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見えるようになる [礼拝説教(使信)動画]

2024年2月25日 「見えるようになる」

https://youtu.be/WfRyCZB4bR8
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見えるようになる [使信]

使信 2024年2月25日  「見えるようになる」  ヨハネ9:1-12
 おはようございます。読書は、わたしたちがそれまで知らなかったことを教えてくれます。わたしは最近、農業というか、農について学びたいと思い、本を何冊か読んでみました。
 「農はいのちをつなぐ」という本は、農は農業というよりは、やはり農であり、つまり、農は産業ではなく、いのちといのちをつなぐ営み、つながれたいのちといのちの営みだと教えてくれました。たとえば、田んぼを見ますと、田んぼには稲といういのちだけでなく、そこには、おたまじゃくしもいるし、ゲンゴロウもいるし、とんぼの幼虫、ヤゴもいるし、稲以外の雑草も育っています。田んぼはそれらのいのちのつながりだと言うのです。
 また、わたしたちがいただく食べものもいのちであるし、食卓にはさまざまないのちが並んでいると言うのです。わたしたちはそれらのいのちをいただくのですが、それらを絶滅させるような形でではなく、むしろ、それらのいのちが絶えることなくつながっていくようないいただきかたをしなければなりません。いのちをいただくものは、いのちの再生も考えなくてはならないというのです。
 そして、田んぼで農を営むということは、おたまじゃくしやカエルやトンボや諸々の草とまた来年も会えるようないのちの循環の営みであるというのです。わたしは、今まで考えなかったこのようなことをこの本に教えられました。
 それから、「食べものから学ぶ現代社会」という本は、現代社会がそのような農の営みを危機に追いやっていることを教えてくれました。コンビニでスイーツとか唐揚げとかを売るためのポイントは、砂糖と塩と油脂だそうです。これらで魅力的なスイーツや唐揚げのような商品を作り、それらを食べたいという欲をわたしたちに促して、コンビニというか、コンビニ企業は売り上げの増加に励んでいるそうです。
 このようなコンビニ食品は、コンビニ食品だけでなく食品産業で売られる商品としての食べ物は、大量の小麦やとうもろこしを使いますが、それは、いのちをつなぐ農というよりは、工業のような産業となってしまった大規模農業によって生産されます。それらの大規模機械化農業が世界中で行われ、トラクターなどを動かすために大量の石油が使われ排気ガスが出されます。
 また、限界を超えて植物を育てさせられることで、土も疲弊していきます。地球を浄化してくれるはずの森の木が倒され、畑にされてしまいます。こうやって自然環境が世界中でこれまでなかったレベルの大きな危機に直面しています。地球は温暖化し、すでに大規模な自然災害が頻発しています。こういうことをこの本に教えられました。
 もう一冊、「旧約聖書と環境倫理」という本は、旧約聖書は、星や川や土も人格とみなしている、旧約聖書では、星や川や土も神さまと人格的な交流をしているし、場合によっては、人間もこれらのものと人格的に交わっている、というように旧約聖書を読むこともできるということを教えてくれました。
 いのちをつなぐ営みとしての農、農が工業化され、食料商品の大量生産大量消費ゆえに地球環境が危機にあること、旧約聖書には自然を人格とみなしているという観点があること、これらを学んで、わたしは、目を開かれるような思いがいたしました。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書9章1節です。9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 「生まれつき目の見えない人」とありますが、神さまやイエス・キリスト、そして、聖書と出会わなければ、わたしたちの心の目も、神さまのことが見えていないのではないでしょうか。あるいは、わたしたちは幼子のころは、神さまのことを感じていたかもしれませんが、その心の目が閉ざされてしまったのではないでしょうか。
 9章2節です。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 イエスの弟子たちは、この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか、と尋ねていますが、わたしたちは生まれながら罪の性質を備えているとはいえ、罪を犯すとすればそれは生まれてから犯すものでしょうから、生まれたときから目が見えない人のことでこのように訊くこと自体、間違っているように思われます。
