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「束縛を解かれ、新しい人生を」 [礼拝説教(使信)動画]

2021年12月12日 「束縛を解かれ、新しい人生を」

https://youtu.be/ZWDMxJMwFHY
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2021年12月12日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:4)

わたしたちは、自分が過去になしたことや受けたことによって苦しめられます。それは、他者や自分を傷つけることであったり、自分が傷つけられることであったりするでしょう。わたしたちは、そのような過去に囚われてしまっています。
 その縄目から赦されるすべ、そこから解き放たれるすべはあるのでしょうか。聖書は、神に立ち返る道を示してくれます。それは、悪いことを止めて善いことを始める、ということに限られません。
 わたしたちは、神から心と体を与えられた者であり、神はわたしたちの心身の源泉ですが、わたしたちは傷ついたことで、そこから遠のいたり、それを忘れたりしてしまいます。
 聖書は、そのようなわたしたちに、源である神に立ち返るように、自分のルーツにもう一度触れるように、教えてくれます。しかも、神は、わたしたちから遠く離れているのではなく、じつは、目には見えないけれども、わたしたちのすぐそばに、日常の内奥にいるというのです。
 洗礼とは、そのような神に気づき、もういちど神とつながろうとする道のひとつでありましょう。劇的な変化、魔法の出来事が必ずしも起こるわけではありません。
 けれども、自分や世界の深いところに、神というこんこんと湧きだすいのちの泉があることを思うとき、わたしたちの人生も確かに深くなるのではないでしょうか。

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束縛を解かれ、新しい人生を [使信]

2021年12月12日 マルコ1:1-8  「束縛を解かれ、新しい人生を」

おはようございます。先週、新百合ヶ丘駅の向こう側にある、川崎市アートセンターで、市民劇団による劇を見てきました。チャールズ・ディケンズというイギリスの小説家が書いた「クリスマス・キャロル」というお話をもとにしたものです。

原作の舞台は、クリスマスイブのロンドンですが、この劇では、大みそかの新百合ヶ丘になっていました。しかし、どちらも、ある意味閉じ込められた状態にある人、閉塞状態にある人が、目に見えない力、目に見えないものによって、周りの人や周りの世界に開かれていくお話、新しい生き方を始めるお話しでした。

この劇団は、ときどき、劇団員募集のオーディションをしているので、わたしも応募してみたいなと思いましたが、日曜日にも公演があるので、止めておくことにしました。

さて、今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書1章1節です。1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

「神の子」とあります。これはどういう意味でしょうか。わたしは、これは、イエスが神の大事な何かを伝えている、ということではないかと思います。あるいは、イエスは神と大切なものを共有している、あるいは、イエスの中に神のいのちが生きている、という意味ではないかなと思います。

「キリスト」とあります。キリストは、旧約聖書のメシアをギリシャ語にした言葉ですが、本来は、油を注がれた者という意味で、それが、救い主を指すようになった、ということです。イエス・キリストとは、イエスはキリストである、あるいは、キリスト、救い主であるイエスという意味ですが、イエスは、どのような意味で、わたしたちのキリスト、つまり、救い主なのでしょうか。

わたしは、それは、イエスがわたしに神を示してくださる、神を見せてくださる、イエスがわたしを神と結び合わせてくださる、わたしを神のもとに連れ戻してくださる、そういう意味で、イエスはわたしにとってキリストである、と感じています。

それから、「福音」とあります。福音の福は幸福の福、つまり、幸せな、うれしい、喜ばしい、という意味です。福音の音は、おとずれ、知らせ、という意味です。つまり、福音とは、うれしい知らせ、喜ばしい知らせ、決定的に喜ばしい知らせという意味で、英語では、Good News 良い知らせ、と言われることがあります。

わたしたちにとって、イエスはどういうお方でしょうか。イエスは、どういう意味で、神の子であり、キリストなのでしょうか。

わたしにとって、イエスは、わたしよりずっと強く神を感じているお方で、それゆえに、わたしに神を教えてくださるお方、わたしを神と引き合わせてくださるお方、イエスは言葉と行いによってわたしに神を現わしてくださるお方、そういう意味で、イエスはわたしのキリストであると、わたしは感じています。

3節です。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

 これはイザヤ書に基づいています。イザヤ書40章1節から読んでみましょう。40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

イザヤ書40章はイエスより500年以上前の書ですが、バビロン捕囚からの解放を背景にしています。ユダヤの民はバビロニアという大国によって国を滅ぼされて、バビロンに連れて行かれましたが、イザヤ書のこの個所はそこからの解放を歌っています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよ」とはバビロン捕囚から解放されるということです。「苦役の時」とか「彼女の咎」とかあるのは、ユダヤの民は、国を滅ぼされたのは、自分たちが神から離れてしまったからだ、と深く反省したからです。もっとも、わたしたちは、苦しんでいる人は神から罰を受けているからだ、などと考えるべきではないと思います。いずれにせよ、イザヤ書のこの個所は、苦しみから解放される時が来た、束縛から解放される時が来たことを歌っています。

