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「神さまはわかっていてくださる、と信頼してお祈りしましょう」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180826 マタイ6:5-13 p.9

 「神さまはわかっていてくださる、と信頼してお祈りしましょう」

 皆さん、おはようございます。皆さんはどんなときにお祈りをしているでしょうか。わたしは小学生になるころから、夜寝る前に布団の中でお祈りをするようになりました。皆さんも、お祈りをするなら、布団の中がよいかも知れません。それなら、誰かに見られる心配もありませんから、心の中で、好きなだけ、神さまにお祈りすることができます。

 今日の聖書にもこう書いてあります。6節です。「6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

 もっとも、これは、人が見ているところでお祈りをしてはいけない、ということではありません。教会の礼拝の当番になれば、人のいるところでお祈りすることもあります。ここでイエスさまが言っておられるのは、人の前でお祈りしてはいけないということではなく、人にほめられようとして、わざわざ人前で人に見せるように祈ることは、偽善者ですよ、善い人のふりをしている偽善者ですよ、ということです。

 それから7節もごらんください。6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

 これも長いお祈りをしてはいけないということではないでしょう。夜寝る前、布団の中で、皆さんは、好きなだけ神さまにお祈りすると良いと思います。神さまが願いを叶えてくれるかどうかはわかりませんが、神さまは皆さんのお祈りをしっかりと聞き、きっとどうにか、なんとかしてくださることでしょう。自分の願っている通りでなくても、神さまはかならずなんとかしてくださいます。

 8節の後半にこうあります。8節bあなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

ここでイエスさまは、わたしたちが願う前から神さまはわたしたちに必要なものをご存知だということを教えてくださいます。わたしたちは、どのようにお祈りしたらよいのかわからなったり、お祈りし忘れたことがないか心配になったりすることがあるかも知れませんが、そのときは、主の祈りを唱えればよいのです。
 
9節をごらんください。6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ・・・
 
ここからさきは、わたしたちが礼拝でお祈りする主の祈りです。主の祈りは、じつは、このようにイエスさまが教えてくださったお祈りなのです。
 
わたしたちは、自分の言葉でお祈りをしてもよいし、自分の言葉でお祈りができないときは、主の祈りを唱えてもよいのです。あるいは、目を閉じて、10秒間静かに黙祷をしてもよいのです。いずれにしろ、神さまが聞いていてくださる、神さまがわかっていてくださる、と信頼してお祈りするとよいと思います。
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「自慢をしなくても、誉められなくても、神さまは見ていてくださいます」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180819 マタイ6:1-4 p.9
 
「自慢をしなくても、誉められなくても、神さまは見ていてくださいます」

 皆さん、おはようございます。皆さんのまわりには、人を助けたり、みんなでする仕事を率先してやったり、とても良いことをしているようだけれども、じつは、それを人に見えるように、人に見せるようにやって、誉めてもらおうとしている人はいないでしょうか。そういう人は、人が見ていないときは、何にもしなかったりしますよね。

 今から二千年前、日本からは遠いユダヤの国にも、そういう人はいました。イエスさまは、そういう人たちを見て、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われました。

 イエスさまによると、そういう人たちは、貧しい人びとに食べ物やお金を渡すときに、ラッパを吹き鳴らして、人をたくさん集めて、さあ、皆さん、しっかり見ていてください、わたしは、この貧しい人びとを助けますよ、偉いでしょう、と自分を宣伝しているようなものだ、ということになります。

 そういう人たちは、じつは、神さまから救われたいから、皆から良いと思われるようなことをしているのかもしれませんが、イエスさまは、皆から良いと思われることで、もうご褒美は受けてしまっているのだから、神さまからのご褒美はもうないよ、と皮肉のようなことも言っておられます。

 ほんとうは、わたしたちが何か良いことをしたご褒美で、神さまがわたしたちを救ってくださるのではありません。わたしたちはもう神さまから救われているのです。わたしたちがここにいること、生かされていることは、良いことをしたご褒美ではなく、神さまからいのちを与えられたからです。それがもう神さまの救いなのです。

 わたしたちがいのちを与えられ、今ここに生きている。さらには、目には見えないけれども、神さまが一緒にいてくださる。目には見えないけれども、さらには、感じられないかもしれないけれども、神さまが愛してくださっておられる。それが神さまの救いなのです。
 
