SSブログ

小さな者を軽んじない [使信]

2021年9月5日 マタイ18:10-20 「小さな者を軽んじない」

おはようございます。今日の聖書の出だしに「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」とあります。これは、どういう意味なのでしょうか。

まず、「一人でも」とあります。一人でも軽んじてはならない、さらに言えば、一人でも切り捨てられることがあってはならない。これは、相当に難しいことです。わたしたち人間の集まりは、一人も失いたくないと願っても、結果として、経験として、ひじょうに残念なことに、つねに何人かを失っています。しかし、結果や現状がそうであっても、一人も失わない、ということは非常に大事な原則だと思います。

それから、「これらの小さな者」とはどういう人びとのことを指すのでしょうか。これもいろいろ考えられるのですが、マタイによる福音書の文脈で言えば、今日の聖書の個所の少し前に出てくる「子ども」あるいは「子どものように役に立たないとされる人びと」のことが考えられます。

そして、今日はマタイ福音書の18章ですが25章にも「この最も小さい者」という表現が出てきて、それは、食べ物や飲み物を必要とする人びと、宿を必要とする人びと、衣服を必要とする人びと、病気の人びと、獄中の人びとを指しています。

つまり、「これらの小さな者」とは、社会や世間から蔑まれたり疎んじられたりしている人びとや、衣食住や身体の安全、人間の尊厳において困窮している人びとのこと、少なくとも、そのような人びとを含むと考えられるでしょう。

では、どうして、これらの小さな者を軽んじてはならないのでしょうか。14節にはこうあります。「18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

滅びるとはどういうことでしょうか。これもいろいろ考えられます。これらの小さな者たちが世間から斥けられたり生きることが苦しかったりすることで、心身が押しつぶされてしまうことのようにも思えますし、これらの小さな者たちが神から遠ざけられてしまうことのようにも思えます。

いずれにせよ、それは、神の御心ではない、神の願いではない、神の意志ではない、というのです。言い換えれば、これらの小さな者たちが滅ぶことなく斥けられることなく困窮することなく生きることこそが、神の御心であり、願いであり、神の意志だというのです。

12節です。18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。

100人のうち99人を守るべきか、一人を守るべきか、というようなとき、わたしたちの感覚では、99人を守るべきだ、ということになりがちではないでしょうか。日本には外国人も住んでいますが、日本人を優先すべきだ、日本人だけにすべきだ、という発言もよく耳にします。わたしたちも、大多数の人がこれが良いと言い、ごくわずかの人があれが良いと言った場合、あれではなくこれにしてしまうのではないでしょうか。教会の中でも、皆がこうすべきだと言い、一人だけああすべきだと言った場合、その一人の考えを尊重するのは非常に難しいのではないでしょうか。

しかし、神は一匹いや一人を見捨てない、とイエスは言います。しかも、その一匹は、迷い出たとありますが、じつは、追い出されたのかもしれませんし、出て行かざるを得なかった、出ていくように追い込まれたのかもしれません。しかし、神はその一人を探し求める、とイエスは言います。

15節です。18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

「兄弟を得る」とあります。言い換えれば、「兄弟を失わない」と言うことでしょう。ここでは、兄弟を失わないために、忠告をしたり、言うことを聞かせたりするようにありますが、じつは、これも、相当に難しいことです。

わたしは、家族、生徒、教会の人に対して・・・教会の人には忠告しようとか言うことを聞かせようなどとはまったく思っていませんが・・・いずれにせよ、言葉によって、誰かを失わないことに成功した記憶がありません。誰かを説得する、思いを伝えることは至難の業です。

けれども、ただひとつできることは、自分からは誰かを追い出さない、自分からは誰かに出ていけとは言わないことです。誰一人追い出さない。これは、教会にも社会にも国にも学校にも家族にも大事な原則ではないでしょうか。

17節です。18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 教会の言うことを聞き入れない人を異邦人や徴税人と同様に見なす、つまり、教会の言うことを聞かない人を悪者扱いする。まぶね教会はそういうことはないと思います。また、どこの教会もそういうことをすべきではないと思います。