 さらに、病気、障がい、災害、不幸などは、罪を犯した人に神さまが与える罰である、という考え方は、苦しんでいる人を二重に苦しめます。イエスが出会った病気や障がいを抱えた人びとも、このように二重に苦しんでいたのではないでしょうか。
 これに対して、イエスさまはNO!と言われました。人びとを二重の苦しみから解き放とうとしてくださったのです。イエスさまは、この人が生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したからではない、と断言なさったのです。
 誰の犯した罪の罰をこの人は受けているのか。イエスさまにとってそんなことは問題になりませんでした。そもそも、イエス・キリストは罰という考え方から自由でした。イエスさまにとって神さまは罰をくだすよりも、愛を注ぐお方なのです。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」・・・神の業がこの人に現れるためである、とはどういう意味でしょうか。
 「神の業」とはどういうことでしょうか。ひとつは、神さまに救われる、ということのように思われます。もうひとつは、今日の聖書の箇所の文脈で言いますと、神の業とは目が見えるようになること、神さまのことが見えるようになること、神さまのことを知ること、神さまはインマヌエルの神さまである、神さまはアガペーの神さまである、それを知ることが、それを心の目で見えるようにしていただくことが、わたしたちの救いであり、そのようにしてわたしたちを救ってくださることが神さまの業のように思われます。
 それから、「ためである」「神の業がこの人に現れるためである」とありますが、これは、「そういう結果になる」というように、わたしは理解しています。
 わたしたちの心が神さまに対して閉ざされているのは、神さまがわたしたちの中に入ってきてくださるためである、と言っても良いのですが、それよりも、わたしたちの心は神さまに対して閉ざされているけれども、神さまがわたしたちの心を開いて入ってきてくださる、と言い変えた方がわかりやすいように思います。
 4節です。9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
 「わたしをお遣わしになった方の業」とは神の業、神さまの業のことですが、イエス・キリストはそれをわたしたちに示してくださっておられます。神さまの業をイエス・キリストがわたしたちに示してくださること自体が、神さまの業でもあります。けれども、それが妨げられる時が来る、そのような夜が来る、とイエスさまは言われるのです。
 一時的ではありますが、そのような神さまの業が妨げられる時が来る、と言うのです。それが、イエス・キリストの十字架とそこに至る苦難の道でありましょう。受難節は、イエス・キリストの十字架とそれに至る苦難の道のりをしのぶ期間ですが、この十字架の出来事によって、神の業が、一時的に妨げられると言うのでしょう。
 5節です。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。
 イエス・キリストは、世の光である、と言われました。イエス・キリストが世の光、わたしたちの光である、とはどういうことでしょうか。
 光は、闇夜を歩く人びとの足元を照らしてくれます。道案内をしてくれます。光があれば、わたしたちは闇夜をも前に進むことができます。
 光は、闇夜とともに、わたしたちの暗い心を照らしてくれます。光は、わたしたちの折れそうな心を励ましてくれます。光は、絶望したわたしたちの心に希望をもたらしてくれます。
 光は、そして、わたしたちに神さまを指し示してくれます。神さまを見ていないわたしたちの心に、光は神さまを示してくださいます。光は、目に見えない神さまをわたしたちに示してくださいます。
 6節です。9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
 これは、古代世界の医療行為なのでしょうか。そうかもしれません。けれども、もっと大事なことは、目の見えなかった人が、イエス・キリストを通して神さまと出会ったということです。これまで神さまと出会っていなかった人が、イエス・キリストを通して、神さまと出会ったということです。
 神さまはわたしたちの目には見えません。けれども、イエス・キリストは、目に見えない神さまをわたしたちの心に示してくださいます。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。イエス・キリストはこのように言われました。
 神さまは、善人だけでなく悪人にも、正しい者だけでなく正しくない者にも、太陽の光と雨の潤いを注いでくださいます。これは、とくに、自分は悪人である、自分は正しくないと思っている人びとには、わたしもそうですが、これは、非常に大きな救いです。
