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見えるようになる [使信]

使信 2024年2月25日  「見えるようになる」  ヨハネ9:1-12
 おはようございます。読書は、わたしたちがそれまで知らなかったことを教えてくれます。わたしは最近、農業というか、農について学びたいと思い、本を何冊か読んでみました。
 「農はいのちをつなぐ」という本は、農は農業というよりは、やはり農であり、つまり、農は産業ではなく、いのちといのちをつなぐ営み、つながれたいのちといのちの営みだと教えてくれました。たとえば、田んぼを見ますと、田んぼには稲といういのちだけでなく、そこには、おたまじゃくしもいるし、ゲンゴロウもいるし、とんぼの幼虫、ヤゴもいるし、稲以外の雑草も育っています。田んぼはそれらのいのちのつながりだと言うのです。
 また、わたしたちがいただく食べものもいのちであるし、食卓にはさまざまないのちが並んでいると言うのです。わたしたちはそれらのいのちをいただくのですが、それらを絶滅させるような形でではなく、むしろ、それらのいのちが絶えることなくつながっていくようないいただきかたをしなければなりません。いのちをいただくものは、いのちの再生も考えなくてはならないというのです。
 そして、田んぼで農を営むということは、おたまじゃくしやカエルやトンボや諸々の草とまた来年も会えるようないのちの循環の営みであるというのです。わたしは、今まで考えなかったこのようなことをこの本に教えられました。
 それから、「食べものから学ぶ現代社会」という本は、現代社会がそのような農の営みを危機に追いやっていることを教えてくれました。コンビニでスイーツとか唐揚げとかを売るためのポイントは、砂糖と塩と油脂だそうです。これらで魅力的なスイーツや唐揚げのような商品を作り、それらを食べたいという欲をわたしたちに促して、コンビニというか、コンビニ企業は売り上げの増加に励んでいるそうです。
 このようなコンビニ食品は、コンビニ食品だけでなく食品産業で売られる商品としての食べ物は、大量の小麦やとうもろこしを使いますが、それは、いのちをつなぐ農というよりは、工業のような産業となってしまった大規模農業によって生産されます。それらの大規模機械化農業が世界中で行われ、トラクターなどを動かすために大量の石油が使われ排気ガスが出されます。
 また、限界を超えて植物を育てさせられることで、土も疲弊していきます。地球を浄化してくれるはずの森の木が倒され、畑にされてしまいます。こうやって自然環境が世界中でこれまでなかったレベルの大きな危機に直面しています。地球は温暖化し、すでに大規模な自然災害が頻発しています。こういうことをこの本に教えられました。
 もう一冊、「旧約聖書と環境倫理」という本は、旧約聖書は、星や川や土も人格とみなしている、旧約聖書では、星や川や土も神さまと人格的な交流をしているし、場合によっては、人間もこれらのものと人格的に交わっている、というように旧約聖書を読むこともできるということを教えてくれました。
 いのちをつなぐ営みとしての農、農が工業化され、食料商品の大量生産大量消費ゆえに地球環境が危機にあること、旧約聖書には自然を人格とみなしているという観点があること、これらを学んで、わたしは、目を開かれるような思いがいたしました。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書9章1節です。9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 「生まれつき目の見えない人」とありますが、神さまやイエス・キリスト、そして、聖書と出会わなければ、わたしたちの心の目も、神さまのことが見えていないのではないでしょうか。あるいは、わたしたちは幼子のころは、神さまのことを感じていたかもしれませんが、その心の目が閉ざされてしまったのではないでしょうか。
 9章2節です。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 イエスの弟子たちは、この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか、と尋ねていますが、わたしたちは生まれながら罪の性質を備えているとはいえ、罪を犯すとすればそれは生まれてから犯すものでしょうから、生まれたときから目が見えない人のことでこのように訊くこと自体、間違っているように思われます。
 さらに、病気、障がい、災害、不幸などは、罪を犯した人に神さまが与える罰である、という考え方は、苦しんでいる人を二重に苦しめます。イエスが出会った病気や障がいを抱えた人びとも、このように二重に苦しんでいたのではないでしょうか。
 これに対して、イエスさまはNO!と言われました。人びとを二重の苦しみから解き放とうとしてくださったのです。イエスさまは、この人が生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したからではない、と断言なさったのです。
 誰の犯した罪の罰をこの人は受けているのか。イエスさまにとってそんなことは問題になりませんでした。そもそも、イエス・キリストは罰という考え方から自由でした。イエスさまにとって神さまは罰をくだすよりも、愛を注ぐお方なのです。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」・・・神の業がこの人に現れるためである、とはどういう意味でしょうか。
 「神の業」とはどういうことでしょうか。ひとつは、神さまに救われる、ということのように思われます。もうひとつは、今日の聖書の箇所の文脈で言いますと、神の業とは目が見えるようになること、神さまのことが見えるようになること、神さまのことを知ること、神さまはインマヌエルの神さまである、神さまはアガペーの神さまである、それを知ることが、それを心の目で見えるようにしていただくことが、わたしたちの救いであり、そのようにしてわたしたちを救ってくださることが神さまの業のように思われます。
 それから、「ためである」「神の業がこの人に現れるためである」とありますが、これは、「そういう結果になる」というように、わたしは理解しています。
