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神は不公平か [礼拝説教(使信)動画]

2021年9月26日 「神は不公平か」

https://youtu.be/nq-Wex7zmlQ
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2021年9月26日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイ20:14)

 ぶどう園の主は、夕方の仕事終了間際になってやっと雇われた者にも、朝一番に雇われて一日働いた者と同じ賃金を支払いたいと言います。
 多くの時間働いた者が、あるいは、多くの成果を上げた者が多くの報酬を受けるという考え方からすれば、これは不正だということになるでしょう。
 しかし、このぶどう園主は、人びとを雇う際に、時給いくらなどとは口にしてなく、「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言ったのです。
 これを聞いて多くの人は「労働時間や労働成果にふさわしい賃金」と理解するかもしれませんが、じつは、これは、「あなたと家族が明日一日を生きるのにふさわしい賃金」を払おうという意味なのかもしれません。
 家族四人の一日の食費に一デナリオンのお金が必要だとします。朝一番に雇われた人は、朝一番にその不安がなくなりました。今日の夕方まで働けば、それを手にすることができるからです。しかし、午後になっても雇ってもらえない人は、明日の食費を確保できるか、朝からずっと不安で仕方ありません。
 ぶどう園の主の願いは、人びとに働いてもらうこと以上に、人びとの不安をなくすこと、人びとが明日も生き抜くことだったのではないでしょうか。「同じように支払いたい」とは「同じように生き抜いて欲しい」ということではないでしょうか。
 職を得られない、職を失うとは、生きていくことができないということです。わたしたち人間の世界ではざんねんながらそれがあります。
 しかし、神は誰をも解雇しません。たとえ、わたしたちが職を失っても、神を失うことはありません。神は、誰をも生かし、命の息吹を日々新たに吹き込んでくださいます。

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神は不公平か [使信]

2021年9月26日 マタイ20:1-16 「神は不公平か」

おはようございます。今日の聖書の個所は、「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始まっています。ここ数週間と同じように、今週の聖書の個所も「天の国」とはどういうものか、言い変えますと、神がわたしたちをどのように愛してくださるのか、がテーマになっています。

マタイによる福音書20章1節です。20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

一デナリオンとは、一日を生きていくのに必要なお金、と考えることができるでしょう。

3節です。20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

「何もしないで広場に立っている人々」とありますが、この人々は「何もしなかった」というよりは、今日仕事にありつけなければ、あしたはどうやって生きていこう」と悩んでいたのではないでしょうか。

「ふさわしい賃金」とありますが、これは、あした一日を生きていくのに必要な賃金、という意味ではないでしょうか。

5節です。20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

ぶどう園の主は、その後、十二時と午後三時、さらに、もうじき仕事も終わりになる午後五時にも、人びとを雇いに出向きます。

主人は人びとに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねます。わたしたちの感覚では、この人びとは一日仕事もしないでぶらぶらしていた、ということになってしまうのではないでしょうか。

しかし、そうではありません。この人びとは「だれも雇ってくれないのです」と答えます。怠け者ではないのです。あしたを生きるために仕事をしたいのですが、仕事をしなくてはならないのですが、誰も雇ってくれないのです。

わたしの友人には、日本キリスト教団の牧師でありながら、どこの教会からも招聘がなく、牧師以外の仕事をして、なんとか生き抜いている人びとがいます。もう何年もそういう状態にある人びとがいます。わたしも似たような経験があります。

牧師という仕事だけでなく、わたしたちの生きている社会には、仕事がない、雇用されない、解雇されたという人びとがたくさんいます。

雇用主にしてみれば、会社をつぶさないためには、従業員を減らさざるを得ない、ということがあるでしょう。そうなってしまう前に、売り上げ増加や金策のために、必死の努力をする雇用主は少なくないことでしょう。

けれども、解雇される側にしてみれば、それは死ぬようなものです。自分と家族の生活費のあてがなくなるのですから。また、雇用されない自分には、値打ちがない、生きている価値がないという思いに追い込まれてしまいますから。

しかし、イエスのこのたとえ話では、雇用主は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言います。わたしたち人間の生活には残念ながら、解雇や失業、不採用があります。ほんとうに残念で、苦しいことです。

