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生きた水 [礼拝説教(使信)動画]

2024年5月12日 「生きた水」

https://youtu.be/VNmC87m_vIs
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2024年5月12日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。(ヨハネ7:38-39)

 ここに「水」と「霊」という言葉が出てきます。これらは、聖書全体を通して、神さまとイエス・キリストを表現するために用いられています。
 荒れ野を旅するイスラエルの民は喉の渇きをモーセに不満としてぶちまけますが、神さまは岩から水をほとばしり出させます。
 アブラハムとサラ夫妻に追い出されたハガルとその子イシュマエルも荒野で水もなく死にそうになり、子は泣きますが、神さまはそれを聞き、ハガルに井戸を示します。
 創世記によれば、神さまは土の塵で人間を作り、命の息を吹き込みます。これは霊そのものです。エゼキエル書には、枯れた骨の上に霊が吹くと、それが生き返る幻があり、これは、バビロン捕囚からの解放を示していると言われています。
 ヨハネによる福音書7章では、イエス・キリストはまもなく自分はいなくなることを弟子たちに告げますが、それは永久の別れではなく、じつは、イエス・キリストは弟子たちの心の中で生きた水として泉のように存在し、力と命を与え続けます。
 また、イエス・キリストは天から聖霊を弟子たちに送りますが、それは、生きた水と同じことなのです。
 イエス・キリスト、そして、神さまは、わたしたちに命の霊を吹き込みつづけ、命の泉でありつづけてくださいます。

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生きた水 [使信]

2024年5月12日 「生きた水」ヨハネ7:32-39

おはようございます。わたしたちときどき、少し疲れたなあ、ということがありますが、そういうとき、わたしたちはどのようにしてリフレッシュしようとするでしょうか。わたしの場合、たとえば、音楽ですね。掃除をするとき、ヘッドホンで、若いころよく聞いた音楽を聴きながら、掃除機を動かします。それから、あまり頭を使わないでよいような単純事務作業をするときも、音楽を流しています。

寝転がって、テレビドラマや映画を観ることも、疲れたときには良いかもしれません。それから、机に向かって、あるいは、電車やバスの中で、心に沁み込む本を読むことですね。あるいは、散歩もよいですね。柿生の駅までならたいて歩きますし、このあたりの20分くらいの散歩は大好きです。先日は、寺家まで行って田んぼのカエルや森の野鳥のさえずり、そよかぜや緑の光景を楽しんで来ました。

では、わたしたちが少しどころかひどく疲れて、もう力が出ないようなとき、どんなものがわたしたちを生き返らせてくれるでしょうか。たとえば、真夏の炎天下で汗を書いて喉がからからでもう歩くのも嫌になってしまったときに飲む冷たい水。あるいは、緑あふれる自然の中の新鮮な空気はいかがでしょうか。元気という言葉もあるように、空気の「気」は生命力につながるのかもしれません。

今、水と空気の話をしましたが、今日の聖書にこうあります。「7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」

ここにも、水と霊が出てきます。聖書においては、霊は息、風に通じる言葉ですから、霊は空気ともつながるのではないでしょうか。わたしたちが疲れ果てたときに、新鮮な空気を吸うことは、神さまの霊を吸うことにつながるのではないでしょうか。

神さま、イエス・キリスト、聖書の言葉(御言葉)は、わたしたちにとって、どのような存在でしょうか。神さま、イエス・キリスト、聖書の言葉は、わたしたちにとって、今お話ししたような、水や空気のような存在、つまり、わたしたちを生かしてくれるものではないでしょうか。今日はそのようなことを皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

聖書において、まず、水はどのようなイメージのものなのでしょうか。聖書の箇所をいくつかみてみましょう。

旧約聖書の詩編78:15にこうあります。78:15 荒れ野では岩を開き/深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。

これは、どういうことかと言いますと、旧約聖書の民数記にこういう話が載っています。イスラエルの人びとはエジプトを脱出して、約束の地を目指しますが、その途中で荒れ野をさまよいます。

そして、飲み水がないという事態に遭遇しました。イスラエルの人びとは、指導者であるモーセやアロンに文句を言います。喉が渇いてこんな死にそうな苦しい目に遭うならば、エジプトで死んでいた方がましだったというのです。そこで、モーセが杖で岩をたたくとそこから水がほとばしり出て、人びとは喉を潤し、さらには、いのちを保つことができました。

つまり、ここでは、神さまには、水と同じように、荒れ野で苦しみ精魂尽き果てようとしている民を生き返らせるイメージがあります。

新約聖書にも水にまつわるエピソードがあります。あるとき、イエスは井戸端である女性に水を飲ませてください、と頼みます。そして、こう言います。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とあります。ここには、水とともに泉という言葉が述べられています。神さまには水とともに泉のイメージがあるのです。