 わたしたちの心が神さまに対して閉ざされているのは、神さまがわたしたちの中に入ってきてくださるためである、と言っても良いのですが、それよりも、わたしたちの心は神さまに対して閉ざされているけれども、神さまがわたしたちの心を開いて入ってきてくださる、と言い変えた方がわかりやすいように思います。
 4節です。9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
 「わたしをお遣わしになった方の業」とは神の業、神さまの業のことですが、イエス・キリストはそれをわたしたちに示してくださっておられます。神さまの業をイエス・キリストがわたしたちに示してくださること自体が、神さまの業でもあります。けれども、それが妨げられる時が来る、そのような夜が来る、とイエスさまは言われるのです。
 一時的ではありますが、そのような神さまの業が妨げられる時が来る、と言うのです。それが、イエス・キリストの十字架とそこに至る苦難の道でありましょう。受難節は、イエス・キリストの十字架とそれに至る苦難の道のりをしのぶ期間ですが、この十字架の出来事によって、神の業が、一時的に妨げられると言うのでしょう。
 5節です。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。
 イエス・キリストは、世の光である、と言われました。イエス・キリストが世の光、わたしたちの光である、とはどういうことでしょうか。
 光は、闇夜を歩く人びとの足元を照らしてくれます。道案内をしてくれます。光があれば、わたしたちは闇夜をも前に進むことができます。
 光は、闇夜とともに、わたしたちの暗い心を照らしてくれます。光は、わたしたちの折れそうな心を励ましてくれます。光は、絶望したわたしたちの心に希望をもたらしてくれます。
 光は、そして、わたしたちに神さまを指し示してくれます。神さまを見ていないわたしたちの心に、光は神さまを示してくださいます。光は、目に見えない神さまをわたしたちに示してくださいます。
 6節です。9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
 これは、古代世界の医療行為なのでしょうか。そうかもしれません。けれども、もっと大事なことは、目の見えなかった人が、イエス・キリストを通して神さまと出会ったということです。これまで神さまと出会っていなかった人が、イエス・キリストを通して、神さまと出会ったということです。
 神さまはわたしたちの目には見えません。けれども、イエス・キリストは、目に見えない神さまをわたしたちの心に示してくださいます。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。イエス・キリストはこのように言われました。
 神さまは、善人だけでなく悪人にも、正しい者だけでなく正しくない者にも、太陽の光と雨の潤いを注いでくださいます。これは、とくに、自分は悪人である、自分は正しくないと思っている人びとには、わたしもそうですが、これは、非常に大きな救いです。
 神さまはこのようにわたしたちを無条件に愛してくださる。このような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださるのです。
 あるいは、イエス・キリストはこのように言われました。マタイによる福音書6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 わたしたちはあれこれ思い煩いますが、空の鳥や野の花が神さまにすべてを委ねているように、神さまはわたしたちがすべてをお委ねできるお方である、神さまはわたしたちが全面的に信頼できるお方である、そのような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 このようにして、神さまは小さな希望を大きな希望に、小さな愛を大きな愛に育ててくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
 このように、神さまはすみっこの一匹であるわたしたちをお見捨てにならず探し求めてくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに教えてくださいます。
 このようにイエス・キリストが今まで知らなかった神さまのお姿をわたしたちに示してくださり、わたしたちがこのように愛と慈しみに満ちた神さまと出会うことができるようになりました。これこそが、見えなかった目が開かれることであり、神さまの御業、救いの御業だとわたしは考えます。
 最後にもう一か所聖書の箇所をお読みいたします。マルコによる福音書15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 受難節の第2週です。イエス・キリストはご自分が十字架の道のりを歩み、十字架につけられることを通して、神さまはわたしたちとともに十字架の上で苦しんでくださるお方であり、神さまはわたしたちの罪に罰で報いるのではなく、むしろ罪をともに背負ってくださるお方であることを、わたしたちに示してくださるのではないでしょうか。
 神さまは目には見えませんが、イエス・キリストはそのご生涯とお言葉を通して、わたしたちがこれまで知らなかった神さまのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。
 祈り。神さま、あなたはわたしたちの目には見えません。わたしたちの心はあなたに対して閉ざされています。けれども、神さま、イエス・キリストはそのご生涯とそのお言葉を通して、あなたのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。わたしたちの心の目を開いてくださり、神さまと出会うという救いをわたしたちにもたらしてくださいます。感謝いたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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