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共感する [使信]

2021年9月12日 マタイ18:21-35 「共感する」

おはようございます。今日の聖書の個所の結論、ポイントは、33節の「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」という言葉だと思いました。つまり、神がわたしを憐れんでくださっているように、わたしたちも他の人を憐れむべきだということです。

そして、今日の話も、ここ何週間の聖書の個所と同じように、「天の国」のたとえですから、天の国、神の国、つまり、神の愛が治めているこの世界は、神がわたしたちを憐れんでくださっているように、わたしたちも他の人を憐れむような世界であるべきだ、ということではないでしょうか。

ところで、憐れむとはどういう意味でしょうか。27節に「その家来の主君は憐れに思って」とありますが、この憐れむという動詞の本来の意味は、相手が苦しんでいるのを見て自分のお腹が痛くなる、というような意味です。つまり、目の前の苦しんでいる人と一緒に自分の内臓を痛める、という意味です。

共感するという日本語は、相手と感情、心を共有するという意味であり、同情するという言葉も、相手と感情、心を同じくするという意味ですが、今日の聖書に出てくる「憐れむ」という言葉は、相手の苦しい心、相手の悲しみ、相手の痛みを自分の痛みとする、ということでありましょう。

神はわたしたちと心をともにしてくださいます。神はわたしたちと心を同じくしてくださいます。神はわたしたちの痛みをご自分の痛みとしてくださいます。だから、わたしたちも隣人の痛みを自分の痛みとすることができるようになりたいと思います。

しかし、これは、相当に難しいことです。わたしたちは人の心を自分の心にすることができるでしょうか。わたしたちは自分の痛みより人の痛みをより深く想像することができるでしょうか。これは、本当に難しいことです。

NHKの朝のドラマ「モネ」が終盤にさしかかっていますが、主人公のモネという若い女性と菅波先生という若い医者が結ばれるかどうか、気になるところです。あるとき、菅波先生がモネにこう言っていました。「あなたの痛みはぼくにはわかりません。でもわかりたいと思います」。

「わかりません」というのは、開き直っているのではなく、正直かつ謙虚だと思います。人の痛みをわかりたい、いや、自分の痛みだけ気になって人の痛みに関心がないわたしたちが、人の痛みに対して何かできることがあるとすれば、それは、その人の痛みはわからないということがわかることであり、それくらいにその人の痛みをその人の痛みとして尊重することであり、それでもわかりたいと祈り続けることでありましょう。

21節です。18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。

「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」とありますが、これは、兄弟に限らず他人がわたしに害を加えたなら、という意味でしょう。

わたしたちは自分を傷つけた人を赦すことができるでしょうか。その人が非を認め、わたしたちの言い分をわかってくれ、反省し、謝罪してくれたら、それが誠実であるなら、わたしたちは、それでも赦せない、とはならず、ああよかった、もうこれ以上は何も望まない、となるのではないでしょうか。

問題は、そうしてくれない相手です。わたしたちを傷つけ、その非を認めず、わたしたちの言い分をわかろうとせず、反省も謝罪もしない相手を赦せるかということです。言い換えれば、そのようにわたしたちを二重、三重に傷つけ続ける相手にわたしたちが傷つかないでいられるかということです。

傷つきます。傷つき続けます。けれども、わたしたちは相手に同じことをやり返さないことは、神の支えと祈りによって可能になるかもしれません。

さて、ペトロは、人を七回まで赦したらよいでしょうか、とイエスに尋ねました。仏の顔も三度までというのに、俺様は七度も赦してやる、とペトロは得意げだったのかもしれません。けれども、イエスはペトロの奢りをたしなめます。

22節です。18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

七回どころか七の七十倍まで赦す、とはどういう意味でしょうか。490回まで赦すということでしょうか。そうではなく、何度でも赦しなさい、ということでしょう。一度や二度赦したといって得意になってはならない、七たび赦したといって自慢してはならない、ということでしょう。

23節です。18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

一万タラントンは、このたとえ話では、全財産を売り払い、さらに、自分と家族を奴隷として売り払って得られるお金に相当するようです。わたしなど、そうしても千円にもなりそうもないですが、このたとえ話では、何億円に匹敵するようです。

ところが、このたとえ話では、主君は家来を憐れに思って、この借金を帳消しにします。これは、どういうことでしょうか。これは、神は神に対するわたしたちの借金を帳消しにしてくださる、ということではないでしょうか。言い換えれば、神はわたしたちに請求書を送ってこないということです。

わたしたちは神からいのちをいただいています。このいのちはいくらでしょうか。神はわたしたちにいのちの代金を求めているでしょうか。わたしたちが今生きているこの体、身体、この心、この精神は、神から無償でいただいているものです。

わたしたちが吸う空気、わたしたちが生きる場所、空間、この地球、水、わたしたちの生きる世界の仲間である動物植物、わたしたちのまわりの人、わたしたちが楽しむ文化、毎日使う言語。これらはすべて神が無償でわたしたちのまわりに備えてくださったものです。神からこれだけのものを用意していただいていながら、わたしたちはそれに気づかず、それを忘れてしまいます。わたしたちの心は神から離れてしまいます。

28節です。18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

 百デナリオンはさきほどの一万タラントンの何万分の一の金額です。つまり、この家来は、自分は五万円の借金を免除していただいたのに、人からは一円の借金を取り立てようとしているのです。

 わたしたちも、神からわたしたちのすべてをいただいており、その支払いを免除されているのに、人からは取り立てようとしてないでしょうか。

 わたしたちは、人からは、ごめんなさいとか、すみませんとか、ありがとうとか、わたしが悪かったですとか、あなたの方が正しいですとか、そういう言葉さえ取り立てようとしているのではないでしょうか。けれども、それは、わたしたちが神からいただいている大きな恵みの前では、ごくごく小さなものではないでしょうか。

 わたしたちは、何億円、いや、わたしたちの持っているものすべて、わたしたちの家族や友人やまわりの人すべて、そのような恵みを神からいただいているのです。そして、その恵みの中心には、神の共感があります。

 旧約聖書の出エジプト記にはこのようにあります。3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

 わたしたちの主、神は、わたしたちの苦しみをつぶさに見てくださり、わたしたちの叫び声を聞いてくださり、わたしたちの痛みを知ってくださるのです。神はわたしたちに共感してくださいます。共感こそが神からの最大の恵みではないでしょうか。その恵み、その共感を、わたしたちも他の人と少しでもわかちあうことができるようにしてくださいと祈りましょう。

 祈り:神さま、あなたは、わたしたちにいのちと世界と友を用意してくださいました。神さま、あなたは、また、わたしたちの痛みをあなたの痛みとしてくださいます。しかし、神さま、あなたは、その取り立てをなさいません。心より感謝申し上げます。神さま、苦しんでいる人、叫んでいる人、痛んでいる人がいます。わたしたちもそれを見、聞き、知ることで、その人の友となることができますように。友の苦しみを和らげ、叫びを歌に変え、痛みを平安に変えてください。イエス、わがキリストによって祈ります。

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