 神さまはこのようにわたしたちを無条件に愛してくださる。このような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださるのです。
 あるいは、イエス・キリストはこのように言われました。マタイによる福音書6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 わたしたちはあれこれ思い煩いますが、空の鳥や野の花が神さまにすべてを委ねているように、神さまはわたしたちがすべてをお委ねできるお方である、神さまはわたしたちが全面的に信頼できるお方である、そのような神さまのお姿をイエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 このようにして、神さまは小さな希望を大きな希望に、小さな愛を大きな愛に育ててくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに示してくださいます。
 あるいは、こうあります。マタイによる福音書18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
 このように、神さまはすみっこの一匹であるわたしたちをお見捨てにならず探し求めてくださるお方であることを、イエス・キリストはわたしたちに教えてくださいます。
 このようにイエス・キリストが今まで知らなかった神さまのお姿をわたしたちに示してくださり、わたしたちがこのように愛と慈しみに満ちた神さまと出会うことができるようになりました。これこそが、見えなかった目が開かれることであり、神さまの御業、救いの御業だとわたしは考えます。
 最後にもう一か所聖書の箇所をお読みいたします。マルコによる福音書15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 受難節の第2週です。イエス・キリストはご自分が十字架の道のりを歩み、十字架につけられることを通して、神さまはわたしたちとともに十字架の上で苦しんでくださるお方であり、神さまはわたしたちの罪に罰で報いるのではなく、むしろ罪をともに背負ってくださるお方であることを、わたしたちに示してくださるのではないでしょうか。
 神さまは目には見えませんが、イエス・キリストはそのご生涯とお言葉を通して、わたしたちがこれまで知らなかった神さまのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。
 祈り。神さま、あなたはわたしたちの目には見えません。わたしたちの心はあなたに対して閉ざされています。けれども、神さま、イエス・キリストはそのご生涯とそのお言葉を通して、あなたのお姿を示してくださり、わたしたちを神さまと出会わせてくださいます。わたしたちの心の目を開いてくださり、神さまと出会うという救いをわたしたちにもたらしてくださいます。感謝いたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024年2月25日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:3)

 イエス・キリストがなす「神の業」とはどういうことでしょうか。この人は目が見えるようになりました。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(9:7)。
 イエス・キリストによって目が見えるようにしていただくことは、わたしたちの目には見えない神さまをわたしたちの心の目に見えるようにしていただくことではないでしょうか。キリストがなす「神の業」とは、わたしたちの霊の眼に神さまを見せてくださる、あるいは、示してくださることではないでしょうか。
 キリストは目に見えない神さまをさまざまな方法でわたしたちに示してくださいます。たとえば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。この言葉で、神さまはわたしのような悪人、正しくない者をも愛してくださることを、キリストは示してくださいました。
 あるいは、「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」。この言葉で、神さまはすみっこの一匹であるわたしたちをお見捨てにならず探し求めてくださるお方であることを、キリストはわたしたちに示してくださいます。
 このように、イエス・キリストはご生涯と御言葉によって、目に見えない神さまの愛をわたしたちに見えるようにしてくださるのです。これも、これが神の業なのです。

