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起こされる [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月31日 「起こされる」

https://youtu.be/ILnBbZa9fh8
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2024年3月31日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(マタイ28:7)

 「復活された」とありますが、これは、「起こされる」「倒れている者が起こされる」という意味の言葉でもあります。
 イエスの死は、ただの死ではなく、ある意味、挫折の死でもありました。神の国を宣べ伝え、病人を癒し、斥けられている人びとを訪ねましたが、それは、当事の宗教支配者たちの不興を買い、命を狙われます。
 そして、売られ、逮捕され、不当な裁きを受け、死刑を宣告され、十字架につけられ、死んで、暗い墓穴に閉じ込められます。イエスの短い人生は挫折の死で終わりました。イエスを慕った弟子たちや女性たちも挫折しました。倒れました。
 すべてが終わり、イエスとはもう会えない、という絶望が支配しました。けれども、この挫折と絶望を打ち破る出来事が起こったのです。
 神さまは、挫折して倒れ死んだイエスを起き上がらせて、暗い墓穴から明るい光の世界へ導き出したのです。
 イエスに従っていた人びとも、挫折から起こされました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(28:10)
 ガリラヤを故郷とし、そこでイエスともに歩んだ人びとにとって、エルサレムで挫折したのちガリラヤに戻ることは、挫折から立ち上がることでした。
 わたしたちも人生において何度か倒れますが、そのつど神さまが起こしてくださいます。死もわたしたちの終わりではありません。神さまが起こしてくださいます。

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2024-03-31 [使信]

