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自分の思いではなく [礼拝説教(使信)動画]

2021年12月5日「自分の思いではなく」」

https://youtu.be/-a-D3vfGQdk
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2021年12月5日

【今週の聖書の言葉】

「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコ7:8)

  聖書に書かれていることのすべてが、わたしたちが耳を傾けるべき神の心である、とは限りません。たとえば、コリントの信徒への手紙一14:34に「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」とありますが、これに従う教会は少ないのではないでしょうか。
 これは、神の心というよりも、女性を差別する時代や世の中を反映した言葉でありましょう。しかし、わたしたちの社会にも、「女性は一歩下がっているべきだ」という通念が強くはびこっているのではないでしょうか。セクシャリティの平等が唱えられても、男性以外のセクシャリティが軽視、蔑視され続けています。人間はそのような差別思考を固守し続けています。
 残念ながら、聖書にもそのような言葉が含まれています。けれども、聖書には、同時に、いや、聖書の根底には、すべての人を等しい重みに創造した神の愛が横たわっています。
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。神は、すべてのものを、人を、ひとしく「良い」、美しい、尊い、とご覧になるのです。これこそ、神の心ではないでしょうか。この神の心に基づいて、「隣人を愛しなさい」という神の掟があるのです。
 「婦人は黙っていなさい」は神の掟などではなく、人間の頑なな差別思考、わたしたちの執着であり、「神が愛する隣人をあなたも愛しなさい」こそが、神の掟なのです。 わたしたちの頑なな思いを棄てて、神の心に立ち返りたいと思います。

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自分の思いではなく [使信]

2021年12月5日 マルコ7:1-13  「自分の思いではなく」

おはようございます。わたしは子どものころから、自分の考えは正しいと強く思い、自分の意見を強く主張し、自分の思いを強く通そうとする性格でした。あるいは、そういう子どもじみた性格が大人になっても抜け切れずに、困っております。

じつは、わたしの父がそういう人でした。人の言うことなどには耳を傾けず、自分の考え、というより、自分の感情を押し通そうとする人でした。わたしは父のそういう面は受け入れがたく、こういうふうにはなるまい、と思いましたが、わたしもまた、つれあいや子どもたちに同じことをしてしまっていると認めざるを得ません。家族だけでなく、高校の生徒や教会の人びとに対しても、そちらの気持ちを汲もうとするよりも、こちらの思いを押し付けようとしている、と告白せざるを得ません。

ほんとうは、自分の思いではなく、相手の思いを考慮して、さらには、神のお心、神の正義と愛に基づいて、言葉を発したり、行動したりしなければならない、と思います。しかし、これは、なんでもかんでも、「これは神の御心だから」とみだりに神の名を唱えることではありません。自分のやりたいことをしているだけなのに、それを正当化するために、「これは神の御心です」という言葉を乱発することではありません。個別の出来事が神のお心かどうか占うよりも、聖書に現れている神のお心の根本に根差しているかどうか考えることが大事なのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書7章1節です。7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。

ファリサイ派や律法学者は食事の前に念入りに手を洗うことにこだわります。ところが、イエスの弟子たちは手を洗わずに食事をしたと言います。それは、どの程度のものだったのでしょうか。わたしも、手にほこりや泥などがついていれば、食べる前に手を洗いますが、目だった汚れがなければ、手を洗わずにご飯を食べることなど日常茶飯事です。ファリサイ派や律法学者たちは、どれくらい手を洗うことを求めたのでしょうか。よく、テレビの医療ドラマで、手術前のお医者さんが手をこうやっていますが、あれは、念入りに洗って、その後は、何も触らないために、こうするそうですね。ファリサイ派たちはそのレベルまで手を洗うことを求めているのでしょうか。

市場から帰ってきたときには、「身を清めて」、とありますから、手だけでなく、全身を洗わなければならないのかも知れません。どうしてでしょうか。それは、市場には、異邦人など、ユダヤ人から見れば、汚れた人びとがいてその人びとから汚れがうつっているからだ、ということのようです。

 杯、鉢、銅の器、寝台なども、これらの商品は、その家に届く前に、異邦人に触れた可能性があるから、洗わなければならない、ということです。

けれども、イエスの弟子たちはこれを守らず、イエスは、これは、神のお心ではなく、人の言い伝えに過ぎない、と言います。どうしてでしょうか。

わたしたち人間は、これは汚れたものだ、これは汚れた人びとだ、と考えます。そのような考えによって、人を差別します。しかし、イエスは、そのようなわたしたち人間の思いに抵抗したのではないでしょうか。

ある人びとを汚れているとみなす人間の集団は、そのように汚れていると見なされている人びととつきあわない、接触しないことが、清いことである、聖なることである、と考えます。イエスのまわりの社会もそうでした。しかし、イエスはそうは考えませんでした。

