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 「あなたは、罰を受けているのではなく、愛されているのです」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180506 ヨハネ9:1-7 p.184 
 「あなたは、罰を受けているのではなく、愛されているのです」
 
 皆さん、おはようございます。今読んだ聖書には、目の見えなかった人がイエスさまによって目が見えるようになった、という不思議なことが書かれていました。
 
 それから、もうひとつ、不思議と言うか、わたしたちには首をかしげてしまいそうな言葉が出てきました。それは、イエスさまの弟子たちの言葉です。
 
 生まれつき目の見えない人を見て、弟子たちはイエスさまにこのように尋ねたのです。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 
 「ラビ」とは「先生」という意味です。イエスさまは今から二千年前ユダヤというところにおられたのですが、その時代の人びとは、目が見えない人は神様から罰を受けているからだ、と考えていました。そして、弟子たちは、この人が罰を受けて目が見えないのは、この人が罪を犯したのか、それとも、両親が罪を犯したせいなのか、イエスさまに尋ねました。
 
 しかし、イエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになられました。
 
 けれども、これは、神さまはこの人に何かをするためにわざわざ生まれつきこの人の目を見えないようにした、ということではないと思います。むしろ、イエスさまは、あなたたちはこの人は神さまから罰を受けているなどと考えているが、そうではない、神さまは、生まれつき目が見えないこの人に罰を与えたどころか、むしろ、目が見えないせいで罰を受けているなどという悪口を言われているこの人を、神さまは愛しておられる、と言いたいのではないでしょうか。神さまがこの人の目を見えなくしたのではない。あなたたちは、目が見えないからとこの人を悪く言うが、神さまはそんなことをなさらない、神さまは、むしろ、この人を愛しておられるのだ、とイエスさまは言っておられるのではないでしょうか。
 
 さて、この人は目が見えるようになって、どこかへ帰って行きました。この人は目が見えるようになってとてもうれしかったと思います。けれども、それだけではないでしょう。これまで、まわりの人からは神さまから罰を受けているのだなどと悪口を言われてきたけれども、イエスさまが教えてくださったように、本当は神さまは罰など与えず、自分を愛してくださっておられるのだ、ということがわかって、それもとてもうれしかったことでしょう。神さまから愛されていることがわかったことは、目が見えるようになったことと同じくらい、うれしいことだったと思います。
 
 わたしたちも、同じように、神さまから罰を受けているのではなく、神さまから愛されていることに気が付きたいと思います。
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 「完成は、終わりではなく、新たな始まり」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180325 ヨハネ19:28-30 p.208 
 
「完成は、終わりではなく、新たな始まり」

 皆さん、おはようございます。来週はイースターで、イエスさまの復活をお祝いする日です。イエスさまは、金曜日の午前9時に十字架につけられ、午後3時ごろ息を引き取ったと言われています。その日を受難日、苦難を受ける日と言いますが、今年は、今週の金曜日がその受難日にあたります。そして、今年は、今週一週間を受難週と呼びます。

 さて、今日読んだ聖書によりますと、イエスさまは、十字架につけられ「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。そして、イエスさまの遺体はお墓の中に葬られました。

 「成し遂げられた」とは、どういう意味でしょうか。これは、何か大きな計画が完了した、という意味です。イエスさまが息を引き取ることで、どのような計画が完了したのでしょうか。

 いくつかのことが考えられますが、ひとつは、神さまに生かされて生きる、というプランが完了したということです。わたしたちは、皆、自分で生きているようで、じつは、神さまに生かされています。生きるということは、自分の力で生きるということではなくて、神さまに生かされていることを知り、その上で、神さまに生かされている自分の人生を生きぬく、神さまに生かされながら自分の人生を生きぬく、ということです。イエスさまも、そのように、神さまにいのちを与えられ、神さまに生かされ、そして、それにしたがって、生き抜かれたのです。そして、息を引き取ると言うことは、その人生を最後まで生きぬいた、その人生を完成させた、ということであり、その意味で、イエスさまは、「成し遂げられた」と言われたのではないでしょうか。

