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あなたは汚れてなんていない [礼拝説教(使信)動画]

2022年1月30日 「あなたは汚れてなんていない」

https://youtu.be/vCX9eFIVsKw
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2022年1月30日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1:41-42)

 その人はイエスに「あなたはわたしを清くすることができる」と訴えました。当時(そして、今なお)重い皮膚病の人は「清くない」「汚れている」と見なされていました。清い、汚れているという形容詞は、社会の人びと(そしてわたしたち)の偏見によってつけられていたのです。
 しかし、イエスはそのような人間の差別意識ではなく、いのちを与える神の愛に根差しており、自分を「清くない」とする社会のレッテル貼りから解き放ちてくれる、と重い皮膚病の人たちは直感したのではないでしょうか。
 イエスはこの人を「深く憐れみ」ます。これは、「腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られる」と訳すことのできる言葉です。つまり、重い皮膚病ゆえに人びとから汚れたものとされ蔑まれ遠ざけられていたこの人の苦しんでいる姿を見て、イエスは、自分の腸が引き裂かれるような苦しみを受けた、この人の痛みを(じゅうぶんかどうかはわかりませんが)激しく感じたのです。
 「憐れむ」とは、自分は安全を確保しながら、「この人はかわいそう」「助けてあげたい」と上から見下ろすことではありません。むしろ、自分の身が痛むほどに苦しむことです。「愛しい」と書いて「いとしい」と読みますが、「かなしい」とも読みます。compassionは「共感」と訳されますが、comは「共に」、passionは「被ること」「受難」を意味します。つまり、共に苦しむことが「共感」なのです。
 イエスは重い皮膚病の人の痛みをともに負いました。いや、ひとりの痛みは誰かに理解されたり共有されたりするものではありませんから、ともに負おうと切に願ったというべきかもしれません。あるいは、神だけがそれをできると知っていて、イエスは神に切に祈ったのかもしれません。苦しみながら祈ったのかも知れません。
 人びとが「汚れている」としたその人にイエスは「手を差し伸べて触れ」ました。そして、「よろしい。清くなれ」と言いました。イエスのこの言葉には、「あなたは汚れてなんかいない。そのあなたを清くないとする人間の差別が克服されよ」という祈り、腸がちぎられるような苦しい祈りがあるのではないでしょうか。

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あなたは汚れてなんていない [使信]

2022年1月30日 マルコ1:40-45  「あなたは汚れてなんていない」

おはようございます。今日の聖書に、「清くする」という言葉が出てきます。病気の人を「清くする」とはどういうことなのでしょうか。重い皮膚病の人は清くないのでしょうか。けっしてそんなことはありません。この世界には、清くない病気、汚れた病気などがあるのでしょうか。そんな病気はありません。人が、わたしたちが、勝手に、「あの病気は清くない」「あの病気は汚れている」と言っているだけです。これは、ひじょうに残酷な言葉、人を踏みにじる言葉です。

イエスは、重い皮膚病の人に、「手を差し伸べた」とあります。マルコによる福音書1章40節です。1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

イエスはこの人に「手を差し伸べた」、そして、「触れた」とあります。今日の聖書の書き方では、その結果、その人が清くなったというように思えますが、イエスは、最初から、この人が清くないとか汚れているとか思っていなかったのではないでしょうか。イエスがその人に手を伸ばし、触れたのは、その表れではないでしょうか。重い皮膚病の人を「清くない」「汚れている」とする社会の差別、わたしたち人間の差別心が、イエスにおいては乗り越えられようとしていたのではないでしょうか。それが、この人が「清くなった」と言われることの意味ではないでしょうか。

「重い皮膚病」とあります。この人びとは、日本の歴史の中で、千数百年にわたって差別され排斥されてきたハンセン病の人びととよく似た状況におかれていたようです。ただし、聖書の「重い皮膚病」はハンセン病とかならずしも全く同じ病気とは限らないようです。

イエスは、重い皮膚病を患っているこの人を「深く憐れんだ」とあります。ここのところを、岩波書店の聖書では、イエスが「はらわたがちぎれる思いに駆られた」と訳しています。これは、もともとのギリシャ語に「はらわた」「内臓」という意味の言葉が含まれているからです。自分のはらわたが痛むくらいに、その人の痛みを感じた、ということでしょう。

