震などがいつごろ起こるかについては真剣な科学的探究がなされていて、わたしたちも無関心ではありませんが、1999年に来るなどと空想されていた「世界最後の日」については、日常的に興味を持ち続けている人はほとんどいないのではないでしょうか。
 わたしたちにとって大事なことは、むしろ、わたしたちは神のような全知全能の存在ではない、わたしたちの人生や世界には予測したり対処したりできないことがある、わたしたちは神や世界のすべてを知ることはできない、という謙虚さではないでしょうか。
 創世記の物語では、人は禁断の実を食べ神のように賢くなろう、つまり、すべてを自分の考えで支配しようとしますが、神はそれを戒めます。
 わたしたちは、人生のすべてを自分の思うようにしたり、周りの人を自分の思うようにコントロールしたりするのではなく、その人のことはその人に、神のことは神に委ねることが大切ではないでしょうか。
 人生はどうなるかわからない、死はどのようなものかわからない、ただ、わからないことだけはわかり、自分の思いや力以外にこれらを委ねることが、生きることの意味、目標ではないでしょうか。

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神はいつ、どこに [使信]

2021年11月28日 マルコ13:28-37  「神はいつ、どこに」

おはようございます。待降節に入りました。待降節とは、日本語の漢字を読めば、イエスの降誕を待つ、待ち望む期間ということになります。けれども、これは、わたしたち人間を主語にした言い方でありましょう。

待降節のことを西洋の言葉ではアドベントと言いますが、アドベントには「待つ」という意味はありません。アドベントは「来ること」「到来」という意味の言葉です。これは、キリストが来る、あるいは、神が来るということです。つまり、アドベントとは、神を主語にした言い方だと言えるでしょう。

いつになったらコロナは終息するのか、いつになったらこの長い夜が明けるのか、いつになったらこの雨は止むのか。いつになったら幸せが来るのか。いつになったら平和が来るのか。わたしたち人間にはこのような思いがあります。わたしたちはもう長いことその日を待ち望んでいます。

しかし、神を主語にすると、神はかならずわたしたちにその日を来たらせる、その日とともに神がここにやってくる、ということになります。

神はかならず来る。わたしたちはその日を待ち望む。神はかならず来る、という神を主語にした出来事を、わたしたちは待ち望むのです。

待つことは受け身ではありません。待つことは、わたしたちを主語にした積極的な出来事です。

待つことで、わたしたちは、希望を先取りすることができます。遠足の前の晩の子どもたちが、翌日の喜びを先取りしてわくわくするように、わたしたちも今の苦しみが乗り越えられる日を心の中で先取りしてしまうことで、今日喜びを味わうことができるのではないでしょうか。

宗教改革者のマルチン・ルターは、「明日世界が滅びるとしても、わたしは今日リンゴの苗木を植える」と言ったとされています。リンゴの苗木を植えて実がなる日を待ち望むのですが、その日をたとえ見ることができないとしても、リンゴがたわわに実る風景を想像し、今喜びを先取りすることができるのです。

わたしは61年生きてきて、ふりかえって、高村光太郎のように後ろに道ができていないことを寂しく感じていますが、わたしの前に道を創りたいと思います。その道は、わたしが生きている間は、どこにもとどかないかも知れませんが、わたしが死んだあとも、神がその道を創り続けてくださることでしょう。わたしが後ろを振り返って道を見つけるのは、今ではなく、天に帰ってからのことではないでしょうか。けれども、その喜びは、今先取りすることが許されている、そのように思います。

わたしたちには、今すぐ結果が出ることを待っている、切実な問題、大きな困難がありますが、それを乗り越える日の喜びを今先取りする希望も与えられています。待つとは、何もしないことではなく、希望を探すという積極的な生き方ではないでしょうか。

そして、その希望は、聖書、神の言葉にこそ見出されるではないでしょうか。待つとは、聖書の中に、神の言葉に、わたしはかならずあなたのところに行く、という神の言葉に、希望を探し求めることではないでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書13章32節です。13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。