 もうひとつは、イエスさまには、神さまのことをわたしたちに伝える使命がありました。神さまがわたしたちを無条件で愛しておられることをわたしたちに伝える、そのような使命をイエスさまは持っておられましたが、いま、十字架の上で、人生を終えることで、その使命を成し遂げたということです。

 イエスさまの十字架を見て、イエスさまが神さまの愛を伝えようとしていたことを多くの人が悟りました。二千年前だけでなく、今日に至るまで二千年間、イエスさまの十字架を見て、多くの人びとが、ああ、イエスさまは神さまの愛をいのちをかけて伝えようとしていたのだな、と悟りました。ある人は、イエスさまは神さまの愛を伝えようとするあまりに、それを拒否する人に殺されたのだと考えました。また、ある人は、イエスさまは自分に変わって十字架にかかってくれたと考え、そこにイエスさまの愛を感じました。

 このように、イスさまが十字架で息を引き取ることで、何かが成し遂げられたと、聖書はわたしたちに語っています。
 
 けれども、この完成はそれで終わりではなく、じつは、あたらしいことの始まりでもありました。それが、来週の礼拝でお祝いするイースター、イエスさまの復活なのです。
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「わたしたちによって、わたしたちとともに、わたしたちのために、イエスは苦しむ」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180225 ヨハネ18:15-18, 25-27 p.204 
 
「わたしたちによって、わたしたちとともに、わたしたちのために、イエスは苦しむ」

 いま、教会は受難節という季節に入っています。受難節は、イエスさまの復活をお祝いするイースターまでの四十数日のことを言います。この期間、教会では、イエスさまが苦しめられて十字架につけられるまでの聖書の箇所を読み、イエスさまがどれだけ苦しまれたか、思いをめぐらすのです。それは、イエスさまがどれだけ苦しまれたかということだけでなく、イエスさまがどれだけわたしたちのために、そして、わたしたちと一緒に苦しまれたか、さらには、イエスさまはわたしたちによってどれだけ苦しめられたか、ということに思いをめぐらすことでもあるのです。

 さて、先週のお話にあったと思いますが、イエスさまは弟子のひとりに裏切られて、捕まえられ、大祭司という人のところに連れて行かれました。

 ところが、そのあとを、ペトロという人がついていきます。こっそりついていきます。自分はイエスさまの弟子です、と名乗り出る勇気はありません。イエスさまと同じように、自分も捕まえられてしまわないかと恐れています。それでも、イエスさまのことが気になって、自分がイエスさまの弟子だとばれないようにしながら、イエスさまのあとをついていったのです。

 ところが、大祭司の屋敷の門番をしていた女の人が、「あなたも、あのイエスの弟子の一人ではありませんか」と尋ねます。けれども、ペトロは「違う」と答えます。ペトロは、イエスの弟子ではない、ただの野次馬だというふりをして、大祭司の家来たちと一緒に焚火にあたったりします。すると、また、誰かから「おまえもあのイエスの弟子のひとりではないのか」と尋ねられますが、ペトロは「違う」と打ち消します。さらに、もう一人の人から「あなたがイエスと一緒にいるのをわたしは見たことがある」と言われますが、ペトロは、そんなことはない、と否定します。すると、鶏が鳴きました。

 じつは、イエスさまはこのことを前もって予想しておられたのです。イエスさまが捕まる前、ペトロはイエスさまに「どこまでもついていきます。あなたのためなら命を捨てます」と勇ましいことを言っていたのですが、イエスさまは「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告しておられたのです。

 弟子に裏切られて、捕まえられてしまう苦しみ。捕まえられたあとは、他の弟子からも見放され、三度にわたって、こんな人は知らない、と否定される苦しみ、さらには、人間のそのような弱さを前もって知っている苦しみ。イエスさまの苦しみはいくつも重なります。
 