旧約聖書の詩編36:8にはこうあります。36:8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ36:9 あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。36:10 命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。

「命の泉はあなたにあり」とあります。ここでも神さまのことが泉として言い表されています。

 イザヤにはこうあります。41:17 苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。41:18 わたしは不毛の高原に大河を開き/谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし/乾いた地を水の源とする。

「谷あいの野に泉を湧き出させる」とあります。ここでも神さまには泉のイメージがあります。

さらには、神さまには井戸のイメージもあります。

 創世記によりますと、アブラハムとサラには子どもができず、アブラハムとハガルという女性の間に子どもができます。しかし、恨まれるようになり、ハガルと子どもは追い出されます。

 ハガルと子どもは荒れ野をさまよい、水が無くなり、死にそうになります。子どもは泣き声をあげます。すると、神さまはその泣き声を聞いて、ハガルに井戸を見つけさせます。その子はその水を飲んでいのちを保ち、成長していきます。ここでは、神さまは井戸と水のイメージで言い表されています。

 ここまでは、聖書において、神さまが水や泉や井戸のイメージで述べられていることを見てきました。

今日のヨハネによる福音書では、イエス・キリストのことが水ばかりでなく霊という言葉でも言い表されていますが、では、聖書において、霊はどのようなイメージのものなのでしょうか。

旧約聖書の創世記にこうあります。2:7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

「神さまは、人を土で作り、その鼻に命の息を吹き入れた」とあります。この「命の息」とくに「息」という言葉が、霊に通じるのです。つまり、霊は命の息、霊はわたしたちに命をもたらす、神さまの息だ、と旧約聖書は言うのです。

 旧約聖書のエゼキエル書には、枯れた骨が霊によって生き返る幻が出てきます。これは、バビロン捕囚によって骨のようになってしまったイスラエルの民が、そこから解放されることで命を取り戻すことの表現でもあります。

この箇所を少し読んでみましょう。37:1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。37:2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。

37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」37:4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

このように、旧約聖書で、霊は、体力も気力も失いかけた人間を生き返らせる神さまの力として、言い表されています。

新約聖書でも、霊はわたしたちに命を与えてくれる力として述べられています。たとえば、今日の聖書の箇所の少し前のヨハネによる福音書6:63にこうあります。 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 ここでも、霊は命と深く結びついています。

では、今日の聖書の箇所ではどうでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書7:32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。

「群衆がイエスについてこのようにささやいている」とあります。これは、人びとがイエスのことをメシアではないか、イエスはキリストではないかと言い始めたことを指しています。

イエスは五千人の人びととパンと魚をわかちあいました。また、湖の上を歩いて行かれました。ご自分のことを「命のパン」と言い表されました。また、「6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と語ったり、「6:65 「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」などと言ったりしました。こうしたことによって、人びとはイエスのことをキリストであるかもしれないと思い始めたようです。

けれども、これによって、祭司長やファリサイ派の敵意を買い、彼らは、イエスを逮捕しようとしたのです。

33節です。7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

 ここには、イエスの死が述べられています。これは、弟子たちにとっては、イエスとの別離でもあります。これは、じつは、永遠の別れではないのですが、弟子たちはそれをわかっていません。

「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」とあります。これは、じつは、イエスは弟子たちから遠く離れてしまうということよりは、イエスはわたしたちの目に見える証拠や論理による認識を超えた存在となるということでしょう。

35節です。7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。

ここにも、弟子たちの無理解が現われています。当時、ユダヤ人はユダヤの地だけでなく、地中海沿岸の諸地域にも移住していました。つまり、イエスはそのような地域、外国にでも行ってしまうのだろうか、と弟子たちは的外れなことも考えたようです。

37節です。7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

「聖書に書いてあるとおり」とありますが、これは、先ほど申し上げた旧約聖書の出来事のことです。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野で喉が渇いたと訴えたとき、モーセが杖で石を打つと水がほとばしり出たというお話のことです。

しかし、これは、昔の話だけではなく、イエス・キリストは、ご自分のことを、人びとの渇き、心や人生の渇きを、今、潤す水に例えているのです。それは、旧約においては、先ほど見たように神さまのイメージでもありました。

39節です。7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

「御自分が信じる人々が受けようとしている霊」とあります。これは、ヨハネによる福音書のいくつかの箇所に出てきます。

たとえば、15:26にはこうあります。15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

また、16:13にこうあります。16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

ここでは、真理の霊と言われています。真理の霊は弁護者とも言われているように、神さまがわたしたち人間を誠実に支えてくださることを示していると思われます。

また、ヨハネによる福音書の最後の方では、イエス・キリストが十字架で殺され、自分たちも危ないと家の中に隠れていた弟子たちのところに復活してイエス・キリストが現われてこう言われます。「20:22彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 ここでは、霊は、不安だらけだった弟子たちに、しっかりと生きていく勇気を与え、そのように促しています。

