SSブログ

種の秘める力 [使信]

2021年8月22日 マタイ13:24-33 「種の秘める力」

おはようございます。わたしがもっとも尊敬する92歳の牧師先生の講演集、説教集が先日出版されました。そのあとがきで、この先生はわたしのことを、畏友、尊敬する友と書いてくださいました。うれしかったですね。わたしは、還暦を迎えても、自分中心で、人を傷つけ、神に委ね切れていない、ろくでなし、キリスト教の言葉で言えば、罪人であると、日々痛感しているのですが、92歳の大先生が、わたしを畏友と呼んでくださる・・・罪の赦しとはこういうことなのだ、イエスがあなたがたをしもべではなく友と呼ぶとはこういうことなのだ、と思いました。

じつは、わたしは自分の本を出したいという欲望を抱いています。これまで、翻訳の出版はしてもらったことがありますが、自分で書いた文章で一冊の本を出したことはありません。同年代や若い人たちが説教集を出しているのをうらやましく思っています。

しかし、先日、ある本で、こんな言葉に出会いました。「私達がピアノの素晴らしさを知ったのは、頂点の人達、つまり世界的ピアニストのコンサートやCDでしょうか? 僕は、街のピアノ教室の先生から、ピアノの楽しさを教えてもらいました。学校の音楽の先生にもです」「派手で目立つのは、山の頂点を引き上げる方です。けれど、裾野を広げることも、まったく同じくらい重要なことなのです」

これはある劇作家の言葉です。これを読んで、わたしは思いました。「有名牧師の説教集に感動する人びともいます。しかし、毎週、小さな口で福音を伝えるのは村や町の牧師たちです」。わたしたち普通の牧師の説教で、現在のキリスト教の裾野を、植物の成長のように、あるいは、パンがふくれるように、何倍にも成長させているとは思いませんが、それでも、頂点がのっかるための裾野を築いていることはたしかでしょう。川崎からは富士山の上の方しか見えませんが、あの下には、広大な裾野が横たわっているのだと思います。

わたしたちも、頂上ではなくても、何か大切なものの裾野を築いているのではないでしょうか。神が創造したこの世界の裾野をなしているのではないでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書には「天の国」という言葉が何度か出てきます。これは、天国と言ってもよいし、神の国と言ってもよいと思いますが、天の国とはどのようなものなのでしょうか。

今日のイエスの最初のたとえ、毒麦のたとえを読みますと、良い麦と悪い麦を刈り取る、などとありますので、天の国とは、わたしたちの死後、裁きを受けるところのように思われます。しかし、これに続くからし種のたとえ、パン種のたとえを読みますと、死後の裁きとは違う印象を受けます。からし種のたとえ、パン種のたとえからは、天の国は、何か成長するもの、ふくらむもののように伝わってきます。

天の国、天国、神の国とは、いったいどのようなものなのでしょうか。天の国とは、死後の世界なのでしょうか。わたしたちは死んだ後も今と同じような意識があって、しかし、肉体はなくて、そんな状態が永久に続くのでしょうか。死んだ後のことはわかりません。しかし、生きている今わたしたちは神の愛によって、神ご自身とつながり、他の人とつながっているように、そのつながりは、死んだあとも、地上の旅を終えた後もつづくとわたしは感じています。

天の国とは、あるいは、この世の楽園、ユートピアみたいなところでしょうか。天の国とは、この世界の理想社会のことでしょうか。人と人が争うことなく、むしろ、愛し合い、すべての人が幸せに生きられる理想社会のことでしょうか。そのようなものは、地上にはないと思います。狭い地域、短い時間だったら、人と人とが争わず、愛し合い、幸せな状態もあると思いますし、わたしも経験したこともあるように思いますが、残念ながら、それは、長続きはしません。

では、天の国とはどのようなものでしょうか。じつは、今日読んでいるマタイによる福音書では「天の国」とありますし、新共同訳の前の聖書では「天国」とありますが、マルコによる福音書やルカによる福音書では、これを「神の国」と呼んでいます。