荒野の道、荒れ地に広い道、とあるのは、バビロンからユダヤまで帰って来る道のことです。これは、エルサレムの都、破壊されてはしまったが神殿があったところまで帰って来る道、神の元に帰って来る道のことです。

その五百年後、このイザヤ書を引き合いに出すことで、マルコは、イエスの登場によって、これと同じことが起こる、五百年前のバビロン捕囚からの解放と同じことが起こる、神の元への帰還、立ち返りがふたたび起こる、と言っているのではないでしょうか。

4節です。1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

「罪の赦し」とあります。「罪」とはどういうことでしょうか。一言で言えば、エゴイズム、自分中心のことだと思います。自分が自分が、となってしまって、神や隣人に思いが行かないことだと思います。

では、「罪の赦し」とはどういうことでしょうか。これは、わたしたちがどこまでも自分中心であるにもかかわらず、いのちを与えられ、生かされていることだと思います。

「悔い改め」とはどういうことでしょうか。これは、わたしたちが自分中心であるにもかかわらずいのちを与えられ生かされていることに感謝して、その恩に応えて、神と隣人の方を少しでも向こうとすることでしょう。100%神と隣人の方を向くことは不可能ですが、1%でも2%でも10%でも、いや数字に関係なく、少しでも、いまよりは神と隣人の方を向こうとすることが、悔い改めでありましょう。

では、「洗礼」とはどういうことでしょうか。洗礼は、聖書に出てくるように川や、あるいは、海や、礼拝堂にある浴槽などで、頭の天辺まで水に浸かるやり方もありますが、現在の多くの教会では、頭に水を何滴か、タオルでふける程度にかけるようにしています。まぶね教会もこの方式です。鶴見川やそこの池に浸したりはいたしませんので、ご安心ください。

この洗礼は、一方では、人間の決断、神を信じてこれから新しく生きるように心がける決断であるともいえますが、他方では、つまり、神の側から見れば、神がその人を新しくしてくださる、束縛を解かれ、新しい人生を歩むようにしてくださることでもありましょう。

8節です。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。

洗礼式では、水に浸ったり、水をかけられたりしますが、それは、死を意味すると考えられます。これまでの自分、古い自分、束縛されていた自分が、いちど死んで、生き返るのです。その新しいいのちを吹き込んでくれるのが、聖霊と考えられます。つまり、洗礼式では、牧師などの人間が水をかけますが、そこには、目に見えない神がおられ、聖霊、神の息吹を吹き込んでくださると考えるのです。

最初に、クリスマス・キャロルのお話をしました。それによれば、スクルージというケチで非道な経営者が、クリスマスイブにあらわれた目に見えない存在によって、心をあらたにされ、従業員の待遇をよくしたり、貧しい人びととわかちあったりするようになります。

わたしは、この話は、聖書のザアカイの話に似ているように思いました。ザアカイは、イエスが自分を訪ねてくれることによって、生き方をすっかり変えてしまいます。財産の半分をまずしい人びととわかちあい、不正に取り立てた税金を四倍にして返すというのです。

けれども新しい人生とは、悪が善になる、悪人が善人になる、ということばかりではありません。新しい人生とは、束縛されてきた人が解き放たれることです。

たとえば、イエスは重い皮膚病の人を癒します。それは、これまで「清くない」と言われ周りから差別されていた人が、その周りのまなざし、自分を「清くない」と見るまなざしから、解放されることだと思います。

あるいは、道端に座っていた目の見えない人がイエスに出会うと、その人は、目が見えるようになり、それまでは座り込んでいたのが、立ち上がって歩きはじめるようになるのです。

イエスを通して神と出会い、これまでの束縛を解かれ、あらたに歩みを始める、この意味で、イエスはキリストであり、神の子なのではないでしょうか。

病気、人間関係、貧しさが、わたしたちを束縛しています。けれども、わたしたちは、イエスとの出会いによって、イエスによって神と結び合わされることによって、これまでの苦しい思いの積み重ねから解き放たれることを信じようではありませんか。

イエスと出会い、イエスが示す神の愛に触れ、それに委ねて、神の愛にすべてを委ねて、喜びの人生を歩み始めようではありませんか。そのようなアドベント、そのようなクリスマスになることをお祈りいたします。

祈り:神さま、あなたが天地を創造し、わたしたちを創造し、いまなお、日々創造し続けてくださることを、イエスを通して、わたしたちに示してくださいました。感謝いたします。わたしたちは、ひとりひとり、ひどく疲れ、ひどく傷つき、ひどく失望していますが、イエスを通して、いのちの源であるあなたとふたたび結ばれ、あらたないのちをいただくことを信じます。神さま、苦しんでいる友がいます。束縛されている友がいます。どうぞ、友を縄目から解き放ってください。イエス、わたしたちのキリストによってお祈りいたします。


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