「その日、その時は、だれも知らない。神だけがご存じだ」とイエスは言います。わたしたち人間にはわからない、だから、目を覚ましていなさい、と言います。わからないから、目を覚まして、一瞬一瞬をしっかり見なさい、というのです。

来るものを待つことは大事です。そして、それが来たなら、それを見逃さないことも大事です。けれども、それはいつ来るのでしょうか。それは、わかりません。

それは、まだ来ていないのでしょうか。じつは、それは、今すでにここに来ている可能性はないのでしょうか。それは、今すでにここにある可能性はないのでしょうか。わたしたちは、今すでにきている、今ここにある、神の恵み、神の救いに気づいているでしょうか。

わたしたちには、今すでに、聖書の言葉がここにあります。わたしたちは、今すでに、イエスの言葉と行いを知っています。

そして、イエスも、今ここにある神の力を見ていました。イエスは、目の前にある植物の成長に、小さな種に、秘められた神の力、神の働きを見ていました。小さな野の花に、空の鳥に、それを生かす神の働き、神の力を見ていました。種や植物や鳥や花の表面だけでなく、その奥に働く神の力に、神のいのちに気づいていました。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちはあまりにも俗っぽく生きているのではないでしょうか。目に見えるものしか見ていないのではないでしょうか。物事の表面、文字面しか見ていないのではないでしょうか。

物事の奥底を見ているでしょうか。文字面ではなく行間を読んでいるでしょうか。植物の奥底に宿るもの、種や球根の内側に秘められたもの、一輪の花を咲かす目に見えない泉を、つねにあらたに湧き出る泉を、見ているでしょうか。

音楽の奥底にあるもの、楽器の音、歌声、楽譜だけでなく、音楽を生み出している、音にならない音を、音に表現されている音ではない音に、耳を傾けているでしょうか。

言葉の奥底にある、言葉にならない美しく慕わしいものを感じているでしょうか。あらゆるもののいちばん深いところにある、目に見えない泉を感じているでしょうか。

ある人びとは、生命という漢字熟語と、いのちというひらがな三文字を使い分けます。生命は目に見える生命、生物としての生命、限りある生命です。しかし、いのちは目に見えません。目に見えませんが、永遠に滅びることのないものです。

また、ある人びとは、言葉という漢字二文字と、コトバというカタカナ三文字を使い分けます。漢字の言葉は、わたしたちが声に出したり文字で書いたりする言葉ですが、カタカナ三文字のコトバは、聖書で言えば、ヨハネ福音書の一章に出てくるコトバです。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

聖書では言語の言と書いて、ことばと読ませていますが、これを、ある人びとは、カタカナ3文字でコトバと記します。このコトバは、万物を創造します。世界を、わたしたちを、つねにあらたに創造し続けます。あらたにし、生かし続けます。万物の源には、このコトバがあります。このコトバはまた、命をやどしています。聖書では漢字一文字で命と書かれていますが、これは、さきほど申し上げた、ひらがな三文字のいのちと同じことを指すでしょう。

わたしたちは、目に見える生命だけでなく、その深いところにある、目に見えないいのちを見たい、いのちに気づきたい、このいのちに対して目を覚ましていたいと思います。

わたしたちは、読んだり聴いたりする言葉だけでなく、その深いところにある、文字にも音声にもならないコトバに気づきたい、このコトバに対して、目を覚ましていたいと思います。

先週の恵泉女学園中学高校のクワイヤはとてもよかったですね。わたしは、中でも、カッチーニのアベ・マリアに心を打たれました。あの歌は、ただ、アベ・マリアと繰り返すだけです。アベ・マリアとは、「おめでとう、マリア」というような意味だそうです。それを何度も繰り返すだけの歌です。けれども、あの歌は、聖なるもの、深いもの、つまり聖なる神、神の深さをわたしたちに伝えているのではないでしょうか。つねにいのちを湧き出し続ける神を、わたしたちをつねにあらたにし続ける神を伝えているのではないでしょうか。