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誘惑に負けないよ [使信]

説教 2024年2月18日  「誘惑に負けないよ」  マタイ4:1-11
 おはようございます。今日は、「受難節」第一主日です。受難節とは、イエス・キリストが十字架について死んで、けれども、復活なさるまでの、七週間弱、四十六日間のことを指します。
 キリスト教会では、この受難節の期間、イエス・キリストの十字架のお苦しみ、そして、十字架にいたるまでのお苦しみの道のり、そのイエス・キリストのお姿を心に思い浮かべながら過ごします。そして、イエス・キリストのお苦しみと十字架の意味、そこにはどのような意味があるのかをかみしめます。
 イエス・キリストは、裏切られ、捕まえられ、ののしられ、裁判を受け、鞭打たれ、十字架につけられました。なんと苦しいことでしょうか。しかし、それは、わたしたちのために、イエス・キリストはそうしてくださったのでした。わたしたち罪人の代わりに、イエス・キリストは十字架で罰を受けてくださった、このことを、十字架に込められたこの意味を、わたしたちは、受難節の期間、深くかみしめようではありませんか。
 さきほど、わたしたちは、ご一緒に使徒信条を唱え、信仰を告白いたしました。この使徒信条には、三本の柱があります。一本目は、「わたしは、天地の創り主、全能の父である神を信じます」です。わたしたちは、この世界をお創りになられた父なる神さまを信じます。これが使徒信条の一本目の柱です。
 二本目は、「わたしはその独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます」です。わたしたちは、この世界をお創りになられた神さまの独り子、イエス・キリストを信じます。これが使徒信条の二本目の柱です。
 三本目は、「わたしは聖霊を信じます」です。
 わたしは父なる神さまを信じます。わたしは御子イエス・キリストを信じます。わたしは聖霊を信じます。つまり、三位一体の神さまを信じます。これが使徒信条の柱なのです。
 使徒信条は、これに続いて、この三位一体の神さまがわたしたちにしてくださる恵み、救いを述べています。つまり、神さまは、わたしたちを「聖なる公同の教会」に招いてくださいます。「公同の教会」とは「共通の教会」という意味です。世界にはたくさんの教会があり、それぞれ個性や特徴や賜物がありますが、イエス・キリストの教会、という意味では、共通しています。
 「公同の教会」とは、また、すべての信徒の教会、いや、まだ信徒にはなっていない方がたも含めて、すべての人びとの教会、また、天の人びとも含めて、目に見える枠組みを超えた教会、世界の教会全体という意味でもありましょう。神さまは、わたしたちをこの教会に招いてくださいました。
 さらに、神さまは、「聖徒の交わり」に招いてくださいました。聖徒とはめだかの学校の誰が生徒か先生か生徒のことではなく、また、立派な聖人のことでもなく、神さまが招き入れてくださった人びとのことです。
 使徒信条では、つづけて、「罪の赦し、体のよみがえりを信じます」と告白します。イエス・キリストはわたしたちの罪をお赦しくださいます。わたしたちの罪とはどのような罪のことでしょうか。それは、のちほどお話しいたします。
 「体のよみがえり」とは、聖書にはあまり詳しく書かれていませんが、肉体というよりも霊の体のよみがえりのことです。今のわたしたちの肉体の姿とはまったくちがう在り方です。聖書には詳しくは書かれていません。しかし、それは、神さまとつながっている体であり、愛する人びととつながっている体です。「永遠のいのち」、永遠なる神さまとつながった体です。
 このように使徒信条では、三位一体の神さまと、その神さまがわたしたちに与えてくださる救いの出来事を告白しているのです。
 では、使徒信条はどのような役割を果たしているのでしょうか。ひとつは、ここにいるわたしたちの信仰は、ひとそれぞれであり、多様であり、それは、教会のゆたかさでもありますが、どうじに、わたしたちそれぞれの信仰には大きな共通点があります。それが、三位一体の神さまへの信仰であり、公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、体のよみがり、永遠のいのちへの信仰です。
 使徒信条の役割の二番目は、先ほど公同の教会という言葉がありましたが、公同の教会で行われる、今日このような公同の礼拝において、使徒信条は、まだ、公の信仰告白をしていない人びとに三位一体の神さまのこと、そして、その神さまがわたしたちになしてくださる救いを伝えることにあります。
