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2021-08-29 [礼拝説教(使信)動画]

2021年8月29日 「人生の宝」

https://youtu.be/aMSpoBHCwNU
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2021年8月29日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13:45-46)

「天の国」とはどのようなものでしょうか。イエスはこのようにたとえています。商人が良い真珠を探しています。良い真珠とは、人生にとって大切なもののことではないでしょうか。そして、商人とは、それを探し求めているわたしたち人間のことではないでしょうか。高価な真珠とは、わたしたちの人生にとってもっとも大切なもののことではないでしょうか。
 わたしたちは、意識していてもしていなくても、いつも何かを求めています。自分の心の穴、むなしさ、空白、不安、孤独を満たしてくれる何かを求めています。そうしていろいろなものを手にとってみます。
 しかし、お金や地位や娯楽や快楽は、一時的な幸福感を与えてくれますが、それはいつも、すぐに失うのではないかという不安感やこれは本物ではないという虚無感と背中合わせなのではないでしょうか。
 わたしたちが本当に求めるべきものは、わたしたちのいのちの源である神とのつながりでありましょう。わたしたちはひとりぼっちではない、いのちの源である神がいつもともにいてくださる、神はわたしたちを無条件に愛してくださる、このことこそが、わたしたちを満たしてくれるのです。神の愛、神とのつながり、神ご自身こそが天の国です。
 けれども、天の国は、わたしたちが探し求めるだけでなく、それ以前から、わたしたちの前にあり、わたしたちを待っていてくれることも覚えておきたいと思います。


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人生の宝 [使信]

2021年8月29日 マタイ13:44-48 「人生の宝」

おはようございます。わたしたちは、何のためにこうやって教会に来るのでしょうか。何のために、こうやって礼拝するのでしょうか。牧師から何かを教えられるためでしょうか。いや、牧師の話から学ぶことなど何もなくても、牧師の話がつまらなくても、それでも、礼拝には、大切な意味があります。

礼拝の意味は、ひとつは静かに祈ることだと思います。祈りはしばらくの沈黙で始めるのが良いと思います。前奏にあわせて目を閉じて祈る方もおられると思いますが、その際に、最初から願いを述べるのではなく、まず、神さまの静けさ、神さまの沈黙に耳を傾けるのが良いと思います。

礼拝のもうひとつの意味は、讃美歌を通して、神をゆたかに賛美する、神に深く感謝することだと思います。讃美歌を歌うということは、神がわたしたちに向けてくださる愛に感謝をすることではないでしょうか。

そして、御言葉に聞く、神からのメッセージ、使信に耳を傾けることです。牧師の話すことがそのまま神からのメッセージになるというよりも、使信をひとつの窓口にして聖書の言葉にともに耳を傾けるとき、そして、受けとめるとき、それは神からのメッセージになるのではないでしょうか。

コロナの流行、個々人の事情により、この礼拝堂に集えない方々もおられます。しかし、そのような方々も、それぞれの場で、祈り、聖書を読み、御言葉を受け取るとき、それは、礼拝でありましょう。この礼拝堂で礼拝を続けることの意味は、この礼拝堂に来られない方々とともにわたしたちは礼拝をしている、ということにもあるのではないでしょうか。

礼拝とは、ひとことで言えば、神とつながることだと思います。あるいは、わたしたちはじつは神とつながっていることを思い出す、その想いをあらたにすることでありましょう。教会に来る、礼拝をする、そして、神とつながるということ。これは、わたしたちの義務ではありません。神とつながること、これは、わたしたちの義務ではなく、むしろ、わたしたちの宝でありましょう。

今日の聖書の個所は「天の国」のたとえです。「天の国」とは何でしょうか。先週、それは、神が愛によってわたしたちを治めてくださることだと申し上げました。言い換えれば、「天の国」とは、神とつながった命、神とつながった人生のことでありましょう。「天の国」とは、あるいは、わたしたちが神にいのちを与えられ、神に生かされていることでありましょう。さらに言い変えれば、「天の国」とは、神ご自身でありましょう。神ご自身が「天の国」であり、わたしたちの人生の宝なのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書13章44節です。13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