平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめに生きた西行法師は、なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる と詠んでいます。

目に見えないから、はっきりとはわからないけれども、聖なる存在に触れて、恐れ多く、ありがたい気持ちになり、涙がこぼれる、というほどの意味でしょうか。わたしたちも、はっきりとはわからないけれど、聖なる神の存在に、聖なる神の到来に、目を覚ましていようではありませんか。

 待降節です。アドベントです。ここに来られる神を待ちのぞむ季節です。ここにすでにおられる神に気づく季節です。目に見えない神の前で、わたしたちの目を覚まそうではありませんか。ものごとに深いところに向けて、目を覚まそうではありませんか。

祈り:神さま、あなたはかならずわたしたちのところにお越しくださいます。その日を待ち望み、その日の喜びを、今日すでに味わわせてください。神さま、あなたはすでにわたしたちのところにお越しくださっています。あなたが創造してくださったこの世界の奥底に、あらたに未来を創造してくださるあなたの力を見いださせてください。神さま、救いを待ち望んでいる友がいます。神さま、どうぞ、その友をいますぐにお救いください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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「金ではなく神が救う」 [礼拝説教(使信)動画]

2021年11月21日「金ではなく神が救う」

https://youtu.be/Doih7lSHPmA
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2021年11月21日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)

 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という戒めをみな守って来たという人に、イエスは「あなたには欠けているものがひとつある」と言いました。
 たしかに、この人は言われたことはすべて果たしてきたのでしょう。しかし、それ以上のことは、何一つしてこなかったのではないでしょうか。
 わたしたちも人を殺してはいないかもしれません。けれども、より積極的に、人を生かしてきたでしょうか。誰かが生きることに自分の持てる力や時間や財産を用いて来たでしょうか。
 わたしたちも人から盗んではいないかもしれません。けれども、より積極的に、人とわかちあってきたでしょうか。自分の時間や労力や衣食住の財を人とわかちあってきたでしょうか。
 イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言いました。金持ちは自分の富を独占しますが、それは、神の心からはほど遠い、とイエスは言うのです。
 はんたいに、富を独占せずに、自分のもてるもの(富、時間、心、身体、そして、祈りなど)を他の人とわかちあうことが、神の心に沿うのであり、神を中心にした交わりを豊かにすると言うのです。
 自分中心、独占から共生、わかちあいへ、イエスはわたしたちを招いています。

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金ではなく神が救う [使信]

2021年11月21日 マルコ10:17-27  「金ではなく神が救う」

おはようございます。皆さん、今日は、まぶね教会の礼拝によくお越しくださいました。恵泉女学園のクワイア、ラ・パーチェの皆さんも、お迎えできて、とても平和な、ラ・パーチェな気持ちです。

さて、今日の聖書には、イエスのこんな言葉がありました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」あるいは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」ともイエスは言っています。

そうすると、わたしたちはお金や持ち物を、みな捨てて、神さまに従わなくてはならないのでしょうか。お金や物を持つことは悪いことなのでしょうか。

お金は大事です。わたしには家族がいて、恵泉の皆さんよりは少し年が上の子どもたちもいますが、家族と生活するには、ある程度のお金がかかります。ひとりで暮らす場合も、お金は必要です。わたしたちが生きていくには、最低限度のお金や物、財産が必要ですし、できれば、最低限度ではなく、最低限度プラスアルファのものがあった方がよいと思います。

毎日の衣食住、着るもの、食べるもの、住む場所、家も、お金がなければ手に入りません。病院に行ったり、本を買ったり、学校で勉強したり、旅行に出かけたりするのにも、お金が必要です。

けれども、あまりにも多くのものは必要ないのではないでしょうか。たとえば、部屋一杯の衣服は要らないのではないでしょうか。しかし、衣服は一着では困ります。何着か必要です。毎日、ぜいたくなものを動けなくなるくらいお腹いっぱいに食べる必要はありませんが、毎日の食事は必要です。ディズニーランドのような庭があるお城のような家に住む必要はありませんが、ふつうに住む家は必要です。それらをすべて要らないとか棄てるとかいうわけにはいきません。