 けれども、これは、イエスさまほどは重くはないかもしれないけれども人間関係の中で同じような苦しみを受けているわたしたちと一緒にイエスさまが苦しんでくださることであり、さらに言えば、わたしたちを救おうとイエスさま自らが苦しんでくださることなのです。
 
 もうひとつ言えば、ペトロがイエスさまにしたのと同じように、わたしたちも自分を守るために誰かを見棄てることがあります。つまり、ペトロがイエスさまを見棄ててイエスさまを苦しめたように、わたしたちもイエスさまを苦しめていると言うこともできます。
 
 受難節の期間、イエスさまが、わたしたちによって苦しみ、また、わたしたちとともに、そして、わたしたちのために苦しんでくださることに思いをめぐらしたいと思います。
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 「あなたを罪に定めない」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180211 ヨハネ8:1-11
 「あなたを罪に定めない」

 おはようございます。イエスさまのところにひとりの女の人が連れて来られました。その人が不倫をしていたので、その現場で取り押えたと言うのです。

 ここでひとつ疑問が湧いて来ませんか。相手の男の人はどうしたのでしょうか。二千年前のこの時代、不倫は、女性だけが責められたようです。不倫の場合だけでなく、さまざまな面で女性が不利な扱いをされていました。それは、今の時代には完全になくなっているとは、残念ながら言えません。

 さて、この女の人をイエスさまのところに連れてきた人びとは、イエスさまに尋ねます。「旧約聖書には、姦淫・・・不倫のことですが・・・姦淫をした女性は石で打ち殺せと書いてありますが、あなたは、どうしたらよいと思いますか」

 じつは、この問い、この質問には、罠が仕掛けられていました。もし、イエスさまが、「では、聖書に書いてある通りに、この女性を石で打ち殺しなさい」と答えたら、イエスさまは、とても残酷な人ということになります。はんたいに、「この女性を石で打ち殺してはいけない」と答えたら、聖書に書いてあることを守らない、ということになります。

 ですから、イエスさまはしばらく返事をしないで、かがみ込んで、指で地面に何かを書いておられました。何を書いていたのか、何のために書いていたのかはわかりませんが、イエスさまがすぐに返事をしなかったことはわかります。

 そして、しばらくして、こう言われました。「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女性に石を投げなさい」。

 すると、ひとり、また、ひとり、とつぎつぎにその場を去って行きました。一度も罪を犯したことがないなどと言える人はひとりもいなかったのです。

 そして、イエスさまは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。

 イエスさまにとっては、この女の人の罪を暴き立て、懲らしめることよりも、この女の人を責め立てないことの方が大事だったのです。

 わたしたちは、すぐに、人を罪に定めようとします。あの人が悪いと裁こうとします。たしかに、善悪をはっきりさせなければならない場合もありますが、この女性のように、もともと弱い立場に置かれている人については、その人を悪だと裁くよりも、そのような裁きから、その人を解き放つことの方が大事なのではないでしょうか。

 聖書、神さま、イエスさまも、わたしたちに、善悪をはっきりと求められるような聖書の箇所も少なくありませんが、それだけでなく、神さまの究極的な裁きからは、わたしたちは赦されていることをも聖書は伝えているのです。
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「人間には物質以外の目に見えない何かがあります」 [中高生向けのお話]