今日の聖書において、弟子たちは自分たちが愛し心の支えであったイエスと別れなくてはなりませんでした。しかし、それは永遠の別れではなかったのです。

イエスは目に見えなくなっても、弟子たち、そして、わたしたちの心の中の泉として、生きた水として、いらしてくださるのです。わたしたちに、いのちを与えてくださる、つまり、困難においても生きぬく力を注いでくださるのです。また、イエス・キリストは、聖霊として、新鮮な空気のように、疲れたわたしたちを生き返らせ、今日も生きる力を与えてくださるのです。

祈り:神さま、イエス・キリストは地上を去り、わたしたちの目には見えない存在になりましたが、わたしたちの心の中の泉、生きた水として、また、わたしたちに吹き込まれる命の息、霊として、わたしたちとともにいらしてくださいます。心から感謝いたします。神さま、孤独で力の出ない友を思います。どうぞ、あなたが、友の心の中で生きた水、泉となってください。どうぞ、あなたのいのちの息吹、聖霊が友の胸の中に満ちますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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世に勝っている [礼拝説教(使信)動画]

2024年5月5日 「世に勝っている」

https://youtu.be/Dm_EqKeCOWo
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世に勝っている

2024年5月5日 「世に勝っている」ヨハネ16:25-33
 おはようございます。電車に乗ろうとすると、ドアの右端と左端に陣取っている人たちがいて、乗り込みにくい、車両の奥まで進みにくい、と皆さんは、感じたことはないでしょうか。あるいは、電車から降りる時に、同じくドアの右端と左端に陣取っている人たちのせいで、なかなか降りられない、という場面がないでしょうか。その位置にいる人は、そういうときは、一度ホームに降りるのが常識だと思うのですが、ホームに降りてしまうと、ドアの右端や左端の位置、席に座れない場合は、立っているのが比較的楽なその位置を他の人にとられてしまうということで、ホームに一度降りようとしない人が多いようにおもいます。
 あるいは、わたしが電車に乗る際に、まず降りる人を待っているのに、それをわたしが乗るのをぐずぐずしているように思うのか、うしろからわたしを押しのけて電車に乗り込もうとする人たちもいます。まあ、困ったものですね。
 わたしは、バスで奥の方の座席にすわって終点で降りる時は、たいてい、ほかの人に先に降りていただくようにしています。他の人を押しのけて、我先に降りる必要はありません。
 相手と意見が違うときも、わたしは、なるべく相手に譲るようにしています。けれども、十代、二十代のころは、なかなか譲ろうとはしませんでした。自分の正しいと思う考えを通そうとしました。三十代、四十代、五十代では、譲ることを少し覚え、なるべく譲るようにしてきましたが、六十代になって、また、自分を通してしまう場面が増えてきたように思います。
 今日の聖書で、イエスは「わたしは世に勝っている」と言っていますが、「勝つ」とはどういうことでしょうか。わたしたちは小さいころから「勝つ」ことを教えられてきました。それは他の人より勝ることであり、他の人を押さえつけることでもなかったでしょうか。わたしたちは、そういう「勝つ」を教えられてきました。
 良い成績をとる、ということは、周りの人より良い点をとる、周りの人より優位に立つことであるとわたしたちは教えられてきました。わたしたちは、そして、点数だけでなく順位を喜ぶようになってしまいました。
 勉強だけでなく、ふだんの会話でも、相手の言うことに対して、「それは違う」と言って、自分の意見を主張しようとしてしまっています。何かを決めるような話し合いの場でも、自分の提案を通そうとしてしまいます。他の意見も聞いて、なるほど、そういう考えもあるね、とならない場合もしばしばあります。
 けれども、「勝つ」ということは、ほんとうは、そういうことなのでしょうか。イエスが「わたしは世に勝っている」と言っているのは、そういう意味なのでしょうか。イエスが言っている「勝つ」「世に勝つ」とはどういうことなのでしょうか。
 それは、むしろ、わたしたちの中に沁み込んでしまっている「勝つ」、相手を押しのけるという意味での「勝つ」を克服することではないでしょうか。わたしたちが人を押しのけて勝とうとする勝ち方に、イエスは勝っておられるのではないでしょうか。 
 つまり、この場合の勝つとは、相手を屈服させるのではなく、力によって勝つ、という勝ち方を克服することではないでしょうか。
 わたしが若いころに「最後に愛は勝つ」という歌が流行りました。 「心配ないからね 君の想いが 誰かにとどく明日がきっとある どんなに困難でくじけそうでも 信じることを決してやめないで どんなに困難でくじけそうでも 信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。こういう歌です。