では、わたしたちは、今日の聖書からどのようなことを学べるでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書10章17節です。10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

「永遠の命」とは、神さまとつながったいのちのことだと思います。神さまと心がつながって生きることだと思います。

 そうするにはどうしたらよいのでしょうか。19節です。10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えとありますが、これは、旧約聖書の出エジプト記に書かれている十戒、十の戒めの半分にあたります。殺してはいけません、盗んではいけません、嘘をついて人を苦しめてはなりません、親を大事にしなさい。

 そんなことはぜんぶ子どもの時から守ってきました、一度も破ったことはありません、とこの人は答えます。たしかにそうでしょう。この人は、言われていること、命じられていることはしっかり守る人なのでしょう。けれども、イエスは、「言われたことを守るだけではなく、言われたこと以上のことをしなさい」と言うのです。

「持っている物を売り払い、そのお金を貧しい人びととわけあいなさい」などとは、十戒には書かれていませんが、イエスは、十戒に書かれている以上のことをしなさい、それがあなたに欠けていることだと言うのです。

ただ人から物を盗まないだけでなく、人と物をわかちあいなさい、ただ人を殺さないだけでなく、人がしっかり生きることができるように人を支えなさい、十戒に書いてなくてもそうしなさい、というのです。持っている物を売り払って、そのお金を貧しい人びととわかちあうということは、貧しい人からただ盗まない以上のことなのです。そして、それは貧しい人を殺さないばかりでなく、貧しい人のいのちを支えることなのです。

盗まないばかりか人とわかちあう、殺さないばかりか人を支える、そのことがイエスにしたがうことなのです。

わたしたちにはどのようなことができるでしょうか。たとえば、今、日本全国で、子ども食堂が営まれています。これは、食べ物、食品をわかちあうだけでなく、食べるという行為をわかちあうことでもありましょう。

今社会では貧困、貧しくて苦しんでいる人びとが増えていますが、わたしたちは、食べ物だけでなく、衣服や住宅をどのようにわかちあっていくことができるか考えていかなくてはなりません。ひとりでは難しいことですが、わかちあいたいという人が何人も集まれば、きっと何かができることでしょう。

衣食住だけでなく、わたしたちは、心や時間をわかちあうこともできるのではないでしょうか。これは、衣食住と比べて、ひとりでもできるかも知れません。悲しんでいる人、苦しんでいる人がいたら、その人の気持ちを一所懸命に聴く、アドバイスをするのではなくその人の気持ちをわかろうとしながら聴く、そのために自分の時間をわかちあう、その人の気持ちの一部をわかちあうことが、わたしたちにはできるかもしれないですね。

25節です。10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。

 針の穴はとても小さいです。わたしなど、糸さえ通せません。ましてや、らくだがそこを通ることは不可能です。それと同じように、お金持ちが神の国に入ることは不可能だとイエスは言います。

 お金や物を独り占めしていては、何でもかんでもこれは自分だけのものとしていては、神さまと心でつながることはできない、ということではないでしょうか。

 たしかに、わかちあうことはとても難しいです。衣食住だけでなく、心や時間をわかちあうことも簡単ではありません。たとえば、悩んでいる人から、聴いて欲しいことがある、と言われても、今この時間は、自分だけの時間にしたい、テレビを観ていたい、音楽を聴いていたい、他の人とおしゃべりをしていたい、というような時があります。

どこかに一緒についてきてほしい、と言われても、自分がしたいことや自分が行きたいところがある場合があります。

 他の人とわかちあうことも大事ですが、自分を大切にすることもとても大事です。他の人と時間や心をわかちあうことと、自分自身を大切にすること、このバランスで、わたしたちは悩みます。わたしも、お金や時間や心は自分のために使いたい、という気持ちが強いです。