イエスのたとえには、畑に隠されている宝を見つける、とありますが、イエスはどういう状況を想定しているのでしょうか。畑を耕している時でしょうか。あとでこの畑を買うとありますから、もともとは自分の畑ではなく雇われて耕していたのでしょうか。あるいは、その畑の横を通ったり、畑の中を通り抜けたりするときに、土に埋もれた宝の一部が偶然に見えたのでしょうか。あるいは、畑の作物を盗もうとしているときに、宝を見つけたのでしょうか。いずれにしろ、このたとえでは、意図的に宝さがしをしていたのではなく、偶然に見つけたように思えます。

わたしたちの人生においても、探していたわけではないのに、偶然にすばらしいものと出会うこともあったかもしれませんね。皆さんが神と出会われたのも、べつに神を探し求めていたわけではなかったけれども、ひょんなことで教会に来るようになったという方もおられるかもしれませんね。

しかし、つぎのたとえ話は、最初から宝を探し求めていたものとして描かれています。45節です。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

このたとえでは、商人は最初から良い真珠を探していたのです。良い真珠を求めた結果、持ち物を売り払ってでも手に入れたい高価な真珠を手に入れたのです。

このように、畑のたとえと真珠のたとえでは、偶然見つけたのか、最初から求めていたのか、という違いがありますが、持ち物をすべて売り払ってでも手に入れたいという点は共通しています。持ち物をすべて売り払ってでも手に入れたいとはどういうことでしょうか。それは何が何でも手に入れたいということであり、人生で一番大事なものを見つけたということでありましょう。そして、それは、わたしたちの人生の源であり、どうじに、人生の目的である神でありましょう。

イエスはもうひとつたとえを示しています。47節です。13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」とあります。こう聞くと、わたしたちは、自分も投げ捨てられるのではないか、神さまからおまえは悪い奴だから投げ捨てる、と言われるのではないか、と心配になります。

けれども、このたとえは、もともとは、神が良い人を救い、悪い人を投げ捨てる、という話ではないかもしれません。というのは、畑で宝を見つけるという最初の話も、良い真珠を見つけるというつぎの話も、わたしたち人間が「天の国」と出会う、神という宝と出会う話であるならば、三番目の網で魚を取って、良い魚と悪いものにわける話も、わたしたちが神と出会う話であった、もともとはそういう話であったかもしれないのです。

 網でいろいろな種類の魚をとるように、わたしたちも、人生において、さまざまなものを手にします。しかし、その中には本当に大切なものと、そうでないものがあるのではないでしょうか。そして、わたしたちは、ときに、本当に大切ではないものにしがみついてしまうことがあるのではないでしょうか。わたしたちは、本当に大切なものと、そうでないものを見分ける必要があるのではないでしょうか。

わたしが大切にしているものについて考えてみますと、まずは、家族です。一応大切にしているつもりです。家族は投げ捨てないつもりです。わたしの方が投げ捨てられるかも知れませんが。

それから、本を読むことです。本そのものは投げ捨てるというか手放すと思いますが、本を読むことは手放さないでしょう。なぜ本を読むのでしょうか。知識を得て偉い人になるためではありません。還暦にもなれば、知識は頭の中を通り過ぎるだけで、頭の中には残りません。では、なぜ本を読むのでしょうか。自分だけが正しい、自分は正しい、という人間にならないためです。人に耳を傾け、人から学ぶ人間になるためです。ですから、読書は、許される限り、続けたいと思います。

それから、アガペー、神の無償の愛、価値のないわたし、悪人であるわたしを神が無条件に愛してくださること、そして、インマヌエル、その神が、いつもわたしとともにいらしてくださること、このことは、手放しません。

けれども、くだらないプライドとか、傲慢さ、虚栄心、生涯一度は本を出版したいなどという欲望、自分は正しいというおごり、人からの誉め言葉、人からの誉め言葉を求めてしまうあさましい精神などは、できれば、投げ捨てたいと思います。