「深く憐れむ」ことは「はらわたを痛める」ことなのです。愛することは悲しむことです。愛という漢字に「しい」という送り仮名をつけると、たいていの場合は「いとしい」と読みますが、これを「かなしい」と読むこともあるそうです。愛すること、いとしむこと、いとおしむことは、かなしむことなのです。慈悲という言葉も同じことを示しているのではないでしょうか。

Compassionという英語は、「共感」と訳されますが、comは「一緒に」「ともに」という意味であり、passionの語源には「苦しむ」という意味があります。つまり、共感するとはともに苦しむことなのです。

国語と英語の授業のようになってしまいました。今日の授業はこれくらいにしておきましょう。けれども、このお話はもう少し続きます。

「たちまち重い皮膚病は去り」とあります。これはおもしろい言い回しだと思います。先週の聖書では、「汚れた霊が出て行く」とありましたが、重い病気が人から去ることと汚れた霊が人から出て行くことは、とても似ているように思います。

イエスは、この人を苦しめる何かがこの人から去っていく、この人から出て行くことを切に願ったのではないでしょうか。イエスが願ったことは、この人が人々から「清くない」「汚れている」と言われる事態が去っていく、そういうことがなくなることであり、この人を差別し排斥する心が人々の中から出て行くことであり、そのかわりに、その人と共に生きよう、共生しようとする心が入ってくることだったのではないでしょうか。

43節です。1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

イエスはなぜその人にこのことを誰にも話してはならないと言ったのでしょうか。それは、病気が治ったという奇跡話だけが魔法の出来事のように伝わることを恐れたのではないでしょうか。人々が奇跡だけを期待して、差別をなくさなければならないなどとは思わないことを懸念したのではないでしょうか。わたしたちが重い皮膚病の人を斥ける社会を作ってしまっていることに気づかず、それを認めず、差別を克服しようとする努力を怠ることをイエスは恐れたのではないでしょうか。

 わたしたちがある人びとを差別する、斥けるそのことに気づき、その考え方を変革しようとする、また、わたしたちの差別心に乗っかった社会の仕組みを変革しようとする、そういう考えや努力なしに、ただ奇跡だけを期待する、イエスはこれを懸念したのではないでしょうか。

イエスの時代、重い皮膚病の人びとは「あなたは清くない」「あなたは汚れている」とされ、社会から斥けられました。それとすっかり重なるわけではありませんが、わたしたちもまた、たとえば、「あなたはダメだ」「あなたは有能ではない」「あなたは正しくない」「あなたは間違っている」と言われたことがないでしょうか。いや、一度や二度ではなく、どこかでそのように言われ続けてきたのではないでしょうか。

個人的にそのように言われるだけでなく、わたしたちの社会には、たしかに差別の枠組みがあります。「あなたは女の子なのだから」「あなたは女性なのだから」と言われたことはないでしょうか。わたしたちの社会では、男性が女性を差別しています。男性が男性以外のセクシャリティの人びとを差別しています。健常者と言われる人びとが障碍者と言われる人びとを差別しています。学歴による差別もあります。仕事の種類に対する差別もあります。ホームレスの人びとが差別されています。

わたしたちは、子どものころから、優劣を決める社会に放り込まれています。小学校一年生の時から、算数や国語の試験の点数によって、かけっこの速さによって、優劣をつけられてきました。わたしは、「優劣」の優になることを求めてきました。自分で自分は優だと思い、人からもそう思われることを求めてきました。それは、劣っている、劣であるとされることへの恐怖と表裏一体でありましょう。

学校を卒業したのちも、今現在も、自分は優れていると思いたいし、劣っていると思いたくないし、劣っていると言われることに、あるいは、おかしいとか間違っているとか言われることに苦しんでいます。皆さんは、いかがでしょうか。あなたはおかしい、あなたはまちがっている、と言われることは苦しくないでしょうか。

