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2024年3月24日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:30)
 イエス・キリストは十字架でどのように苦しまれたのでしょうか。ヨハネ福音書によりますと、人びとはイエスを前にして「殺せ、殺せ、十字架につけろ」(19:16)と叫びます。
 イエスは十字架を背負わされ、「されこうべの場所」(ゴルゴタ)まで歩かされます。そこで、人びとはイエスを十字架につけます。左右には犯罪人の十字架が並んでいます。
 十字架の頭部には「ユダヤ人の王」と記されました。けれども、これは敬意ではなく、罪状です。ユダヤ人の王を僭称したという嘲笑の意もあるかもしれません。
 兵士たちはイエスの服をわけあいます。イエスは「渇く」と言います。これは詩編22編に重なります。「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:18-19)。「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(詩編22:15-16)。
 服の分割とイエスのかわきは、イエスの心身が引き裂かれ、打ち砕かれることを意味しているのではないでしょうか。
 そして、イエスは息を引き取ります。イエス・キリストの苦しみの前でわたしたちは何を思うのでしょうか。わたしたちは無実なのでしょうか。
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イエスの受難 [使信]

2024年3月24日 ヨハネ19:13-30 「イエスの受難」

おはようございます。イエス・キリストはわたしたちにとってどのような存在、どのようなお方なのでしょうか。「イエス・キリスト」という言葉には、「キリストであるイエス、救い主であるイエス」という意味、あるいは、「イエスはキリストである、イエスは救い主である」という意味があります。イエス・キリストは、わたしたちにとって、どのような意味でキリストであり、どのような意味でわたしたちの救い主なのでしょうか。

いろいろな考え方があります。たとえば、イエス・キリストは、病気の人、罪人と呼ばれる人たちを大事にしました。つまり、当事のユダヤの宗教権力者から虐げられていた人たち、弱い立場にいた人たちを大切にしました。

その意味では、イエス・キリストは、わたしたちが、隣人、とくに、弱い立場にある人を愛し、人を虐げる人たちに抗議を示す生き方をしようとするときのリーダー、お手本であるとも言えるでしょう。

あるいは、イエス・キリストは、わたしたちに、神さまを愛すること、そして、隣人を愛すること、とくに、もっとも小さな者を愛することが、わたしたちが生きる上でいかに大切であるかを教えてくれました。それは、モーセが神さまからの十の戒め、十戒をイスラエルの民に伝えた姿を思い出させます。この意味でも、イエスはわたしたちのキリストであると言えるかもしれません。

 あるいは、イエス・キリストは、「神の国は近づいた」と宣言し、種のたとえなどによって神の国、神さまの愛のお治めがゆたかに育つことを教えてくれました。また、インマヌエル、神さまがわたしたちとともにいますことを教えてくれました。さらに言えば、イエス・キリストは、インマヌエルそのもの、神さまがわたしたちとともにいらしてくださる出来事そのものです。この意味でも、イエスはわたしたちのキリスト、救い主でありましょう。

今は受難節で、わたしたちはイエス・キリストの生涯をしのんでいますが、わたしにとっては、「救い主」「神の子」と呼ばれる人がこんなに苦しめられ、こんなに苦しんだことが、ある意味、わたしの救いとなりました。わたしもわたしなりに、人生、苦しんで来ましたが、「救い主」「神の子」と呼ばれるお方も苦しまれた、いや、わたしなどよりはるかに苦しまれた、と知り、わたしは、喜んだ、というよりは、救われた思いがしました。この意味で、イエス・キリストはわたしのキリスト、救い主であるのです。

イエス・キリストは、十字架において、わたしたちとともに苦しんでくださいました。イエス・キリストはその苦しみにおいて、わたしたちの苦しみを背負ってくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主です。

さらに、イエス・キリストは、十字架において、わたしたちの罪を背負ってくださいました。神さまから離れ、隣人から離れる、神さまを信頼しきれず、隣人を愛しきれない、いつも、自分は自分はと言い続ける、わたしたちのこの罪によって、わたしたちのこの罪を背負い、イエス・キリストは十字架についてくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主なのです。

ただし、わたしたちの苦しみとわたしたちの罪を安易に結びつけるべきではないでしょう。わたしたちが病気やその他のことで苦しんでいるのは何かの罪の罰を受けていると考えるべきではありませんし、誰かが苦しんでいるのを見て、ああ、あれはあんなことをした当然の報いだ、などと考えるべきではありません。

来週の日曜日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターです。そして、今週は受難週、イエス・キリストの十字架の苦しみをしっかりと見つめ、かみしめ、心に深く想う一週間です。

今日はイエス・キリストの受難物語をヨハネによる福音書から読んでいただきましたが、皆さん、今週は、ご自宅で、ぜひ、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の受難物語、ユダの裏切り、最後の晩餐あたりから十字架のあたりまでを読んで、イエス・キリストの十字架の苦しみをしのんでみてください。

今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書19章15節です。19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。

「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。イエス・キリストは、多勢に無勢で、自分を取り囲む大勢から激しい言葉、残酷な言葉、罵声を浴びせられています。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」などという、彼らのその言葉に正当性はありません。

彼らは、ただ自分の恨みや怒りをそのまま言葉にし、多勢の力でそれがあたかも正当であるかのように装い、自分たちは正しいと言い張ります。けれども、この言葉を浴びせられる方からすれば、こんな理不尽なこと、こんなでたらめなことはありません。彼らのこの言葉とこの行為は、相手の命、または、
それに匹敵するものを、奪いとります。イエス・キリストは、この苦しみを受けたのです。

彼らはまた「皇帝のほかに王はありません」と言います。これは、イエス・キリストに直接向けられた言葉ではありませんが、これも理不尽な言葉です。本来、ユダヤ人にとって神さまだけが王でした。人間の王はいなかったのです。しかし、ダビデ王、ソロモン王があらわれ、イエスの時代には、ヘロデ家の王がいました。そして、いまや、人びとはイエス・キリストの前で、ローマ皇帝が王だと言いだします。