けれども、神はわたしたちを解雇しないのです。神はわたしたちを不採用にしないのです。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」というこの言葉はこれを意味しているのではないでしょうか。

人はわたしたちを雇ってくれないことがありますが、神はわたしたちをかならず雇ってくださいます。人はわたしたちを斥けることがありますが、神はわたしたちを受け入れてくださいます。行き場がなく、明日が不安なわたしたちを、神は雇ってくださるのです。

8節です。20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

ぶどう園の主は、すなわち、神は、最後に雇われた者から賃金を払います。ふつうなら、最初に雇われた者から払うべきだと思われますが、神は、一番の者ではなく、一番最後の者から、いのちの糧をわたすのです。

わたしたちの世の中は、100匹のうちの斥けられなかった99匹、そして、一番の者を大事にしますが、天の国、神の愛においては、100匹のうちの斥けられた1匹、失業した一人、一番最後の者を大事にするのです。

10節です。20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

この主人のやり方に、人びとは不平を言った、とあります。イエスのこのたとえ話を生徒たちにすると、不公平だと感じる人が多いようです。神の愛とはこのようなものだと説明すると、神の愛は不公平だと感じる人が多いようです。

生徒たちだけでなく、社会福祉制度は不公平だ、と感じる人が今の社会には大勢いるようです。たしかに、最後に雇われて短時間しか働かなかった人が100デナリオンもらい、最初に雇われて長時間働いた人が1デナリオンなら不公平でしょう。あるいは、田畑を耕すことのない不在地主が100デナリオンもうけ、小作農が1デナリオンなら不公平でしょう。

しかし、このたとえ話で一番大切なことは、誰がいくらもらうか、ではなく、神が、すべての人に、生きるために必要なものをあたえようとしている、ということではないでしょうか。生きるために必要なものは、すべての人に、無償で、無条件で、労働時間、なした仕事に関係なく、わかちあわれなければなりません。

13節です。20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

自分のものを自分のしたいようにする、とあります。神はご自分の愛を、すべての人にわかちあいたいのです。わたしの気前の良さ、とあります。神の愛は無償です。神は代価を求めないのです。

けれども、現実はどうでしょうか。神はすべての人に無償で愛を注いでいるのに、わたしたちの社会には、失業があり、解雇があり、貧富の格差があり、差別があります。

しかし、これは、神の課題ではなく、わたしたちの課題でありましょう。わたしたちは、神に無償で愛されているのだから、それに少しでも近い社会制度、人間関係を築いていこうとしなければならないのではないでしょうか。わたしたちは、すべての人が、明日も生きていくことのできる世界を求めなければならないのではないでしょうか。

これは、困難な課題です。けれども、この課題実行には、神の愛という土台があります。わたしは、これまでの人生において、自分が100匹の中の1匹であるとか、一番最初ではなく一番ビリの者だと痛感することが何度かありました。今もそうです。

だからこそ、一番最後のわたしに明日を生きる一デナリオンをくださる神に救われます。皆さんもきっとそうなのではないでしょうか。この救いを、自分の生き方、教会のあり方の土台にしたいと思います。

祈り:神さま、あなたはわたしたちにいのちを与え、わたしたちの人生の旅を一緒に歩いてくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、わたしたちは、ときに、自分がこの世界で一番顧みられない者であるように思い、苦しみますが、あなたは、そのまなざしをいつでもわたしたちに向けていてくださいます。まことにありがとうございます。神さま、居場所のない友、行く当てのない友、仕事のない友、明日の生活の保障のない友、心の支えのない友がいます。友の居場所を、友の行く当てを、仕事を、生活の保障を、心の支えを、あなたの無償の愛に基づいて、ともに築きだすことができますように。イエス、わがキリストによって祈ります。

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2021年9月19日 「神だけにできること」 [礼拝説教(使信)動画]

2021年9月19日 「神だけにできること」

https://youtu.be/ZtUL0o17OV8
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2021年9月26日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)