2024年3月31日 マタイ28:1-10 「起き上がる」
 おはようございます。そして、イースターおめでとうございます。さて、わたしはどうして、使信の最初に「おはようございます」と言うのでしょうか。そして、今日はどうして「イースターおめでとうございます」と言うのでしょうか。イースターの何がめでたいこと、愛すべきこと、喜ぶべきことなのでしょうか。
 今日の聖書には、イエスは「復活なさったのだ」「あの方は死者の中から復活された」とありますが、もともとの言葉の意味になるべく近い日本語で言えば、これは、「起こされた」「寝ている状態、横たわっている状態から起き上がらされた」ということになるそうです。
 「起こされる」、これは、わたしたちの人生で言えば、たとえば、病気からの回復、あるいは、苦境からの脱出、あるいは挫折からの再起ということに近いかもしれません。
 わたしたちの世の中は挫折に満ちています。イッペイさんもショウヘイさんもナオミさんもぜひ挫折から再起してほしいと願います。
 朝ドラの「ブギウギ」が終わりました。あの主人公にもさまざまな挫折がありました。最初に受験した音楽学校には不合格になりました。両親はじつは育ての親であることを知ってしまいました。愛する弟、戦争で死ぬのが怖いと言った弟が戦死しました。戦争で歌えなくなりました。愛し合って結ばれた夫が病気で死んでしまいました。けれども、彼女は、これらの挫折からそのたびに起き上がりました。敗戦後、笠置(かさぎ)シズ子さんや美空ひばりさんの歌によって、励まされた、生きる元気をもらった、という人も、すくなくないのではないでしょうか。
 大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部、ドラマでは、いまのところ、「まひろ」と呼ばれていますが、彼女は藤原道長との別れから再起できるのでしょうか・・・できるに決まっていますが、どのように再起するのでしょうか。
 イエスも挫折をしました。イエスは、神の国を宣べ伝え、病人を癒し、斥けられた人びとを愛しましたが、おそらくは、それゆえに、祭司長、律法学者、宗教支配者によって殺そうと計画されました。そして、ユダから売られます、ペトロに知らないと言われます。弟子たちが逃げていきます。
 最高法院で死刑の判決を受けました。ピラトによって死刑の許可がくだされました。ローマ兵や人びとから辱められました。十字架につけられました。そこで、死にました。暗い墓の中に葬り去れました。イエスは倒されたのです。イエスの死は挫折でもありました。イエスは殺され、倒れ、地面に横たえられたのです。
 けれども、死んで大地に身を横たえたイエスを神さまは起き上がらせました。神さまはイエスを起こしました。イエス・キリストは、ただ死んで復活したのではなく、挫折の死から復活したのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書28章1節です。28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
 「安息日」とは、金曜の日没から土曜日の日没のことです。そして、「週の初めの日」とは、土曜日の日没から日曜日の日没ということになりますが、「週の初めの日の明け方」とありますから、これは朝の話、つまり、日曜日の朝のお話です。今日と同じ日曜日の朝のことです。教会が日曜日の朝に礼拝をするのは、これにちなんでのことです。日曜日はお出かけしたいから、朝のうちに礼拝を済ませておこう、ということではありません。
 「墓を見に行った」とあります。マグダラのマリアたちは、イエスは死んだまま墓に横たわっていると考えていたのです。イエスは挫折の死の状態のままだと思っていたのです。ここには、あきらめが感じられます。イエスの死は、イエスについて生きて来た彼女たち自身が挫折することでもあったのです。
 けれども、挫折とあきらめをひっくり返すような出来事が生じます。28章2節です。28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
天使が「石をわきへ転がした」とあります。イエスは、挫折の死により倒れ、暗い墓に寝かされ、そこに閉じ込められていました。けれども、「石をわきへ転がす」とは、イエスが閉じ込められた空間の扉を開くことを意味します。そのことは、さらに、倒れて寝ているイエスを起き上がらせ、明るい光の外へ連れ出しました。「その上にすわった」とあります。天使はイエスを閉じ込めた石を制覇したのです。天使はイエスを閉じ込めた闇を打ち破ったのです。
 この天使がしたことは、そのまま神さまがイエスにしたことでありましょう。挫折して、死んで、倒れ、闇に閉じ込められたイエスを、神さまは起き上がらせ、扉を開け、光の中に導いたのです。
5節です。28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
 「恐れることはない」とあります。これは、この不思議な出来事に恐れることはない。ということだけでなく、自分たちの師であるイエスが挫折の死を遂げてもう会えない、もうここにはいない、自分たちには助けも支えもない、と恐れる必要はない、ということでもありましょう。
 「あの方はここにはおられない」とあります。イエスは挫折の死によって倒れたままでいるのではありません。イエス・キリストは墓に閉じ込められたままではありません。あの方は起き上がった、あの方は起き上がって、光に満ちあふれた広い世界へと出て行かれた、と天使は言うのです。天使はイエス・キリストは「復活なさった」と言います。復活とは、挫折して一度は死んだ者が、しかし、起き上がって、闇にとどまらず、闇から光へと出て行くことなのです。
 7節です。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」「死者の中から復活された」。
 イエス・キリストは挫折の死から起き上がりました。神さまが起こしたのです。イエス・キリストは、挫折の死から復活しました。
 皆さまには何度もお話ししたことで恐縮ですが、これしか話のネタがないので、今日もお話しいたします。わたしは、数年前に20年近く務めた前の職場を辞めることになりました。このことは大きな挫折でした。
 あれはひとつの死でした。あんなに打ちのめされたことはありませんでした。先週、イエスを人びとが取り囲み理不尽に責め立てたという話がありましたが、そのときのわたしもそんな状態を痛感していました。
 しかし、数年経った今、数年前とはまた違う人生の展開を与えられています。何よりも、まぶね教会で日々有意義に過ごさせていただいておりますし、思いがけなく、いや、これは嘘で、わたしから「わたしにできる仕事があれば」と売り込んだのですが、その結果、農伝で授業を受け持ったり、また、神学生とともに歩むことができたり、しっかりと、起き上がって歩いています。
 イエス・キリストは「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」とあります。「あなたがた」とは、弟子たちのことです。弟子たちは逃げました。しかし逃げなかった女性たちが弟子たちに「イエス・キリストはあなたがたより先にガリラヤに行かれる」と告げるのです。
 ガリラヤは弟子たちのふるさとです。弟子たちもイエス・キリストとともにガリラヤからエルサレムに出て来て挫折したのです。これは、日本で言えば、地方から東京に出て来て挫折したみたいなものかもしれません。その弟子たちがガリラヤにもどることは、挫折した弟子たちの再起を意味するのではないでしょうか。そして、イエス・キリストがそのガリラヤに「先に行く」とは、イエスが弟子たちに先立って、再起し、それによって、弟子たちも再起する、ということではないでしょうか。
わたしたちは人生においてたびたび挫折しますが、この挫折からの再起は、イエス・キリストの再起、イエス・キリストの復活によって導かれます。イエス・キリストの復活によって、わたしたちは人生における挫折からの復活が可能になります。
 イエスが挫折の死から復活したという物語は、わたしたちも挫折しても立ち上がることができることを意味します。挫折したわたしたちを神さまが立ち上がらせてくれることを意味します。暗い墓に閉じ込められたイエス・キリストを神さまが起き上がらせ、光へと導いたように、わたしたちが闇の中で倒れても、神さまが起こして下さり、光へと進ませてくださいます。
 9節です。28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
 復活したイエス・キリストは「行く手に立っていて、おはよう」と言われました。わたしたちは挫折から起き上がってもどうしたらよいのか、不安です。この先やっていけるのか不安です。けれども、わたしたちのこの先、わたしたちの行く手には、イエス・キリストが立っておられるのです。イエス・キリストがわたしたちの行く手に、先に行って待っていてくださるのです。
 そして、「おはよう」と言ってくださるのです。わたしの使信やメッセージは、「おはようございます」で始まります。これは、挫折の死から起き上がったイエス・キリストが「おはよう」と言ったことを、皆さんに思い出していただくためです。つまりは、イエスは復活した、起き上がったことを思い出していただくためです。
 10節です。28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 「ガリラヤへ行くように」とあります。これは、神さまはあなたたちを挫折の死から起き上がらせてくださるのだから、あなたたちも起き上がって、前に進もうではないか、というメッセージではないでしょうか。
 神さまがわたしたちを起き上がらせてくださいます。わたしたちも起き上がって、光の中へと歩みましょう。
 祈り:神さま、あなたは、挫折して死に、暗い墓に閉じ込められたイエス・キリストを起き上がらせてくださいました。そして、わたしたちも、人生において、何度倒れても、あなたは、起き上がらせてくださいます。ですから、わたしたちは、死をも恐れることはありません。あなたが起き上がらせてくださいます。神さま、今、道に倒れている友を、どうぞ、起き上がらせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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イエスの受難 [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月24日 「イエスの受難」