これはイエス・キリストにとってなんと苦しいことでしょうか。イエス・キリストは「神の国」を宣べ伝えました。「神の国が来た」とは、神さまこそがわたしたちのまことの王です、という意味です。これを伝えたイエス・キリストにとって、「皇帝のほかに王はありません」という人びとの言葉は、神さまこそがまことの王であることを否定する耐えがたい言葉ではなかったでしょうか。

16節です。19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

ローマ帝国からユダヤに派遣されてきた総督ピラトは、イエスを十字架刑にすることを認めました。「引き渡した」とあります。これでは、イエスがモノのようではありませんか。イエスはモノのように、イエスのいのちはモノのように、そして、ピラトにはその生殺与奪の権があるかのように、イエスは引き渡されたのです。自分の命がモノのように、右から左へと運ばれるモノのように扱われる苦しみをイエス・キリストは味わったのです。

 17節です。19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

「自ら十字架を背負い」とあります。十字架は死刑台です。自分がそこで殺されることになる死刑台を自ら運ばせられるのです。イエスはこの苦しみを背負わされました。けれども、イエスはその背負わされた苦しみを、あえて自ら背負いなおしたのかもしれません。人から強いられたものであったけれども、あえて、それをご自分で引き受けられたのです。わたしたちも人から背負わされたものにはNOと言って降ろす生き方も非常に大切ですが、それがどうしても避けることのできないものであれば、あえてそれを背負う生き方を考えるべき場合もあるのではないでしょうか。

18節です。19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
十字架は死刑です。イエスは死刑にされました。イエス・キリストは死刑にされることの苦しみを受けました。無実であるにもかかわらず、犯罪者とともに死刑にされました。けれども、それは、イエス・キリストはご自分の苦しみだけでなく、死刑にされる犯罪者の苦しみもともになさったことを意味するのではないでしょうか。

19節です。「19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

「ユダヤ人の王」とあります。これは、むろん、王への敬意ではなく、はんたいにこれは罪状書です。
これまでも、人びとはイエス・キリストのことを王と呼んできました。ある人は、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言って、イエス・キリストを称えました。ある人びとは、イエス・キリストを政治の上での王に仕立て上げようとしましたが、イエス・キリストはそれから逃れました。

イエス・キリストがエルサレムの都に入ってくるとき、人びとは、「これはイスラエルの王だ」と言って大歓迎しました。

しかし、あるとき、人びとは、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていました」と訴えました。つまり、イエス・キリストは自分は王であるなどと不遜なことを言ったと言うのです。

 イエス・キリストは「神の国が来た」「神さまこそがまことの王だ」と人びとに教えましたが、皮肉にも、人びとは、イエス・キリストは、自らユダヤ人の王であると名乗ったという罪状を付したのです。

23節です。19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

これは旧約聖書の詩編22編からの引用です。旧約聖書の詩編22編2節から読んでみましょう。
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

この詩編22編の言葉はイエスの十字架と深くつながっています。今お読みしたように、詩編22編には「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」とありますが、イエス・キリストも十字架上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、何故、われを見捨てたもう」と叫ばれました。

詩編22編には今お読みしたように「主に頼んで救ってもらうがよい」とありましたが、マタイによる福音書によりますと、イエス・キリストも人びとから、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」とののしられます。

 詩編22編はさらにつづきます。

22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

 今の詩編の最後に「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」とありますが、今日のヨハネによる福音書に、「「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである」とあるのは、この詩編22編のことです。

そして、詩編22編とあわせて読みますと、ヨハネ福音書で、兵士たちがイエス・キリストの服を分け、くじ引きにもしたということは、イエス・キリストを犬のように取り囲み、群がって、猛獣のように手足を砕いたということになります。なんとも残虐なことです。
 けれども、これは、わたしたち人間の罪の姿でもないでしょうか。わたしたちは、人を取り囲み、人を食い物にしていないでしょうか。人を利用していないでしょうか。人を押さえつけていないでしょうか。人を苦しめていないでしょうか。

わたしたちのこの罪の姿がイエス・キリストを十字架に追いやったのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストにわたしたちのこの罪を背負わせましたが、イエス・キリストはそれをあえて背負ってくださったのではないでしょうか。
 28節です。19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「すべてのことが今や成し遂げられた」とあります。これには、「もう終わりだ、わたしは今や死ぬ」という意味と、もう一つは、「イエス・キリストはなすべきことをすべてなした」という意味があると考えられます。イエス・キリストがなすべきこと、それは、つまり、わたしたちの苦しみと罪を背負ってくださることです。

「渇く」とあります。これも先ほどの詩編22編につながっています。
詩編22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
 つまり、「渇く」とは、ただ喉が渇いたということではなく、たえがたい苦難、助けてくれる人がいないことを意味するのです。取り囲まれる。「渇く」とは、迫られる。牙をむいて襲い掛かられる。骨がくだかれ、心が蠟のように溶ける。塵と死の中に打ち捨てられることを意味するのです。
 29節です。19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

「頭を垂れて息を引き取られた」とあります。イエス・キリストは十字架上でこれだけ苦しんで、十字架上で息を引き取られました。

イエス・キリストのこの苦しみ、十字架、死は、わたしたちにとってどのような意味があるのでしょうか。これをかみしめながら、この一週間を過ごしましょう。

祈り:神さま、イエス・キリストは、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」とののしられ、神さまこそが王であると教えて来たのに自分が王を名乗っていると中傷され、十字架につけられ、服を引き裂かれ、取り囲まれ、骨を砕かれ、心を蝋のように溶かされてしまいました。なんという苦しみしょうか。イエス・キリストのこの十字架の前でわたしたちは無実でしょうか。わたしたちは、このイエス・キリストから何を受け取るのでしょうか。神さま、わたしたちを誠実で深い祈りへとお導きください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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イエスがその足でしてくださったこと [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月10日 「イエスがその足でしてくださったこと」

https://youtu.be/pRiEK-QK5XY
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イエスがその足でしてくださったこと [使信]

