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心の中 [礼拝説教(使信)動画]

2021年10月31日 「心の中」

https://youtu.be/CKZIBSdgQKk
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2021年10月31日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」(マルコ7:18)

イエスが生きていた社会では、これらを食べると汚れるとみなされているものがありました。また、このような人は汚らわしい、このような行為は汚らわしい、などとも考えられていました。汚れたものに接触すると汚れる、というのです。
たしかに、旧約聖書をみますと、そのようなことも書かれています。しかし、創世記には、より根本的なことが書かれています。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。
神は汚らわしいものなど創造していない、神が創造したものは、すべて、良い、美しい、と言うのです。
 人間の社会では、ときに、あの人たちは汚れているなどと思ってしまい、その考えが制度などで蔓延してしまうこともありますが、イエスは、創世記の言葉と同じように、汚れている人などいない、と知っていたのではないでしょうか。
何を食べたから、何をしたから、何だから汚れている、などとイエスは考えなかったでしょう。むしろ、そのような考えに怒りを覚えていたことでしょう。
だから、イエスは、その社会で、罪人だ、汚れているなどと言われ、斥けられていた人びとと親しく交わり、食事をともにしたのでしょう。
 これは汚れているという人間の想いによって、人をも自分をも汚してよいのか、とイエスは問いかけているのではないでしょうか。どうじに、自分は汚れていると苦しんでいる人に、あなたは汚れてなどないと語りかけているのではないでしょうか。

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心の中 [使信]

2021年10月31日 マルコ7:14-23 「心の中」

おはようございます。今日の使信の題を、最初は「腹の中」としていました。今日の聖書の個所ではイエスは人間の「悪い思い」を問題にしていますが、わたしは、これを自分の腹のどす黒さとすぐに結びつけてしまったのです。

ところが、よく読んでみますと、イエスは、どす黒いのは人間のお腹の中ではなく心の中だと言っています。だから、今日の使信の題を「腹の中」から「心の中」へと変えました。もっとも、日本語で「腹黒い」というと胃や腸のことではなく、心が邪まであることを指しますから、イエスが「心の中」と言い表したことは、日本語で「腹の中」と言い表すものと同じことを指しているのでしょう。ぎゃくに、今日の聖書で「腹」と言っているものは、単純に胃や腸を指しているのでしょう。

イカ墨を食べると、たしかに、胃や腸が黒くなりそうですが、心は黒くなりません。はんたいに、イカ墨を食べなくても、心が邪まになってしまうことはあるでしょう。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書7章15節です。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」

旧約聖書には、こういうものは汚らわしいから食べてはならない、とされているものがあります。たとえば、ラクダです。そして、野ウサギです。日本では「うさぎ追いし」と歌いますが、旧約聖書では、野ウサギを追いかけるくらいはよいかもしれませんが、食べてはいけないとされています。それから、岩狸もダメです。

はげわし、カラス、みみずく、そして、爬虫類もダメです。しかし、イナゴは食べてよいそうです。若いころ、知り合いから、田舎でいなごをとってきました、と言って、弁当箱一杯のいなごの佃煮をいただいたことがあります。わたしはおいしくいただきましたが、家族は箸を伸ばしませんでした。

それから、ひれやうろこのない魚類もだめです。ひれやうろこのない魚類には、イカ、タコ、エビ、カニ、うなぎなどが含まれるそうです。そうすると、お寿司屋さんのメニューがかなり減ってしまうのではないでしょうか。

イエスの生きた社会は、このようなものを食べると汚れる、と言うのです。しかし、イエスは、そうではない、と言いました。18節です。7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」。つまり、汚れているとされるものを食べたからと言って、人は汚れたりはしない、というのです。そして、そんなふうに言われている食べ物でも、食べたら、お腹の中に入り、つまり、心ではなくて、胃や腸の中に入り、やがて排泄される、だから、そんなものを食べても心が汚されることはない、口から食べて、胃や腸で消化されて、排泄されれば、汚れていると言われる食べ物は、むしろ、清められてしまうのではないか、とイエスは言っています。イエスはユーモアを混ぜながら、まことのことを言っているのではないでしょうか。

汚れているとされる食べ物はべつに汚れていない、とイエスは言い、さらに、汚れているのは、むしろ、人の心ではないか、と問いかけます。20節です。

7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

らくだや野ウサギやイカやタコが汚れているのではない、これらが人を汚すのではない、むしろ、人の心の中から出てくる悪い思いが人を汚すのだ、とイエスは言います。

心には、良い部分と悪い部分があるのではないでしょうか。心には、悪魔と天使の両方が住んでいるのではないでしょうか。よく、犯罪の容疑者の近所の人が「あの人はそんなことをする人に思えない」などと言いますが、人には二面性があるのではないでしょうか。