創世記1章にこうあります。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。創世記を記した人びとによれば、神はすべてのものを良いもの、きよいものとして創った、神の目にはすべてのものは良いもの、きよいものである、汚れたものなどない、と言うのです。イエスも同じように信じていたのではないでしょうか。イエスは、すべての人はきよい、汚れた人などいない、と信じていたのではないでしょうか。

6節です。7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

ファリサイ派や律法学者たちの何が問題なのでしょうか。イエスはイザヤ書を引き合いに出しながら、このように指摘します。彼らは口先だけで、心は神から遠く離れている、彼らは人間の作った規則を神の教えのように見せ、まことの神をむなしくしてしまっている、それでは、神をあがめることにはならない、彼らは自分の思いを、人の欲を、神を持ち出して、正当化してしまっている、とイエスは言うのです。

8節です。7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。

キリスト教の洗礼については、じつは、さまざまな考え方があります。大雑把に言いますと、赤ちゃんなど大人になっていない子どもの洗礼をする教会と、大人、あるいは、せめて中学生高校生になって自分の意志で洗礼を受ける人に限る教会とあります。けれども、これは、どちらが正しい、ということではなく、それぞれの教会の伝統や考え方の問題でしょう。

聖餐式についても、聖餐式のパンは、じっさいにキリストの体に変化するという考え方、物質としては変化しないけれども聖餐のパンとともにキリストがいるという考え方、聖餐式は最後の晩餐の記念として行うという考え方などがありますが、これも、どれが正しい、ということではなく、それぞれの教会の伝統や考え方の問題でしょう。

けれども、そのうちのひとつだけが正しいと決めつけて、それこそが神の心だとしてしまうと、じつは、それは、神の心などではなく、人間の言い伝え、たんなる人間の思い、自分の意見だけが正しいという人間の思いになってしまうのではないでしょうか。

10節です。7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。

これは、モーセの十戒にあるように、親を大事にすることは神の心に沿うことなのに、親を支えるために提供すべきものを、これは神に捧げるから、と言えば、親に提供しないで済む、などと、人間は自分の思いで勝手なことを言っている、そういう言い伝えにしがみついているということではないでしょうか。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは何かの言い伝えに執着してはいないかもしれませんが、自分の思いや、自分の考えに固執して、相手の心や神の心を忘れてはいないでしょうか。

たとえば、どうしても赦せない人がいるとします。その人の問題点、悪い点を指摘して、その人に認めさせたい、こちらの正しさも認めさせたい、つまり、相手から自分に「あなたは正しいです。わたしは間違っていました」と言わせたい。できれば、懲らしめたい。そのように思うことがあるかもしれません。

しかし、これは、人間の思い、自分の思いではないでしょうか。この思いに囚われるとき、隣人を愛するとか、自分は神に愛されるとか、そういうことを忘れてしまっているのではないでしょうか。神の心を忘れてしまっているのではないでしょうか。

礼拝で毎週唱える主の祈りに、「みこころが天と同じく、地でも行われますように」とあります。以前は、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈っていました。

わたしたちは、みこころではなく、つまり、神の心ではなく、自分の思いをなそうとしていないでしょうか。みこころは、運命とは少し違うと思います。神の秒刻みの管理スケジュールではないと思います。みこころとは、むしろ、聖書に現れている神の愛のこころのことではないでしょうか。世界のすべてのもの、すべての人を良しとし、人を価高いとする神のこころのことではないでしょうか。

わたしたちが祈るべきは、自分の思い通りになることではなく、神の愛、神の心がなることではないでしょうか。

ところで、自分の思いではなく神の思いに従うことは、わたしたちにとって不自由なことでしょうか。たしかに、そのように感じてしまいます。けれども、むしろ、自分の欲望よりも神の愛にしたがおうとすることにこそ、わたしたちの本当の自由があるのではないでしょうか。

自分の思いに従って人に復讐することは、自由ではなく、むしろ、不自由ではないでしょうか。そうではなく、神の思い、神の愛にしたがって、その人と和解する、あるいは、和解しなくても、静かに見守る、こちらの方がまことの自由ではないでしょうか。

アドベントです。神がわたしたちのところにお越しくださいます。自分の心を自分の思いでいっぱいにして、神の泊まる場所、をなくしてしまうのではなく、自分の心の中で、自分の思いを小さくして、神の心に泊まっていただく場所を空けつつ、神を迎えようではありませんか。

祈り:神さま、わたしたちは自分の思い、とくに、利己心に囚われてしまっています。神さま、わたしたちを縛るその縄目をゆるめ、あなたの愛、すべての人びとを価高いとなさるあなたの心に従う者にしてください。神さま、わたしたちの心に、あなたの心をお迎えするスペースを空けさせてください。神さま、わたしたちの思い、人間の思いで苦しめられている友がいます。どうぞ、あなたのみこころがなり、友をお慰めくださいますように。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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