人を「正しくない」「劣っている」と非難し、自分もそのように非難されているわたしたちに対して、イエスは何と言っているのでしょうか。

重い皮膚病のゆえに人々から「清くない」と言われ、「あなたはわたしを清くすることがおできになります」と申し出た人に対して、イエスはこう言いました。「よろしい。清くなれ」

優劣、正しい正しくないの枠組みの中で苦しんでいるわたしたちが、イエスに、「あなたはわたしたちをこの枠組みから抜け出させてくださいます」と言ったら、イエスは、「よろしい。優劣、正しい正しくないの枠組みの外に出なさい」と言ってくれるのではないでしょうか。

今日の聖書の個所ではありませんが、イエスはこのように言ったと伝えられています。マタイ5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

わたしたちは、この人は味方だ、この人は敵だ、この人は正しい、この人は間違っている、この人は清い、この人は清くないなどという枠組みに囚われて、人を傷つけ、自分も傷ついていますが、イエスは、皆、神の子であると言います。太陽が悪人善人の区別などを設けずすべての人を照らすように、雨が正しい人正しくない人の区別なども受けずすべての人を潤すように、わたしたちは、清い、清くないなどにわけられない、皆、神の子だとイエスは言うのです。

わたしたちは、自分が人を清いとか清くないとか区別していることを乗り越えるようにイエスから招かれていますが、同時に、自分がそう言われて苦しんでいることをも乗り越えるように招かれています。

わたしは、少し前に、自分の人生はダメだったなあと痛感し、苦しんだことがありました。たしかに、若いころはダメだった、けれども反省して、少しはまともに20年30年生きてきたつもりだった、でも、やはりだめだったのだな、自分は清くなかった、正しくなかった、自分の生きてきた意味はなんだったのか、とてもむなしく感じたことがありました。今もあります。

けれども、それにもかかわらず、「あなたはダメだ」という人の声にもかかわらず、「わたしはダメだ」という自分の声にもかかわらず、イエスは、そして、神は「よろしい。清くなれ」と言ってくださいます。この言葉の中には、「あなたは清くないなんてことはない。あなたは汚れているなんてことはない。あなたは、清い、清くない、正しい、正しくないの枠組みの外にいる。あなたは、わたしの子であり、わたしは、清い、清くないの外にいる」という響きがあるのではないでしょうか。

祈り:神さま、わたしたちは、人から認められず、むしろ、否定され、苦しんでいますが、あなたは、わたしたちのいのちを認め、わたしたちのいのちを肯定してくださいます。心より感謝を申し上げます。神さま、正しくない、清くない、おかしいとされ、苦しめられている友がいます。けれども、あなたはその友を愛しておられます。友も、わたしたちも、あなたのその愛に気づくことができますように。友を苦しめるわたしたち人間の枠組みから、友もわたしたちも救い出してください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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この人から出て行け [礼拝説教(使信)動画]

2022年1月23日 「この人から出て行け」

https://youtu.be/3khEZr5Tdtc
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2022-01-23 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」(マルコ1:25-26)

 もし、わたしたちの家が何ものかに占拠されて、わたしたちが苦しんでいるところに、助け手があらわれて、無法者に向かって「ここから出ていけ」と叱りつけ、追い出してくれたら、どうでしょうか。この聖書の個所を読んで、わたしはこんなことを想像しました。
 あるいは、わたしたちが心の中にどうしても長年消えない辛い思いを抱えているところに、神が訪れ、わたしたちの辛さをわかってくれ、その辛さに向かって「ここから出ていけ」と叱りつけてくれたら、どうでしょうか。
 イエスはある会堂で汚れた霊に取りつかれていた男の人と出会いました。当時、汚れた霊は、病気や人間関係で人が苦しむ原因のひとつに考えられていたのではないでしょうか。
 イエスは、その人が苦しんでいるのを見て、自分も苦しみ、なんとかその苦しみを取り去りたいと強く思ったことでしょう。そして、それが「この人から出て行け」という言葉になったのではないでしょうか。汚れた霊への激しい言葉は、苦しんでいる人への深い共感ゆえではないでしょうか。
 イエスの深い共感は、その人の中に浸みこんでいったことでしょう。その人は、汚れた霊と正反対のもの、聖霊、神の霊が入ってきたと感じたかもしれません。そして、それは、その人を苦しめている汚れた霊にまさる、と知ったのではないでしょうか。その人の心は、いまや、汚れた霊ではなく、神からの慰めの霊が治めるようになったのです。
 わたしたちも、苦しい思いに苦しめられます。そんなときは、本を読むのが良いと思います。聖書も良いと思います。苦しい思いにまさる慰めの言葉、しかも、世界の根源と永遠を志向する言葉は、わたしたちを苦しめるものにまさってくれます。汚れた霊が追い出されるという不思議な出来事は、わたしたちには、このような形で経験されることもあるのではないでしょうか。