あるお芝居にこんなセリフがありました。「人は、自分の欲望、情欲をひたすら満たそうとしたと思えば、次の日、小さな子どもを救うために自分の体を迫りくる馬車の前に放り出す」。

イエスは人間の心から「悪い思い」が出てくると言います。そして、具体例として、「みだらな行い、盗み、殺意、7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」が挙げられています。さらに、これらの悪は皆、人の心の中から出てきて、人を汚す、口から入る食べ物が人を汚すのではない、と言います。

どうしたらよいのでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙にも今日の聖書の個所と似たようなパウロの言葉があります。わたしも、これまでも、何度か引用してきました。

5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

今日のイエスの言葉と似ているように思われます。しかし、パウロはさらに続けます。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

わたしの心には、肉の業とパウロが言うような邪なものがありますが、わたしたちの心には、パウロが「霊の結ぶ実」と呼ぶ美しいものもあるのではないでしょうか。心の中の邪なものは、わたし自身から出ていますが、心の中の美しいものは、神から来ているのではないでしょうか。しかし、残念ながら、わたしの心の中では、わたしの邪まさが、神からの美しさにまさってしまうのです。

パウロが挙げた肉の業のひとつに「利己心」がありました。自分のことだけを考え、相手や他の人のことを考えないこと、つまり、エゴイズムのことだと思います。たとえば、夏目漱石の「こころ」という小説の中で、主人公は下宿先のお嬢さんが好きになります。ところが主人公の友人もお嬢さんを好きになります。その気持ちを打ち明けられて、主人公は友人の想いを大事にするどころか、自分がお嬢さんと結婚しようと、友人を出し抜いて、お嬢さんの母親にお嬢さんと結婚させて下さい、と言うのです。

 わたしもそうなってしまいます。相手やまわりより、自分の思いを優先させてしまいます。二十代のころに、それではいけない、と気づかされましたが、いまだ克服できず、自分の感情や家族の生活が頭の中では第一になってしまいます。

 しかし、還暦を迎え、今日この後か、30年後かはわかりませんが、やがて人生を終える身としては、このままで良いのか、いや、霊の結ぶ実のような生き方に近づきたい、と思います。目標というより憧れです。

自分の中で、肉の業、肉の想い、利己心が強まるとき、なんとか、霊の実の業、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和を想い起し、それに従いたい、それに委ねたいと思います。

 自分の心の中の汚れたもの、自分の心の中の肉の業に、わたしは気づきたいと思います。それらがあることを認めたいと思います。そして、つぎは、霊に委ねたい、神の愛、神の愛の力に委ねたいと思います。

創世記には、人は神に似せて創られた、神にかたどって創られた、とあります。そうであれば、わたしたちの心の中には、邪まなものだけでなく、霊の結ぶ実、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、抑制心もあるのではないでしょうか。

ふたたびパウロを引きますと、ローマの信徒への手紙にはこうあります。8:5肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

肉ではなく霊に従って歩みたい、神に従って歩みたいと思います。肉ではなく霊に属したい、神に属したいと思います。

WWJDという言葉を聞いたことがあります。これは、What Would Jesus Do? の省略です。「イエスだったらどうするだろうか」、ということです。わたしたちの中で、心の中の汚れた思い、肉の業が強いとき、ひといきついて、イエスだったらどうするだろうか、と、想いをイエスに向けることができたら、人生はよりゆたかなものになるのではないでしょうか。

祈り:神さま、あなたは、わたしたちの中に、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、抑制といった果実を結ぼうとしてくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、あなたのこのお心に従って歩ませてください。神さま、自分にではなく、あなたに属させてください。神さま、人の邪な思いが、いろいろな姿をとり、ときには、権力者の暴力となり、ときには、市民の無慈悲となり、人びとを傷つけています。平和、善意、誠実、正義、愛というあなたのお心がそれに勝りますように。わたしたちをあなたの平和の器にしてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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2021年10月24日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書4:24)

