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天使の知らせ [使信]

2021年12月19日 ルカ2:1-20  「天使の知らせ」

おはようございます。クリスマスおめでとうございます。さきほど読んでいただいた聖書の個所では、羊飼いたちは天使の声に耳を傾けました。わたしたちは、天使の声を、天からの声を、神の声を、聴こうとしているでしょうか。それとも、自分の声にしか、興味がないでしょうか。言い変えますと、もしかしたら、わたしたちは、自分の浅い声、深みのない声、聞きやすい声しか聞いていないのではないでしょうか。わたしたちは、自分や世界や花や海や川や本や聖書の、表面の奥の深いところに神の声を聞こうとしているでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。ルカによる福音書2章1節です。2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

ローマ皇帝からの知らせがありました。いや、これは知らせではなく、有無を言わさない命令です。「全領土の住民」とあります。つまり、皇帝にとっては、人間は自分の領土の中身、領民に過ぎないのです。自分の所有物に過ぎないのです。

「登録をせよ」とは、皇帝の臣民となれ、ということであり、皇帝に税を納めよ、ということであり、場合によっては、徴用や徴兵に応ぜよ、ということではないでしょうか。その登録のために、人びとは長い道のりの移動を余儀なくされます。イエスの母マリアも、出産が近いにも関わらず、それに従わざるを得ませんでした。けれども、移動先で泊まる宿も見つかりません。命令とは、このようなものです。

しかし、天使の知らせは、皇帝の命令とは正反対のものでした。

8節です。2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

天使は誰に知らせを告げたのでしょうか。貧しい羊飼いです。羊とともに泥や埃や糞尿にまみれ、凍てつくように寒い夜、野宿をせざるを得なかった羊飼いたちに、天使は知らせをもたらしました。

どんな知らせでしょうか。「恐れるな」。畏敬の念を抱く、近づきがたいものとしてかしこまり敬う、そういう意味での神への畏れは必要です。しかし、神の前で恐怖に怯える必要はありません。ひどいめに遭うかもしれないとがたがた震える必要はありません。

神は、わたしたちに、恐怖ではなく、むしろ、平安をもたらしてくださいます。だから、恐れるな、神を恐れることはないのです。さらには、わたしたちは人生をも、自分の生きている世界をも、何ものをも恐れなくてよいのです。神がともにおられるのですから。神は、インマヌエル、つまり、神がわたしとともにいます、と呼ばれるお方なのですから。これが、天使の知らせです。

天使は言葉を続けます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。大きな喜びは「全領土の住民」ではなく「民全体」に伝えられます。ローマ皇帝の命令は自分の支配下、自分の所有物である住民にくだされますが、天使の知らせは、すべての人びと、誰の所有物でもない、ひとりひとり大事な存在であるすべての人びとに届けられるのです。

しかも、ローマ皇帝の所有物としての登録命令ではなく、「大きな喜び」が届けられるのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」「あなたたちは救われる」という大きな喜びです。

12節です。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

先日、二十年近く年前の映画をインターネットで観ました。東京ゴッドファーザーズというアニメ映画ですが、子ども向けというわけではなく、大人に訴えるメッセージを持っていました。

 三人の主人公はゴミ捨て場で赤ちゃんを見つけます。そして、その赤ちゃんの親を探すのですが、そうしながら、三人は自分の大切な人びととのつながりを回復させていきます。飼い葉桶、粗末なまぶね、ゴミ捨て場を深く見つめることこそが、わたしたちが失った大切なものを取り戻させてくれるのかもしれません。

わたしたちにとっての、貧しいまぶね、ゴミ捨て場とは、いったい何のことでしょうか。わたしたちの人生の、ちいさな粗末なまぶね、ゴミ捨て場とは何でしょうか。それは、病であり、失敗であり、挫折であり、暴力や暴言を受けることであり、それを発してしまうことであり、何もかもうまく行かないことであり、先行きの不安であり、大きな孤独であるかもしれません。わたしたちは、そこに、その奥底に、生後間もない乳飲み子を見つけることができるでしょうか。赤ちゃんの泣き声、悲しくもあり、うれしくもある赤ちゃんの泣き声を聞くことができるでしょうか。

14節です。2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

「いと高きところには栄光、神にあれ」とあります。「栄光、神にあれ」です。「栄光、皇帝にあれ」ではありません。「偉い人に栄光あれ」「権力者に栄光あれ」でもありません。「ただ神にのみ、栄光あれ」です。

「地には平和」。この地とはどこのことでしょうか。粗末な家畜小屋やそのまぶねや、羊や羊飼いたちが震えている野原も、この地には含まれることでしょう。わたしたちの人生のゴミ捨て場、わたしたちの人生のどん底、この社会の底辺も、また、この地に含まれることでしょう。そこに、平和あれ、と天使は知らせます。

「御心に適う人に平和あれ」と天使は言います。神のお眼鏡に適う立派な人、立派な行動、立派な精神の人に平和あれ、ということでしょうか。わたしには、むしろ、神が無条件で愛するすべての人、頼るすべがなく神に委ねるしかない人、人生のゴミ捨て場をさまよう心破れたすべての人に、平和がありますように、と聞こえます。

15節です。2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

わたしたちは、粗末なまぶねに寝かされている乳飲み子を探し当てることができるでしょうか。この世のかたすみに、神の子を見いだすことができるでしょうか。わたしたちの心のゴミ捨て場に、わたしたちの人生のゴミ捨て場に、神の子を見いだすことができるでしょうか。

わたしたちの小さな弱いいのちのなかに、苦しんでいる人びとの小さないのちの中に、神の子を、神のいのちを見いだせるでしょうか。

人間的には、あるいは、社会的には、最低の状況の中で、自分はダメだ、あの人はダメだ、という騒音の中で、わたしたちは、天使の声を、神の子の声、神の声を聞くことができるでしょうか。「恐れるな、大きな喜びを告げる」という声を聞き、この世の底辺、自分のどん底で、光を見つけることができるしょうか。

わたしたちは、天使の知らせに耳を傾けようではありませんか。天使の知らせは、皇帝の命令でもなければ、わたしたちのひとりよがりの考えや、わたしたちの自暴自棄の呪いでもありません。天使の知らせは、この世界の、一輪の花の、大きな空の、わたしたちの心の深いところにおられる神の声です。声にも言葉にもならない神の声です。いや、聖書を読むことで、うかびあがってくる神の声です。

天使の声は、わたしたちの良心の声のようでもありますが、わたしたちの思いを否定する神の声でもあります。わたしたちは「恐い」と言いますが、神の声は「恐がるな」とそれを否定してくれます。わたしたちは「もうだめだ」と言いますが、神の声は「まだ大丈夫だ」とそれを否定してくれます。

クリスマスです。わたしたちは、目に見えないほど深いところから聞こえてくる、聞こえない声に耳を傾けましょう。この世界を創造し、わたしたちを生かしてくれる神の愛の声を、「恐れるな」「大きな喜びがある」という天使の声を、粗末なまぶねで泣く乳飲み子の声の奥底に聞き取ろうではありませんか。

祈り:神さま、あなたは天使を通して「恐れるな」「大きな喜びがある」と語りかけてくださいます。わたしたちは、世の中と自分自身の喧騒の中で、そのもっと深いところに耳を傾け、シャロームと響くあなたの声を聞き取ることができますように。あなたのシャローム、平安の声を胸に抱いて、この世の荒野を歩みぬくことができますように、お支えください。神さま、野宿をしている友がいます。命令に苦しめられている友がいます。神さま、どうぞ、友をそこから解き放ちて、大きな喜びをもたらしてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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