イエスのこの言葉は、「人間は自分の力で永遠の命を得たり天の国に入ったりすることはできないが、神は人間を天の国に入れることができる」という意味だと思われます。
  「永遠の命を得る」あるいは「天の国に入る」ということは、死後のことだけではなく、この世界で神に恵みを受ける、神に大事な存在と見なされる、神に愛される、ということでありましょう。
 ある人びとは、これを神からのご褒美だと考えて、ご褒美を得るために、戒めを厳しく守ったり、善行をなしたりしようとします。あるいは、神に対して信仰熱心であろうとします。
 しかし、これをどれだけなせば、神に愛されるのでしょうか。完璧になさなければならないのでしょうか。100点をとらなければならないのでしょうか。80点以上なら大丈夫でしょうか。65点ならどうでしょうか。神から愛されるのは65点以上の人なら、64点の人は神から愛されないのでしょうか。
入学や就職の試験ならそうでしょう。しかし、神の国はそうではありません。神は、何点以上の人を愛するのではなく、すべての人を愛するのです。
神の国に入るのに入学試験があるならば、わたしたちは誰も合格できないのではないでしょうか。しかし、神の国に入るのに、資格はいりません。神はすべての人を招いているのです。
 自分はこんなにダメな人間だ、生きる資格がない、教会に行く資格がない、神を信じる資格がない、とわたしたちは考えます。けれども、神はわたしたちに資格を求めません。神はわたしたちを資格なしで愛してくださいます。神にはそれができるのです。

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神だけにできること [使信]

2021年9月19日 マタイ19:13-26 「神だけにできること」

おはようございます。先日、家族が財布をスーパーに置き忘れてしまいました。現金もカードも戻ってこない、クレジットカード、銀行カード、健康保険証などは再発行の手続きをとらなければならない、めんどうなことになったなあ、と思っていたら、二三日後、知らない人から郵便が来て、開けてみたら、そこには、忘れた財布がそのまま入っていました。

拾われた財布は、たいていは現金だけ抜き取られて、あとは捨てられる、失くした財布が戻ってくることはないと言われているのですが、今回、拾った人は、現金を盗まず、すぐに返してくれたのです。今日の聖書によると、金持ちは天の国に入ることが難しいようですが、この人は、お金を盗んで金持ちになる道を選ばなかったようです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。人びとがイエスのところに子どもたちを連れてきます。弟子たちはそれを追い返そうとしました。しかし、イエスは子どもたちを受け入れました。

弟子たちはなぜ子どもたちを斥けたのでしょうか。それは、子どもたちは働くことができないし、神のことなど何も知らないから、イエスの語る天の国に入る資格がないと考えたのではないでしょうか。

イエスはなぜ子どもたちと受け入れたのでしょうか。イエスは、神はすべての人を受け入れると信じていたからではないでしょうか。

天の国とは死んだ後に限らず、神の愛が治めている国、つまり、この世界のことでありましょう。イエスが子どもたちに手を置いて祈るということは、子どもたちが神の愛を受けていることのしるしでありましょう。子どもたち同様に、社会の中で価値がないとされる人びとは、じつは、神の愛を受けている、神のやさしいまなざしを受けているとイエスは信じているのではないでしょうか。

皆さんは人から「教会に行くなんて、えらいですね。わたしは、とても行けません。わたしは教会に行くほど立派ではありません」などと言われて、答えに詰まったことはないでしょうか。

皆さん、ご承知のように、わたしたちは立派だから教会に来ることが許されているのではありません。皆さんが立派でないという意味ではありません。神がすべての人を無条件で受け入れてくださるから、教会も、それを基本姿勢とするのです。

16節です。19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

「永遠の命を得る」とは「天の国に入る」と同じことであり、神の愛を受ける、神の愛のまなざしを受けることでありましょう。

この男の人は尋ねます。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。どんな善いこと、つまり、この男の人は、自分は何か善いことができる、善いことをしているという前提で、イエスに語りかけているのではないでしょうか。

イエスは答えます。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」。つまり、イエスは、「あなたはどうして、善いことができるという前提で話すのか、善いことができる方、善い方は神ひとりではないか」と、この男の人に問いかけているのではないでしょうか。

そして、さらに、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と付け加えていますが、これは、あなたは掟を本当に守れるのか、あなたは本当に徹底して善いことをなすことができるのか、と問いかけているのではないでしょうか。