https://youtu.be/ffhTZD4eMY0
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2024年3月24日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:30)
 イエス・キリストは十字架でどのように苦しまれたのでしょうか。ヨハネ福音書によりますと、人びとはイエスを前にして「殺せ、殺せ、十字架につけろ」(19:16)と叫びます。
 イエスは十字架を背負わされ、「されこうべの場所」(ゴルゴタ)まで歩かされます。そこで、人びとはイエスを十字架につけます。左右には犯罪人の十字架が並んでいます。
 十字架の頭部には「ユダヤ人の王」と記されました。けれども、これは敬意ではなく、罪状です。ユダヤ人の王を僭称したという嘲笑の意もあるかもしれません。
 兵士たちはイエスの服をわけあいます。イエスは「渇く」と言います。これは詩編22編に重なります。「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:18-19)。「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(詩編22:15-16)。
 服の分割とイエスのかわきは、イエスの心身が引き裂かれ、打ち砕かれることを意味しているのではないでしょうか。
 そして、イエスは息を引き取ります。イエス・キリストの苦しみの前でわたしたちは何を思うのでしょうか。わたしたちは無実なのでしょうか。
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イエスの受難 [使信]

2024年3月24日 ヨハネ19:13-30 「イエスの受難」

おはようございます。イエス・キリストはわたしたちにとってどのような存在、どのようなお方なのでしょうか。「イエス・キリスト」という言葉には、「キリストであるイエス、救い主であるイエス」という意味、あるいは、「イエスはキリストである、イエスは救い主である」という意味があります。イエス・キリストは、わたしたちにとって、どのような意味でキリストであり、どのような意味でわたしたちの救い主なのでしょうか。

いろいろな考え方があります。たとえば、イエス・キリストは、病気の人、罪人と呼ばれる人たちを大事にしました。つまり、当事のユダヤの宗教権力者から虐げられていた人たち、弱い立場にいた人たちを大切にしました。

その意味では、イエス・キリストは、わたしたちが、隣人、とくに、弱い立場にある人を愛し、人を虐げる人たちに抗議を示す生き方をしようとするときのリーダー、お手本であるとも言えるでしょう。

あるいは、イエス・キリストは、わたしたちに、神さまを愛すること、そして、隣人を愛すること、とくに、もっとも小さな者を愛することが、わたしたちが生きる上でいかに大切であるかを教えてくれました。それは、モーセが神さまからの十の戒め、十戒をイスラエルの民に伝えた姿を思い出させます。この意味でも、イエスはわたしたちのキリストであると言えるかもしれません。