「人間には物質以外の目に見えない何かがあります」

創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 皆さん、おはようございます。さて、今歌った讃美歌の1節に、「ちいさなかごに花を入れ、さびしい人にあげたなら」とあります。また、リフレイン、おりかえしには「あいのわざは小さくても」とあります。つまり、さびしい人に花を渡すのは、小さなことかもしれないけれども、愛の行為だと言うのです。
 愛と言ってもいろいろありますが、この場合は、誰かを大切にしよう、誰か、とくに、困っていたり、苦しんでいたり、悩んでいたりする人を、ほおっておけない、気にしないではいられない、自分にできることがあるなら、何かしたい、そういう気持ちのことではないでしょうか。
 今、気持ちだと言いましたが、誰かを大切にしたいという思いは、その場限りの気持ちよりもっと強いものである場合がありますから、愛とは、誰かを大切にしようとする心、あるいは、精神だと言うこともできるでしょう。
 さて、そのようなわたしたちの気持ちや心や精神はどこから出てくるのでしょうか。人間の精神とはどのようなものでしょうか。
 中学生棋士の藤井聡太さんは、将棋が強くなるために、練習でよく将棋のアプリを利用すると聞いたことがあります。将棋アプリの仕組みは、わたしには想像がつきませんが、無理に想像して言ってみますと、次に打つ手とその後の展開を、人間ならあれこれ長い時間をかけて頭の中でいくつか考えるところを、将棋アプリなら、瞬時にいくつもの手を計算して、その中から最善の一手を割り出すのではないでしょうか。
 最近は、人工知能の研究の一環で、人工知能に大学入試の模擬試験を受けさせる実験もあったそうです。その結果は、人工知能の成績は、他の生身の高校生の平均をうわまわり、難関と言われる大学のいくつかの大学について合格可能性80%以上という結果が出たそうです。
 すると、将棋のアプリや人工知能は、わたしたちの脳と同じ役割をするのでしょうか。わたしは、そうは思いません。たとえば、藤井聡太くんは、将棋を指しながらも、ふとお昼にカツドンを食べたいとか思うかもしれません。非常に集中していたら、そんなことは思わないかも知れませんが、非常に集中していても、なんとか勝ちたい、次の一手を絞り出すのは苦しいけど、なんとか考えなければならない、あるいは、なんとか勝ってお母さんを喜ばせたい、と思うことはあるのではないでしょうか。ところが、将棋のアプリはそんなことは思わないでしょう。
 皆さんは、授業中とか、あるいは、今とか、授業を聞きながらも、あるいは、礼拝の話を聞きながらも、お昼ご飯は、食堂で今日は何にしようかなと思いますよね。あるいは、模試を受けながら、この英語の長文、長いし、難しいし、ああ、投げ出したいなあと思いながら、いや、がんばろうと自分に言い聞かせることがないでしょうか。ところが、人工知能が模試を受けても、そんなことは思わないでしょう。
 将棋のアプリや人工知能とは違うわたしたちの気持ちや精神は、どこから来るのでしょうか。誰かを愛する心はどこからくるのでしょうか。苦しくても負けるものかという勇気や、きっとなんとかなるという希望や、ああ、この花は美しいなあと感動する心は、いったいどこからくるのでしょうか。
 今日の聖書によりますと、人間は土から作られているけれども、それだけでなく、神の息が吹き込まれているとありました。
 土から作られているというのは、言い換えますと、物質から創られていると言うことです。たしかに、わたしたちは、たんぱく質や脂肪やミネラルや水分などからできています。そういう意味で言えば、金属やプラスチックや樹脂やゴムなどからできているロボットと変わりがありません。
 ところが、わたしたち人間には、物質ではないものがあります。わたしたちには、目に見えない気持ちや心や愛や勇気や希望があります。物質によって人工知能を作ることは可能ですが、物質によって、目に見えない気持ちや心や愛や勇気や希望を創り出すことができるでしょうか。
 いまから2500年くらい昔、ユダヤの人びとは、このことに気付いていました。だから、人間は土、つまり、物質からできているだけでなく、神の息を吹き込まれていると言い表したのです。
 もう一つ付け加えるならば、人間の気持ちや心や愛や勇気や希望は、さらに言えば、人間の目に見えないいのちそのものは、神から出ていると考えたのです。
 わたしたちはどうでしょうか。今、わたしたちはここで何かを思っています。こころで何かを思っています。これはたんなる物質の引き起こす現象なのでしょうか。それとも、わたしたちのこころは、精神は、愛は、希望は、物質以外のものに由来するのでしょうか。
 なかなか答えの出ない問題ですが、今から、大学、社会人と、生涯考え続ける意味のある問題ではないでしょうか。