けれども、ふしぎなことに、それを人とわかちあいたい、という気持ちになることがあります。それは、神さまがそのようにしてくださるのだと思います。わたしたちは、自分の気持ちで、自分のものを人とわかちあうことは難しいですが、神さまがそのようにしてくださることがあるのではないでしょうか。

中村哲さんというお医者さんがいました。この方は2年前にアフガニスタンで地上の命を終えました。中村さんは、九州にある西南学院というキリスト教の学校に行き、そこで神さまと出会い、キリスト教を信じるようになりました。

大学では医学を学び、お医者さんになりました。日本で医者をしていれば、ゆたかな生活もできていたかもしれませんが、アフガニスタンに行き、貧しい人びと、傷ついた人々の来る診療所を建て、やがて、用水路を作る事業を始めます。荒れ野に水が流れるようにして、畑を作り、人びとに食糧をもたらそうとしたのです。

 中村さんの人生は、自分一人で独占すれば、日本で医者として裕福な生活ができたかもしれませんが、彼は、自分の人生をアフガニスタンの人びととわかちあい、何万人もの人びとに水と食料をもたらしたのです。

わたしたちの心を神さまとつないでくれるものは何でしょうか。わたしたちの心を救ってくれるものは何でしょうか。お金でしょうか。それとも、神さまの愛でしょうか。お金は生きていくのに必要ですが、心はお金だけでは救われません。神さまの愛がわたしたちの心を救ってくれるのです。神さまの愛がわたしたちの心を神さまとつないでくれるのです。

神さまの愛はお金では買えません。言われたことや規則を守るだけでも手に入れられません。それは、神さまがわたしたちに無料で与えてくれるものです。わたしたちが自分以外の人びととわかちあっていきていくときに、その神さまの愛を感じることができるのです。

 わたしたちがわかちあって生きていくことで感じられる神の愛こそが、わたしたちの心を救ってくれるのです。

 お祈りをいたしましょう。神さま、あなたは、わたしたちに、殺すな、盗むなと教えてくださいました。さらに、イエスを通して、わかちあうこと、共に生きることを教えてくださいました。心より感謝いたします。神さま、わたしたちがそうすることで、あなたの愛を心に深く感じることができますように。神さま、悩んでいる人、苦しんでいる人、傷ついている人、孤独な人がいます。わたしたちがその人びととあなたの愛をわかちあうことができますように。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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終わりまで [礼拝説教(使信)動画]

2021年11月14日 「終わりまで」

https://youtu.be/RjOgR3AWATY
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2021年11月14日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マルコ13:5)

 災害、病気、悪政、貧困、挫折、失業、暴力、暴言、虚偽など、わたしたちの人生にはさまざまな困難が生じます。そのとき、わたしたちは何を頼りに、何を支えとすればよいでしょうか。
 家族や友、場合によっては見知らぬ人が大きな助けになる場合もあるでしょう。人と人とのつながりの中で生かされることは非常に大切です。けれども、残念なことに、わたしたちを惑わす人もいます。救ってくれるように見えた人がそうでなかったこともあります。一見救いに見える派手な言葉にわたしたちは惹かれてしまいがちです。
 世の中から聞こえてくる情報が助けになる場合もあるでしょう。正確な情報を得て判断することも大切です。けれども、わたしたちは、ふたしかなうわさや強引な言葉に、揺さぶられてしまうこともないでしょうか。
 職場や人間関係でひどい目に遭うこともあるでしょう。誹謗中傷を受けたり、言い分を聞いてもらえずに処分されたり、解雇されたりすることもあるでしょう。そういうときどうしたらよいのか、わたしたちにはわかりません。
 濡れ衣を晴らしたり、相手の非を明らかにしたり、謝罪してもらったりすれば、心が楽になれるような気もしますが、それには多大な時間と費用と労力が必要な場合があるでしょう。そんなことをすれば、苦しめられた記憶が際限なく繰り返され、ますます苦しくなったり、そんなことをしても、相手がこちらの願う通りにはしてくれないこともあるでしょう。どうしたらよいのでしょうか。
 イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言います。この言葉には、苦しみの中でも神があなたとともにいる、神はあなたをけっして見棄てず、むしろ、あなたとともに苦しみを負ってくれる、という前提があるのではないでしょうか。