 ここでは、神は霊である、と言われています。そうすると、神を礼拝する者がもつように言われている「霊」は、神自身のことなのでしょうか。それとも、わたしたち人間がもつ精神的な何かのことなのでしょうか。
 この聖書の言葉をこのように言い換えてみるとどうでしょうか。「神は目に見えない大切な存在である。だから、わたしたちも、目に見えない大切なものをもって、神を礼拝するのだ」
 では、わたしたちは、目に見えない大切なものをもっているでしょうか。わたしたち自身ではそのようなものを持てないようにも思えますが、目に見えない大切な存在である神が、その目に見えない大切さをわたしたちにわかちあたえてくださるのなら、わたしたちの中にもそれがありうるのではないでしょうか。
 「聖霊」という言葉は神の霊について使われます。あるいは、神自身が聖霊であるとも言われます。そうすると、わたしたちの中にある霊は、この聖霊がわたしたちにわかちあたえてくれたものであると考えることもできるでしょう。
 神経、精神といった熟語が示すように、漢字の「神」には「心」という意味もあります。神は目に見えない大切なものであり、心も目に見えない大切なものです。
 わたしたちの心の愛が神の愛に基づくように、わたしたちの心の良質な部分も神に由来するものであるかもしれません。人間には憎しみや自己中心もありますが、信仰、希望、愛のような美しいものもあります。これら目に見えない大切なものは、やはり、目に見えない大切な神からいただいたものではないでしょうか。

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神を予感する [礼拝説教(使信)動画]

2021年10月17日 「神を予感する」

https://youtu.be/l7lWbdl-vtk
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2021年10月17日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「目を覚ましていなさい」(マタイ25:13)

わたしたちは神に対して目を覚ましているでしょうか。ここに神がいることに、働いていることに気づいているでしょうか。
 わたしたちが神を知るのは、不思議なこと、奇跡的なことを通してばかりではありません。旧約聖書を開けば、聖書を記した人たち、その人たちが遺してくれた言葉、そして、預言者たちが、わたしたちを神に気づかせようとしてくれます。新約聖書では、イエス、パウロ、福音書記者たちが、わたしたちの目を神に向けようとしてくれます。
 あるいは、神が創造した世界も、また、神を予感させてくれます。大空、青空、雲、朝夕の陽光、山、森、木々、花、果実、土、風もそうです。イエスは空の鳥と野の花を通して、神がいのちに働きかけていることを教えてくれました。 
音楽や絵画も、芸術家が神を感じたことをわたしたちに伝え、わたしたちも芸術家とともに神を感じます。 人との交わり、人の温かさ、人の愛も、わたしたちに神の愛を予感させます。
 しかし、もしわたしたちが目を覚ましていなかったら、これらの中に、神を見過ごしてしまうかもしれません。
 イエスが十字架で息を引き取ったのを見て、ローマ兵の隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んだ者の中に、「神の子」、神に生かされたいのち、神のいのちの働きを見いだすなどということは、眠っていてはできないでしょう。
 神はここに生きておられます。そのことに、いつも目を覚ましていたいと思います。

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神を予感する [使信]

2021年10月17日 マタイ25:1-13 「神を予感する」

おはようございます。今日の聖書にわたしはこんなメッセージを感じました。あなたはこの世界で神に気づいていますか。あなたはこの世界のさまざまなことの中に神を予感していますか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。おとめたちが花婿の到着を待っています。しかし、皆眠気がさして眠り込んでしまいます。わたしたちは大丈夫でしょうか。わたしたちは起きているでしょうか。学校で授業をしていますと、授業中に寝る生徒がいます。とくに、水泳の授業の次の授業や、昼ご飯を食べた後の五時間目、六時間目の授業ではよく寝ます。

おとめたちが眠り込んでいるうちに花婿が到着します。「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がします。わたしたちには、この声が聞こえているでしょうか。「神さまが来られました。お迎えしましょう」「神さまがここにおられます。神さまに気づきましょう」という声が聞こえているでしょうか。音にならないこの声が聞こえているでしょうか。

おとめたちは目を覚ましますが、そのうち、半分は、ともし火の油を切らしていました。油の用意をしていなかったということは、あかりの用意をしっかりしていなかったということであり、神が来たこと、神がここにいることに気づく用意がないということではないでしょうか。

わたしたちは、神をわたしたちの心に受け入れる用意があるでしょうか。自分のことばかり考えていないでしょうか。目の前の人に気づき、目の前の人の声を聞く用意があるでしょうか。神のメッセージを受け入れる用意があるでしょうか。

このおとめのたとえ話の言葉を用いて言うならば、わたしたちは、神に対して、ひとつは、寝ないでいる必要があり、それから、神の到着をお迎えする必要があり、そして、ともし火の油を切らさないようにする必要があります。