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この人から出て行け [使信]

2022年1月23日 マルコ1:21-28  「この人から出て行け」

おはようございます。コロナ感染が猛威を振るっています。コロナが世界中に蔓延して、もう二年以上になります。わたしたちの世界は、もう二年も、コロナに支配されてしまっています。いい加減に出て行ってほしいと思います。コロナに向かって、わたしたちの世界から出て行け、と叫びたくなります。

 今日の使信の題は、今日の聖書のイエスの言葉からとって、「この人から出て行け」としました。わたしたちは、何に出て行ってほしいでしょうか。何を追い出したいでしょうか。

 沖縄の人びとの多くは、歴史の中で、アメリカの軍事基地に出て行ってほしい、日米安全保障条約によってなぜか東京を中心とする首都圏ではなく沖縄に集中的に配置された米軍基地に出て行ってほしい、と願ってきました。ひとつは、軍関係者が沖縄県民を殺したり苦しめたりしてきたからであり、もうひとつは、自分たちの故郷である沖縄から飛び立つ戦闘機でベトナムなどの人びとが殺されてきたことが苦しいからです。わたしたちは、この二年間のコロナによる世界占領を通して、広い土地を占拠している米軍基地に出て行ってほしい沖縄の人びとの気持ちのごく一部でも垣間見ることができたでしょうか。

 あるいは、わたしたちは、自分や家族、友人、隣人に巣食い、苦しめる病気に出て行ってほしいと願っています。わたしたちや隣人を苦悩させる、解決のひじょうに難しい問題に出て行ってほしいと願っています。

 あるいは、わたしたちの中にある、ずるさ、憎しみ、怒り、悲しさ、絶望、不安、心の嵐に、ここから出て行ってほしいと願っています。

 はんたいに、わたしたちは、平安が入って来てほしい、不安が出て行って、平安が入って来てほしい、世の中全体からコロナが出て行って、世の中全体に健康が入って来てほしい、自分や隣人から病気が出て行って健康が入って来てほしい、世界から戦争が出て行って平和が入って来てほしい、自分の中から憎しみやずるさが出て行って愛や誠実さが入って来てほしいと願っています。

 今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書1章21節です。1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 「一行は」とありますが、これはイエスとイエスがガリラヤ湖の岸辺でスカウトした弟子たちでありましょう。「カファルナウム」はガリラヤ湖の北岸の町です。

 イエスは安息日に会堂に入り、人びとに教え始めたとありますが、イエスの教えは、律法学者たちの教えとはまったく違っていた、イエスは「権威ある者として」教えたとあります。

 これはどのような教えのことなのでしょうか。ここのところは、ある人は「権能ある者のように教えた」と訳しています。権威ある者の教え、権能ある者の教えとは、どのようなものでしょうか。

 ところで、まぶね教会の牧師さんの使信には権威があるでしょうか。もう少し胸をはって、満面にゆったりとした笑みを湛えて、ついでに、口ひげでも生やしてみると、もう少し権威が出るでしょうか。もっとも、教会の礼拝で語る者の権威とは、語る者自身の権威ではなく、会衆から語ることを委ねられている、委託されているということでしょう。皆さんの委託こそが、礼拝で語られる言葉の権威ではないでしょうか。

 さて、話をイエスに戻しますと、イエスの、権威ある者としての教えは、どのようなものでしょうか。それは、今日の聖書の続きが物語っています。

 23節です。1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。

 汚れた霊に取りつかれた男が叫んだ、とありますが、これは、その男性の叫びというよりは、汚れた霊自身の叫びでありましょう。汚れた霊が叫びながら出ていくような教え、今日の聖書の個所では、それが、権威ある教えなのです。