 あるいは、イエス・キリストは、「神の国は近づいた」と宣言し、種のたとえなどによって神の国、神さまの愛のお治めがゆたかに育つことを教えてくれました。また、インマヌエル、神さまがわたしたちとともにいますことを教えてくれました。さらに言えば、イエス・キリストは、インマヌエルそのもの、神さまがわたしたちとともにいらしてくださる出来事そのものです。この意味でも、イエスはわたしたちのキリスト、救い主でありましょう。

今は受難節で、わたしたちはイエス・キリストの生涯をしのんでいますが、わたしにとっては、「救い主」「神の子」と呼ばれる人がこんなに苦しめられ、こんなに苦しんだことが、ある意味、わたしの救いとなりました。わたしもわたしなりに、人生、苦しんで来ましたが、「救い主」「神の子」と呼ばれるお方も苦しまれた、いや、わたしなどよりはるかに苦しまれた、と知り、わたしは、喜んだ、というよりは、救われた思いがしました。この意味で、イエス・キリストはわたしのキリスト、救い主であるのです。

イエス・キリストは、十字架において、わたしたちとともに苦しんでくださいました。イエス・キリストはその苦しみにおいて、わたしたちの苦しみを背負ってくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主です。

さらに、イエス・キリストは、十字架において、わたしたちの罪を背負ってくださいました。神さまから離れ、隣人から離れる、神さまを信頼しきれず、隣人を愛しきれない、いつも、自分は自分はと言い続ける、わたしたちのこの罪によって、わたしたちのこの罪を背負い、イエス・キリストは十字架についてくださいました。この意味で、イエス・キリストはわたしたちの救い主なのです。

ただし、わたしたちの苦しみとわたしたちの罪を安易に結びつけるべきではないでしょう。わたしたちが病気やその他のことで苦しんでいるのは何かの罪の罰を受けていると考えるべきではありませんし、誰かが苦しんでいるのを見て、ああ、あれはあんなことをした当然の報いだ、などと考えるべきではありません。

来週の日曜日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターです。そして、今週は受難週、イエス・キリストの十字架の苦しみをしっかりと見つめ、かみしめ、心に深く想う一週間です。

今日はイエス・キリストの受難物語をヨハネによる福音書から読んでいただきましたが、皆さん、今週は、ご自宅で、ぜひ、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の受難物語、ユダの裏切り、最後の晩餐あたりから十字架のあたりまでを読んで、イエス・キリストの十字架の苦しみをしのんでみてください。

今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書19章15節です。19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。

「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。イエス・キリストは、多勢に無勢で、自分を取り囲む大勢から激しい言葉、残酷な言葉、罵声を浴びせられています。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」などという、彼らのその言葉に正当性はありません。

彼らは、ただ自分の恨みや怒りをそのまま言葉にし、多勢の力でそれがあたかも正当であるかのように装い、自分たちは正しいと言い張ります。けれども、この言葉を浴びせられる方からすれば、こんな理不尽なこと、こんなでたらめなことはありません。彼らのこの言葉とこの行為は、相手の命、または、
それに匹敵するものを、奪いとります。イエス・キリストは、この苦しみを受けたのです。

彼らはまた「皇帝のほかに王はありません」と言います。これは、イエス・キリストに直接向けられた言葉ではありませんが、これも理不尽な言葉です。本来、ユダヤ人にとって神さまだけが王でした。人間の王はいなかったのです。しかし、ダビデ王、ソロモン王があらわれ、イエスの時代には、ヘロデ家の王がいました。そして、いまや、人びとはイエス・キリストの前で、ローマ皇帝が王だと言いだします。

これはイエス・キリストにとってなんと苦しいことでしょうか。イエス・キリストは「神の国」を宣べ伝えました。「神の国が来た」とは、神さまこそがわたしたちのまことの王です、という意味です。これを伝えたイエス・キリストにとって、「皇帝のほかに王はありません」という人びとの言葉は、神さまこそがまことの王であることを否定する耐えがたい言葉ではなかったでしょうか。

16節です。19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

ローマ帝国からユダヤに派遣されてきた総督ピラトは、イエスを十字架刑にすることを認めました。「引き渡した」とあります。これでは、イエスがモノのようではありませんか。イエスはモノのように、イエスのいのちはモノのように、そして、ピラトにはその生殺与奪の権があるかのように、イエスは引き渡されたのです。自分の命がモノのように、右から左へと運ばれるモノのように扱われる苦しみをイエス・キリストは味わったのです。