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つらいことがあっても歩きつづけるためのパン [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180128 ヨハネ6:27, 35 p.175 

 「つらいことがあっても歩きつづけるためのパン」
 
 おはようございます。今読んだ聖書の中で、イエスさまは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。
 
 また、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」とも言われました。

 「命のパン」も、「永遠の命に至る食べ物」も、じつは、イエスさまご自身のことを指しているのです。「パン」という言葉も、「食べ物」という言葉も、「イエスさまの何か」をたとえている比喩だと考えるとよいでしょう。

 では、その「イエスさまの何か」とは何なのでしょうか。その前に、まず、朽ちる食べ物とは何かを考えてみましょう。

 わたしたちは、ときどき、不安になったり、孤独になったり、恐くなったり、悲しくなったり、虚しくなったりします。

 たとえば、学校の成績が悪くて、大学に行けるだろうか、と不安になったとします。その不安をなくすために、一生懸命に勉強をします。その結果、良い成績が出たとします。そうすると、たしかに、不安はなくなります。けれども、そのつぎの試験で、今度は悪い成績が出たとします。そうすると、また、不安になります。

 つまり、成績によって不安を解消しようとして、良い成績を出しても、それは、永遠ではなく、一時的なものなのです。おいしいはずのミカンが、時間が経つと、朽ちて、くさって食べられなくなってしまうのと同じです。

 もうひとつ例をあげますと、さびしさを紛らすために、SNSに投稿して、友達から「いいね」をたくさんもらうと、さびしくなくなったような気がしますが、そのつぎに、また投稿して、今度は「いいね」がほとんどないと、またさびしくなってしまいます。つまり、「いいね」をもらったときの、なんとなくうれしい気持ちも、一時的なもので、永遠のものではありません。

 イエスさまがおっしゃっている「朽ちる食べ物」とは、こういう意味だと思うのです。では、どうしたらよいのでしょうか。イエスさまは、ご自分はそのような朽ちる食べ物ではない、とおっしゃいます。

 わたしたちは、お腹が空いたら何かを食べてお腹を満たし、喉が渇いたら何かを飲んで渇きを潤しますが、すぐにまた、お腹が空きますし、喉が渇きます。ところが、イエスさまを食べ物や飲み物にたとえるならば、決して飢えることも、渇くこともないと言うのです。

 さきほど、不安、孤独、恐ろしさ、虚しさ、悲しさということを言いましたが、これらは、心の飢えであり、心の渇きということができるでしょう。

 イエスさまを信じても、不安や孤独や恐怖や虚しさや悲しさがなくなるわけではありませんが、それらを抱えながらも、なんとか生きていく支えにイエスさまはなってくださいます。イエスさまは朽ちないパンである、命のパンであるとは、そういう意味ではないでしょうか。

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「神さま自身が神さまに出会わせてくださる」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180114 ヨハネ1:35-39 p.164 
 
「神さま自身が神さまに出会わせてくださる」

 おはようございます。今日の聖書の中で、イエスさまは、これから弟子になる人たちに、「何を求めているのか」と言われました。

 わたしたちが、そのように訊かれたら、何と答えるでしょうか。中学生、高校生の皆さんだったら、もっと部活で上達したいですとか、もっと成績を良くしたいですとか、もっと自由でのびのびとしたいですとか、答えるかも知れませんね。

 人生を何かを探す旅だとすると、それは何なのでしょうか。わたしたちは、人生の旅において、何を探し求めるのでしょうか。

 それは、人生を良く生きること、人生をゆたかに生きること、人生を有意義に生きることではないでしょうか。そして、それは、わたしたちの人生にとって一番大切なもの、また、わたしたちが生きているこの世界にとって一番大切なものを探しもとめることではないでしょうか。