使信 2024年3月10日 
 「イエスがその足でしてくださったこと」  ヨハネ12:1-8
 おはようございます。今日の聖書には香油、良い香りのする油の話が出てきますが、わたしは、香、香りにはあまり縁がありません。それどころか、香りで始まる小説、世界的な名作と呼ばれる小説に挫折したことがあります。
 それは、プルーストの「失われた時を求めて」という作品です。その冒頭に、「私は無意識に、紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌごと、ひと匙のお茶をすくって口に持っていった」とあります。そして、紅茶に浸したマドレーヌの香りによって、幼い頃の記憶が突然呼び起こされた、というのです。
 20世紀を代表する名作小説と言われていますが、ここから先の文章がとても難しいのです。センテンスが長いし、何が主語なのか、何が書かれているのか、意味がさっぱりわかりませんでした。それでも、世界の名作だからと思い、なんとか100頁位までわからないまま読み続けましたが、意味がわからないのに文字を読み続ける、その苦痛に耐えきれなくなり、ついに、ごみ箱に捨てました。千円もしない文庫本でよかったです。
 たしかに、元気を出させてくれる香りがあると思います。華やかな気持ちにしてくれる香りもあると思います。はんたいに、気持ちを落ち着かせてくれる香りもあります。わたしも線香の香りは嫌いではありません。
 今日の聖書で、マリアはなぜ、ナルドの香油と呼ばれる高価な香油をイエスの足に塗ったのでしょうか。さらには、それを自分の長い髪で拭ったのでしょうか。マリアはなぜ、人から驚かれたり、もったいないと言われたりするような、そのような行為をしたのでしょうか。
 それは、イエスがマリアにこれまで何かをしてくれたからなのでしょうか。そうであれば、イエスはマリアにこれまでどんなことをしてくれたのでしょうか。
 あるいは、今日の箇所は、イエスの死が近づいている、という文脈にあります。イエスはマリアの兄弟ラザロを生き返らせました。それを目撃した人びとはイエスを信じるようになりました。けれども、イエスを信じる人びとが増え、大勢の人びとの群れができると、暴動が起きるのではないかとローマ帝国は警戒し、ユダヤを滅ぼそうとするかもしれない、とファリサイ派や祭司長たちは恐れます。そして、そうならないうちにイエスを殺してしまおう、イエスの居場所を探して、イエスを逮捕しよう、ということになるのです。
 今日の聖書の話は、過越し祭の六日前に起こったとあります。ユダヤでは過越し祭では、犠牲の羊が神殿にささげられます。つまり、死の香りがし始めているのです。イエス自身、マリアが高価な香油を塗ってくれたのは、「わたしの葬りの日のために」と言います。このようにイエスの死がひしひしと近づく中で、マリアはどのような思いで、イエスの足に高価な香油を塗ったのでしょうか。イエスとマリアの間にはこれまでどのようなことがあったのでしょうか。
 今日の聖書の箇所に至るまでの、イエスとマリアの関係を振り返ってみましょう。エルサレムに近いベタニアというところに、マリアは姉妹のマルタ、そして、兄弟のラザロとともに住んでいました。ラザロはイエスに愛されていた者だと言われていますが、病気にかかってしまいます。
 マリアとマルタはそれを知らせにイエスのもとに人を遣わします。「兄弟ラザロの病気が重いのです、死にかけています、助けてください」、ということなのではないでしょうか。けれども、イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言います。
 それでも、イエスはラザロのもとに向かいます。先日もイエスは石で撃ち殺されるところだったのに、エルサレムにはそのような人々が待っていたのに、ベタニアはそのエルサレムに近いのに、イエスはラザロのもとに駆けつけるのです。
 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言って、イエスは死の危機にあるラザロのもとに駆けつけるのです。このイエスの心は、死が近づいているイエスの足に香油を塗ってイエスに仕えたマリアの心に似ているのかもしれません。
 駆けつけてくれたイエスをマルタは家の外に迎えに行きます。けれども、マリアは家の中で待っています。今日はヨハネによる福音書を読んでいますが、ルカによる福音書にも、このマリアとマルタのお話がでてきます。そこでは、マルタはイエスのもてなしで忙しく動き回りますが、マリアはイエスの足元にじっとすわって、イエスの話に耳を傾けます。ルカによる福音書における活動的なマルタと静かなマリアの姿が、今日のヨハネによる福音書にもうかがえるのかもしれません。
 ヨハネによる福音書ですと、外に出てイエスを待っていたマルタに呼ばれて、家の中で静かにしていたマリアもようやく立ち上がりイエスを迎えます。マリアはイエスに会うと、足元にひれ伏しました。これは、今日の聖書の箇所より前の話です。けれども、その中で、マリアがイエスの足元にひれ伏したとあるのは、今日のお話でも、マリアがイエスの足元にしゃがんでイエスの足に香油を塗ったことにどこかで通じているのかもしれません。
ラザロが死に瀕している、さらには、死んでしまったと聞いて駆けつけてくれたイエスにマリアは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。
 けれども、イエスはほんとうにここにいなかったのでしょうか。死にゆくラザロ、そして、その傍らに立つマリアとマルタと一緒に、イエスはいなかったのでしょうか。じつは、目に見えなくても、イエスはそこにいたのではないでしょうか。マリアはそれをわかっていなかったのではないでしょうか。
 マリアは涙を流します。すると、イエスも涙を流しました。ともに泣いてくれる人がいるとき、わたしたちの悲しみはさらに深まりますが、深まりつつも癒されて行きます。
 兄弟ラザロをなくしたマリアとマルタのところにイエスがその足で駆けつけたのは、このようにともに涙を流すためではなかったでしょうか。イエスの足は、悲しむ者とともに悲しむイエスをそこに運ぶためにあったのではないでしょうか。
 イエスがその足でマリアとマルタのところに駆けつけたのには、もう一つの理由があるように思います。それは、死は終わりではない、ということを告げるためではないでしょうか。ラザロは死んでしまったけれども、そのことで、マリアとマルタとのつながりは終わってしまうのではない、ということを告げるために、イエスはその足でふたりのもとに駆けつけたのではないでしょうか。
 「あなたの兄弟ラザロは復活する」「わたしは復活である、命である」とイエスは言ったのですが、この言葉は、ラザロは死んでしまったけれども、イエスが、ラザロのいのちとマリアとマルタのいのちをつなげていてくださることを意味しているのではないでしょうか。
 本日の聖書の箇所で、マリアはイエスの足に高価なナルドの香油を塗りますが、イエスのその足は、マリアにとって、悲しむ自分のところに駆けつけてくれ、ともに涙を流してくれ、そして、死は終わりではない、ラザロとのいのちのつながりはこれからも続くことを教えてくれたイエスの足だったのではないでしょうか。
 イエスはその生涯において、その足で、悲しむ人、苦しむ人、斥けられた人のところに赴きました。イエスはガリラヤの貧しい庶民のところに赴き、神さまの国がやって来たよ、神さまの愛がわたしたちを治めてくれるよと、慰めの言葉を語りかけたのです。
 旧約聖書のイザヤ書にこのような言葉があります。52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。
 「あなたの神は王となられた」というのは、神さまこそが王となってわたしたちを治めてくださる、愛で治めてくださる、だから、安心していいですよ、平安でいてください、というメッセージですから、「神の国が近づいた」というイエスのメッセージと同じなのです。
 そして、イザヤはそのような良い知らせ、つまり、福音を伝える人の足は美しい、と言うのです。イエスの足もそのように美しい足だったのではないでしょうか。
 そのような足の持ち主であるイエスがまもなく死をむかえようとしています。マリアはどんな思いでしょうか。どんな思いでその足に香油を塗ったのでしょうか。
 大切な人が天に召されたとき、わたしたちは悲しみます。遺族の悲しみを思います。同時に、天に召された人に感謝します。召された人の人生の思いをふりかえり、それを少しでもわかちあおう、受け継ごうとするのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ラザロが死んでイエスがマリアとマルタのところに駆けつけたというのは、今日の聖書より少し前のお話で、今日の聖書は、その続きになるのです。
 ヨハネによる福音書12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
 過越しの祭りが近づき、この祭りで神殿にささげられる羊のように、死にゆくことを前にしたイエスの足に、マリアは純粋で高価なナルドの香油を塗ります。一リトラとはおよそ330グラムくらいということですから、マリアはコップ一杯と少しの香油を心を込めてイエスの足に注いで塗ったのでしょう。
 純粋で非常に高価な香油とありますが、これは、マリアの心、イエスに仕えるマリアの心も、純粋で高価、価高い、神さまの眼からは価高いことを意味しているのではないでしょうか。マリアは、イエスの足に、自分のもとに駆けつけて涙を流し、死は終わりではないことを教えてくれたイエスの足に高価な香油を塗ることで、イエスの死を悲しみ、同時に、イエスの生涯に感謝し、そして、イエスの心を少しでもわかちあおう、引きつごうとしたのではないでしょうか。
 「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。イエスを思うマリアの美しくも悲しい心と、マリアと一緒に涙を流したイエスの悲しくも美しい心で、その家がいっぱいになったのではないでしょうか。
 4節です。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
 ユダはこんなことを言いましたが、貧しい人びとのことなど思っていませんでした。反対に、イエスがその足でなさった愛のわざを思い起こし、その足に香油を塗ったマリアは、イエスの心をわかちあい、イエスの心をひきついで、自分もその足で、これからは目に見えないイエスとともに、貧しい人びとのところに、イエスが目に見えなくなっても訪ね続ける貧しい人々のところに足を運ぶのではないでしょうか。
 わたしたちもそうでありたいと思います。受難節です。イエス・キリストは十字架への道を歩みつつありますが、わたしたちは、イエス・キリストがわたしたちにしてくださったことに感謝しつつ、イエス・キリストのお心をマリアとともにわかちあい、ひきつぎ、イエス・キリストとともに歩む者でありたいと願います。
 祈り:神さま、イエス・キリストはその足でわたしたちのもとに、悲しむ者のもとに、苦しむ者のもとに、平安でない者のもとに、貧しい者のもとに、駆けつけてくださいます。わたしたちが、その足をマリアのように大切に思うことができますように。そして、わたしたちがこの足でイエス・キリストとともに心傷める者のもとに赴くことができますように、どうぞお導きください。わたしたちが自分の十字架を背負って、イエス・キリストにともに歩んでいただけますように。今もっとも苦しんでいる友のもとにイエス・キリストの足音が聞こえますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。