 17節です。19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

「自ら十字架を背負い」とあります。十字架は死刑台です。自分がそこで殺されることになる死刑台を自ら運ばせられるのです。イエスはこの苦しみを背負わされました。けれども、イエスはその背負わされた苦しみを、あえて自ら背負いなおしたのかもしれません。人から強いられたものであったけれども、あえて、それをご自分で引き受けられたのです。わたしたちも人から背負わされたものにはNOと言って降ろす生き方も非常に大切ですが、それがどうしても避けることのできないものであれば、あえてそれを背負う生き方を考えるべき場合もあるのではないでしょうか。

18節です。19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
十字架は死刑です。イエスは死刑にされました。イエス・キリストは死刑にされることの苦しみを受けました。無実であるにもかかわらず、犯罪者とともに死刑にされました。けれども、それは、イエス・キリストはご自分の苦しみだけでなく、死刑にされる犯罪者の苦しみもともになさったことを意味するのではないでしょうか。

19節です。「19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

「ユダヤ人の王」とあります。これは、むろん、王への敬意ではなく、はんたいにこれは罪状書です。
これまでも、人びとはイエス・キリストのことを王と呼んできました。ある人は、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言って、イエス・キリストを称えました。ある人びとは、イエス・キリストを政治の上での王に仕立て上げようとしましたが、イエス・キリストはそれから逃れました。

イエス・キリストがエルサレムの都に入ってくるとき、人びとは、「これはイスラエルの王だ」と言って大歓迎しました。

しかし、あるとき、人びとは、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていました」と訴えました。つまり、イエス・キリストは自分は王であるなどと不遜なことを言ったと言うのです。

 イエス・キリストは「神の国が来た」「神さまこそがまことの王だ」と人びとに教えましたが、皮肉にも、人びとは、イエス・キリストは、自らユダヤ人の王であると名乗ったという罪状を付したのです。

23節です。19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

これは旧約聖書の詩編22編からの引用です。旧約聖書の詩編22編2節から読んでみましょう。
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

この詩編22編の言葉はイエスの十字架と深くつながっています。今お読みしたように、詩編22編には「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」とありますが、イエス・キリストも十字架上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、何故、われを見捨てたもう」と叫ばれました。

詩編22編には今お読みしたように「主に頼んで救ってもらうがよい」とありましたが、マタイによる福音書によりますと、イエス・キリストも人びとから、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」とののしられます。

 詩編22編はさらにつづきます。

22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

 今の詩編の最後に「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」とありますが、今日のヨハネによる福音書に、「「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである」とあるのは、この詩編22編のことです。

そして、詩編22編とあわせて読みますと、ヨハネ福音書で、兵士たちがイエス・キリストの服を分け、くじ引きにもしたということは、イエス・キリストを犬のように取り囲み、群がって、猛獣のように手足を砕いたということになります。なんとも残虐なことです。
 けれども、これは、わたしたち人間の罪の姿でもないでしょうか。わたしたちは、人を取り囲み、人を食い物にしていないでしょうか。人を利用していないでしょうか。人を押さえつけていないでしょうか。人を苦しめていないでしょうか。

わたしたちのこの罪の姿がイエス・キリストを十字架に追いやったのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストにわたしたちのこの罪を背負わせましたが、イエス・キリストはそれをあえて背負ってくださったのではないでしょうか。
 28節です。19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「すべてのことが今や成し遂げられた」とあります。これには、「もう終わりだ、わたしは今や死ぬ」という意味と、もう一つは、「イエス・キリストはなすべきことをすべてなした」という意味があると考えられます。イエス・キリストがなすべきこと、それは、つまり、わたしたちの苦しみと罪を背負ってくださることです。

「渇く」とあります。これも先ほどの詩編22編につながっています。
詩編22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
 つまり、「渇く」とは、ただ喉が渇いたということではなく、たえがたい苦難、助けてくれる人がいないことを意味するのです。取り囲まれる。「渇く」とは、迫られる。牙をむいて襲い掛かられる。骨がくだかれ、心が蠟のように溶ける。塵と死の中に打ち捨てられることを意味するのです。
 29節です。19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