しかし、投げ捨てられなければ、無理に投げ捨てることもありません。ああ、自分はつまらないものにしがみついているなあという自覚と苦笑いがあれば、それでよいとも思います。

それから、わたしたちは、神と出会うために、全財産を売り払わなくても大丈夫です。ただし、自分を根本で支えてくれるものは、財産ではなく、神であることを、つねにわきまえたいと思います。

神こそが、わたしたちの根本の支えです。神こそが、わたしたちの命です。神こそが、わたしたちの宝であり、神こそがわたしたちの真珠です。

コロナ、病気、人間関係、仕事と苦しいことは続きますが、この神にしっかりとくっついて、この神にしっかりと支えられて、わたしたちは、今週もともに歩み続けましょう。

祈り:神さま、わたしたちは、宝も真珠ももっていませんが、神さま、あなたが、わたしたちの宝となり、真珠となってくださいました。あなたもまた、わたしたちをあなたの宝とし、真珠としてくださいました。このうれしい知らせに心から感謝いたします。神さま、友なき者の友、宝なき者の宝となってください。奴隷のように扱われている友をあなたの友としてください。虫のように踏みにじられている友をあなたの宝としてください。イエス、わがキリストによって祈ります。

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2021-08-22 [礼拝説教(使信)動画]

2021年8月22日 「種の秘める力」」

https://youtu.be/Dkm7iX-5GSY
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2021年8月22日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31-32)

 わたしたちは母の胎に宿って二か月くらいの時、身長は数ミリ、体重も数グラムで、ぶどう1粒くらいだったそうです。誕生時は、個人差はありますが、数十センチ、数キログラムになる場合があります。成人になると、百数十センチ、数十キログラムにもなる人もいます。つまり、身長は数百倍、体重は一万倍くらいになるのです。
 植物の場合も、小さな種や苗木が、何千倍、何万倍に成長します。動植物の成長する力には驚かされます。成長する力は生命の力でもありましょう。そして、生命の力は、神の力でありましょう。神の力が働いている場を、神の国、あるいは、天の国と呼びます。
 小学校一年生の時、大きなマスのノートにひらがなを初めて書いて以来、今日までわたしたちは一体どれだけの文字を書いてきたことでしょうか。小学校に上がる前、初めて言葉を発して以来、今日までわたしたちは一体どれだけの言葉を紡いできたことでしょうか。たとえ、それが記録に残っていなかったとしても、その時間が積み重ねられて、わたしたちの人生の丘があります。
 自分の歩みを振り返ってみて、小さな種を大きく育ててきた、小さな夢を大きく実現してきた、と言えるようなことがなかったとしても、わたしたちの何十年もの、呼吸、足跡、考えたこと、感じたこと、出会った人、すれ違った人、触れた言葉は、莫大なものです。やはり、からし種は大きな木になり、いのちの営みは積み上げられてきているのです。神のいのちの力は働いているのです。

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種の秘める力 [使信]

2021年8月22日 マタイ13:24-33 「種の秘める力」

おはようございます。わたしがもっとも尊敬する92歳の牧師先生の講演集、説教集が先日出版されました。そのあとがきで、この先生はわたしのことを、畏友、尊敬する友と書いてくださいました。うれしかったですね。わたしは、還暦を迎えても、自分中心で、人を傷つけ、神に委ね切れていない、ろくでなし、キリスト教の言葉で言えば、罪人であると、日々痛感しているのですが、92歳の大先生が、わたしを畏友と呼んでくださる・・・罪の赦しとはこういうことなのだ、イエスがあなたがたをしもべではなく友と呼ぶとはこういうことなのだ、と思いました。

じつは、わたしは自分の本を出したいという欲望を抱いています。これまで、翻訳の出版はしてもらったことがありますが、自分で書いた文章で一冊の本を出したことはありません。同年代や若い人たちが説教集を出しているのをうらやましく思っています。