 神さまの救いは感じられないものかもしれません。空気と同じです。空気も風でも吹かない限りそんなに感じられるものではありませんが、わたしたちは空気の中に、あたりまえのように浸っています。神さまの愛も、空気のようなもので、そんなに感じられなくても、じつは、わたしたちは神さまの愛に包まれている、救われているのです。
 
 それは、何か良いことをしたからではありません。わたしたちは、良いことをしなくても空気に包まれているように、良いことをして偉いだろうと神さまに見せなくても、神さまの愛は空気のようにわたしたちを包んでいてくださいます。
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「ひどい言葉も行動も人を苦しめてしまいます」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180729 マタイ5:21-24 p.7
 
「ひどい言葉も行動も人を苦しめてしまいます」

 皆さん、おはようございます。わたしたちは、人にひどいことをしたり言ったりして、それを注意されても、「べつに殺したわけではないのだから」などと言い訳をしてしまうことがないでしょうか。

 しかし、イエスさまはこのように言われました。今日の聖書の21節です。5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 イエスさまは、つまり、人にバカとか愚か者とか言ったりするのは、その人を殺すことと同じだ、と言っておられるのです。人にひどいことを言ったり傷つけるようなことをしたりすることは、ほんとうに、人を殺すことと同じことでしょうか。

 はっきり違う点もありますが、同じ点もあります。人にひどいことを言ったり傷つけるようなことをしても、相手は立ち直ったり、相手と仲直りしたりする可能性がありますが、相手を殺してしまえば、相手は二度と立ち上がれませんし、相手と仲直りすることもできません。そのいのちは二度と帰って来ません。これは、はっきり違う点です。

 けれども、同じ点もあります。殺すということは、人をもっとも傷つけ、もっとも苦しめることですが、悪口を言ったりひどいことをしたりしても、わたしたちは人を傷つけてしまいます。人を苦しめてしまいます。殺しはしなくても、わたしたちは、その人がそこに存在しないと同じことにしてしまうことがあります。

 わたしたちは、人を絶対に殺してはなりませんが、同じように、人にひどいことを言ったり、ひどいことをしたりしてもなりません。しかし、残念ながら、わたしたちは、人にひどいことを言い、ひどいことをしてしまいます。そうしないように気をつけても、もうそうしないと反省しても、そうしてしまいます。

 けれども、わたしたちはここで考え直したいと思います。たしかに、わたしたちは人は殺してはいけないと知っていて、人を殺しません。ならば、イエスさまが教えてくださったように、人にひどいことを言ったりしたりすることもいけない、とあらためて自分の心に教えなければならないと思います。

 ひどい言葉も、ひどい行動も、殺すことと同じように、相手を深く傷つけ、苦しめることだということを肝に銘じたいと思います。
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「神さまは悲しむ人びとを慰めてくださいます」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180715 マタイ5:1-10 p.6
 
「神さまは悲しむ人びとを慰めてくださいます」

 皆さん、おはようございます。イエスさまは人びとに山で教えられたことがあります。その教えを「山上の説教」と呼びます。今日の聖書の箇所は、その最初の部分で、ナニナニする人びとは幸いである、という言葉が八つ並んでいます。

 最初の言葉は、「心の貧しい人びとは、幸いである。天の国はその人たちのものである」というものです。「心の貧しい人びと」とはどういう人びとでしょうか。

 心が満ち足りず、寂しい思い、苦しい思いをしている人びとのことかも知れません。では、そういう人びとのことを、どうしてイエスさまは「幸いである」と言われるのでしょうか。

 イエスさまは「天の国はその人たちのものである」と言っておられます。「天の国」とは、死んだ後行く世界というよりも、ほんとうは神さまの愛が満ちあふれているこの世界、わたしたちの生きている世界のことだと思います。

 悲しいこと、苦しいことが多すぎて、なかなか気づきにくいのですが、じつは、そうした悲しみ、そうした苦しみ、そうしたわたしたちの傷を包み込むような神さまの愛が、この世界には満ちあふれています。イエスさまは、わたしたちにそのことを教えてくださっておられます。

 「心の貧しい人びとは、幸いである。天の国はその人たちのものである」というイエスさまのお言葉は、心が満ち足りず、寂しい思い、苦しい思いをしている人びとを、じつは、目に見えない神さまの愛が包み込もうとしておられる、ということを教えてくれているのかもしれません。

 つぎに、今日の聖書の5章4節を見ますと、こうあります。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」