18節です。19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」これらはモーセの十戒ですね。「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記に出てくる言葉の一部で、神がモーセを通してイスラエルの民に語ったとされるものです。

 イエスに問いかけられた男の人は、「みな守ってきました」と答えます。イエスはさらに問いかけます。21節です。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

「持ち物を売り払いなさい」とはどういうことでしょうか。わたしたちは持ち物に頼ってしまいます。自分の持っているもので自分を支えようとします。それは、わかちあいを妨げ、さらには独占や強奪にもつながりかねません。わたしたちには不安がつねにあり、何かにすがりたくなりますが、ほんとうは、自分の持ち物に頼らず、神に委ねるべきではないでしょうか。

「貧しい人々に施す」とはどういうことでしょうか。「施す」というとお金持ちが貧しい人を助けてやるというような感じがしますが、神の御心、神のお心は、「わかちあう」ということではないでしょうか。神のお心は、誰かが多く所有したり、誰かが欠乏したりすることなく、皆でわかちあうことではないでしょうか。

「わたしに従いなさい」とあります。イエスに従うとは、イエスとともに「神のお心」に従おうとすることではないでしょうか。イエスとともに、神にはわたしたち自身を委ね、隣人からは奪わず、むしろ、わかちあうことではないでしょうか。

 22節です。19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

青年はイエスに従うことができず、悲しみながら立ち去りました。金持ちが天の国に入るのは難しい、とイエスは言います。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは、持ち物を売り払えますか。持ち物ではなく、神のみを支えとすることができますか。わたしたちは、隣人とわかちあうことができますか。

金持ちの青年と同様に、わたしたちにもそれは難しいことです。しかし、わたしたちは、「できる範囲で」そうしようと考えるかもしれません。「できる範囲で」とは便利な言葉です。聖書は「できる範囲で」などと言っているでしょうか。

しかし、わたしたち人間が自分の力で神に愛されよう、救われようとするのなら、「できる範囲で」するしかないのです。しかし、「できる範囲で」しか神に委ねられない、「できる範囲で」しか隣人とわかちあえないわたしたちは、神に愛されることができるのでしょうか。

イエスは言います。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」

わたしたちは、できる範囲で、と言いますが、神は、できる範囲ではなく、神のすべての愛を、神の愛のまなざしを、わたしたちすべての者に注いでくださいます。

神は、天の国に入る資格などないと見なされていた子どもたちを受け入れます。神は、自分の持ち物を手放せず、神に委ね切れない、そして、隣人とわかちあえないわたしたちを、神は受け入れてくださいます。

 わたしたちは、自分の力や自分の資格で、神に受け入れられることはできませんが、神は御自分の力で、ご自分の愛で、わたしたちを受け入れてくださるのです。

だから、わたしたちはこの神に委ねようではありませんか。できる範囲でゆだねようではありませんか。わたしたちは隣人とわかちあおうではありませんか。できる範囲でわかちあおうではありませんか。わたしたちには限りがありますが、わたしたちに注がれる神の愛には限りはないのです。

祈り:神さま、あなたは、わたしたちを受け入れ、支え、包み込んでくださいます。神さま、あなたは、あなたのいのちとあなたの世界をわたしたちにわかちあってくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、わたしたちも、自分や自分の持ち物ではなく、あなたを支えとして歩むことができますように。わたしたちは、食べ物や生活に必要なものや時間や空間や言葉をじぶんだけのものとせず、隣人とわかちあうことができますように。わかちあうことで隣人となることができますように。救いのない人びとを、救いのないわたしたちを、どうぞ、救ってください。イエス、わがキリストによって祈ります。アーメン

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共感する [使信]

2021年9月12日 マタイ18:21-35 「共感する」

おはようございます。今日の聖書の個所の結論、ポイントは、33節の「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」という言葉だと思いました。つまり、神がわたしを憐れんでくださっているように、わたしたちも他の人を憐れむべきだということです。