そして、これをひとことにまとめるならば、13節の言葉のようになるでしょう。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。

「目を覚ましていなさい」 この言葉は、たとえば、小学校の放課後の掃除で、当番の生徒たちは、いつ先生が見に来るかびくびくしながら、いつ先生が来ても良いように、まじめに掃除をする、といったニュアンスにとらえられることもあるでしょう。いつ神さまが来てもよいように、いつもよいことをしていなさい、と。

しかし、意味をもう少し広げて、この「目を覚ましていなさい」という言葉を、今日は、神に気づきなさい、神を予感しなさい、という意味で考えてみたいと思います。

キリスト教会が、まぶね教会が、ここで伝えるべきことは何でしょうか。わたしたち人間が知っておくべきことは何でしょうか。

旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書物があります。以前は「伝道の書」と呼ばれていました。そこにこういう言葉があります。12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

ここでは、高齢期を「苦しみの日々」と言っているようです。高齢になると「年を重ねることに喜びはない」などと言うようになると。けれども、そんなことはないのではないでしょうか。わたしがもっとも尊敬する牧師先生・・・もう93歳でいらっしゃいますが、この先生が七十代のころ、わたしの前任地でお話をしていただいたことがありますが、そのとき先生は、「ご高齢の皆さん、人生はこれからですよ。いよいよ神さまの国に入ろうとしているのですから」とおっしゃっておられました。たしかに、これからだと思います。これからが人生のもっとも大事な時期に入ります。

 さて、青春の日々でも前期高齢の日々でも後期高齢の日々でもよいのですが、おまえの創造主に心を留める、わたしたちの創造主に心を留める、わたしたちと世界を創造してくださったお方に心を留めることは、ひじょうに大切でありましょう。

創造主、わたしたちにいのちをくれたお方、わたしたちが生きるこの世界を創造してくださったお方、今わたしたちを生かしてくださるお方、インマヌエルのお方、アガペーのお方に心を留める、このお方に対して目を覚ましている、世界のさまざまなことの中に、このお方を予感することこそ、まぶね教会が伝えるべきことであり、わたしたちが知るべきこと、心に刻み込むべきことではないでしょうか。

創造主を知ると、神を知るとどうなるのでしょうか。人生の土台ができます。喜びにしろ悲しみにしろ人生のあじわいがゆたかになります。ちっぽけな自分の気分だけにとらわれず、大きな視点を持てます。こころの表面の嵐はあいかわらず繰り返されるかも知れませんが、こころの海の深いところには、自分でも気づかないほど静かな凪が起こります。

わたしたちはどうやって創造主を知るのでしょうか。それは、旧約聖書であり新約聖書であり、そこに書かれているイスラエルの民の歩み、神との歩みであり、イエスであり、パウロであり、聖書をわたしたちに残してくれた多くの人びとの信仰を通してでありましょう。

あるいは、大きな空、青い空、大きな雲、白い雲、緑の山、木々のそびえたつ森、色とりどりの花、黒くあたたかい土、枝を揺らす風、きらめく星、太陽の熱、日の光、月の光など、神が創造した自然、被造物を通して、わたしたちは、創造主を知るでしょう。予感するでしょう。

あるいは、音楽を通して、わたしたちは神を感じるでしょう。バッハは、たましいのエバンジェリスト、つまり、たましいで福音を伝える者と呼ばれています。あるいは、絵画を通して、わたしたちは神の何かを感じるでしょう。そこのロビーにも、有名な画家が聖書を題材に書いた画集がおいてあります。

あるいは、わたしたちは、人のぬくもり、あたたかな人の愛を通して、神を感じます。たんに気が合うのではなくて、たましいの片鱗にほんの少し触れあうようなとき、わたしたちは神を予感します。

あるいは、人の死を通して、わたしたちは神を感じます。人の死は、じつは、人のいのちでもあるからです。そして、人のいのちは、神の働きだからです。

イエスが十字架で息を引き取ったとき、ローマ兵は、「この人は神の子だった」と言いました。ローマ兵は、十字架で死んでいったイエスの中に、神を予感したのです。この人は死んでしまったが、この人が生きて、精いっぱい生きて死んでいく、その小さな弱い姿の中に、ローマ兵は、神のいのちの輝きを見たのです。このいのちに、弱い中に、小さい中に働く神のいのちに、彼は目を覚ましていたのです。