 これは、誰かを愛すれば、その思いは必ず届く、という意味のようであり、人生にどんな困難があっても信じれば乗り越えられる、という意味のようでもあります。「誰かを愛すれば、その思いは必ず届く」・・・学生時代にこの歌を聴いて、やっぱりそうだよな、と胸が高鳴りましたが、じっさいには、わたしが誰かに恋心を抱いても、届かないことはしばしばあった、というか、届いたことはあまりなかったように思います。
 ところで、この歌で言っている「愛」とは何なのでしょうか。最後に勝つ愛とはなんなのでしょうか。それは、あくまで、人間の愛、人間の強い思いのことではないでしょうか。そして、ここにこの歌の限界があるのかもしれません。
 聖書にもこれと少しだけ似ている言葉があります。ローマの信徒への手紙13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。13:8 愛は決して滅びない。
 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 わたしは、昔、結婚式場でキリスト教タイプの結婚式の仕事をしていましたので、この聖書の言葉はじつは数百回は声に出して読んでいます。わたしが読むこの聖書の言葉を聞いて結ばれたご夫婦が世の中には何百組もおられるはずです。結婚式後、再会したご夫婦は一組しかいませんが。
 それとは別の話ですが、わたしのクリスチャンの友人は、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」という言葉を聞いて、クリスチャンになることを決意したと言います。その人は、いちばん大事なものが、「信仰」ではなく、愛であるということに救われた、と言います。
 これは、信仰が大事ではない、ということではなく、自分の信仰には自信を持てなかった、自分の信仰はそんなに大きなものではない、神さまに救ってもらうに値するほど自分の信仰は強くない、けれども、神さまの愛は大きい、神さまの愛がもっとも大きい、この言葉に救われて、洗礼を受けたそうです。
 信仰、希望、愛。これらは、わたしたちのものでもありますが、どうじに、神さまから与えられたものでもあります。けれども、信仰と比べて、希望や愛は、神さまから与えられたものである度合いが強いように思います。さらには、希望や愛は、神さまご自身でさえあります。
 つまり、「その中で最も大いなるものは愛である」という言葉には、わたしたち人間の思いよりも、人間の事柄よりも、神さまの方が圧倒的に大きなものなのだ、という意味があるのです。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書の箇所の最後の言葉「わたしは既に世に勝っている」とはどういう意味なのでしょうか。このことを考えながら、今日の聖書の最初の言葉から順に振り返ってみましょう。
 ヨハネによる福音書16章25節 です。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 
 「父について知らせる」とあります。イエス・キリストが弟子たちに、父なる神さまのことを知らせる、という意味です。この父なる神さまとの関係も、「わたしは既に世に勝っている」という、イエス・キリストの今日の最後の言葉につながっているように思います。
 つまり、今日の聖書の箇所では、わたしたちと父なる神さま、イエス・キリストと父なる神さまの関係が述べられていますが、イエス・キリストは既に世に勝っているとは、イエス・キリストが父なる神と深くつながっている、イエス・キリストが父なる神と一体である、ことと切り離すことができないのではないでしょうか。
 26節です。16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
 「父ご自身があなたがたを愛しておられる」とあります。つまり、ここでは、父なる神さまが弟子たちを深く愛しておられることが言われています。また、イエス・キリストは父なる神さまのもとからお越しになっておられ、弟子たちは、父なる神さまのもとからお越しになったこのイエス・キリストを愛しておられる、ことが言われています。
 28節です。16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
 「父のもとから出て、父のもとに行く」とあります。ここでは、イエス・キリストと父なる神さまの深い関係が言われています。
 30節です。16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
 「あなたが神のもとから来られた」とあります。つまり、ここでも、父なる神さまとイエス・キリストの深い関係が言われています。さらには、そのことを弟子たちが「わたしたちは信じます」と告白していることが言われています。
 32節です。16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
 この箇所では、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」が大事だと思われます。つまり、イエス・キリストはひとりではない、神さまがともにおられる、ということです。
 33節です。16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 このようにして見てきますと、「わたしは既に世に勝っている」とは、イエス・キリストが父なる神さまと一緒にいることと切り離せないことがわかるのではないでしょうか。