しかし、先日、ある本で、こんな言葉に出会いました。「私達がピアノの素晴らしさを知ったのは、頂点の人達、つまり世界的ピアニストのコンサートやCDでしょうか? 僕は、街のピアノ教室の先生から、ピアノの楽しさを教えてもらいました。学校の音楽の先生にもです」「派手で目立つのは、山の頂点を引き上げる方です。けれど、裾野を広げることも、まったく同じくらい重要なことなのです」

これはある劇作家の言葉です。これを読んで、わたしは思いました。「有名牧師の説教集に感動する人びともいます。しかし、毎週、小さな口で福音を伝えるのは村や町の牧師たちです」。わたしたち普通の牧師の説教で、現在のキリスト教の裾野を、植物の成長のように、あるいは、パンがふくれるように、何倍にも成長させているとは思いませんが、それでも、頂点がのっかるための裾野を築いていることはたしかでしょう。川崎からは富士山の上の方しか見えませんが、あの下には、広大な裾野が横たわっているのだと思います。

わたしたちも、頂上ではなくても、何か大切なものの裾野を築いているのではないでしょうか。神が創造したこの世界の裾野をなしているのではないでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書には「天の国」という言葉が何度か出てきます。これは、天国と言ってもよいし、神の国と言ってもよいと思いますが、天の国とはどのようなものなのでしょうか。

今日のイエスの最初のたとえ、毒麦のたとえを読みますと、良い麦と悪い麦を刈り取る、などとありますので、天の国とは、わたしたちの死後、裁きを受けるところのように思われます。しかし、これに続くからし種のたとえ、パン種のたとえを読みますと、死後の裁きとは違う印象を受けます。からし種のたとえ、パン種のたとえからは、天の国は、何か成長するもの、ふくらむもののように伝わってきます。

天の国、天国、神の国とは、いったいどのようなものなのでしょうか。天の国とは、死後の世界なのでしょうか。わたしたちは死んだ後も今と同じような意識があって、しかし、肉体はなくて、そんな状態が永久に続くのでしょうか。死んだ後のことはわかりません。しかし、生きている今わたしたちは神の愛によって、神ご自身とつながり、他の人とつながっているように、そのつながりは、死んだあとも、地上の旅を終えた後もつづくとわたしは感じています。

天の国とは、あるいは、この世の楽園、ユートピアみたいなところでしょうか。天の国とは、この世界の理想社会のことでしょうか。人と人が争うことなく、むしろ、愛し合い、すべての人が幸せに生きられる理想社会のことでしょうか。そのようなものは、地上にはないと思います。狭い地域、短い時間だったら、人と人とが争わず、愛し合い、幸せな状態もあると思いますし、わたしも経験したこともあるように思いますが、残念ながら、それは、長続きはしません。

では、天の国とはどのようなものでしょうか。じつは、今日読んでいるマタイによる福音書では「天の国」とありますし、新共同訳の前の聖書では「天国」とありますが、マルコによる福音書やルカによる福音書では、これを「神の国」と呼んでいます。

「神の国」とは、日本とかアメリカのような地理的な場所のことではなくて、「神が治めている」という意味です。「神の支配」という意味です。支配と言うと上から抑えつける意味合いもありますので、おさめ、と言ってもよいかもしれません。神の国とは、神の治め、神のお治めのことです。

この世界は、神が愛によって治めてくださる、神は世界といのちとわたしたちを愛によって治めてくださる、それが神の国であり、天の国です。神の愛のことを、ギリシャ語でアガペーと言います。これは、愛する相手に条件や見返りを求めない、無償の愛のことです。そして、その神がわたしたちとともにおられること、わたしたちがたとえひとりぼっちに思えても、どんなに苦しい時でも、無償の愛の神、アガペーの神が、わたしたちとともにおられることを、インマヌエルと言います。神の国、天の国とは、神がアガペーとインマヌエルによって、神が無償の愛をもってここにおられることで、わたしたちを治めてくださることではないでしょうか。