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2024年3月10日 [今週の聖書の言葉]

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)

 「そのとき」とは「過越祭の六日前」(12:1)であり、イエスが比喩的に「わたしの葬りの日」(12:7)と言った日のことです。この箇所の直前の11章末によれば、祭司長やファリサイ派がイエスを「殺そうとたくらんで」(11:53)、「逮捕」(11:57)のための命令が出ていました。
 このようなときに、マリアはなぜイエスの足に高価な香油を注いだのでしょうか。イエスの足はマリアに何をしてくれたのでしょうか。
 11章によりますと、マリアとマルタの兄弟ラザロが死にますが、イエスはその足で駆けつけてくれました。そして、マリアとともに涙を流してくれました(11:35)。さらには、墓に葬られたラザロを呼び出してくれました(11:44)。
 つまり、悲しむとともに悲しみ、さらには、死は終わりではない、死によってラザロとマリアのつながりは終わらないことを教えてくれるためにイエスの足はマリアのところに来てくれたのではないでしょうか。
 今度は、マリアが死を前にしたイエスとともに悲しみますが、同時に、そのイエスの思いを受け継ごうとします。つまり、マリアもその足で、イエスとともに悲しむ者を訪ねる者となろうとしている、さらには、死がすべての終わりではないことを告げる者になろうとしているのではないでしょうか。マリアがイエスの足に高価な油を塗ったことにはこのような祈りが込められていたのではないでしょうか。