 さらには、イエス・キリストは父なる神さまと一緒にいることで世に勝っているわけですが、このイエス・キリストの弟子であることで、わたしたちも父なる神さまと一緒にいるのであり、わたしたちが世で苦難があっても、同時に、イエス・キリストの平和、平安、父なる神さまの平安があることが言われています。
 イエス・キリストが世に勝っている、とはどういう意味でしょうか。それは、この世の苦難の中にありつつも、この世界の創り主であり、かつ、目に見えるこの世界を超えた神がともにいてくださる、ということではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストが世に勝っているということを、別の角度からも考えてみたいと思います。それは、イエス・キリストはわたしたち人間の価値観(肉の思い)に勝っておられる、人間の絶望に勝っておられる、そして、死に勝っておられる、ということです。
 「肉の思い」と申し上げましたが、ガラテヤの信徒への手紙にこうあります。ガラテヤ5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 わたしたちにも、偶像礼拝、つまり、神さまではないものに神さまのようにしがみついてしまう思い、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみがあります、と告白せざるを得ません。わたしたちは、相手に勝って生きていこうという価値観に染まってしまっています。けれども、キリストは、わたしたちのこの世的価値観に勝ってくださるのです。
 ガラテヤの信徒への手紙は続きます。ガラテヤ5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 霊の結ぶ実とは、じつは、もともとは、イエス・キリストのお心であり、そして、イエス・キリストがわたしたちに注ごうとしてくださるお心のことです。イエス・キリストのお心は、愛であり、喜びであり、寛容であり、誠実であるのです。わたしたちの心、世の思いとはまったく異なります。その意味で、イエス・キリストは世に勝っているのです。
 また、イエス・キリストはこのお心を、聖霊によって、わたしたちにも注ぎ込んでくださり、わたしたちの中にも、愛、喜び、寛容、誠実の心を育てようとしてくださいます。世の中はわたしたちに敵意、憎しみを蔓延させようとしますが、イエス・キリストは、愛、喜び、寛容、誠実を育てようとしてくださいます。その意味でもイエス・キリストは世に勝っておられるのです。
 イエス・キリストが世に勝っておられることについて、さらに申し上げますと、わたしたちは、病気や仕事や人間関係などのことで難しいことが起こると、もう駄目だと思ってしまいます。絶望に陥ってしまいます。
 けれども、イエス・キリストは、神さまがわたしたちとともにおられる、神さまがわたしたちを愛してくださることを示してくださいます。さらには、イエス・キリストご自身がわたしたちとともにいらしてくださり、ご自身がわたしたちを愛してくださることで、絶望に勝る希望を与えてくださいます。イエス・キリストご自身がわたしたちの希望なのです。その意味で、イエス・キリストは世の絶望、わたしたちの絶望に勝っておられるのです。
さいごに、イエス・キリストは、十字架につけられ死なれましたが、そこから、復活なさいました。これは、イエス・キリストが死に打ち克ってくださったことであり、わたしたちも、死によってすべてが終わってしまうのではないことを示してくださったのです。「どうせ死んだらすべてがおしまい」というこの世の価値観に、イエス・キリストは勝ってくださったのです。
 今日は、「イエス・キリストは世に勝っておられる」ということは、神さまがともにいらしてくださること、インマヌエルそのものであること、また、イエス・キリストは、わたしたちの人間的な、肉的な考え、人を押さえつけてしまう考えや、わたしたちの絶望、そして、死んだらすべておしまいというわたしたちの考えに勝ってくださることをご一緒に学びました。
 わたしたちは、負けているのではありません。イエス・キリストが世に勝ってくださったのです。イエス・キリストは、この世の悪の価値観、この世の絶望に勝ってくださるのです。このイエス・キリストに支えられてわたしたちも困難や苦しみを乗り越えて歩み続けましょう。
 祈り。神さま、あなたはイエス・キリストとともにおられます。あなたはわたしたちとともにいてくださいます。それが、あなたの勝利であり、イエス・キリストの勝利であり、わたしたちの勝利です。神さま、イエス・キリストは、わたしたちがこの世の争いの価値観、絶望の価値観、死の価値観に打ち克てるように、聖霊を注いでくださいます。イエス・キリストのお心をいただいて、わたしたちもこの世の肉の思いに打ち克つことができますように、お支えください。神さま、今、苦しんでいる友のすぐそばにいてください。その友がこの世に負けないようにお支えください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2024年5月5日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:32-33)