「神の国」とは、日本とかアメリカのような地理的な場所のことではなくて、「神が治めている」という意味です。「神の支配」という意味です。支配と言うと上から抑えつける意味合いもありますので、おさめ、と言ってもよいかもしれません。神の国とは、神の治め、神のお治めのことです。

この世界は、神が愛によって治めてくださる、神は世界といのちとわたしたちを愛によって治めてくださる、それが神の国であり、天の国です。神の愛のことを、ギリシャ語でアガペーと言います。これは、愛する相手に条件や見返りを求めない、無償の愛のことです。そして、その神がわたしたちとともにおられること、わたしたちがたとえひとりぼっちに思えても、どんなに苦しい時でも、無償の愛の神、アガペーの神が、わたしたちとともにおられることを、インマヌエルと言います。神の国、天の国とは、神がアガペーとインマヌエルによって、神が無償の愛をもってここにおられることで、わたしたちを治めてくださることではないでしょうか。

29節です。13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。

麦畑に良い麦と悪い麦が入り混じっているが、悪い麦を抜いて捨ててはならない、とイエスは、たとえ話を通して言います。

何が毒麦で何が良い麦か、わたしたちは安易に判断してはならないのではないでしょうか。それは、神に委ねるべきことではないでしょうか。たしかに、わたしたちは善悪を判断しなければならないことがあります。人を殺すこと、人を傷つけること、人から奪うこと、人から収奪することは、悪である、とわたしたちの多くは考えます。

しかし、外国人には犯罪者が多いとか、ナニナニ人は日本に敵対しているとか、あの病気の人はナニナニだとか、あの人びとはナニナニだとか、そのような判断はすべきではないでしょう。これは、本当に悪い人かどうかはすぐにはわからない、ということではなく、ある人びとを悪い人と決めてしまうことの問題なのです。神の国とは、あの人びとはこうなのだと人を裁き捨てることなく、むしろ、人を愛し続けようとする世界ではないでしょうか。

31節です。13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

からし種も、パン種も、小さなものが大きく成長することの一例としてあげられています。今は小さくても、いつかやがて大きく成長します。天の国、神の国、神の治めは、このように成長するものなのです。

と言いましても、わたしたちはもう大人ですから、これ以上大きくなりません。身長は伸びません。体重だけは増えるかも知れませんが。わたしたちはもう大人ですから、何かを育てると言っても、たいしたことはできそうもありません。

しかし、まぶね教会の庭、まぶねの庭を御覧ください。毎年、茎が伸び、葉が茂り、花が咲いているではありませんか。二か月くらい前に、わたしは、オリーブの木を、まぶねの庭の一角に植えさせていただきました。これもきっと大きく育つと思います。

わたしたちにも、育つものがあります。希望は大きく育ちます。そして、わたしたちは、これから、神への信頼を育てていきましょう。神ご自身がわたしたちの中にこれを育ててくださるでしょう。わたしたちも神ととともに、神への信頼を育てましょう。

そして、神への感謝、人への感謝を育てましょう。わたしたちのこれまでの人生における神のお支えとお導きへの感謝、そして、人びとへの感謝を育てましょう。

さらに、わたしたちは、新しいいのちへの希望、地上の旅を終えた後、むかえる新しいいのちへの希望を育てましょう。

もうひとつ、わたしたちは、平和への希望を育てましょう。平和への希望を、わたしたちの次の世代の人びとに渡すことができるように育てましょう。まぶね教会がこの地で、人びとに仕え、人びとと平和をわかちあいつづける、その希望を育てようではありませんか。

祈り:神さま、あなたは、小さな種を大きな木へと成長させてくださいます。ふりかえれば、わたしたちはほんとうに小さなものでしたが、ここまであなたに導かれて歩んできました。こころより感謝申し上げます。神さま、あなたがわたしたちの中で育ててくださるいのちと希望と愛を、いつも忘れることがないようにお支えください。神さま、わたしたちの中に、友の中に、わたしたちのあいだに、天の国、神の国を大きく育ててください。イエスによって祈ります。

nice!(0) 

nice! 0