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2024年3月3日 [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月3日 「物質と霊」

https://youtu.be/l263DL8ypso
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物質と霊 [使信]

使信 2024年3月3日  「物質と霊」  ヨハネ6:60-71
 おはようございます。今日は、NHKの朝ドラではなく、民放のドラマのお話をしたいと思います。「君が心をくれたから」というドラマです。二十代の男女の物語ですが、女の子の五感が徐々に失われて行くというお話です。あるとき、男の子が交通事故で死にかけるのですが、そこに死の世界の人があらわれて、女の子が五感を差し出すのなら、男の子のいのちは助かると言うのです。
 女の子は、男の子のいのちを助けるために、それを受け入れます。そうやって男の子は助かりますが、女の子は、味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚の五感をひとつずつ失っていきます。ドラマでは、味覚、嗅覚、触覚はすでに失われ、今は、視覚を失いつつある状態です。
 では、この女の子が五感すべてを失ったときどうなるのか、ということが、視聴者の間で話題になり、インターネットでも、あれこれ言われています。わたしは、五感が失われても、第六感があった、ということになるのではないか、と予想しています。
 第六感と言っても、いわゆる「感」、「感」が働く、というときの「感」ではなくて、人間には、五感以外に、愛がある、というお話になるのではないか、あるいは、そういう可能性があるのではないか、と思っています。
 わたしたちは愛を感じます。愛はどこで感じるのでしょうか。味覚ではありません。嗅覚でもありません。触覚でも、視覚でも、聴覚でもありません。もちろん、おいしい料理から作った人の愛情を感じたり、手を握ったり抱きしめられたりすることでも、あるいはその人の姿を見たり、その人の声を聴いたりすることで、愛を感じることもあると思いますが、愛を感じるのはそれらの感覚のひとつに限定されるのではありません。
 塩味が利いているかどうかは味覚でないとわかりませんが、愛のスパイスが利いているかどうかは、どれか一つの感覚に限定されるのではありませんし、むしろ、たとえば視覚や聴覚によって愛を感じたように思われても、じつは、視覚や嗅覚は補助手段であって、ほんとうは、それ以外のところで、わたしたちは愛を感じているのではないでしょうか。
 では、わたしたちは愛をどこで感じるのでしょうか。愛を感じるのは、やはり、愛ではないでしょうか。聖書では、霊を感じるのは霊である、とあります。コリントの信徒への手紙一でパウロは、霊的なことを説明するのは霊的なものだと述べています。
 つまり、わたしたちが神さまのことを感じられるのは、神さまの霊がわたしたちの中に宿ってくださっていて、わたしたちの中にいてくださる神さまの霊、聖霊が、聖霊なる神さまをわたしたちに感じさせてくださる、と言うのです。
 この場合の霊は、神さまの霊のことであり、守護霊やいわゆる霊感などとはまったく関係ありません。わたしたちの中に宿ってくださる神さまの霊が、わたしたちと世界全体を包み込むように働きかけてくださる神さまの霊を感知するのです。
 ところで、パウロは、ローマの信徒への手紙で、愛は霊によって与えられる、つまり、愛は神さまという霊からわたしたちに与えられる、と言うのです。すなわち、霊と愛は同質なのです。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう言っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」。つまり、霊からは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和が生まれてくると。ここに並べられている霊の実りを見ても、霊が愛と深くつながっていることがわかるでしょう。
 パウロにとって、霊の反対と言うか、霊と比べられるべきものは肉です。わたしたちの肉体、わたしたち人間の思い、神さまのことを思わないわたしたち人間の行動や想いが肉です。この肉からは、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみが生じると言います。つまり、肉、あるいは、肉の思いは、愛とは正反対、そして、霊とは正反対であると言うのです。
 創世記2章にはこうあります。2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
 わたしたち人間は土、つまり、物質でできています。しかし、神さまはそこに「命の息」を吹き入れてくださいます。この「命の息」とは、「命の息」というくらいですから、生命のことでもありますが、これは同時に、神さまの愛、神さまの霊のことでもありましょう。
 わたしたち人間は、土、肉、カルシウム、タンパク質、脂肪、水分という物質からできていますが、神さまはそこに霊を吹き込んでくださったのです。わたしたちの肉体という物質の中に神さまの霊が吹き込まれている・・・ここに今日の説教題、「物質と霊」というコムズカシイ説教題の意味があります。「物質と霊」などというと難しい哲学のお話のように聞こえますが、平たくいうと、わたしたち人間には神さまのいのちの息が吹き入れられている、ということなのです。
 さて、土からできたわたしたちに神さまが吹き入れてくださった「命の息」は、生命であり、霊であり、愛である、と申し上げましたが、生命、霊、愛を別の言葉で言い換えますと、それは、つながりです。生命も霊も愛も、何かと何かのつながりなのです。生命はいのちといのちのつながり、霊は神さまとわたしたちのつながり、愛は神さまとわたしたち、わたしたちとわたしたちのつながりです。
 わたしたちは「肉体」という言葉を使いますが、肉と体は違います。肉は物質であり、さきほど申し上げましたように、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみといったものを生じます。つまり、他の人とつながろうとしない、自分勝手、自己中心なのです。
 けれども、肉体の「体」、体は生命や愛や霊と同じようにつながりです。頭、手、胴、内臓、足などのつながりが体です。あるいは、わたしたちは、体によって、言葉や視覚や聴覚、触覚などによって、他の人とつながります。
 キリスト教会には使徒信条という一世紀の庶民的な信仰者に遡ると言われる信仰告白があり、多くの教会がそれを礼拝で唱え、洗礼式もそれに基づいてなされますが、それには、「わたしは体のよみがえりを信じます」という一節があります。
「体のよみがえり」とは「肉のよみがえり」ではありません。「肉のよみがえり」ですと、ゾンビ映画になってしまいますが、「体のよみがえり」は永遠の愛の物語です。つまり、わたしたちは、よみがえり、復活を信じるわけですが、それは、個体、個人の肉体の蘇生を信じるのではなく、愛によって結ばれたつながりが永遠であることを信じるのです。
 肉体とは区別されるべき体という言葉には、聖書やキリスト教ではこのような意味合いがあるのです。肉、物質に、命の息、神さまの霊、神さまの愛を吹き入れていただいて、わたしたちは、肉体ではなく、体になるのです。