 18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

この「つなぐ」とか「解く」ということがどういうことなのか、これも諸説ありますが、人が人を斥ける、人が人を追い出すなどということは、じつは、神の心、神の愛の正反対のことであり、ぎゃくに、人と人が愛において結ばれる、人が人を大事にすることは、神の心、神の愛に適っているのだなと、この言葉を読んで思いました。

19節です。18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

共同体から一人を追い出すことがあってはなりませんが、共同体では一人の独断をも避けなくてはなりません。誰をも排除せずに、皆で考えなくてはなりません。神を中心にして、神の御心を想いつつ、皆で考えなくてはなりません。

小さな者の一人とは誰のことでしょうか。わたしたちの社会の中で、小さな者とは誰のことでしょうか。教会において、小さな者とは誰のことでしょうか。

この世界、この社会において、そして、人生において、いろいろとひどい目に遭って、つらいことがあって、自分に価値を見いだせずに苦しんでいる人びとがいます。しかし、その人びとは神の目には価高い存在だ、大事な存在だ、と聖書は語っています。

このことはどうやったら伝わるのでしょうか。ひとつは、聖書の言葉自体がその人びとに語りかけていることを信じることでありましょう。もうひとつは、わたしたちの人に対する態度が、神の御心、神の愛に適うものであることでしょう。

そして、わたしたち自身も、自分は斥けられているのではないかとか、自分は苦しんでいるとか、そのように感じるのであれば、つまり、わたしたちがわたしたちの傷つき、小ささに気づくのであれば、そのような小さなわたしも神には軽んじられていない、むしろ、愛されているのだ、という福音を受け入れようではありませんか。

祈り:神さま、わたしたちの社会の中で軽んじられている人びとがいます。わたしたちが軽んじている人びとがいます。わたしたちの中にも軽んじられている部分があります。けれども、あなたは、たった一人をも軽んじられません。あなたは、小さな者たちを、小さなわたしを、宝物のように思ってくださいます。心より感謝いたします。神さま、わたしたちが、世界で共に生きる人びとを軽んじることがないようにお導きください。わたしたちを成長させてください。神さま、わたしたちが人に軽んじられることがあっても、あなたには大切な存在であることをつねに思い出させてください。イエス、わがキリストによって祈ります。

nice!(0) 

2021年9月5日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)

 「小さな者」とは誰のことでしょうか。マタイによる福音書では、イエスはこの言葉の少し前に、子どもを呼び寄せ、弟子たちに受け入れるように勧めています。社会の一員とは認められず、役に立たないものとして周縁に斥けられていた子どもたちを、イエスは、むしろ真ん中へと招いたのではないでしょうか。
 マタイ福音書はまた25章のイエスの言葉において、飢えている人、喉の渇いている人、宿を求める旅人、着るもののない人、病気の人、獄中の人を「最も小さい者」と呼んでいます。
 そうしますと、「小さな者」とは、世の中で斥けられている人びと、居場所のない人びと、困難を抱えている人びとのことであると考えることができるでしょう。
 あるいは、心細さを抱えている人びと、自分の弱さに苦しんでいる人びと、自分には価値がないと心を痛めている人びとのことでもありましょう。
 では、「滅びる」とはどういうことでしょうか。ひとつは、この世の中で無いに等しい存在とされてしまう、存在を無にされてしまうことではないでしょうか。そして、もうひとつは、神とのつながりを失ってしまうことではないでしょうか。
 しかし、それは神の心ではない、神の願い、神の意志ではない、と聖書は言うのです。小さな者が人びとから斥けられず、むしろ、人びととつながり、神から斥けられた者と見なされず、むしろ、神ともつながる。これが神の心であり、神の意志であると聖書は言うのです。
 わたしたちもまた、自分をどんなにダメだと思っても、神の目には価高いことを想い起し、同時に、他の人を斥けない生き方に招かれていることを思い出しましょう。

nice!(0)