良いことがなければ、神など感じられないように、わたしたちは思ってしまいます。しかし、自分にとって良いことがない時でも、世界には美しいことはあります。わたしたちは美しいことに神を予感します。新緑にも神を感じますが、落ち葉にも神を感じます。神を感じ続けることができるように、わたしたちは、神の創造したこの世界の森羅万象において、目を覚ましていようではありませんか。

祈り:神さま、あなたはわたしたちにいのちを与え、そのいのちに世界という場所を備えてくださいました。心より感謝いたします。神さま、わたしたちが自分のいのちに、友のいのちに、小さないのちに、そして、世界の出来事に、あなたを見いだすことができますように、わたしたちの目を覚まさせてください。神さま、あなたがいない、あなたがともにいない、と苦しんでいる友がいます。神さま、どうぞ、あなたがその友とともにいらしてください。そのしるしを友にお示しください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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2021-10-10 [聖書を身近な経験に5分動画]

2021年10月10日 「神のものは神に」

https://youtu.be/jCrijWr5RQQ
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2021年10月10日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)
 
わたしたちが今持っているもの中には、自分の力で手に入れたものもありますが、そうでないものもあります。わたしたちが生きている世界、そして、わたしたちの命、わたしたち自身は、努力や代価と交換したものではなく、無償で与えられたものです。
 わたしたちは、この世界に生まれてくるとき、お金を払って命を買ったわけではありませんし、わたしたちが生きる世界の空間に賃料を払っているわけではありません。
 命も世界も、神がわたしたちに無条件であたえてくださったものです。わたしたちの人生もそうですし、わたしたち自身もそうかもしれません。
「神のものは神に返す」とはどういうことでしょうか。神のものとは、神からいただいたものです。わたしたちの命と世界は、自分のものではなく、神のものである、と知る。神のものを神に返すことは、まず、ここから始まるのではないでしょうか。
 けれども、始まりには続きがあります。わたしたちは、やがて地上の旅を終えます。その時は、わたしたちは、わたしたちの人生と命、そして、わたしたちが生活したこの空間を神にお返ししなければなりません。
 死は滅亡ではなく、返却なのではないでしょうか。神のものを神にお返しする日まで、わたしたちは神からいただいたものを大切にし続け、その時が来たら、感謝しつつお返しするのです。

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神のものは神に [使信]

2021年10月10日 マタイ22:15-22 「神のものは神に」

おはようございます。神の愛は無償の愛、無条件の愛である、と聖書は言いますが、それは、具体的にはどういうところにあらわれているでしょうか。ひとつは、わたしたちはこの世界に生まれてくるときに、いのちを買ったわけでもなく、何かと交換したわけでもなく、生まれてくる前に何か善いことをしたそのご褒美に、いのちをいただいたわけでもありません。いのちは、神から無償でいただいたのです。いのちは、神から無条件にいただいたものです。

そして、もうひとつは、わたしたちは、今も生きていますが、それは、わたしたちが生き続けるのにふさわしい何かをしたからでもありません。わたしたちは、今、無償で、無条件でいかされています。今日のいのちもまた、神から無条件にいただいているのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書22章15節です。22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

ファリサイ派やその弟子たち、あるいは、ヘロデ派と呼ばれる人たちは、イエスのことをよく思っていなかったようです。イエスの話が人びとの心をひきつけていたからでしょうか。あるいは、イエスが、彼ら支配者、権力者の悪を見抜いていたからでしょうか。

彼らは、イエスの言葉じりをとらえ、罠にかけようとします。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」つまり、「わたしたちユダヤ人はわたしたちを支配しているローマ皇帝に税金を納めるべきか、どうか」と迫っているのです。

もしイエスが、わたしたちユダヤ人はローマ皇帝に税金を納めるべきだ、と答えれば、イエスはユダヤ人同胞を裏切り、敵であるローマ皇帝の側についた、ということになります。はんたいにイエスが、ユダヤ人はローマ皇帝に税金を納めるべきではない、と答えれば、イエスはローマ皇帝に逆らった、謀反を起こした、ということになります。つまり、どちらの答えを出したとしても、イエスは窮地に陥ることになる、そのような罠がしくまれた問いを、ファリサイ派やヘロデ派の人びとはイエスにつきつけたのです。

彼らはさらにこう言います。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」。

彼らは、イエスのことを、先生とも思わず、真実な方とも思わず、真理に基づいているとも思っていないのに、口ではそう言います。そして、イエスのことを、「だれをもはばからない方」と言います。

「はばかる」とはどういう意味でしょうか。国語辞典で調べてみたら、ひとつは、「幅をきかす」「いっぱいに広がる」という意味がありました。憎まれっ子、世にはばかる、のはばかるですね。いや、どなたのことでもありません。