 わたしたちは物質のことばかり、肉のことばかり考えていないでしょうか。今晩は焼肉にしようとかハンバーグにしようとかポーク生姜焼きにしようとか、頭の中は肉のことでいっぱいになっていないでしょうか。お魚や野菜もいただきましょう。
 というか、わたしたちは、目に見える物質や肉のことばかりでなく、目に見えない神さま、目に見えない霊、目に見えない愛のことにも、心を傾けましょう。目に見えないもの、と言っても、これは、空気や電波のことではありません。空気は目に見えなくても物質ですし、電波も目には見えませんが、物質の世界のエネルギー、波のことです。わたしたちは、物質の世界の向こうにある、あるいは、物質の世界の根本にある、あるいは、物質の世界に重なり合っている、目に見えない神さま、目に見えない霊、目に見えない愛の世界に心を傾けましょう。
 ただし、神さまは、目に見えないと言っても、今申し上げましたように、空気でも電波でもありません。神さまの霊も、空気や電波のような物質世界のものではありません。神さまの霊は、物質とはまったく異なるものです。創られたもの、被造物とはまったく異なるものです。けれども、わたしたちはこれを理解しにくいのです。しかし、先週の説教のように、イエス・キリストは、目に見えない神さまを何とか私たちに伝えようとしてくださるのです。たとえ話や愛の行為によって、目に見えない神さまとその愛をわたしたちに伝えようとしてくださるのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書6章60節です。6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
 弟子たちが「ひどい話」と言っているのは何のことでしょうか。それは、今日の聖書の箇所の少し前のところです。
 ヨハネによる福音書6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
 イエス・キリストはここで「パン」という言葉を使っていますが、これは、物質のパンの話をしたのではなく、目に見えない神さまのこと、霊のことなのですが、弟子たちや聞いている人は、それをまったく理解しなかったのです。
 そこで、イエス・キリストは話を繰り返します。ヨハネによる福音書6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
 ここにも、肉とか血とかパンとかいう言葉が出てきますが、これも物質のことではなく、目に見えない神さまのこと、神さまの霊のことを話しておられるのですが、弟子たちや人々は理解せずに、「ひどい話だ」と言うのです。
 61節です。6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
 「人の子がもといた所」とあります。これは、イエス・キリストがもといた所、つまり、天のことです。天とは、空の高いところのような気がしますが、それだけですと、宇宙であり、星であり、天体であり、あくまで、物質界、神さまが創られた世界、被造世界のことになってしまいます。天とは、創造以前の世界、物質以前の世界、霊の世界のことです。そして、イエス・キリストは、この天とつながっておられるのです。
 63節です。6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
 「命を与える」とありますが、これは生物としての生命のことだけでなく、神さまとつながった命、永遠なる神さまとつながった命、永遠の命のことです。この命をわたしたちにもたらしてくださるのは、神さまなのです。神さまの霊なのです。物質でも肉でもありません。
 永遠なる神さまとつながった命を与えてくれる「霊」とは、神さまご自身のことです。神さまがわたしたちに指し伸ばしてくださったつながりのことです。神さまがわたしたちに注ぎ続けてくださる愛のことなのです。
 64節です。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 物質、肉、人間は、神さま、霊を裏切ってしまいます。それでも、神さまは、霊は、わたしたちをお見捨てになりません。『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』とイエス・キリストは言われますが、イエス・キリストは、神さまからお許しを得てくださるのです。
 ヨハネによる福音書14章2節にはこうあります。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
 イエス・キリストは十字架への道を歩まれ、十字架につかれ、父なる神さまのお許しを得て、つまり、わたしたちの罪を赦してくださるという父なる神さまのお許しを得て、わたしたちをご自分のもとに引き受けてくださるのです。
 66節です。6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
 イエス・キリストのお話にもかかわらず、弟子たち、人びとは離れて行きます。物質と霊、肉と霊の違いは、やはり理解しにくいのです。神さまとわたしたちとの違い、創造者と被造物の違い。なぜ、違いが大切なのでしょうか。同じことも大切ですが、違うことも大切です。
 違いが大切なのは、わたしたちは神さまではなく、神さまに創っていただいたものだからです。わたしたちにある善いものは、すべて神さまからいただいたものだからです。違いが大切なのは、わたしたちは有限、限界がありますが、神さま、霊、愛は永遠であることを知るためです。
 68節です。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 わたしたちは被造物であり、有限であり、神さまとはまったく異なるものですが、イエス・キリストは、そのわたしたちを霊であり、永遠であり、霊である神さまとつなぎあわせてくださるのです。
 イエス・キリストはそれを伝えようとしましたが、理解されずに、十字架につけられました。けれども、十字架は死刑台から、天と地をつなぐ道に、天と地をつなぐはしごに変わったのです。その結果、有限なわたしたちにも、永遠なる神さまのことが伝えられているのです。
 神さまは、イエス・キリストを通して、わたしたちが神さまとつながることをおゆるしくださいました。物質と肉にどっぷりつかったわたしたちを、イエス・キリストは、霊である神さまとつなげてくださるのです。
 祈り:神さまは、わたしたちは、自分中心の思い、物欲、この世の欲にまみれています。霊の思い、神さまの思い、愛とはまったくかけ離れてしまっています。けれども、神さま、イエス・キリストは、み言葉とご降誕とご生涯と十字架と復活によって、わたしたちを霊なるあなたとつないでくださいました。神さま、イエス・キリストが創ってくださったこの道筋によって、わたしたちをあなたの霊で満たしてください。愛で満たしてください。わたしたちを少しでも愛の人、霊の人へと導いてください。神さま、わたしたちの友をあなたの愛、あなたの霊で満たしてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2024年3月3日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

