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神は不公平か [使信]

2021年9月26日 マタイ20:1-16 「神は不公平か」

おはようございます。今日の聖書の個所は、「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始まっています。ここ数週間と同じように、今週の聖書の個所も「天の国」とはどういうものか、言い変えますと、神がわたしたちをどのように愛してくださるのか、がテーマになっています。

マタイによる福音書20章1節です。20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

一デナリオンとは、一日を生きていくのに必要なお金、と考えることができるでしょう。

3節です。20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

「何もしないで広場に立っている人々」とありますが、この人々は「何もしなかった」というよりは、今日仕事にありつけなければ、あしたはどうやって生きていこう」と悩んでいたのではないでしょうか。

「ふさわしい賃金」とありますが、これは、あした一日を生きていくのに必要な賃金、という意味ではないでしょうか。

5節です。20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

ぶどう園の主は、その後、十二時と午後三時、さらに、もうじき仕事も終わりになる午後五時にも、人びとを雇いに出向きます。

主人は人びとに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねます。わたしたちの感覚では、この人びとは一日仕事もしないでぶらぶらしていた、ということになってしまうのではないでしょうか。

しかし、そうではありません。この人びとは「だれも雇ってくれないのです」と答えます。怠け者ではないのです。あしたを生きるために仕事をしたいのですが、仕事をしなくてはならないのですが、誰も雇ってくれないのです。

わたしの友人には、日本キリスト教団の牧師でありながら、どこの教会からも招聘がなく、牧師以外の仕事をして、なんとか生き抜いている人びとがいます。もう何年もそういう状態にある人びとがいます。わたしも似たような経験があります。

牧師という仕事だけでなく、わたしたちの生きている社会には、仕事がない、雇用されない、解雇されたという人びとがたくさんいます。

雇用主にしてみれば、会社をつぶさないためには、従業員を減らさざるを得ない、ということがあるでしょう。そうなってしまう前に、売り上げ増加や金策のために、必死の努力をする雇用主は少なくないことでしょう。

けれども、解雇される側にしてみれば、それは死ぬようなものです。自分と家族の生活費のあてがなくなるのですから。また、雇用されない自分には、値打ちがない、生きている価値がないという思いに追い込まれてしまいますから。

しかし、イエスのこのたとえ話では、雇用主は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言います。わたしたち人間の生活には残念ながら、解雇や失業、不採用があります。ほんとうに残念で、苦しいことです。

けれども、神はわたしたちを解雇しないのです。神はわたしたちを不採用にしないのです。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」というこの言葉はこれを意味しているのではないでしょうか。

人はわたしたちを雇ってくれないことがありますが、神はわたしたちをかならず雇ってくださいます。人はわたしたちを斥けることがありますが、神はわたしたちを受け入れてくださいます。行き場がなく、明日が不安なわたしたちを、神は雇ってくださるのです。

8節です。20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

ぶどう園の主は、すなわち、神は、最後に雇われた者から賃金を払います。ふつうなら、最初に雇われた者から払うべきだと思われますが、神は、一番の者ではなく、一番最後の者から、いのちの糧をわたすのです。

わたしたちの世の中は、100匹のうちの斥けられなかった99匹、そして、一番の者を大事にしますが、天の国、神の愛においては、100匹のうちの斥けられた1匹、失業した一人、一番最後の者を大事にするのです。

10節です。20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

この主人のやり方に、人びとは不平を言った、とあります。イエスのこのたとえ話を生徒たちにすると、不公平だと感じる人が多いようです。神の愛とはこのようなものだと説明すると、神の愛は不公平だと感じる人が多いようです。

生徒たちだけでなく、社会福祉制度は不公平だ、と感じる人が今の社会には大勢いるようです。たしかに、最後に雇われて短時間しか働かなかった人が100デナリオンもらい、最初に雇われて長時間働いた人が1デナリオンなら不公平でしょう。あるいは、田畑を耕すことのない不在地主が100デナリオンもうけ、小作農が1デナリオンなら不公平でしょう。

しかし、このたとえ話で一番大切なことは、誰がいくらもらうか、ではなく、神が、すべての人に、生きるために必要なものをあたえようとしている、ということではないでしょうか。生きるために必要なものは、すべての人に、無償で、無条件で、労働時間、なした仕事に関係なく、わかちあわれなければなりません。

13節です。20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

自分のものを自分のしたいようにする、とあります。神はご自分の愛を、すべての人にわかちあいたいのです。わたしの気前の良さ、とあります。神の愛は無償です。神は代価を求めないのです。

けれども、現実はどうでしょうか。神はすべての人に無償で愛を注いでいるのに、わたしたちの社会には、失業があり、解雇があり、貧富の格差があり、差別があります。

しかし、これは、神の課題ではなく、わたしたちの課題でありましょう。わたしたちは、神に無償で愛されているのだから、それに少しでも近い社会制度、人間関係を築いていこうとしなければならないのではないでしょうか。わたしたちは、すべての人が、明日も生きていくことのできる世界を求めなければならないのではないでしょうか。

これは、困難な課題です。けれども、この課題実行には、神の愛という土台があります。わたしは、これまでの人生において、自分が100匹の中の1匹であるとか、一番最初ではなく一番ビリの者だと痛感することが何度かありました。今もそうです。

だからこそ、一番最後のわたしに明日を生きる一デナリオンをくださる神に救われます。皆さんもきっとそうなのではないでしょうか。この救いを、自分の生き方、教会のあり方の土台にしたいと思います。

祈り:神さま、あなたはわたしたちにいのちを与え、わたしたちの人生の旅を一緒に歩いてくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、わたしたちは、ときに、自分がこの世界で一番顧みられない者であるように思い、苦しみますが、あなたは、そのまなざしをいつでもわたしたちに向けていてくださいます。まことにありがとうございます。神さま、居場所のない友、行く当てのない友、仕事のない友、明日の生活の保障のない友、心の支えのない友がいます。友の居場所を、友の行く当てを、仕事を、生活の保障を、心の支えを、あなたの無償の愛に基づいて、ともに築きだすことができますように。イエス、わがキリストによって祈ります。

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