29節です。13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。

麦畑に良い麦と悪い麦が入り混じっているが、悪い麦を抜いて捨ててはならない、とイエスは、たとえ話を通して言います。

何が毒麦で何が良い麦か、わたしたちは安易に判断してはならないのではないでしょうか。それは、神に委ねるべきことではないでしょうか。たしかに、わたしたちは善悪を判断しなければならないことがあります。人を殺すこと、人を傷つけること、人から奪うこと、人から収奪することは、悪である、とわたしたちの多くは考えます。

しかし、外国人には犯罪者が多いとか、ナニナニ人は日本に敵対しているとか、あの病気の人はナニナニだとか、あの人びとはナニナニだとか、そのような判断はすべきではないでしょう。これは、本当に悪い人かどうかはすぐにはわからない、ということではなく、ある人びとを悪い人と決めてしまうことの問題なのです。神の国とは、あの人びとはこうなのだと人を裁き捨てることなく、むしろ、人を愛し続けようとする世界ではないでしょうか。

31節です。13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

からし種も、パン種も、小さなものが大きく成長することの一例としてあげられています。今は小さくても、いつかやがて大きく成長します。天の国、神の国、神の治めは、このように成長するものなのです。

と言いましても、わたしたちはもう大人ですから、これ以上大きくなりません。身長は伸びません。体重だけは増えるかも知れませんが。わたしたちはもう大人ですから、何かを育てると言っても、たいしたことはできそうもありません。

しかし、まぶね教会の庭、まぶねの庭を御覧ください。毎年、茎が伸び、葉が茂り、花が咲いているではありませんか。二か月くらい前に、わたしは、オリーブの木を、まぶねの庭の一角に植えさせていただきました。これもきっと大きく育つと思います。

わたしたちにも、育つものがあります。希望は大きく育ちます。そして、わたしたちは、これから、神への信頼を育てていきましょう。神ご自身がわたしたちの中にこれを育ててくださるでしょう。わたしたちも神ととともに、神への信頼を育てましょう。

そして、神への感謝、人への感謝を育てましょう。わたしたちのこれまでの人生における神のお支えとお導きへの感謝、そして、人びとへの感謝を育てましょう。

さらに、わたしたちは、新しいいのちへの希望、地上の旅を終えた後、むかえる新しいいのちへの希望を育てましょう。

もうひとつ、わたしたちは、平和への希望を育てましょう。平和への希望を、わたしたちの次の世代の人びとに渡すことができるように育てましょう。まぶね教会がこの地で、人びとに仕え、人びとと平和をわかちあいつづける、その希望を育てようではありませんか。

祈り:神さま、あなたは、小さな種を大きな木へと成長させてくださいます。ふりかえれば、わたしたちはほんとうに小さなものでしたが、ここまであなたに導かれて歩んできました。こころより感謝申し上げます。神さま、あなたがわたしたちの中で育ててくださるいのちと希望と愛を、いつも忘れることがないようにお支えください。神さま、わたしたちの中に、友の中に、わたしたちのあいだに、天の国、神の国を大きく育ててください。イエスによって祈ります。

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2021年8月15日 「人と人との真の絆」 [礼拝説教(使信)動画]

2021年8月15日 「人と人との真の絆」

https://youtu.be/SDyQsreaKQQ
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2021年8月15日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:50)

親の愛、家族の愛、その強さやその崇高さにまさるものはない、とよく言われ、フィクションやノンフィクションの題材にもされます。しかし、同時に、親の暴力、支配、家族の桎梏、重圧、冷淡もニュースになり、本などのテーマにもなっています。
 家族は愛に満ちたものなのでしょうか。それとも、残酷な舞台なのでしょうか。家族は初めから自然に愛に満ちているわけではなく、そこに愛があれば、愛の場となりますが、愛がなければ、渇いた砂漠となるでしょう。
 人は他の人と生きていきますが、家族はその最小単位のひとつであり、人が他の人と一緒に生きていくための稽古場のひとつでもありましょう。
 家族は無条件に愛に満ちているわけではありません。そこにいる人が、イエスの言うように「天の父の御心」つまり「神の意志」つまり愛を実行しようと意識しなければならないでしょう。
 エフェソの信徒への手紙は教会の人びとに、愛によって自分たちの共同体を築いていくように促しています。「愛によって」とは、人びとが互いに相手を愛すること、大切にすること、尊重することによってであり、どうじに、神が人びとを愛し、人びとにそのような愛をもたらしてくれることによって、でありましょう。愛とは相手を重視することです。
 家族も、それ以外の人間のつながり、集まりも、愛によって築こうとすることで、愛の場に育っていくのです。