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最後まで [使信]

2021年11月14日 マルコ13:5‐13  「最後まで」

おはようございます。戦後76年になります。まぶね教会の平均年齢もそれくらいです。ということは、半分の人は戦争の災禍を経験し、もう半分の人は戦争を知らない子どもたちということになります。と言っても、立派な大人ですが。わたしもその一人です。

小学校、中学校の先生は、戦争を二度と起こしてはならない、と話してくれましたが、わたしは、戦争という歴史的な苦しみがあったのは過去の話、自分の生きている時代にはそのようなことはもうないだろう、という気がしていました。

しかし、朝鮮戦争があり、ベトナム戦争があり、阪神淡路大震災があり、東日本大震災があり、熊本、中越、北海道でも大震災があり、ここ十年、毎年のように大水害が起こっています。そして、今はコロナ禍の最中であり、日本では収まっているように見えていますが、すぐに再燃するだろうという不安はぬぐえません。政治においても、戦争の反省に基づいた憲法第9条の戦争をしない、軍備を持たないという大原則がますます危うくなってきています。

わたしたちの人生には大変な困難が幾たびか生じます。戦争や災害のように世の中に起こるものもあれば、大病、家族、仕事、人間関係の問題など個人に起こるものもあります。人生ではまさかと思うような事態に見舞われます。

そうしたなかで、わたしたちはどのように生きたらよいのでしょうか。苦しい出来事が続くこの世界を、困難に見舞われるこの人生を、わたしたちはどのように生きたらよいのでしょうか。

今日の聖書でイエスはわたしたちに、「最後まで耐え忍びなさい」「最後まで耐え忍びなさい」と語りかけてくれます。「最後まで耐え忍びなさい」。しかし、これは精神論、忍耐論ではありません。「神が共にいるから、たとえどんな困難、どんな事件があっても生き抜きなさい」とイエスは言っているのです。神が最後まで共にいてくださる、とイエスは言っているのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書13章5節です。13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

 自分はイエスの生まれ変わりだ、自分はイエスの再来だと名乗る人物が現れることもあるようですが、それは、あまりあることではなく、わたしたちが注意すべきことは、頼りになりそうな人を過信してしまうことではないでしょうか。わたしたちは、ときどき、この人の言うことはまちがいないとか、この人にすべてを任せたいとか、自分の心も考えもこの人に委ねたい、などと思ってしまわないでしょうか。

 それは、歴史上ではヒトラーのような人物であり、その後もミニヒトラーはときどき出現しているのではないでしょうか。あるいは、そのような宗教家もときどき出てきます。身近なところでは、やさしげな親戚のおばさんとかおじさんとかを全面的に頼ってしまうようなこともあるのではないでしょうか。

たしかに、わたしたちは人に助けられますし、人を信頼し、人とつながることは、とても大切です。けれども、人には限界がありますし、人には別の顔もあります。神に頼るがごとくに、人に頼ってしまうことには、危険があるのではないでしょうか。人に頼っても良いと思いますが、それは神に頼るがごとくではなく、人に頼るがごとく人に頼る範囲にとどめておくのが良いと思います。そのぶん、神に頼りましょう。

7節です。13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

戦争が起こっても世の終わりではない、と言っています。これはどういう意味でしょうか。戦争は地獄図です。人の体が爆弾でばらばらになったり、血を流したり、炎で焼かれたりすることは、まるで、世の終わりの光景です。

 それでも、世の終わりではないとイエスが言うならば、それは、どんなことがあってもあきらめてはならない、これですべて終わりだと思ってはならない、ということでしょう。わたしたちには世の終わりだと思えても、世の終わりではない、わたしたちにはこれですべて終わりだと思えても、すべての終わりではない、とイエスは言っているのです。