 言い変えますと、人を苦しめているものを負い出すような力のある言葉、苦しんでいる人の苦しみを追い出すような言葉、それが、イエスの権威ある教えなのです。

 たとえば、ある女性がある男から苦しめられているとします。ある男とは、わたしのことではありません。ここにおられる男性がたのことでもありません。

 それはともかく、ある女性がある男に苦しめられています。そこに、その女性のお姉さんがやって来て、その暴力男に向かって、「わたしの妹をこれ以上苦しめないでください。わたしの妹の家から出て行ってください」と言った、そんな光景を、わたしは今日の聖書を読んで思い浮かべました。

 わたしは、かつて苦痛だったことが思い出されて苦しい時、ドラマを観るか、本を読むかします。もっとも、ドラマはNHKの朝ドラを中心に毎日何か観ますし、本も毎日読みますが、毎日苦痛に悩まされているわけではありません。ただ、ドラマや本が苦痛を追い出してくれることがあるのはたしかです。とくに、自分にとって心が慰められる本、わたしの場合は、永遠なるものや世界の深いところにあるもの、愛の泉を想い起こさせてくれるような本は、苦痛を追い出し、慰めを招き入れてくれます。

 ドラマや本には、人それぞれ好みがあると思いますが、聖書の言葉の中には、わたしたち皆から闇を追い出し、光を射し込んでくれる言葉、あるいは、闇は闇のままなのですが、その闇の中に光を射し込んでくれる言葉があります。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。イエスのこの言葉は、わたしたちの中から孤独を追い出してくれるのではないでしょうか。あるいは、孤独は孤独のままなのですが、その孤独の中に神がともにいるという平安をもたらしてくれるのではないでしょうか。

 嵐の湖の舟の中で怯える弟子たち、恐れる弟子たちに投げかけられるイエスの言葉、「安心しなさい。わたしだ」、イエスのこの言葉は、わたしたちの中から恐れを追い出してくれるのではないでしょうか。あるいは、恐れは恐れのままなのですが、その恐れの中に神の安心、神の平安をもたらしてくれるのではないでしょうか。

 苦しみが追い出されるということは、かならずしも苦しい気持ちがなくなることではなく、苦しい気持ちは苦しい気持ちのままで、そこに、神の言葉が入ってくきてくださる、ということではないでしょうか。闇は闇のままで、闇のただなかに神の国があらわれる、ということではないでしょうか。

 聖書とともに、このような礼拝や祈りも、わたしたちの苦しい思いを追い出してくれます。そして、神の国を想い起させてくれます。苦しい気分でいっぱいのわたしたちの心の中に、神の国の空気を送ってくれます。礼拝の前奏、後奏、讃美歌、聖書の言葉、そして、祈りがそうしてくれます。礼拝とは、まさに、イエスがわたしたちと世界を苦しめるものに向かって「ここから出て行け」と叫んでくださり、神の国の風を吹き込んでくださる時間のことなのです。だから、わたしたちは礼拝を大事にするのです。大事にするから、礼拝を守る、というのではないでしょうか。

 汚れた霊、いや、人を苦しめる霊はイエスのことを「神の聖者」と呼びます。「神の聖者」とは、神から遣わされた方という意味であり、人を苦しめる霊の正反対の存在のことでしょう。苦しみをもたらすのではなく、むしろ、苦しむ人に寄り添う人がいるのです。苦しむ人に寄り添うことで、神がその人とともにいる、神がその人を見捨てないことを証ししてくれる人がいるのです。

わたしたちが生きる世界には、残念ながら、闇があり、人を苦しめる霊、人を苦しめる人の心があります。けれども、同時に、神の聖者もいるのです。同時に、光があり、人を苦しみから救い出そうとする神の心、苦しみとともにある神の心もあるのです。

汚れた霊が追い出される、とはどういうことでしょうか。それは、苦しむわたしたちのところに、神がきてくださる、わたしたちには苦しみだけではなく神がある。これが、苦しみが追い出されること、汚れた霊が追い出されることではないでしょうか。わたしたちは、汚れた霊だけを見るのではなく、苦しめる霊だけを見るのではなく、わたしたちを慰め平安をもたらす神を見ようではありませんか。