 そのためには、まず、その一番大切なものを探しもとめる旅を案内してくれる人、一緒に旅をしてくれる人と出会うことではないでしょうか。

 イエスさまに「何を求めているのか」と尋ねられて、これから弟子になる人たちは「先生、どこに泊まっておられるのですか」と答えました。

 すると、イエスさまは「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そして、この人たちは、イエスさまについていって、イエスさまと同じところに泊まったのです。

 これは、どういうことでしょうか。弟子になる人たちの人生にとって、一番大切なものは、じつは、イエスさまだったのです。そして、弟子たちをイエスさまに出会えるように案内してくれるのも、じつは、イエスさま自身だったのです。

 少し難しい言い方かも知れませんね。たとえば、皆さんが英語を話せるようになることを人生の目的とします。では、何が皆さんを導いて英語を話せるようにしてくれるでしょうか。それは、英語を話すことそのものです。わたしたちは、英語を話すことによって、英語を話せるように導かれていくのです。わたしたちは英語によって英語に導かれていくのです。

 イエスさま、そして、神さまも、同じです。わたしたちが、わたしたちのいのちを創ってくださり、この世界を創ってくださり、この世界とわたしたちの人生にとって一番大切な神さまを探し求めたいと思うのなら、神さま自身についていくことです。イエスさまについていくことです。

 神さまを探し求めることこそが、わたしたちの人生にとって一番大切なことだと、わたしは考えますが、じつは、神さまご自身がわたしたちのこの旅を導いてくださるのです。
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「わたしは救い主ではありません」 [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20171231 ヨハネ1:19-28 p.163  
「わたしは救い主ではありません」

 おはようございます。ときどき、あの人は神さまのような人だ、などと呼ばれる人がいます。なかには、自分から、わたしは神だ、などと言う人もいます。けれども、どんな人間であっても、神さまではありません。

 わたしはこうして牧師をしていますが、皆さん、よくご存知のように、神さまではありません。神さまのような人でもありません。ただの人間です。

 これは、あたりまえのようなことですが、とても大切です。たしかに、「わたしは神だ」などとは言っていませんが、まるで、自分が神であるかのように、自分が言うことはすべて正しい、すべて自分の考えるようにさせたい、自分ならすべて解決できる、と思っている人がいます。わたしたちも、ときどき、そういうモードになってしまうことがあります。けれども、わたしたちは、どの人のことも神さまのように見なしてはならないし、自分が神さまのように発言したり行動してもならないのです。

 ヨハネという人がいました。イエスさまと同じ時代の人です。人びとはヨハネのことをイエスさまのような救い主、メシアだと勘違いをしましたが、ヨハネは、はっきりと「わたしはメシアではない」と言いました。
 
 さらには、わたしは、救い主であるイエスさまの道を準備する者だ、と言いました。そして、「救い主はわたしの後から来られる。わたしはその方の履物のひもを解く資格もない」と言いました。ヨハネは、自分を救い主と同じにしてはならない、と人びとに強く訴えたのです。
 
 これをわたしたちにあてはめてみたら、どうでしょうか。わたしたちも、ときどき、すべてを自分の力で解決しようとしてしまいます。自分には、自分の問題も、他の人の問題も解決できる力があると思ってしまうことがあります。自分は、自分も、他の人も助けることができる、自分は、自分や他の人の救い主になることができる、と思ってしまうことがあります。
 
 けれども、わたしたちは、自分のことについても、自分以外の人の力を頼りにすることは大切ですし、神さまにお祈りすることも大切です。

 もちろん、自分で精一杯やらなければならないこと、ならないときがありますが、自分以外の人、今日の聖書の言葉で言えば、「自分の後から来る方」の力を借りることも大切です。

 わたしたちは、まわりの人の助けも信頼し、神さまにもお祈りすることで、わたしたち自身が神さまやメシアになろうとする傲慢を避けることができるのではないでしょうか。

 わたしたちを本当に支えてくださるお方は、神さまなのです。わたしたちは、自分だけを信じるのではなく、根本では、神さまを信頼して生きていきたいと思います。
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