イエス・キリストが「既に世に勝っている」とはどういうことでしょうか。上の聖書の引用で、最初の段落では、弟子たちが逃げ去りキリストはひとり十字架の苦しみを受ける時が来ているが、父なる神さまが共にいてくださるので、この苦難を乗り越えられる、ということが言われています。
そして、下の段落では、弟子たち、あるいは、読者であるわたしたちにも苦難があるが、キリストが「世に勝っている」ことによって、わたしたちもそれを乗り越えられることが示されています。
つまり、キリストが世に勝っている、ということは、キリストとそしてわたしたちには、世の困難にはるかにまさる神さまがともにおられる、ということではないでしょうか。
また、キリストは、優劣や強弱というこの世の原理、肉の思い、苦難の中でのわたしたちの絶望、さらには、死んだら終わりという人間の虚無感に、打ち克ってくださり、愛と平和、キリストの心、霊の実り、絶望に勝る希望、死に勝る復活をわたしたちにもたらしてくださいます。

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イエス・キリストの働きは続く [礼拝説教(使信)動画]

2024年4月28日 「イエス・キリストの働きは続く」

https://youtu.be/HlZ3Vhp5NNk
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イエス・キリストの働きは続く [使信]

2024年4月28日 「イエス・キリストの働きは続く」 マタイ28:19-20
 皆さん、おはようございます。ただいま読んでいただいた聖書に「洗礼」という言葉が出てきますが、洗礼とはどういうことでしょうか。あるいは、キリスト教ではよく洗礼を受ければ救われると言いますが、救われるとはどういうことなのでしょうか。あるいは、今日の聖書にはイエスが命じたことを守るとありますが、聖書の言う律法、そして、イエスの戒めとはどのようなものでしょうか。さらには、わたしたちはどのようにしたら救われるのでしょうか。
 今日の聖書の箇所をもう一度読んでみましょう。マタイによる福音書28章19節です。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
 今読んだところによりますと、洗礼は、ひとつには、父と子と聖霊の名によって授けられる、とあります。それから、洗礼は、イエスの弟子になること、イエスの命令、戒め、イエスの言葉を守ることに結びついています。さらには、洗礼は、イエスが世の終わりまで、いつもともにおられること、さらには、神さまがわたしたちとともにおられること、つまり、インマヌエルということと結びついています。
 まず、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるということですが、父とはこの世界の創造者である神さまのことです。子とはその御子であるイエス・キリストのことです。そして、聖霊とは、創造者とイエス・キリストから送られてくる神さまの霊、聖なる霊のことです。この父と子と聖霊、創造者と御子イエス・キリストと聖霊は、三つの存在があるように思えますが、そうではなく、父と子と聖霊はひとつの神である、とキリスト教は教えます。これを三位一体と言います。
 つぎに、イエスの弟子になるということですが、これは、ひとつは、イエスとともに神の国を人びとに伝える者になるということでしょう。神の国とは、神さまがわたしたちを治めていてくださる、神さまこそがわたしたちのまことの王である、ということです。イエスの弟子になる、ということは、神さまこそがわたしたちのまことの王ですよ、と人びとに伝える働きの一員になることでありましょう。
 イエスの弟子になるとは、さらに、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とイエスが言ったように、イエスの命じることに従う者になるということでもあるでしょう。では、イエスはどんなことを命じているのでしょうか。そのまえに、イエス以前の旧約聖書はどんなことを命じているのでしょうか。
 旧約聖書には、十戒というものがあります。十の戒めです。そこには、まず、神さま以外のものを神として拝んだり、神さまのようにして自分の支えにしてはならない、ということが言われています。また、安息日を守りなさい、とあります。これは、一週間のうちの一日は、神さまを礼拝し、神さまと平安に過ごす時間、自分にとっての安息の時間にしなさい、ということです。それから、殺すな、あなたは殺してはならない、盗むな、あなたは盗んではならない、偽証をするな、嘘をついてはならない、という戒めがあります。
 では、イエスはどのようなことを戒めているのでしょうか。マタイ22:36-38にこのようにあります。22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 つまり、イエスは、旧約聖書の教えをまとめると、神さまを愛することと隣人を愛することになる、このふたつが大切だ、と言っています。たしかに、十戒の中にも、神さま以外のものを神のように拝んではならないとありましたが、これは、神さまだけを神さまとして愛するということでしょうし、殺さない、盗まない、嘘をつかないということは、隣人を愛することでありましょう。
 イエスは、これ以外にも、いくつかの戒めを述べています。マタイによる福音書を振り返ってみますと、まず、こうあります。
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
 つまり、これは、神の言葉、神さまの言葉に従って、神さまの言葉を拠り所として、神さまの言葉に支えられて生きなさい、という戒めと考えることができるでしょう。
 5:13 「あなたがたは地の塩である。5:14 あなたがたは世の光である。
 これは、あなたたちは、この世界の中で、塩や光のような役目を果たしなさない、塩のように人びとの生活にうるおいと味わいをもたらし、人びとの生活が腐らない、悪くならないように、長く保たれるように、あなたがたは務めなさい、また、人びとの暗い心に光を照らすような生き方をしなさい、ということではないでしょうか。
 5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。
 これは、今争っている相手と争い続けるのではなく、和解しなさい、仲直りしなさい、という戒めでしょう。
 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 これは、誰かにひどいことをされてもやり返すな、という戒めでしょう。
 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
 これは、欲しいという者には与えなさい、という戒めでしょう。
 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 これは、この通りの意味で、敵をやっつけるのではなく、敵を愛し、自分を苦しめる者を呪うのではなく、その人のために祈りなさい、という戒めです。
 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。
 これは偽善をするな、自分はこんな良いことをしていますよ、と人に自慢してはならない、という戒めでしょう。
 ずいぶんたくさんありますね。もう少し続きます。
 7:1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 これも、ここに書かれている通りですが、この人は間違っている、わたしは正しい、というように人を裁いてはならない、という戒めでしょう。