祈りましょう。神さま、イエスは人を苦しめる何かに向かって「この人から出て行け」と言ってくれました。神さま、あなたはそのようにして、わたしたちの中に、あなたの存在、あなたの愛を吹き込んでくださいます。わたしたちは苦しんでいます。この苦しみはずっと続くかもしれません。しかし、そのただなかで、あなたがともにいてくださり、あなたがいのちの息吹を吹き込んでくださることを受け止めることができますように。神さま、苦しんでいる友、苦しめられている友がいます。どうぞ、その苦しみを追い出してください。あなたの平安を吹き込んでください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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闇の中での絶対信頼 [礼拝説教(使信)動画]

2022年1月16日 「闇の中での絶対信頼」

https://youtu.be/WAE7hNA79zY
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2022年1月16日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

 わたしたちの中には、人への憎しみもありますが、人を大事にしようとする愛もあります。もう駄目だという絶望もありますが、きっと大丈夫だという希望もあります。何かを信じられない気持ちもありますが、信頼する心もあります。
 わたしたちが生きる世界にも、争いもありますが、和解や協同もあります。力によるねじ伏せもありますが、力を放棄したいたわりもあります。破壊もありますが、創造もあります。
 わたしたちには、憎しみ、絶望、不信、争い、ねじ伏せ、破壊ばかりが見えますが、愛、希望、信頼、和解、共同、いたわり、創造をも見ることがよいのです。
 絶望の後に希望が来ることだけでなく、絶望と同時に希望があることを見るのがよいのです。不信と同時に信頼があることを見るのがよいのです。
 洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判したゆえに、暴力によって投獄されました。イエスはその暗闇をしっかりと見ました。イエスは誰よりも深くその闇を凝視したことでしょう。
 けれども、イエスは、もうひとつのことも見ていました。この闇に輝く光があると。この世界を支配しているのはヘロデ王の権力のように見えるが、じつは、神が同時に支配しているのだと。ヘロデの支配は見せかけであり、神の支配はまことであると。ヘロデのは権力、暴力による支配だが、神のは愛による治めだと。
 わたしたちは、どちらを選択するでしょうか。ヘロデの暴力支配でしょうか。神の愛による治めでしょうか。憎しみでしょうか。愛でしょうか。絶望でしょうか。希望でしょうか。
 「福音を信じなさい」とは「福音の中で神を全面信頼して生きなさい」という意味だと学びました。この世は闇のようであるが、じつは、神が愛で治めている。わたしたちは、その愛の中に自分の身を委ねて、神を全面信頼する道を選びたいと思います。
 たとえ、わたしたちが全面信頼できなくても、神はわたしたちの全面を抱えてくださると信じたいと思います。

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闇の中の絶対信頼 [使信]

2022年1月16日 マルコ1:14-20  「闇の中の絶対信頼」

おはようございます。今、わたしたちにはどんなことが起こっているでしょうか。わたしたちにはどんなことがあるでしょうか。コロナウィルス流行拡大、第六波はいつまでつづくのか、そして、第七波はあるのか、この波はいったいあと何回やってくるのかという不安、ひとりひとりが抱えている病気、仕事の悩み、人間関係の悩み、将来の不安、お金の不安、心の不安・・・わたしたちの今には、このような困難や闇しかないのでしょうか。

けれども、わたしたちの今には、目には見えないもうひとつのことがあるのではないでしょうか。神がともにおられます。神が無条件にわたしたちを愛していてくださいます。わたしたちは今朝も生かされています。このような光、わたしたちには闇ばかりでなく、このような光もあるのです。

「今は闇だけれども、もうじき、光がやってくる」。こう信じたいと思います。しかし、「もうじき」、ということだけでなく、「どうじに」、ということも信じたいと思います。「今は闇だけれども、どうじに、光がここにある」。このことに、わたしたちは気づきたいと思います。

今日の聖書を振り返ってみましょう。洗礼者ヨハネが捕えられました。その結婚は律法に背いている、とヘロデ王を批判したせいであり、投獄され、まもなく殺害されたと伝えられています。