「頭を垂れて息を引き取られた」とあります。イエス・キリストは十字架上でこれだけ苦しんで、十字架上で息を引き取られました。

イエス・キリストのこの苦しみ、十字架、死は、わたしたちにとってどのような意味があるのでしょうか。これをかみしめながら、この一週間を過ごしましょう。

祈り:神さま、イエス・キリストは、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」とののしられ、神さまこそが王であると教えて来たのに自分が王を名乗っていると中傷され、十字架につけられ、服を引き裂かれ、取り囲まれ、骨を砕かれ、心を蝋のように溶かされてしまいました。なんという苦しみしょうか。イエス・キリストのこの十字架の前でわたしたちは無実でしょうか。わたしたちは、このイエス・キリストから何を受け取るのでしょうか。神さま、わたしたちを誠実で深い祈りへとお導きください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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イエスがその足でしてくださったこと [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月10日 「イエスがその足でしてくださったこと」

https://youtu.be/pRiEK-QK5XY
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イエスがその足でしてくださったこと [使信]

使信 2024年3月10日 
 「イエスがその足でしてくださったこと」  ヨハネ12:1-8
 おはようございます。今日の聖書には香油、良い香りのする油の話が出てきますが、わたしは、香、香りにはあまり縁がありません。それどころか、香りで始まる小説、世界的な名作と呼ばれる小説に挫折したことがあります。
 それは、プルーストの「失われた時を求めて」という作品です。その冒頭に、「私は無意識に、紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌごと、ひと匙のお茶をすくって口に持っていった」とあります。そして、紅茶に浸したマドレーヌの香りによって、幼い頃の記憶が突然呼び起こされた、というのです。
 20世紀を代表する名作小説と言われていますが、ここから先の文章がとても難しいのです。センテンスが長いし、何が主語なのか、何が書かれているのか、意味がさっぱりわかりませんでした。それでも、世界の名作だからと思い、なんとか100頁位までわからないまま読み続けましたが、意味がわからないのに文字を読み続ける、その苦痛に耐えきれなくなり、ついに、ごみ箱に捨てました。千円もしない文庫本でよかったです。
 たしかに、元気を出させてくれる香りがあると思います。華やかな気持ちにしてくれる香りもあると思います。はんたいに、気持ちを落ち着かせてくれる香りもあります。わたしも線香の香りは嫌いではありません。
 今日の聖書で、マリアはなぜ、ナルドの香油と呼ばれる高価な香油をイエスの足に塗ったのでしょうか。さらには、それを自分の長い髪で拭ったのでしょうか。マリアはなぜ、人から驚かれたり、もったいないと言われたりするような、そのような行為をしたのでしょうか。
 それは、イエスがマリアにこれまで何かをしてくれたからなのでしょうか。そうであれば、イエスはマリアにこれまでどんなことをしてくれたのでしょうか。
 あるいは、今日の箇所は、イエスの死が近づいている、という文脈にあります。イエスはマリアの兄弟ラザロを生き返らせました。それを目撃した人びとはイエスを信じるようになりました。けれども、イエスを信じる人びとが増え、大勢の人びとの群れができると、暴動が起きるのではないかとローマ帝国は警戒し、ユダヤを滅ぼそうとするかもしれない、とファリサイ派や祭司長たちは恐れます。そして、そうならないうちにイエスを殺してしまおう、イエスの居場所を探して、イエスを逮捕しよう、ということになるのです。
 今日の聖書の話は、過越し祭の六日前に起こったとあります。ユダヤでは過越し祭では、犠牲の羊が神殿にささげられます。つまり、死の香りがし始めているのです。イエス自身、マリアが高価な香油を塗ってくれたのは、「わたしの葬りの日のために」と言います。このようにイエスの死がひしひしと近づく中で、マリアはどのような思いで、イエスの足に高価な香油を塗ったのでしょうか。イエスとマリアの間にはこれまでどのようなことがあったのでしょうか。
 今日の聖書の箇所に至るまでの、イエスとマリアの関係を振り返ってみましょう。エルサレムに近いベタニアというところに、マリアは姉妹のマルタ、そして、兄弟のラザロとともに住んでいました。ラザロはイエスに愛されていた者だと言われていますが、病気にかかってしまいます。
 マリアとマルタはそれを知らせにイエスのもとに人を遣わします。「兄弟ラザロの病気が重いのです、死にかけています、助けてください」、ということなのではないでしょうか。けれども、イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言います。
 それでも、イエスはラザロのもとに向かいます。先日もイエスは石で撃ち殺されるところだったのに、エルサレムにはそのような人々が待っていたのに、ベタニアはそのエルサレムに近いのに、イエスはラザロのもとに駆けつけるのです。
 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言って、イエスは死の危機にあるラザロのもとに駆けつけるのです。このイエスの心は、死が近づいているイエスの足に香油を塗ってイエスに仕えたマリアの心に似ているのかもしれません。
 駆けつけてくれたイエスをマルタは家の外に迎えに行きます。けれども、マリアは家の中で待っています。今日はヨハネによる福音書を読んでいますが、ルカによる福音書にも、このマリアとマルタのお話がでてきます。そこでは、マルタはイエスのもてなしで忙しく動き回りますが、マリアはイエスの足元にじっとすわって、イエスの話に耳を傾けます。ルカによる福音書における活動的なマルタと静かなマリアの姿が、今日のヨハネによる福音書にもうかがえるのかもしれません。
 ヨハネによる福音書ですと、外に出てイエスを待っていたマルタに呼ばれて、家の中で静かにしていたマリアもようやく立ち上がりイエスを迎えます。マリアはイエスに会うと、足元にひれ伏しました。これは、今日の聖書の箇所より前の話です。けれども、その中で、マリアがイエスの足元にひれ伏したとあるのは、今日のお話でも、マリアがイエスの足元にしゃがんでイエスの足に香油を塗ったことにどこかで通じているのかもしれません。