 これも、悲しんでいる人びとがどうして幸いなのか、わかりにくいのですが、神さまは目には見えませんが、悲しんでいる人びとをこそ、まっさきに慰めようとしておられる、悲しんでいる人びとをやはり悲しい目で、けれども、やさしい目で神さまは見守っておられるということをイエスさまは教えてくださっておられるのではないでしょうか。

 悲しむ人々は幸いである。この言葉を、そのまま聞くと理解しがたいのですが、神さまは悲しむ人々を慰めようとしておられる、というように解釈すると、わかりやすくなるのではないでしょうか。(マタイ5:1-10)

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 「イエスさまはどんなときでもわたしたちを受け入れる場所を用意してくださいます」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180701 ヨハネ14:1-3 p.196

 「イエスさまはどんなときでもわたしたちを受け入れる場所を用意してくださいます」

 皆さん、おはようございます。今日の聖書に「心を騒がせるな」とありますが、皆さんは、心を騒がせることがあるでしょうか。心配で心配で、気持ちが落ち着かないということがないでしょうか。

 今日の聖書にあるイエスさまの「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」という言葉は、ときどき、心が不安でいっぱいになってしまうわたしたちに向けられた言葉のように思えます。

 心配で心配で仕方がないとき、神さまが守ってくれるから大丈夫だ、イエスさまが助けてくれるから大丈夫だ、と思い、気持ちが落ち着くこともあるでしょう。

 けれども、そういう短い時間だけでなくて、人生全体のことでも、神さまを信じることは大切です。自分の人生はどうなるのだろうかとか、これから、高校進学、大学進学、就職は大丈夫だろうかと、わたしたちは心配するのですが、神さまが何とかしてくださるから大丈夫、と信じることが大切だと思います。

 それは、神さまがかならずこれこれこうしてくださる、神さまがかならずナニナニ大学に合格させてくださる、ということではなく、ナニナニ大学に行けるかどうかはわからないけれども、それでも、神さまは、わたしの人生をどうにかしてくださる、なんとかしてくださる、そういうふうに神さまを信頼することが大切だと思います。

 今日の聖書の2節にはこうあります。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 少しわかりにくい言葉かもしれませんが、これは、神さまとイエスさまは、どんなときでも、わたしたちを受け入れてくださる、わたしたちがもうどうしようもない、もうだめだと思ってしまうようなときでも、わたしたちのために場所を用意して、受け入れてくださる、そして、わたしたちと一緒にいてくださる、ということだと思います。

 どんなときでも神さまが一緒にいてくださる。イエスさまが一緒にいてくださる。だから、わたしたちの人生は大丈夫だ、そのように信じたいと思います。

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「死がすべての終わりではありません」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180617 ヨハネ11:32-44 p.189
 
「死がすべての終わりではありません」

 皆さん、おはようございます。今日の聖書には、わたしたちの常識からすれば、とても信じられないようなお話が書かれています。

 ラザロという男の人が死んでしまいました。そこにイエスさまがやってきますと、ラザロの姉妹のマリアさんが、「イエスさま、もっと早く来てくだされば、ラザロは死ななかったのに」と言って、泣きます。まわりにいた人たちも泣きました。

 ところが、イエスさまは怒った感じで、「ラザロのお墓はどこにある」と人びとに尋ね、お墓まで行きます。

 それは、洞穴になっているお墓で、入口に大きな石がおいてあります。すると、イエスさまは「その石を取りのけなさい」と言われました。人びとはそんなことをしても無駄だ、ラザロはもう死んでしまったのに、と思います。

 そう思いながらも、人びとは、お墓の入口を塞いでいた石を横に転がしました。すると、イエスさまは「ラザロ、出てきなさい」と大きな声で叫ばれました。そうしたら、なんと、死んだはずのラザロが出てきた、というのです。

 こんなことが、わたしたちのまわりで起こるでしょうか。起こりません。それでも、じつは、このお話しには大切な意味があるのです。

 それは、人は死んでしまっても、それで終わりではない、ということです。もしかしたら、皆さんのひいおばあちゃんとか、ひいおじいちゃんとか、おばあちゃんとかおじいちゃんとか、すでに亡くなった人がいるかもしれませんが、皆さんとその人たちとの関係はまったくなくなってしまったでしょうか。

 そうではありませんね。その人たちの思い出はわたしたちの心の中に残っていますし、その人たちが、わたしたちのおばあちゃんやひいおばあちゃんであることは、ずっと変わりません。