 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 これは、神さまに祈り求めなさい、神さまの救いを求めなさい、神さまの言葉の中に救いを求めなさい、そうすれば、救いは見つかる、ということではないでしょうか。
 7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
わたしたちは、楽な方、楽な道を選ぼうとしますが、困難な道を避けるな、という戒めではないでしょうか。
 さて、このように、イエスの戒めをざっと見てきましたが、わたしたちがこれらの戒めを守れば、神さまはわたしたちを救ってくれるのでしょうか。そもそも、わたしたちはこのような戒めを守り切れるのでしょうか。わたしたちはこの戒めを守れば、救われるのでしょうか。
 このイエス・キリストの復活を信じたパウロはどのように言っているのでしょうか。パウロは自分の書いた手紙の中でこう言っています。
 ローマの信徒への手紙ローマ3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
 つまり、パウロは、律法の戒めを守ることによってではなく、イエス・キリストを信じることによって救われます、と言っています。
 さらには、こう言っています。5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
 死んでくださった、ということは、キリストがわたしたちを救うために死んでくださった、ということであり、それは、「不信心な者のために」だ、と言います。
 つまり、パウロは、イエス・キリストを信じる人は救われる、と言いつつ、どうじに、イエス・キリストを信じない不信心な人さえも神さまは救ってくださる、とも言っているようにも思えます。
 また、パウロの手紙の中には、「イエス・キリストの信仰」という言葉が出てきますが、これは、二通りの意味に解釈されます。「イエス・キリストの信仰」という言葉は、じつは、「イエス・キリストの信実」とも訳されます。つまり、イエス・キリストのまこと、イエス・キリストの誠実、と訳すこともできるでしょう。
 そしてこれは、わたしたち人間のイエス・キリストへの誠実さ、わたしたち人間がイエス・キリストに向ける誠実さ、まこと、という意味が考えられます。しかし、もうひとつは、イエス・キリストがわたしたちや神さまに対して持っている誠実さ、イエス・キリストが神さまやわたしたちに対して持っておられるまこと、という意味も考えられます。
 そうしますと、パウロは、わたしたちがイエス・キリストを信じれば救われる、と言っているようにも思えますが、イエス・キリストがわたしたちに誠実だからわたしたちは救われると言っているようにも思われるのです。
 さて、もういちど、救いとはどういうことか、考えてみましょう。
 これは、まず、わたしたちが死んだ後、地獄ではなく、天国に行くこと、と考えられます。しかし、これを少し言い換えれば、わたしたちが死んだ後も、神さまとつながっていること、とも言えるでしょう。そうすると、何も死んだ後でなくても、この世でも、わたしたちが神さまとつながっていれば、わたしたちは救われている状態にあるのかもしれません。
 あるいは、救いとは、神さまに愛されていることだとも思われます。神さまから大切に思われていること、それがすでに救いだと考えられます。神さまはすべての人を愛しておられます。この意味ですべての人はすでに救われているとも考えられます。
 あるいは、救われるとは、あるいは、神さまとともにいることだとも考えられます。神さまは今すべての人とともにおられる、とわたしは信じています。この意味ですべての人はすでに救われている、とわたしは信じています。
 あるいは、神さまを信じたらその結果救われるということだけでなく、わたしたちが神さまを信じる状態にあることそのものが救いであるとも考えられます。これはすべての人に必ずしもあてはまらないかもしれません。神さまを信じているという人ばかりではないからです。しかし、神さまを信じたら救われるというよりも、神さまを信頼すること自体がすでに救いであるとも考えられます。
 あるいは、神に仕え人に仕えた結果救われるというだけでなく、神さまのみに仕えること、神さまと隣人を愛すること自体がすでに救いの状態、すでに平安の状態であるとも言えるのではないでしょうか。
 あるいは、人を殺さない、盗まない、嘘をつかない結果救われるだけでなく、人を殺さない、盗まない、嘘をつかない、それ自体が救いの状態であると言えるのではないでしょうか。
 さらには、神さまの言葉によって生きる、地の塩・世の光になる、争っている相手と和解する、やられてもやり返さない、求める者には与える、敵を愛し、迫害者のために祈る、偽善者にならない、人を裁かない、神さまを求める、狭い門から入る、これらの状態にあることがすでに救いの状態にあることではないでしょうか。
 最後に、イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。これについて、考えてみましょう。
 今日の午後、まぶね教会では教会総会が開かれ、今年の方策が協議されます。
 今年度の〈基本理念〉として以下のことが提案されます。
(1) 聖書の福音を若い世代に伝える
(2) イエス・キリストの体としての教会の働きを次世代に残す
(3) そのためにどうすればよいか、教会全体で考える
(1)「聖書の福音を若い世代に伝える」
 旧約、新約聖書が語っている神の創造、導き、守り、選び、赦し、救い、愛などのメッセージを、人生の根本の支えとして、若い世代に伝える。
(2)「イエス・キリストの体としての教会の働きを次世代に残す」
 教会は(1)のような聖書のメッセージ、神の御言葉を、言葉と行動、礼拝、聖書の学びと諸活動によって伝えてきた。この「言葉と行動」による教会の働きを次世代に引き継いでもらう。
(3)「そのためにどうすればよいか、教会全体で考える」
 若い世代に聖書のメッセージを伝え、教会の「言葉と行動」の働きを継承してもらうためにはどうしたらよいか、教会全体で考える。聖書のメッセージの伝え方、教会組織、活動の維持の方策を真剣に考える。
 わたしたちの教会はどうなっていくのでしょうか。福音と教会の働きを若い世代に伝えていくことはそうとうに難しいことです。まさに、狭き門です。
 しかし、イエス・キリストは、世の終わりまで、わたしたちと、そして、わたしたちの次の世代、若い世代、次世代とともにいてくださると言っておられるのではないでしょうか。
 これから、教会がどうなるのか、わたしたちにはよくわからないし、かなり不安なのですが、たしかなことは、神さまがともにおられること、インマヌエルは続くということです。インマヌエルはつづくし、信仰は続くし、神さまの愛の戒めは生き続けるのです。
 祈り。神さま、イエス・キリストは、あなたを愛し、隣人を愛することをわたしたちにつねに教えてくださいます。そして、世の終わりまで、あなたがともにいらしてくださることを教えてくださいます。どうか、わたしたち、教会があなたを信じ、イエス・キリストを信じ、歩み続けることができますように。イエス・キリストの言葉と、あなたによって導かれているわたしたちの歩みが、世の終わりまで続いて行きますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2024年4月28日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:19-20)
 