ラザロが死に瀕している、さらには、死んでしまったと聞いて駆けつけてくれたイエスにマリアは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。
 けれども、イエスはほんとうにここにいなかったのでしょうか。死にゆくラザロ、そして、その傍らに立つマリアとマルタと一緒に、イエスはいなかったのでしょうか。じつは、目に見えなくても、イエスはそこにいたのではないでしょうか。マリアはそれをわかっていなかったのではないでしょうか。
 マリアは涙を流します。すると、イエスも涙を流しました。ともに泣いてくれる人がいるとき、わたしたちの悲しみはさらに深まりますが、深まりつつも癒されて行きます。
 兄弟ラザロをなくしたマリアとマルタのところにイエスがその足で駆けつけたのは、このようにともに涙を流すためではなかったでしょうか。イエスの足は、悲しむ者とともに悲しむイエスをそこに運ぶためにあったのではないでしょうか。
 イエスがその足でマリアとマルタのところに駆けつけたのには、もう一つの理由があるように思います。それは、死は終わりではない、ということを告げるためではないでしょうか。ラザロは死んでしまったけれども、そのことで、マリアとマルタとのつながりは終わってしまうのではない、ということを告げるために、イエスはその足でふたりのもとに駆けつけたのではないでしょうか。
 「あなたの兄弟ラザロは復活する」「わたしは復活である、命である」とイエスは言ったのですが、この言葉は、ラザロは死んでしまったけれども、イエスが、ラザロのいのちとマリアとマルタのいのちをつなげていてくださることを意味しているのではないでしょうか。
 本日の聖書の箇所で、マリアはイエスの足に高価なナルドの香油を塗りますが、イエスのその足は、マリアにとって、悲しむ自分のところに駆けつけてくれ、ともに涙を流してくれ、そして、死は終わりではない、ラザロとのいのちのつながりはこれからも続くことを教えてくれたイエスの足だったのではないでしょうか。
 イエスはその生涯において、その足で、悲しむ人、苦しむ人、斥けられた人のところに赴きました。イエスはガリラヤの貧しい庶民のところに赴き、神さまの国がやって来たよ、神さまの愛がわたしたちを治めてくれるよと、慰めの言葉を語りかけたのです。
 旧約聖書のイザヤ書にこのような言葉があります。52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。
 「あなたの神は王となられた」というのは、神さまこそが王となってわたしたちを治めてくださる、愛で治めてくださる、だから、安心していいですよ、平安でいてください、というメッセージですから、「神の国が近づいた」というイエスのメッセージと同じなのです。
 そして、イザヤはそのような良い知らせ、つまり、福音を伝える人の足は美しい、と言うのです。イエスの足もそのように美しい足だったのではないでしょうか。
 そのような足の持ち主であるイエスがまもなく死をむかえようとしています。マリアはどんな思いでしょうか。どんな思いでその足に香油を塗ったのでしょうか。
 大切な人が天に召されたとき、わたしたちは悲しみます。遺族の悲しみを思います。同時に、天に召された人に感謝します。召された人の人生の思いをふりかえり、それを少しでもわかちあおう、受け継ごうとするのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ラザロが死んでイエスがマリアとマルタのところに駆けつけたというのは、今日の聖書より少し前のお話で、今日の聖書は、その続きになるのです。
 ヨハネによる福音書12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
 過越しの祭りが近づき、この祭りで神殿にささげられる羊のように、死にゆくことを前にしたイエスの足に、マリアは純粋で高価なナルドの香油を塗ります。一リトラとはおよそ330グラムくらいということですから、マリアはコップ一杯と少しの香油を心を込めてイエスの足に注いで塗ったのでしょう。
 純粋で非常に高価な香油とありますが、これは、マリアの心、イエスに仕えるマリアの心も、純粋で高価、価高い、神さまの眼からは価高いことを意味しているのではないでしょうか。マリアは、イエスの足に、自分のもとに駆けつけて涙を流し、死は終わりではないことを教えてくれたイエスの足に高価な香油を塗ることで、イエスの死を悲しみ、同時に、イエスの生涯に感謝し、そして、イエスの心を少しでもわかちあおう、引きつごうとしたのではないでしょうか。
 「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。イエスを思うマリアの美しくも悲しい心と、マリアと一緒に涙を流したイエスの悲しくも美しい心で、その家がいっぱいになったのではないでしょうか。
 4節です。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
 ユダはこんなことを言いましたが、貧しい人びとのことなど思っていませんでした。反対に、イエスがその足でなさった愛のわざを思い起こし、その足に香油を塗ったマリアは、イエスの心をわかちあい、イエスの心をひきついで、自分もその足で、これからは目に見えないイエスとともに、貧しい人びとのところに、イエスが目に見えなくなっても訪ね続ける貧しい人々のところに足を運ぶのではないでしょうか。
 わたしたちもそうでありたいと思います。受難節です。イエス・キリストは十字架への道を歩みつつありますが、わたしたちは、イエス・キリストがわたしたちにしてくださったことに感謝しつつ、イエス・キリストのお心をマリアとともにわかちあい、ひきつぎ、イエス・キリストとともに歩む者でありたいと願います。
 祈り:神さま、イエス・キリストはその足でわたしたちのもとに、悲しむ者のもとに、苦しむ者のもとに、平安でない者のもとに、貧しい者のもとに、駆けつけてくださいます。わたしたちが、その足をマリアのように大切に思うことができますように。そして、わたしたちがこの足でイエス・キリストとともに心傷める者のもとに赴くことができますように、どうぞお導きください。わたしたちが自分の十字架を背負って、イエス・キリストにともに歩んでいただけますように。今もっとも苦しんでいる友のもとにイエス・キリストの足音が聞こえますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。