 死んでしまっても、人と人とのつながりはつづきます。人と人との愛はつづきます。

 今日の聖書のお話しで、イエスさまは、どうして、怒った感じになったのでしょうか。それは、人びとが、死んでしまったらそれですべて終わりだと思い込んでいたからではないでしょうか。死んでしまったラザロとのつながりはもう終わってしまったと思い込んでいたからではないでしょうか。

 けれども、イエスさまは、死を超えてもつづいていくものがあることを知っておられたのです。神さまが、死んだ人びとと生きているわたしたちのつながりを、ずっと守っていてくださることを、イエスさまは知っておられたのです。
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「生徒と子どもたちに願うこと」 [中高生向けのお話]

「生徒と子どもたちに願うこと」
 
 皆さん、おはようございます。授業でも何度かお話ししたように、わたしには、皆さんと同じ学年の子どもがふたりいます。彼らは皆さんと同じように、そろそろ、進路のことも考えなくてはならないのですが、わたしは、親として、絶対ここの大学のここの学部に行ってほしい、というような強い欲望はありません。ただ、やはり、できるだけの準備や勉強はして、その上で、こういう大学か、ああいう大学かに行ってくれたらいいなと思う、そういう大学や学部は、いわゆる偏差値とかランクで言えば、かなり広い幅の中で、いくつかあります。

 親が子どもに願うこと、親が子どものことで、望んだり、願ったりすることには、どんなことがあるのでしょうか。

 子どもたちが中学のときは、わたしは、部活と勉強を両立してほしいと願っていました。途中、骨折したり、肺炎になったりしたこともありましたが、部活は、中三の一学期、最後の試合に負けるまではやりぬきました。最後の試合は、じつは、それに勝てば、都大会、東京都大会に出場できるというものでした。子どもたちを都大会に行かせてやりたいなあ、と願い、試合会場まで行きましたが、残念ながら、その願いは適いませんでした。
 
 そして、部活を引退して、中三の夏休みになり、二学期になり、三学期になり、高校入試を迎えます。そこでは、本人たちが第一志望にしている高校に行かせてやりたいと願っていましたが、それも、残念ながら半分しか適いませんでした。
 
 けれども、子どもたちも、そして、皆さんもそうですが、人生はまだまだこれからです。皆さんはまだ少ししか人生を経験していません。これから、もっともっと大きな人生、これまでの何倍もの人生が待っています。
 
 その中で、子どもたちや皆さんに、わたしが望むことは、ひとつは、どんなことがあっても生き抜いてほしいということです。どんなことがあっても、たとえ、打ちのめされることがあっても、もう立ち上がれないようなことがあっても、とにかく、立ち上がる、何かにしがみつきながらでも立ち上がる、何があっても生き抜いてほしい、ということです。
 
 それから、人生を楽しんでほしいです。言い換えれば、ゆたかな精神生活を送っていただきたい、心をゆたかにしながら生きてほしいと思います。
 
 こころをゆたかにする方法はいくつもありますが、たとえば、人と交わることです。出会う人を大切にすることです。本当に心が通いあう友達に、あるいは、家族にめぐりあうことです。
 
 それから、たとえば、本を読むことですね。知識を身につけるためというよりも、精神をゆたかにするために、人生を楽しむために、つねに本を読み続けていただきたいと思います。そして、映画や演劇、音楽、美術なども、人生を楽しくし、精神をゆたかにしていただきたいと思います。
 
 けれども、一番大事なことは、自分の人生を信頼することです。自分の人生は大丈夫と信頼することです。言い換えれば、自分が生きているこの世界は大丈夫、わたしたちが生きているこの歴史は大丈夫と信頼することです。深いところで信頼することです。
 
 皆さんもこれまでの人生で、気持ちを乱すこと、不安に駆られること、心が揺れ動くことがあったことでしょう。いままさにそうだ、という人もいるでしょう。これからの人生にもさまざまな揺れや不安が生じるでしょう。
 
 それでも、自分の人生は大丈夫、自分が生きている世界は大丈夫、という土台を、皆さんにはぜひ見つけていただきたいと思います。
 
 それは、その土台があれば、心はぜったいに乱れない、というようなものではなく、その土台があれば、たとえ、心が乱れても、気持ちが揺れに揺れても大丈夫・・・そういう土台です。
 
 皆さんは、すでに、心を乱しながらも、不安を抱えながらも、いくつかのことを乗り越えて来られたと思います。それは、心を乱しながらも、不安を抱えながらも、何らかの土台があったからではないでしょうか。
 