 みっつめに、使徒信条は、もともと、キリスト教が始まったばかりのころ、今から二千年近く前の信仰者たちが、迫害を乗り越えるために告白してきたものだと言われています。信仰者は、迫害を受けながらも、わたしは神さまを信じます、イエス・キリストを信じます、聖霊を信じます、公同の教会を信じます、罪の赦しを信じます、復活を信じます、永遠のいのちを信じます、と信仰を告白しながら、迫害を乗り越えてきたのです。
 キリスト教会の洗礼とは、この使徒信条に基づいて、神さまを信じることを心に深く刻み込まれる礼典のことです。まだ洗礼を受けておられない方がたには、やがて、ぜひ洗礼をお受けになることをお勧めいたします。
 洗礼とは、言い換えれば、わたしたちが神さまの物語のひとりにしていただくこと、神さまの合唱曲の音符のひとつにしていただくことではないでしょうか。
 ところで、今、迫害と申しましたが、わたしたちはどうでしょうか。今、わたしたちは目に見える形で、表立った迫害は受けていないかも知れません。けれども、わたしたちの信仰は、誘惑を受けていないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書4章1節です。4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 イエスさまはこの世で、荒れ野で誘惑を受けられましたが、神さまの霊が導いてくださり、支えてくださり、それを乗り越えられました。
 四十日間とあります。モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒れ野を四十年間さまよったことが思い出されます。
3節です。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
 イエス・キリストは誘惑に負けて石をパンに変えたでしょうか・・・いかがでしょうか・・・今日はあとで「キリストには代えられません」という賛美をいたしますが、キリストは石をパンに変えられませんでした。
 もっとも「かえる」という漢字が違います。キリストは石をパンに変えないという場合は、変化の変という漢字ですが、「キリストには代えられません」という場合は、代表の代という漢字ですね。今日の週報の下書きで、わたしは間違って、「キリストにはかえられません」の「かえる」を変化の変で入力していて、ある方に、その間違いを教えていただいたのでした。ありがとうございます。
 わたしたちは、目に見えない神さまを信頼するのではなく、パンのような目に見えるものにすがろうとしてしまいます。それが誘惑です。適度なパンは必要ですが、過度なパンは要りません。
わたしたちは、石をパンに変えようとする魔法のようなテクニックにすがろうとする誘惑を受けやすいのです。
 けれども、先週の神学生の説教にもあったと思いますが、申命記8章3節にはこうあります。8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
 神さま以外のもの、神さまの御言葉以外のものを、わたしたちの、自分の根本の頼みにしてはならないのです。そうして、神さまから離れてしまうこと、それが罪です。
 もちろん、わたしたちには衣食住が必要です。健康も、ある程度のお金も、頼りになる人間関係もある程度は必要です。けれども、それらは、永遠ではなく、なくなってしまうこともあります。ですから、それらを「適度」には求めても、神さまを慕い求めるかのようにそれらを慕い求めてはならない、過度に求めてはならない、目に見えるそれらのもの、神さまではないそれらのものを根本の支えにしてはならないのです。
 お金も衣食住も人間関係も適度であればわたしたちの適度な支えになりますが、わたしたちの根本の支えは神さまであり、神さまの御言葉です。
 たとえば、わたしは苦しい時・・・これでも、けっこう苦しむのです。これでも、しょっちゅう苦しむのです。そういう時、わたしは親しい人に理解しもらいたいと思います。人に話を聞いていただくのは良いと思います。けれども、それが過度になってはならないでしょう。30分や1時間、人に話を聞いていただくことはよいことだし、必要なことでもあると思いますが、何時間も何時間も、24時間、いつでも、誰かに話を聞いてもらいたいということになれば、それは、そのことに依存しているのであり、神さまに信頼することを忘れてしまっているのです。
 わたしたちは人に聞いていただくことで支えられますが、そのこと以上に、神さまを支えとしたい、神さまの御言葉を支えといたしましょう。パンではなく、神さまこそが、神さまの御言葉こそが、わたしたちの根本の支えなのです。たとえ人が話を聞いてくれなくても、神さまの御言葉を支えとする信仰を神さまは与えてくださるのです。
 5節です。4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