 「すべての民をイエス・キリストの弟子にする」とはどういうことでしょうか。それはキリストが「命じておいたことをすべて守るように教える」ことだと、ここにはあります。
 イエス・キリストがわたしたちに教えてくださったこと、それは、ひとことで言えば、神さまを愛し、隣人を愛することでした。
 具体的には、神さまだけに仕え、神さまの言葉を糧として生きることであり、また、わたしたちが「地の塩」「世の光」として生き、やられてもやり返さず、求める者には与え、敵を愛し、迫害者のために祈り、偽善に陥らず、人を裁かないことでした。
 そのようなことをするものは、その結果、神さまに救われる、というように受け取ることも可能ですが、あるいは、神さまに導かれてそのように生きることがすでに神さまに救われた状態だとも考えられます。
 イエス・キリストは世の終わりまで、わたしたちとともにいてくださいます。神さまがともにいてくださいます。インマヌエルです。このことがわたしたちにすでに与えられた救いではないでしょうか。
 神さまがともにいらしてくださる。それに感謝して、わたしたちは、神さまと隣人を愛するように、つまり、イエス・キリストの弟子として生きたいと思います。

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2024年4月21日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】
 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。(ヨハネ21:17)

 復活したイエス・キリストとペトロの間には、このような問答が三度繰り返されました。これは、イエスが十字架にかけられる直前に、ペトロが「そんな人は知らない」とイエスを三度否定したことに対応していると言われています。
 復活したイエス・キリストは、このようなペトロを叱責するためではなく、むしろ、赦すためにペトロに現れたのだとも考えられます。
 ここで、キリストはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言いました。羊とは、イエス・キリストを信じる者のことであり、これから信じる者のことであり、つまり、すべての人びとのことではないでしょうか。
 旧約聖書の時代、イスラエルの人びとは羊を飼っていました。けれども、自分たち自身が、神さまという羊飼いに導かれる羊であるとも知っていました。
 神さまという羊飼いは、詩編23編にあるように、わたしたちに必要なものが「欠けることがない」(詩編23:1)にしてくださいます。また「青草の原に休ませ」(23:2)てくださいます。これは、大勢の人びとと草地で食事をわかちあう福音書のイエスの姿とかさなります。
 この羊飼いは「死の陰の谷」(23:4)、わたしたちの人生の苦境をも導いてくださいます。「命ある限り」(23:6)、つまり、神さまとわたしたちとのつながりにおいて、この羊飼いは「恵みと慈しみ」(23:6)をもたらしてくださいます。

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