 今日の聖書にはこうありました。7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
 
 これは、聖書の言葉を読んで実行するというよりも、聖書から伝わってくる神さまからのメッセージを、人生の土台にするということだと思います。
 
 聖書を通して、神さまは、わたしたちに魔法の言葉を送ってくださいます。それは、まず、「どんなときでもあなたと一緒いるよ」、それから、「どんなときでもあなたを支えているよ」、そして、「どんなときでもあなたを愛しているよ」という言葉です。
 
 どんなときでもあなたと一緒にいるよ、どんなときでもあなたを支えているよ、どんなときでもあなたを愛しているよ、これらの神さまのメッセージを聖書から読み取り、人生の土台としていただけたらと願っています。
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「大切な人は、死んだ後も一緒にいてくれます」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180603 ヨハネ11:1-15 p.118
 
「大切な人は、死んだ後も一緒にいてくれます」

 皆さん、おはようございます。皆さんは、誰かのお葬式に行ったことはあるでしょうか。おばあちゃんやおじいちゃんのお葬式に行ったことがあるでしょうか。死んだ人はどうなってしまうのでしょうか。

 死んだ後、どうなるのか、わたしにもわかりません。けれども、信じていることが、ひとつあります。それは、わたしたちが死んだ後も、神さまが一緒にいてくださる、ということです。

 わたしたちは、今、生きています。生きている今も、目には見えないけれども、神さまが一緒にいてくださる、とわたしたちは信じています。

 そして、それは、死んだ後も同じで、わたしたちが死んだ後も、神さまが一緒にいてくださる、とわたしたちは信じたいと思います。

 今日の聖書によりますと、ラザロと言う人が病気になって死んでしまいそうでした。人びとは心配して、イエスさまのところにやってきました。すると、イエスさまはこう言われました。4節です。11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。これは難しい言葉ですね。けれども、イエスさまはこういうことを言いたいのではないかと思います。たとえ、この人が病気で死んでしまっても、それでおしまい、ということはありません。たとえ、死んでしまっても、そのあとも、神さまがずっと一緒にいてくださいます。イエスさまは、こういうことをおっしゃりたいのではないかと考えました。

 それから、11節です。11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」

 この時点で、ラザロはもう死んでしまっているようですが、イエスさまは、ラザロは眠っている、と言います。これもまた、ラザロは死んでしまって、それでおしまい、ということではない、という意味ではないでしょうか。
 
 さらに、イエスさまはラザロを起こすと言います。これは、ラザロは死んでしまって終わりになったのではなく、死んだ後も、起き上がって、神さまと一緒にいる、という意味ではないでしょうか。さらには、死んだ後も、起き上がって、親しかった家族などと一緒にいるということではないでしょうか。
 
 死んだ人が起き上がる、というような話しは、わたしたちは、信じにくいのですが、わたしたちは、たとえば、死んでしまったおばあちゃんがいつも一緒にいて守っていてくれるような気がする、というような感じを持つことがあります。
 
 イエスさまは、同じように、わたしたちの大切な人は、死んでしまってもおしまいではなくて、神さまとずっと一緒にいて、そして、神さまを通して、わたしたちとも一緒にいてくれる、ということを教えてくれているのではないでしょうか。

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「三位一体を信じることは、インマヌエルの神さまを喜ぶこと」 [中高生向けのお話]

「三位一体を信じることは、インマヌエルの神さまを喜ぶこと」

 わたしたちが毎週礼拝で信仰を告白する際に唱える使徒信条にも、三位一体が現われています。まず、「我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず」と言います。これは、わたしたちとわたしたちが生きるこの世界を創ってくださった神さまのことですね。それから、「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」と言います。これは、父なる神の独り子であり、わたしたちの主、わたしたちを守り、導いてくださる主であるイエス・キリストのことです。そして、「我は聖霊を信ず」と言います。
 
 ここで、注意したいことは、「父なる神を信ず」「イエス・キリストを信ず」「聖霊を信ず」とあるように、これは、わたしたちの信じること、わたしたちの信仰だという点です。三位一体と言います。三位は、父なる神、御子イエス・キリスト、そして、聖霊。この三つですが、一体とはどういうことでしょうか。
 
 使徒信条では、「信ず」と言います。つまり、わたしたちの信仰において、「父なる神」「御子イエス・キリスト」、そして、聖霊は一体である、というのです。三位一体というのは、なかなか説明が難しいです。神さまが存在し、わたしたちを愛してくださっておられるのを説明するくらいに難しいことです。
 