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人と人とのまことの絆 [使信]

2021年8月15日 マタイ12:43-50  「人と人とのまことの絆」

おはようございます。わたしが神学生か牧師になり始めのころ、わたしの父は人から「お子さんはどうしていますか」と訊かれて、「あれはもうわたしの子どもではありません。神さまにささげましたから」と言ったそうです。

そこで、わたしも「お父さんはどうしていますか」と訊かれると、「あれはもうわたしの父ではありません。だいぶまえに神にささげましたから」と答えることにしました。

わたしの父は気が短く自分勝手な人で、わたしは二十代半ばになるころまで、いつも父に怯えていましたし、反抗心を持っていました。その父も、何年前か忘れましたが、たぶん十年位前ですが、地上の旅を終えました。きっと天国にいると思います。神はどんな罪人をも受け入れる、と聖書にありますから。

母も父と同じ年に地上の旅を終えました。母は戦時中に東京のミッションスクールに通っていたのですが、学徒勤労動員で、ろくに授業もないままにさっさと卒業させられたことに、戦争の苦しみを感じたようです。数年前、母の母校から、わたしに礼拝説教の依頼があり、わたしは母の残したアルバム・・・その中には母がその学校の学生だった時代にそこで撮った写真も含まれているのですが、そのアルバムを持って、わたしはその学校を訪ねました。先日、本を片づけるなど、ひとつひとつ手放していくというお話をしましたが、このアルバムはまだ手放していません。罰があたるかもしれませんので。

話は変わりますが、日本人の多くはオリンピックでなぜ日本を応援したくなるでしょうか。わたしたちは、どうしても、人に勝ちたい、人より優位にいたいと思っています。自分が人より上にいたい、あるいは、自分に近い人、自分の延長線のような人に勝ってほしいという欲望を持っています。世間から良いと言われる学校に自分が行きたい、あるいは、自分の子どもに行かせたい、というような気持があります。

わたしたちは、自分を中心にした円をいくつかもっているのではないでしょうか。自分を中心にした小さな円、自分を中心にした中くらいな円、自分を中心にした大きな円、そのような円がいくつもあります。それらの中心を重ねると、同心円になります。わたしたちは、自分を中心にした、大中小の同心円をいくつも持っているのではないでしょうか。日本人にとって日本人選手は大きな同心円の中にいることになり、そういう意味で自分の延長でもあるから、日本人選手を応援するのではないでしょうか。応援というより、正確に言えば、勝ってほしいと欲するのではないでしょうか。日本人選手が勝つことは、自分が勝つことのかわりなのです。

国というものがわたしたちを中心にする大きな同心円ならば、家族はもっとも真ん中に近い同心円のひとつでありましょう。

家族にも良さがあります。わたしの場合、二十代半ばまでは、経済的には家族に支えられてきました。ただ、家族というだけの理由でです。親からすれば、ただ子どもであるという理由でです。

けれども、家族の悪い点、というか、家族の重さもあります。家族の重みというより、家族の重さと言ったほうがよいかもしれません。重みと重さはどう違うのでしょうか。家族の重みは家族のありがたさにつながりますが、家族の重さはむしろ家族の束縛の同義語でありましょう。