「霊」「命」とはなんでしょうか。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。わたしたちは土(物質)からできていますが、神さまはわたしたちに「命の息」を吹き入れてくださいました。これが「霊」です。
 つまり、「霊」とは「生命」ですが、これは有限な物質としての生命であるばかりでなく、永遠なる神さまとつながった永遠のいのちです。つまり、霊は、わたしたちの中に宿ってくださる神さまご自身です。この霊がわたしたちの中にいてくださいますから、わたしたちや世界に働きかけてくださる霊なる神さまをわたしたちは感じることができるのです。
 さらに、この霊は、愛と密接につながっています。パウロは、愛は霊が与えてくださる(ローマ15:30)と言い、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」(ガラテヤ5:22)と言います。
 イエス・キリストはこの霊、愛、目に見えない神さまのことを人びとに伝えますが、人々はそれを物質や肉と区別できず、理解しません。そして、イエス・キリストを十字架に追いやってしまいます。
けれども、神さまは、本来は死刑台である十字架を、神さまとわたしたち、霊と物質をつなぐ橋にしてくださいました。わたしたちは、イエス・キリストを通して、とりわけ、十字架と復活を通して、目に見えない神さまと結ばれるのです。

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見えるようになる [礼拝説教(使信)動画]

2024年2月25日 「見えるようになる」

https://youtu.be/WfRyCZB4bR8
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見えるようになる [使信]