 「主を試してはならない」とはどういうことでしょうか。たとえば、今度何かの試験を受けるとします。神さま、今度の試験に合格させてください。これは良いのです。けれども、今度の試験に合格したらあなたを信じますが、そうでなければ、もうあなたを信じません。これはどうでしょうか。神さま、あなたは本当にいるのですか。いるなら試験に合格させてください。合格したら信じます。これはいかがなものでしょうか。
 あるいは、神さまと前もってこのような取引をしていなくても、突然、思いがけなくよくないことが起こったので、神さまはひどいことをする、と言って、信仰をやめてしまうのはいかがなものでしょうか。
 結果にこだわりすぎるのは、石をパンに変えようとすることに似ていないでしょうか。目に見えることがらで神さまと取引をする。ここにも誘惑とわたしたちの罪があります。
 『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』これは、じつは、詩編91編12節からの引用です。そこにはこうあります。91:12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
 これは、高いところから落下してても、あなたは地面に敷き詰められている石にたたきつけられることはない、というように読めます。
 けれども、聖書を読むときは、前後の文脈も大事です。詩編のこの言葉の少し前にはこうあります。91:2 主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
 つまり、この詩編が全体で言おうとしていることは、具体的なことではなく、神さまはわたしたちを守ってくださる方であり、わたしたちがより頼むことをおゆるしくださるお方であるということなのです。あなたの足が石に打ち当たらない・・・というのは、具体的な出来事というよりは、神さまがいかにわたしたちをお守りくださるかということのたとえなのです。それは、具体的なことというよりは、神さまは何があろうとわたしたちの人生全般をお守りくださるということなのです。
 聖書の言葉を文脈を無視して読んでしまう、そのような誘惑はわたしたちをも待っています。けれども、そのような聖書の読み方は、今日の悪魔のような聖書の読み方は、わたしたちの身に起こる出来事によって、目に見える結果によって、神さまへの信仰が左右されてしまうことになりかねません。
 わたしたちは、たしかに、良い結果を求めて祈ります。けれども、自分にとって良い結果が出ようと、あるいは、今は良い結果が出ているように思えなくても、それでも、神さまがともにいてくださり、人生を導いてくださることを信じぬこうではありませんか。私はそうしてきました。良い結果が出るのは神さまのおかげです。心から感謝しています。けれども、良い結果が出るように思えないときでも、神さまはわたしを支え続けてくださる、だからこそ、神さまを信頼します。
 望んだ結果が出なくて、良い結果が見えなくて、長いトンネルを歩いているように苦しんでいる方もおられると思いますが、今はそう見えても、神さまは今もともにいてくださり、今も導いていてくださいます。わたしはそう信じます。
 その意味では「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」という御言葉はその通りだと思います。
 イエスさまはこう言われました。「一羽のすずめが落ちる時、天の父がかならず一緒にいてくださる」。これはこのように落ちていくものの真下にいて、いっしょに落ちてくださり、最後は地面にたたきつけられないようにクッションのように受け止めてくださる、こういうイメージだと言われています。
 8節です。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
 わたしたちは、世界制覇、世界征服などは考えていないかもしれません。けれども、たとえば、誰かとふたりでいて、意見が違うとき、自分の意見を通そう、自分の意見に従わせようとしていないでしょうか。
 私など、妻には、いつも、自分の考えを押し付けようとしてしまっています。すみません。信徒の方がたにも自分の考えを受け入れてもらおうとしてしまっています。神さまにお委ねしていないのですね。
 自分の問題も、自分の考えや知識や行動や計画で解決しようとしてしまい、神さまに委ねることを忘れてしまっています。ここに、わたしの罪があります。周りの人、自分が生きる世界を、自分で支配しよう、自分で仕切ろうとしてしまっています。その誘惑に負けてしまっています。
 しかし、イエスさまは言われました。「ただ主に仕えよ」。わたしたちは、自分の力ではなく、主にお仕えいたしましょう。わたしたちは、神さまのお導きを信頼いたしましょう。
