SSブログ

神だけにできること [使信]

2021年9月19日 マタイ19:13-26 「神だけにできること」

おはようございます。先日、家族が財布をスーパーに置き忘れてしまいました。現金もカードも戻ってこない、クレジットカード、銀行カード、健康保険証などは再発行の手続きをとらなければならない、めんどうなことになったなあ、と思っていたら、二三日後、知らない人から郵便が来て、開けてみたら、そこには、忘れた財布がそのまま入っていました。

拾われた財布は、たいていは現金だけ抜き取られて、あとは捨てられる、失くした財布が戻ってくることはないと言われているのですが、今回、拾った人は、現金を盗まず、すぐに返してくれたのです。今日の聖書によると、金持ちは天の国に入ることが難しいようですが、この人は、お金を盗んで金持ちになる道を選ばなかったようです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。人びとがイエスのところに子どもたちを連れてきます。弟子たちはそれを追い返そうとしました。しかし、イエスは子どもたちを受け入れました。

弟子たちはなぜ子どもたちを斥けたのでしょうか。それは、子どもたちは働くことができないし、神のことなど何も知らないから、イエスの語る天の国に入る資格がないと考えたのではないでしょうか。

イエスはなぜ子どもたちと受け入れたのでしょうか。イエスは、神はすべての人を受け入れると信じていたからではないでしょうか。

天の国とは死んだ後に限らず、神の愛が治めている国、つまり、この世界のことでありましょう。イエスが子どもたちに手を置いて祈るということは、子どもたちが神の愛を受けていることのしるしでありましょう。子どもたち同様に、社会の中で価値がないとされる人びとは、じつは、神の愛を受けている、神のやさしいまなざしを受けているとイエスは信じているのではないでしょうか。

皆さんは人から「教会に行くなんて、えらいですね。わたしは、とても行けません。わたしは教会に行くほど立派ではありません」などと言われて、答えに詰まったことはないでしょうか。

皆さん、ご承知のように、わたしたちは立派だから教会に来ることが許されているのではありません。皆さんが立派でないという意味ではありません。神がすべての人を無条件で受け入れてくださるから、教会も、それを基本姿勢とするのです。

16節です。19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

「永遠の命を得る」とは「天の国に入る」と同じことであり、神の愛を受ける、神の愛のまなざしを受けることでありましょう。

この男の人は尋ねます。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。どんな善いこと、つまり、この男の人は、自分は何か善いことができる、善いことをしているという前提で、イエスに語りかけているのではないでしょうか。

イエスは答えます。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」。つまり、イエスは、「あなたはどうして、善いことができるという前提で話すのか、善いことができる方、善い方は神ひとりではないか」と、この男の人に問いかけているのではないでしょうか。

そして、さらに、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と付け加えていますが、これは、あなたは掟を本当に守れるのか、あなたは本当に徹底して善いことをなすことができるのか、と問いかけているのではないでしょうか。

18節です。19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」これらはモーセの十戒ですね。「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記に出てくる言葉の一部で、神がモーセを通してイスラエルの民に語ったとされるものです。

 イエスに問いかけられた男の人は、「みな守ってきました」と答えます。イエスはさらに問いかけます。21節です。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

「持ち物を売り払いなさい」とはどういうことでしょうか。わたしたちは持ち物に頼ってしまいます。自分の持っているもので自分を支えようとします。それは、わかちあいを妨げ、さらには独占や強奪にもつながりかねません。わたしたちには不安がつねにあり、何かにすがりたくなりますが、ほんとうは、自分の持ち物に頼らず、神に委ねるべきではないでしょうか。

「貧しい人々に施す」とはどういうことでしょうか。「施す」というとお金持ちが貧しい人を助けてやるというような感じがしますが、神の御心、神のお心は、「わかちあう」ということではないでしょうか。神のお心は、誰かが多く所有したり、誰かが欠乏したりすることなく、皆でわかちあうことではないでしょうか。

「わたしに従いなさい」とあります。イエスに従うとは、イエスとともに「神のお心」に従おうとすることではないでしょうか。イエスとともに、神にはわたしたち自身を委ね、隣人からは奪わず、むしろ、わかちあうことではないでしょうか。

 22節です。19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

青年はイエスに従うことができず、悲しみながら立ち去りました。金持ちが天の国に入るのは難しい、とイエスは言います。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは、持ち物を売り払えますか。持ち物ではなく、神のみを支えとすることができますか。わたしたちは、隣人とわかちあうことができますか。

金持ちの青年と同様に、わたしたちにもそれは難しいことです。しかし、わたしたちは、「できる範囲で」そうしようと考えるかもしれません。「できる範囲で」とは便利な言葉です。聖書は「できる範囲で」などと言っているでしょうか。

しかし、わたしたち人間が自分の力で神に愛されよう、救われようとするのなら、「できる範囲で」するしかないのです。しかし、「できる範囲で」しか神に委ねられない、「できる範囲で」しか隣人とわかちあえないわたしたちは、神に愛されることができるのでしょうか。

イエスは言います。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」

わたしたちは、できる範囲で、と言いますが、神は、できる範囲ではなく、神のすべての愛を、神の愛のまなざしを、わたしたちすべての者に注いでくださいます。

神は、天の国に入る資格などないと見なされていた子どもたちを受け入れます。神は、自分の持ち物を手放せず、神に委ね切れない、そして、隣人とわかちあえないわたしたちを、神は受け入れてくださいます。

 わたしたちは、自分の力や自分の資格で、神に受け入れられることはできませんが、神は御自分の力で、ご自分の愛で、わたしたちを受け入れてくださるのです。

だから、わたしたちはこの神に委ねようではありませんか。できる範囲でゆだねようではありませんか。わたしたちは隣人とわかちあおうではありませんか。できる範囲でわかちあおうではありませんか。わたしたちには限りがありますが、わたしたちに注がれる神の愛には限りはないのです。

祈り:神さま、あなたは、わたしたちを受け入れ、支え、包み込んでくださいます。神さま、あなたは、あなたのいのちとあなたの世界をわたしたちにわかちあってくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、わたしたちも、自分や自分の持ち物ではなく、あなたを支えとして歩むことができますように。わたしたちは、食べ物や生活に必要なものや時間や空間や言葉をじぶんだけのものとせず、隣人とわかちあうことができますように。わかちあうことで隣人となることができますように。救いのない人びとを、救いのないわたしたちを、どうぞ、救ってください。イエス、わがキリストによって祈ります。アーメン

nice!(0) 

nice! 0