そして、今日の話も、ここ何週間の聖書の個所と同じように、「天の国」のたとえですから、天の国、神の国、つまり、神の愛が治めているこの世界は、神がわたしたちを憐れんでくださっているように、わたしたちも他の人を憐れむような世界であるべきだ、ということではないでしょうか。

ところで、憐れむとはどういう意味でしょうか。27節に「その家来の主君は憐れに思って」とありますが、この憐れむという動詞の本来の意味は、相手が苦しんでいるのを見て自分のお腹が痛くなる、というような意味です。つまり、目の前の苦しんでいる人と一緒に自分の内臓を痛める、という意味です。

共感するという日本語は、相手と感情、心を共有するという意味であり、同情するという言葉も、相手と感情、心を同じくするという意味ですが、今日の聖書に出てくる「憐れむ」という言葉は、相手の苦しい心、相手の悲しみ、相手の痛みを自分の痛みとする、ということでありましょう。

神はわたしたちと心をともにしてくださいます。神はわたしたちと心を同じくしてくださいます。神はわたしたちの痛みをご自分の痛みとしてくださいます。だから、わたしたちも隣人の痛みを自分の痛みとすることができるようになりたいと思います。

しかし、これは、相当に難しいことです。わたしたちは人の心を自分の心にすることができるでしょうか。わたしたちは自分の痛みより人の痛みをより深く想像することができるでしょうか。これは、本当に難しいことです。

NHKの朝のドラマ「モネ」が終盤にさしかかっていますが、主人公のモネという若い女性と菅波先生という若い医者が結ばれるかどうか、気になるところです。あるとき、菅波先生がモネにこう言っていました。「あなたの痛みはぼくにはわかりません。でもわかりたいと思います」。

「わかりません」というのは、開き直っているのではなく、正直かつ謙虚だと思います。人の痛みをわかりたい、いや、自分の痛みだけ気になって人の痛みに関心がないわたしたちが、人の痛みに対して何かできることがあるとすれば、それは、その人の痛みはわからないということがわかることであり、それくらいにその人の痛みをその人の痛みとして尊重することであり、それでもわかりたいと祈り続けることでありましょう。

21節です。18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。

「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」とありますが、これは、兄弟に限らず他人がわたしに害を加えたなら、という意味でしょう。

わたしたちは自分を傷つけた人を赦すことができるでしょうか。その人が非を認め、わたしたちの言い分をわかってくれ、反省し、謝罪してくれたら、それが誠実であるなら、わたしたちは、それでも赦せない、とはならず、ああよかった、もうこれ以上は何も望まない、となるのではないでしょうか。

問題は、そうしてくれない相手です。わたしたちを傷つけ、その非を認めず、わたしたちの言い分をわかろうとせず、反省も謝罪もしない相手を赦せるかということです。言い換えれば、そのようにわたしたちを二重、三重に傷つけ続ける相手にわたしたちが傷つかないでいられるかということです。

傷つきます。傷つき続けます。けれども、わたしたちは相手に同じことをやり返さないことは、神の支えと祈りによって可能になるかもしれません。

さて、ペトロは、人を七回まで赦したらよいでしょうか、とイエスに尋ねました。仏の顔も三度までというのに、俺様は七度も赦してやる、とペトロは得意げだったのかもしれません。けれども、イエスはペトロの奢りをたしなめます。

22節です。18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

七回どころか七の七十倍まで赦す、とはどういう意味でしょうか。490回まで赦すということでしょうか。そうではなく、何度でも赦しなさい、ということでしょう。一度や二度赦したといって得意になってはならない、七たび赦したといって自慢してはならない、ということでしょう。

23節です。18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

一万タラントンは、このたとえ話では、全財産を売り払い、さらに、自分と家族を奴隷として売り払って得られるお金に相当するようです。わたしなど、そうしても千円にもなりそうもないですが、このたとえ話では、何億円に匹敵するようです。

ところが、このたとえ話では、主君は家来を憐れに思って、この借金を帳消しにします。これは、どういうことでしょうか。これは、神は神に対するわたしたちの借金を帳消しにしてくださる、ということではないでしょうか。言い換えれば、神はわたしたちに請求書を送ってこないということです。