子どもが親の言うことを聞くのは当然、妻が夫の言うことを聞くのは当然、誰が飯を食わせてやっていると思うのだ、親の言うことが聞けないのか、夫の言うことが聞けないのか、家族なのだから介護をするのは当然・・・このように家族には重さがあり、束縛があります。家族は下手をすれば、今日の聖書のたとえ話のように、汚れた霊と七つの悪霊の集まりになりかねません。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書12章46節です。12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」

イエスは人びとと話していました。しかし、イエスの家族はそれには加わらず、自分たちが話したいことがあると言って外に立っていました。イエスを外に呼び出して、自分たちの話を聞かせようとしたのでしょう。

イエスの家族は、イエスがそこで話していることを聞こうとせず、その外に出させて、自分たちの話を聞かせようとしたのだとすれば、そこに、家族として、というより、それ以前に、人間と人間の関係として問題があるのではないでしょうか。

人の話を聞こうとしない。自分が話したいことだけを話す。そこには愛がありません。家族であろうと、なかろうと、人と人との関係、人の集まりには、愛が必要です。自分が勝とう、自分の仲間に勝たせようとする欲望ではなく、相手に仕える心、相手に聞こうとする心が大切だと思います。ふたりの人の間にも、家族にも、社会にも、愛が必要です。

言い変えれば、神が必要です。神を間に置いたつながり、神を中心にした集まりであることが必要です。同心円の中心は、自分ではなく、わたしではなく、神にすべきなのです。

49節です。12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

「天の父の御心を行う人」とは、どういう人でしょうか。天の父、すなわち、神の御心とは、愛にほかなりません。愛とは、自分ではなく、相手を大事にすることです。相手を大事にするとは、自分が相手を助けることとは少し違います。相手を助けるという考えの中には、自分は相手より上だという思いが潜んでいるかもしれません。相手を大事にするとは、自分ではなく、相手を中心にする、自分ではなく相手を主語にするということです。

パウロという人がいます。この人は、イエスとは直接会っていませんが、イエスの精神に何らかの形で触れた人の一人と言えるでしょう。

そのパウロが書いた手紙の一節にこうあります。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

肉の業とは、わたしたちの自分中心の思いのことでしょう。そこには、敵意や争いやそねみ、利己心、不和、仲間争い、ねたみなどがあります。相手を想わない自分勝手な思いがあります。家族においても、残念ながら、これらの思いはあるのです。

霊の結ぶ実とは、神の思い、神の心、神の意志のことでしょう。ここには、愛があり、平和、寛容、誠実があるのです。これらこそが、家族の絆であるべきでしょう。自分たちの利益を守るとか、自分たちが他の人に優るとか、そういうことではなく、愛、平和、寛容、誠実こそが、家族の絆、人間の絆でなければならないのです。

愛は、神の意志であり、神がわたしたちに注いでくれるものであり、神自身であります。同時に、愛は、それを受け取ったわたしたちが、他の人とわかちあうべきものでもあります。わたしたちの中心には、わたしではなく、神がいて、愛があって、その愛が、同心円をなす、そのような人間関係、そのような世界を祈り求めたいと思います。

戦争は自分中心の同心円の最たるものでありましょう。そのようなものを起こしてしまったことを、あらためて反省し、そのようなものが起こらない、神と愛を中心にした同心円ができることを祈り求めようではありませんか。

祈り:神さま、あなたの御心は、自分中心ではなく、相手中心の愛であると信じます。わたしたちは、家族においてさえ、自分を中心にしてしまいます。しかし、愛という御心を中心にした生き方をイエスを通して、わたしたちに示してくださり、心より感謝申し上げます。神さま、願わくば、わたしたちの中の、どうしようもない自己中心、エゴイズムを打ち砕いてください。つねにそれ気づかせてください。それを乗り越えようとさせてください。神さま、家族の重さ、家族の桎梏にずっと苦しんでいる友がいます。どうぞ、そこから解き放ち、あなたの愛の同心円へと導き入れてください。イエスによって祈ります。

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2021-08-08 [礼拝説教(使信)動画]

2021年8月8日 使信「最後まで耐え忍ぶ」

https://youtu.be/UueAysN5t08
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