 これは大きな闇です。権力者が自分に異を唱える者をなきものにする。これは、残念ながら、ヘロデ王に限らない、いつの世にも起こる闇です。ヨハネが捕えられたのち、イエスはガリラヤに行った、とあります。ヘロデ王の闇から逃れるためでもあったのでしょうか。けれども、ガリラヤもまた、ヘロデ王の支配下であり、闇から自由であったわけではないでしょう。

 最初に申し上げましたように、わたしたちも闇の中にあります。コロナの闇、ひとりひとりの生活の闇があります。そして、今世界全体は、貧困と自然破壊という大きな闇を抱えています。基本的な衣食住、医療衛生の環境、教育の場などに事欠いている人びとがたくさんいます。それゆえに死んでいく人びともたくさんいます。

自然環境も破壊されています。資源が一部の人びとに独占されています。貧しい人びとにはわかちあわれません。未来の人びとにも残されません。地球の富を一部の人びとが独占するゆえに、ある人びとが貧しさを余儀なくされます。今のわたしたちが浪費するがゆえに、未来の人びとには残されません。貧困と自然破壊は現代の大きな闇です。

 イエスはこの闇の中で、ヘロデ王の闇の中で、どうしたでしょうか。マルコによる福音書1章14節です。1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 「神の福音」とあります。これは、神からの良い知らせ、神からのうれしい知らせのことです。ここは闇だが、この闇の中に、神がおられる、といううれしい知らせです。

 「時は満ちた」とあります。どんな時でしょうか。救いの時です。それが、「満ちた」とイエスは言います。救いの時は、いつか、ではなく、今だ、というのです。

 今ここに闇がある。どうじに、救いの時が来ている、というのです。闇と救い、この二重性が大事なのです。死がある、どうじに、いのちがある。この二重性です。イエスは死刑囚として十字架の上で殺された、どうじに、そのイエスは兵士によって「神の子だった」と呼ばれた。この二重性です。パウロは、わたしには弱さがある、どうじに、そこに恵みがある、と言った。この二重性です。今わたしたちは苦しい、どうじに、今わたしたちは生かされている、神がともにおられる。この二重性です。

 「神の国」とあります。神の国とは、神が治めてくださる、ということです。この世は、ヘロデが、権力者が支配しているが、どうじに、もっと深いところでは、目に見えない神が治めてくださっている、ということです。

 「悔い改めよ」とあります。悔い改めとはどういうことでしょうか。ある神学校には寮があり、神学生はそこで朝食、昼食、夕食をとります。それでも、足りない神学生は、夕食の後、厨房の冷蔵庫をこっそり開けて、そこにあるものを食べた、それを食い改め、と呼んでいたという話を聞いたことがあります。しかし、これは、ある神学校の伝説に過ぎません。

 悔い改めとはどういうことでしょうか。いくつかのことが考えられます。もう悪いことはやめて、これからは良いことをする。そういう考えもあります。あるいは、ものごとの見方を変える。ものごとや世の中を一番下から、底辺から、弱い人びとの立場から見る。これが悔い改めだという考えもあります。あるいは、これまで見ていなかったものを見る。これまでは、自分のことしか見ていなかったが、これからは、隣人や神を見る、これまでは、この世の闇しか見ていなかったが、これからはその闇を照らす神の光を見る。悔い改めをこのように考える人もいるでしょう。

 「福音を信じなさい」とあります。これはどういう意味でしょうか。福音とは神からの良い知らせですが、それをただ信じるのではなくて、福音の中で信じる、つまり、神からのうれしい知らせの中に、わたしたちは、すでに包まれていて、その中で、神を全面的に信頼する、という意味だという解説を読んだことがあります。

 福音の中で信じる、つまり、福音をお風呂だとしますと、お風呂の中に自分の身はいますでに浸かっている、そして、お風呂に浸かりながらお風呂の温かさに全幅の信頼を置く、ということでしょうか。あるいは、福音を冬の夜の温かい布団だとしますと、布団の中に自分の身はいますでに浸かっている、そして、布団の中にいながら布団の温かさに全幅の信頼を置く、ということでしょうか。