終わりどころか、これらは「産みの苦しみの始まり」であるとイエスは言います。戦争や災害が苦しみの始まりであることは容易に理解できますが、これが産みの始まり、ここから新しいものが産まれてくるとはどういうことなのでしょうか。

 世界の苦しみ、人生の苦しみから何が産まれてくるのでしょうか。それは、祈りではないでしょうか。静かな祈りではないでしょうか。叫び声、泣き声と区別ができないかもしれませんが、それは祈りではないでしょうか。いのちを想う祈り、まことのいのちを慕い求める祈り、神をひたすら求める祈りではないでしょうか。

9節です。13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

わたしたちは王の前に引きずり出されることはないかもしれませんが、それでも、人からひどい目に遭わせられることはあります。人から鞭打たれるような想いをすることがあります。

 そういうときに、「証しをする」「福音を宣べ伝える」とはどういうことでしょうか。それは、自分を傷つける相手に何かを語るということではなく、「それでも、神が共にいる」と自分に証しをする、「それでも、神が一緒にいてくれる」という奇跡的な喜びの知らせを自分に告げることではないでしょうか。人から傷つけられるときでも、神が共にいてくださるという信仰、希望をわたしたちは捨ててはならないのです。

 11節です。13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。

 わたしは皆さんの前でお話をするとき、原稿を用意しないではいられません。皆さんの前にこうして立つことは、べつに、引き渡され連行されることではありませんが、何を言おうかと毎週思い煩います。聖霊が語らせてくれればよいのですが、わたしが礼拝で話すときは、原稿を用意していないと、聖霊は助けてくれないようです。

 では、何を言おうかと取り越し苦労をせず、その場で聖霊から教えられることを話すとはどういうことなのでしょうか。それは、やはり、神に委ねよ、ということだと思います。皆さんは、牧師のようには人前で話す機会は少ないと思いますが、そういうお話の内容よりも、人生の大きな問題、死であるとか、病気であるとか、仕事であるとか、家族であるとか、そういう大きな問題は、神に委ねるということではないでしょうか。

自分ではまったく何もしないということではなく、ある程度のことをしたら、いやこうではなくああすればよかったとか、うまくいかないのではないかとか取り越し苦労をするのではなく、そこからさきは、神に委ねるのです。あるドラマで聞いた、「病気のことはお医者さんに、いのちのことは神様に」という言葉が思い出されます。

 12節です。13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 わたしたちの人生においては、家族や親しかった人びととの間でも、予想もしなかったこと、まさかと思ったことが起こります。しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる、神が共にいるから」とイエスは教えてくれます。

 わたしのこれまでの人生でも、いくつかのことが起こりました。わたしは最後まで耐え忍んだわけではありませんが、ふりかえってみたら、なんとかなってきました。

 最後まで耐え忍ぶというより、最後まで神は見捨てない、ということではないでしょうか。

 遠藤周作の「侍」という小説の最後の方で、主人公は捕まります。おそらくこれから拷問を受けて、死ぬことになるでしょう。しかし、連れて行かれるその背中に、主人公の友が語りかけます。「ここからさきは、あのお方が一緒におられます」「ここからさきは、あのお方が一緒におられます」

 神はかならずこうしてくださる、ああしてくださる、そのような信仰、希望は非常に大切です。けれども、そのようにならなかった場合でも、神は最後まで一緒にいてくださる、そのようにならなくても、神はわたしたちを最後まで見捨てない、そのような信仰、希望をもわたしたちは持ち続けようではありませんか。

 祈り:神さま、あなたは、わたしたちにいのちを与え、わたしたちが生きる世界を与えてくださいました。神さま、あなたは、また、今日まで、わたしたちの日毎の糧をあたえて、わたしたちを守り支えてくださいました。心より感謝申し上げます。神さま、それにもかかわらず、わたしたちはさまざまな恐れや不安を抱えていますが、あなたが最後までわたしたちとともにいらしてくださるという信仰と希望をもち続けることができますように。神さま、世界の片隅でひとり苦しむ友がいます。どうぞ、あなたが最後までともにいてささえてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。
 

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