「はばかる」のもう一つの意味は「遠慮する」ということです。つまり、ここで、ファリサイ派の人たちが、「あなたはだれをもはばからない」とイエスに言っているのは、イエスはローマ皇帝にも遠慮しないだろう、という含みをもたせているのかもしれません。

このような悪意ある質問に対して、イエスは、ユーモア、しかも、深い意味を込めたユーモアで答えたように思えます。

18節です。22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。するとイエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

税金を納める銀貨には、ローマ皇帝の顔が書かれていました。イエスは、それなら、その銀貨はローマ皇帝のものだろうから、ローマ皇帝に返しておけばよいだろう、と言うのです。三年後に、一万円札には、渋沢栄一さんの顔が印刷されるそうです。イエス流に言えば、渋沢さんの顔が印刷されているのなら、渋沢さんに返しておきなさい、ということになるでしょうか。

なんだかイエスの笑顔が想像されます。しかし、一万円はもったいないですし、渋沢さんはお金持ちでしょうから、返さなくても大丈夫でしょう。どっちにするのか問い詰められて、どちらも選べない場合は、イエスのように、どちらでもない第三の道を考えるのもよいと思います。

けれども、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というユーモアのあるイエスの言葉には、もっと深い意味も考えられます。

この言葉から、政教分離の原則を思い浮かべる場合もあるかもしれませんが、政教分離とは、信仰を持つ者は政治的なことがらに関わってはならない、ということではなく、国家は政治に宗教を利用してはならない、ということです。信仰を持つ者は、戦争反対、差別反対と発言すべきときは発言すべきですが、国家は特定宗教を利用して人びとを治めようとしてはならないのです。

 けれども、イエスがここで言おうとしていることは、こういうことではないでしょうか。まず、「皇帝のものは皇帝に」とは、わたしたちが規模は小さくても皇帝のように権力欲や誰かを支配したいという欲望、過度の物欲、過度の私欲を持つならば、そんなものは、皇帝に返してしまえ、ということではないかと思いました。

そして、「神のものは神に」とは、神に委ねるべきものは神に委ねる、神に返すべきものは神に返す、ということではないでしょうか。神からいただいたいのち、富、能力、愛を、これは自分のものだとにぎりしめることなく、神に返すことではないでしょうか。あるいは、信仰、信仰の心、信仰心もまた、神にいただいたものですから、神に向けるべきではないでしょうか。

わたしたちのこの世の命、人生は、神にいただいたものです。死とは、それを神にお返しすることではないでしょうか。この世の命、生命がなくなることは怖い、人生を終えることは怖いように思えますが、それは、神にいただいたもの、神のものなのですから、その時が来たなら、神にお返しをするのです。

その日まで、わたしたちはどのように生きたらよいのでしょうか。それは、わかちあって生きることだと思います。時間、力、能力、人生、いのち、わたしたちが持っているものは、神からいただいたものであり、ほんらい自分一人で独占するものではありません。むしろ、隣人とわかちあうべきものです。そして、隣人とわかちあうことを通して、わたしたちは、神にお返ししているのではないでしょうか。

 わたしたちは、今持っているものを惜しみますが、それを隣人とわかちあっていき、その日が来たなら、神にお返ししたい、そういう信仰の日々を歩みたいと思います。

旧約聖書のヨブ記でヨブはこう言っています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

 裸で母の胎を出て来たはずのわたしたちが、今、何かしらのものを持っています。それは、自分で獲得したように見えて、結局は、神が与えてくれたもの、神にいただいたものではないでしょうか。それならば、それを隣人とわかちあい、さいごは神にお返ししたいと思います。主は奪う、とありますが、わたしたちは主に奪われるというよりは、主にお返ししたいと思います。主がすべてを与えてくださいました。わたしたちはそれを握りしめず、主にお返しいたしましょう。

祈り:神さま、わたしたちはそれに値することを何もしていないにもかかわらず、あなたは、わたしたちにいのちを与えてくださいました。そして、わたしたちは何もしていないにもかかわらず、あなたは、今日わたしたちを生かしてくださいます。わたしたちが持っているものは、思い直してみれば、すべてあなたからいただいたものです。その恵みに心から感謝申し上げます。わたしたちは、その日が来たら、あなたにお返しすることができますように、お導きください。神さま、持たざる友がいます。どうぞ、わたしたちが持てるものを友とわかちあうことができますように。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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