 この世はたしかに闇ですが、どうじに、この世は、神の国という目に見えないお風呂、布団であるとも考えられます。お風呂や布団に浸かりながらそれに全幅の信頼を寄せるように、わたしたちも、今生きているこの世界にある目に見えない神の国に浸かりながら、それに全幅の信頼を置きたいと思います。

 この世は闇、わたしたちの人生は闇ですが、じつは、その闇をさらに包む光のように、あるいは、闇の奥の光のように、神の治め、神の国があります。その神に、それを示してくれるイエスを、わたしたちは絶対的に信頼したいと思います。

 マルコによる福音書1章16節です。1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。

 「人間をとる漁師」とあります。これはどういうことでしょうか。これは人さらいのことではありません。ここには、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが登場します。シモンはのちにイエスからペトロと呼ばれます。

 彼らは、イエスを通して、神によって捕らえられたのではないでしょうか。言い変えますと、彼らは、イエスを通して、神の国、神の治めに気づかされたのではないでしょうか。神に委ねる生き方へとイエスに導かれたのではないでしょうか。

 わたしたち人間が闇の中で神を全面的に信頼することは、言い換えれば、神が人間を捕らえることでありましょう。ならば、人間を捕る漁師とは、神が人間を捕らえるときの器のことでありましょう。神を全幅信頼する道へと神が人を招くその器となる人を、人間を捕る漁師というのでしょう。

 彼らは、網を棄ててイエスに従った、とあります。あるいは、父親を置いていった、とあります。これは、どういうことでしょうか。わたしなども、やがて、置いて行かれる父親になるのだろう、と思いますが、これはどういう意味でしょうか。

 これは、この世の中で生きていくための手段よりも、神への全幅の信頼、神に捕らえられることが大切だ、ということではないでしょうか。

 もちろん、わたしたちには、網も必要であり、たとえば父親のような身近な人も必要です。生活するための手段も、人間のつながりも、とても大切です。とても大切ですが、お金や人脈が無限にあればよい、というものではないでしょう。

この世のものは、ひとつには、有限です。限りがあります。いつまでもあるわけではありません。もうひとつは、この世的なものは、闇に結びついてしまう場合があります。基本的な、いやそれより少し余裕のある衣食住は必要ですが、それを貪るようになると、権力者や強欲な金持ちのように闇に結び付きます。

 わたしたちに必要なものは、根本では、神への全幅の信頼です。わたしは、強い信仰より深い信頼が大切だと思います。わたしは正しい宗教であるキリスト教をこんなに強く信じていますという強烈な思いより、神に深く委ねる方が大切だと思います。けれども、神を深く信頼することはわたしたちの心理、精神の営みとしてはなかなか難しいです。その場合は、ひらきなおって、神さま、お手上げです、わたしはあなたに委ねること、あなたを信頼することができません、お手上げです、もうどうにでもしてください、あなたにすべて任せます、とひらきなおるのが良いと思います。強い信仰より深い信頼、それができなければ、神さまにお手上げ、これが良いと思います。

この後、一節だけですが、讃美歌459番を歌います。そこには、「飼い主わが主よ」とあります。神が飼い主である、神が羊飼いである、その神に全幅の信頼を置く、それが「神の国」ではないでしょうか。それから、516番も歌います。そこには「主の招く声」とあります。全幅の信頼を置いてわたしについてきなさい、と神が招いておられるのではないでしょうか。

祈り:神さま、この世は闇であり、わたしたちは闇の住人ですが、神さま、あなたは、同時に、わたしたちを「神の国」の住人にもしてくださいました。この世は闇ですが、どうじに、ここを「神の国」にしてくださいました。神さま、わたしたちが闇よりも神の国を慕い求め、あなたにしたがって、あなたを信頼して、あなたに委ねて、歩き続けることができるようにお導きください。神さま、闇にいる友がいます。神の国で包んでください。福音の中に浸らせてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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霊と愛が鳩のごとく [礼拝説教(使信)動画]

2022年1月9日 「霊と愛が鳩のごとく」

https://youtu.be/OtynRQtvpr4
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