使信 2024年2月25日  「見えるようになる」  ヨハネ9:1-12
 おはようございます。読書は、わたしたちがそれまで知らなかったことを教えてくれます。わたしは最近、農業というか、農について学びたいと思い、本を何冊か読んでみました。
 「農はいのちをつなぐ」という本は、農は農業というよりは、やはり農であり、つまり、農は産業ではなく、いのちといのちをつなぐ営み、つながれたいのちといのちの営みだと教えてくれました。たとえば、田んぼを見ますと、田んぼには稲といういのちだけでなく、そこには、おたまじゃくしもいるし、ゲンゴロウもいるし、とんぼの幼虫、ヤゴもいるし、稲以外の雑草も育っています。田んぼはそれらのいのちのつながりだと言うのです。
 また、わたしたちがいただく食べものもいのちであるし、食卓にはさまざまないのちが並んでいると言うのです。わたしたちはそれらのいのちをいただくのですが、それらを絶滅させるような形でではなく、むしろ、それらのいのちが絶えることなくつながっていくようないいただきかたをしなければなりません。いのちをいただくものは、いのちの再生も考えなくてはならないというのです。
 そして、田んぼで農を営むということは、おたまじゃくしやカエルやトンボや諸々の草とまた来年も会えるようないのちの循環の営みであるというのです。わたしは、今まで考えなかったこのようなことをこの本に教えられました。
 それから、「食べものから学ぶ現代社会」という本は、現代社会がそのような農の営みを危機に追いやっていることを教えてくれました。コンビニでスイーツとか唐揚げとかを売るためのポイントは、砂糖と塩と油脂だそうです。これらで魅力的なスイーツや唐揚げのような商品を作り、それらを食べたいという欲をわたしたちに促して、コンビニというか、コンビニ企業は売り上げの増加に励んでいるそうです。
 このようなコンビニ食品は、コンビニ食品だけでなく食品産業で売られる商品としての食べ物は、大量の小麦やとうもろこしを使いますが、それは、いのちをつなぐ農というよりは、工業のような産業となってしまった大規模農業によって生産されます。それらの大規模機械化農業が世界中で行われ、トラクターなどを動かすために大量の石油が使われ排気ガスが出されます。
 また、限界を超えて植物を育てさせられることで、土も疲弊していきます。地球を浄化してくれるはずの森の木が倒され、畑にされてしまいます。こうやって自然環境が世界中でこれまでなかったレベルの大きな危機に直面しています。地球は温暖化し、すでに大規模な自然災害が頻発しています。こういうことをこの本に教えられました。
 もう一冊、「旧約聖書と環境倫理」という本は、旧約聖書は、星や川や土も人格とみなしている、旧約聖書では、星や川や土も神さまと人格的な交流をしているし、場合によっては、人間もこれらのものと人格的に交わっている、というように旧約聖書を読むこともできるということを教えてくれました。
 いのちをつなぐ営みとしての農、農が工業化され、食料商品の大量生産大量消費ゆえに地球環境が危機にあること、旧約聖書には自然を人格とみなしているという観点があること、これらを学んで、わたしは、目を開かれるような思いがいたしました。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書9章1節です。9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 「生まれつき目の見えない人」とありますが、神さまやイエス・キリスト、そして、聖書と出会わなければ、わたしたちの心の目も、神さまのことが見えていないのではないでしょうか。あるいは、わたしたちは幼子のころは、神さまのことを感じていたかもしれませんが、その心の目が閉ざされてしまったのではないでしょうか。
 9章2節です。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 イエスの弟子たちは、この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか、と尋ねていますが、わたしたちは生まれながら罪の性質を備えているとはいえ、罪を犯すとすればそれは生まれてから犯すものでしょうから、生まれたときから目が見えない人のことでこのように訊くこと自体、間違っているように思われます。
 さらに、病気、障がい、災害、不幸などは、罪を犯した人に神さまが与える罰である、という考え方は、苦しんでいる人を二重に苦しめます。イエスが出会った病気や障がいを抱えた人びとも、このように二重に苦しんでいたのではないでしょうか。
 これに対して、イエスさまはNO!と言われました。人びとを二重の苦しみから解き放とうとしてくださったのです。イエスさまは、この人が生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したからではない、と断言なさったのです。
 誰の犯した罪の罰をこの人は受けているのか。イエスさまにとってそんなことは問題になりませんでした。そもそも、イエス・キリストは罰という考え方から自由でした。イエスさまにとって神さまは罰をくだすよりも、愛を注ぐお方なのです。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」・・・神の業がこの人に現れるためである、とはどういう意味でしょうか。
 「神の業」とはどういうことでしょうか。ひとつは、神さまに救われる、ということのように思われます。もうひとつは、今日の聖書の箇所の文脈で言いますと、神の業とは目が見えるようになること、神さまのことが見えるようになること、神さまのことを知ること、神さまはインマヌエルの神さまである、神さまはアガペーの神さまである、それを知ることが、それを心の目で見えるようにしていただくことが、わたしたちの救いであり、そのようにしてわたしたちを救ってくださることが神さまの業のように思われます。
 それから、「ためである」「神の業がこの人に現れるためである」とありますが、これは、「そういう結果になる」というように、わたしは理解しています。
 わたしたちの心が神さまに対して閉ざされているのは、神さまがわたしたちの中に入ってきてくださるためである、と言っても良いのですが、それよりも、わたしたちの心は神さまに対して閉ざされているけれども、神さまがわたしたちの心を開いて入ってきてくださる、と言い変えた方がわかりやすいように思います。
 4節です。9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
 「わたしをお遣わしになった方の業」とは神の業、神さまの業のことですが、イエス・キリストはそれをわたしたちに示してくださっておられます。神さまの業をイエス・キリストがわたしたちに示してくださること自体が、神さまの業でもあります。けれども、それが妨げられる時が来る、そのような夜が来る、とイエスさまは言われるのです。
 一時的ではありますが、そのような神さまの業が妨げられる時が来る、と言うのです。それが、イエス・キリストの十字架とそこに至る苦難の道でありましょう。受難節は、イエス・キリストの十字架とそれに至る苦難の道のりをしのぶ期間ですが、この十字架の出来事によって、神の業が、一時的に妨げられると言うのでしょう。
 5節です。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。
 イエス・キリストは、世の光である、と言われました。イエス・キリストが世の光、わたしたちの光である、とはどういうことでしょうか。
 光は、闇夜を歩く人びとの足元を照らしてくれます。道案内をしてくれます。光があれば、わたしたちは闇夜をも前に進むことができます。
 光は、闇夜とともに、わたしたちの暗い心を照らしてくれます。光は、わたしたちの折れそうな心を励ましてくれます。光は、絶望したわたしたちの心に希望をもたらしてくれます。
 光は、そして、わたしたちに神さまを指し示してくれます。神さまを見ていないわたしたちの心に、光は神さまを示してくださいます。光は、目に見えない神さまをわたしたちに示してくださいます。
 6節です。9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
 これは、古代世界の医療行為なのでしょうか。そうかもしれません。けれども、もっと大事なことは、目の見えなかった人が、イエス・キリストを通して神さまと出会ったということです。これまで神さまと出会っていなかった人が、イエス・キリストを通して、神さまと出会ったということです。
 神さまはわたしたちの目には見えません。けれども、イエス・キリストは、目に見えない神さまをわたしたちの心に示してくださいます。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。イエス・キリストはこのように言われました。
 神さまは、善人だけでなく悪人にも、正しい者だけでなく正しくない者にも、太陽の光と雨の潤いを注いでくださいます。これは、とくに、自分は悪人である、自分は正しくないと思っている人びとには、わたしもそうですが、これは、非常に大きな救いです。
 神さまはこのようにわたしたちを無条件に愛してくださる。このような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださるのです。
 あるいは、イエス・キリストはこのように言われました。マタイによる福音書6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 わたしたちはあれこれ思い煩いますが、空の鳥や野の花が神さまにすべてを委ねているように、神さまはわたしたちがすべてをお委ねできるお方である、神さまはわたしたちが全面的に信頼できるお方である、そのような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 このようにして、神さまは小さな希望を大きな希望に、小さな愛を大きな愛に育ててくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
 このように、神さまはすみっこの一匹であるわたしたちをお見捨てにならず探し求めてくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに教えてくださいます。
 このようにイエス・キリストが今まで知らなかった神さまのお姿をわたしたちに示してくださり、わたしたちがこのように愛と慈しみに満ちた神さまと出会うことができるようになりました。これこそが、見えなかった目が開かれることであり、神さまの御業、救いの御業だとわたしは考えます。
 最後にもう一か所聖書の箇所をお読みいたします。マルコによる福音書15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 受難節の第2週です。イエス・キリストはご自分が十字架の道のりを歩み、十字架につけられることを通して、神さまはわたしたちとともに十字架の上で苦しんでくださるお方であり、神さまはわたしたちの罪に罰で報いるのではなく、むしろ罪をともに背負ってくださるお方であることを、わたしたちに示してくださるのではないでしょうか。
 神さまは目には見えませんが、イエス・キリストはそのご生涯とお言葉を通して、わたしたちがこれまで知らなかった神さまのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。
 祈り。神さま、あなたはわたしたちの目には見えません。わたしたちの心はあなたに対して閉ざされています。けれども、神さま、イエス・キリストはそのご生涯とそのお言葉を通して、あなたのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。わたしたちの心の目を開いてくださり、神さまと出会うという救いをわたしたちにもたらしてくださいます。感謝いたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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