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2024年3月10日 [今週の聖書の言葉]

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)

 「そのとき」とは「過越祭の六日前」(12:1)であり、イエスが比喩的に「わたしの葬りの日」(12:7)と言った日のことです。この箇所の直前の11章末によれば、祭司長やファリサイ派がイエスを「殺そうとたくらんで」(11:53)、「逮捕」(11:57)のための命令が出ていました。
 このようなときに、マリアはなぜイエスの足に高価な香油を注いだのでしょうか。イエスの足はマリアに何をしてくれたのでしょうか。
 11章によりますと、マリアとマルタの兄弟ラザロが死にますが、イエスはその足で駆けつけてくれました。そして、マリアとともに涙を流してくれました(11:35)。さらには、墓に葬られたラザロを呼び出してくれました(11:44)。
 つまり、悲しむとともに悲しみ、さらには、死は終わりではない、死によってラザロとマリアのつながりは終わらないことを教えてくれるためにイエスの足はマリアのところに来てくれたのではないでしょうか。
 今度は、マリアが死を前にしたイエスとともに悲しみますが、同時に、そのイエスの思いを受け継ごうとします。つまり、マリアもその足で、イエスとともに悲しむ者を訪ねる者となろうとしている、さらには、死がすべての終わりではないことを告げる者になろうとしているのではないでしょうか。マリアがイエスの足に高価な油を塗ったことにはこのような祈りが込められていたのではないでしょうか。

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2024年3月3日 [礼拝説教(使信)動画]

2024年3月3日 「物質と霊」

https://youtu.be/l263DL8ypso
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