わたしたちは神からいのちをいただいています。このいのちはいくらでしょうか。神はわたしたちにいのちの代金を求めているでしょうか。わたしたちが今生きているこの体、身体、この心、この精神は、神から無償でいただいているものです。

わたしたちが吸う空気、わたしたちが生きる場所、空間、この地球、水、わたしたちの生きる世界の仲間である動物植物、わたしたちのまわりの人、わたしたちが楽しむ文化、毎日使う言語。これらはすべて神が無償でわたしたちのまわりに備えてくださったものです。神からこれだけのものを用意していただいていながら、わたしたちはそれに気づかず、それを忘れてしまいます。わたしたちの心は神から離れてしまいます。

28節です。18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

 百デナリオンはさきほどの一万タラントンの何万分の一の金額です。つまり、この家来は、自分は五万円の借金を免除していただいたのに、人からは一円の借金を取り立てようとしているのです。

 わたしたちも、神からわたしたちのすべてをいただいており、その支払いを免除されているのに、人からは取り立てようとしてないでしょうか。

 わたしたちは、人からは、ごめんなさいとか、すみませんとか、ありがとうとか、わたしが悪かったですとか、あなたの方が正しいですとか、そういう言葉さえ取り立てようとしているのではないでしょうか。けれども、それは、わたしたちが神からいただいている大きな恵みの前では、ごくごく小さなものではないでしょうか。

 わたしたちは、何億円、いや、わたしたちの持っているものすべて、わたしたちの家族や友人やまわりの人すべて、そのような恵みを神からいただいているのです。そして、その恵みの中心には、神の共感があります。

 旧約聖書の出エジプト記にはこのようにあります。3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

 わたしたちの主、神は、わたしたちの苦しみをつぶさに見てくださり、わたしたちの叫び声を聞いてくださり、わたしたちの痛みを知ってくださるのです。神はわたしたちに共感してくださいます。共感こそが神からの最大の恵みではないでしょうか。その恵み、その共感を、わたしたちも他の人と少しでもわかちあうことができるようにしてくださいと祈りましょう。

 祈り:神さま、あなたは、わたしたちにいのちと世界と友を用意してくださいました。神さま、あなたは、また、わたしたちの痛みをあなたの痛みとしてくださいます。しかし、神さま、あなたは、その取り立てをなさいません。心より感謝申し上げます。神さま、苦しんでいる人、叫んでいる人、痛んでいる人がいます。わたしたちもそれを見、聞き、知ることで、その人の友となることができますように。友の苦しみを和らげ、叫びを歌に変え、痛みを平安に変えてください。イエス、わがキリストによって祈ります。

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2021年9月12日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイ18:33)

これは、イエスのたとえ話の中で、主君が家来に言った言葉です。つまり、神はわたしたちに「わたしがあなたの苦しみを受け止めたように、あなたも仲間の苦しみを想うべきではないか」と言っているということではないでしょうか。

「憐れむ」という語には、恵まれた人が恵まれない人を上から見下ろすようなニュアンスをわたしたちは感じますが、本来はそうではないようです。「同情する」という類語にも同様の意味合いがまとわりついていますが、漢字を見ますと、「同じ」「情(心、感情)」を持つ、とあります。「共感」も「感情、心」を「共にする」という意味でしょう。

たとえ話で主君が家来に使った「憐れむ」という意味のギリシャ語の類語には、内臓が動かされる、という意味があります。わたしたちも、人の苦しみを目の当たりにして、お腹が痛くなることがないでしょうか。

旧約聖書の出エジプト記3:7にこうあります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」

神はわたしたちの苦しむ姿のすべてを見てくださり、わたしたちの叫び声を聞き逃さないでくださり、痛みをわかってくださるのです。

その神に感謝してわたしたちのできることは、やはり、苦しむ人の痛みをわたしたちの痛みにすることではないでしょうか。ともに傷むことではないでしょうか。それは難しいことですが、そうしようと願う人だけがその難しさを知り、その難しさを知る人だけがそうしたいと切に祈るのではないでしょうか。

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2021年9月5日 「小さな者を軽んじない」 [礼拝説教(使信)動画]

2021年9月5日 「小さな者を軽んじない」

https://youtu.be/AFZZNYu4tV8
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