 でも、信じることにおいては、神さまの存在も、神さまの愛も、三位一体も、難しいことではありません。
 
 三位一体とは、父、御子、御霊という三人の神さまたちがいて、その神さまたちが一体となっているということではありません。また、神さまが、三分の一にわけられ、最初の三分の一は父、つぎの三分の一は御子、最後の三分の一は聖霊ということでもありません。あるいは、神さまがあるときは、父、またあるときは、御子、またあるときは、聖霊になるというのでもありません。
 
 そうではなく、わたしたちは父なる神、創造主の中にも、また、その独り子であり、わたしたちの主であるイエス・キリストの中にも、そして、聖霊の中にも、神さまという一つの働き、神さまの愛という一つの働き、インマヌエル、神さまがともにおられるという一つの働きがあることを信じるのです。
 
 信じるとは、自分に言い聞かせるとか、思い込むとかいうことではなくて、むしろ、感じられるということでしょう。神さまはわたしたちとこの世界を創ってくださったのだなあ、神さまは御子イエス・キリストを送り、わたしたちとともにいてくださるのだなあ、神さまは聖霊を送ってくださり、わたしたちと一緒にいてくださるのだなあ、と感じられる、そのことをうれしく感じられることでしょう。喜ばしく感じられることでしょう。
 
 わたしたちは、神さまが天地とわたしたちを創ってくださったことを感じ、それを何よりも喜んでいます。わたしたちは、神さまが独り子イエス・キリストをわたしたちのところにお送りくださり、わたしたちとともにいてくださることを感じ、それを何よりも喜んでいます。わたしたちは、神さまが聖霊をわたしたちひとりひとりのところにお送りくださり、わたしたちといっしょにいてくださることを感じ、それを何よりも喜んでいます。そのことにおいて、神さまは三位一体なのです。

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「神さまはひとりひとりに」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 201805020 使徒言行録2:1-11 p.214 
 
「神さまはひとりひとりに」

 皆さん、おはようございます。塾の中に、個別指導塾というものがあります。一対一の方が、生徒の弱点がよくわかり、克服させやすい、ということなのでしょう。

 お医者さんも、全員をまとめて診察、などということはせず、ひとりひとりを診てくれます。

 悩み相談やカウンセリングも同じで、原則は、一対一です。カウンセラーは相談者の話をていねいに聴きます。そして、その気持ちに共感しようとします。相談者は、カウンセラーが、自分のことをわかってくれているなと感じられると、気持ちが楽になってきます。

 聖書によりますと、イエスさまは、十字架につけられ死んでしまい、弟子たちと離れてしまったと思われましたが、復活し、弟子たちのところに帰ってきます。ところが、しばらくすると、今度は天に昇って行ってしまいます。今度こそ、お別れかなと思っていたら、それからしばらくしたある日、今日の聖書にあるように、弟子たちがひとつところに集まっているとき、轟音が天から鳴り響き、炎のようなもの、あるいは、舌のようなかたちをしたものが、弟子たちひとりひとりの上にとどまります。

 そして、弟子たちは外国語を話し始めます。そこには、いくつもの地域から来て、さまざまな言語の人びとがいましたが、皆、自分の故郷の言葉が語られているのを耳にするのです。つまり、そこにいた人びとは、皆、自分の母語で、自分の生まれながらの言葉で、つまり、自分に一番わかりやすい言葉で、弟子たちの語る、神の話を聞くことができたのです。

 この不思議な話の奥には、神さまはひとりひとりにわかる言葉で語りかけてくださる、神さまはわたしたちにまとめてではなく個別に向き合ってくれるというメッセージがあるのではないでしょうか。

 わたしたちは、こうして聖書を読んでいますが、その感想や読み方は、ひとそれぞれです。好きな讃美歌も、好きな聖書の箇所も、お祈りも、神さまについての感じ方も、神さまについて思うことも、人それぞれです。ですが、これは、じつは、神さまがわたしたちひとりひとりに個別に語りかけてくれているしるしではないでしょうか。

 わたしたちは、ときどき、自分の悩みや苦しみが誰にもわかってもらえない、みんなからわかってもらえないと感じます。でも、他の誰もが知らない、他の誰もがわかってくれない、わたしたちの特別の悩みを、神さまだけは知っていてくださるのです。それは、神さまが、わたしたちひとりひとりと向き合っていてくださるからなのです。

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