 11節です。4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 「悪魔は離れ去った」とあります。イエス・キリストが、聖霊のお力によって、悪魔と悪魔の誘惑を斥けてくださったのです。それは、わたしたちも、目に見えるものや自分の力を根本の支えにしようとする誘惑に、わたしたちも打ち克たせてくださるためです。
 わたしたちは、このイエス・キリストを信じ、聖霊を信じましょう。使徒信条にあるように、父なる神さまと御子イエス・キリストと聖霊の神さまに委ね切りましょう。
 父なる神さまと御子イエス・キリストと、今日、イエス・キリストとともに悪魔を斥けてくださった聖霊の三位一体の神さまをこそ、わたしたちの最大の支えといたしましょう。
 そして、今日、公同の教会、公同の礼拝、聖徒の交わりに招かれていることを信じ、わたしたちの深い罪、その深さにもかかわらず、キリストの十字架によって赦されていることを、そして、体のよみがえり、神さまとつながった永遠のいのちを信じぬこうではありませんか。
 今日からあらたな気持ちで、もう一度、三位一体の神さまを信じ始め、信じぬこうではありませんか。洗礼を受けてこの信仰の道に入りましょう。この信仰の道はけっして楽ばかりではありませんが、イエス・キリストは誘惑と罪に打ち克ってくださいました。聖霊がわたしたちを導いてくださいます。
 神さまと神さまのお言葉をこそ、人生の最大の支えとするこの道を今日から歩き始めましょう。ともに歩きましょう。
 お祈りをいたします。神さま、わたしたちには、衣食住やお金、人間関係など、適度な支えをいただいていますが、わたしたちは、あたかもそれが神さまであるかのようにそれにすがってしまい、神さま、あなたご自身と、あなたの御言葉を慕い求めることを忘れてしまいます。けれども、イエス・キリストは荒れ野において、聖霊とともにその誘惑を斥けてくださいました。神さま、あなたと御言葉を根本の支えとする道を今日、この日曜日から、あらたに歩ませてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2024年2月18日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4)
 
わたしたちは、生きていくために「適度な」衣食住は必要です。お金も人間関係も「適切な範囲内」であれば、わたしたちの支えになります。
 けれども、わたしたちの「根本の」支えは、神さまであり、神さまの御言葉です。
 たとえば、わたしたちがお金が足りなくて悩んでいるとき、ひたすらお金だけを求めるでしょうか。それとも、適切な範囲でお金を何とかしようとしつつも、神さま、この不安と苦しみの中で、わたしをお支えください、と祈るでしょうか。
 もし、お金の工面ができ、すっかり安心してしまい、神さまを忘れてしまうのなら、その時、お金がわたしたちの神になってしまっているのです。そして、それからも、神さまを信頼することなく、ただお金を求め、お金が手に入れば安心してしまうということになってしまいます。これはお金の偶像崇拝です。
 お金以外にも、人間関係による安心、自分の地位、周りからの評価「だけに」すがろうとし、神さまを根本の支えとして、神さまに信頼することを忘れてしまう誘惑がわたしたちにはつねにつきまといます。
 けれども、イエス・キリストはこの誘惑に打ち克ってくださいました。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 わたしたちもこのイエス・キリストに従って歩み、神さまと神さまの御言葉をこそ根本の支えといたしましょう。

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2024-02-11 [礼拝説教(使信)動画]

2024年2月11日 「少しも無駄なく」

https://youtu.be/GwqmNPQsTUE


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2024年2月11日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:12-13)

 ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは自らのことをこのように語っておられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51)。
 キリストの与えるパンはキリストの肉であると。では、肉とは何でしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)。
 肉とは「言(ことば)」なのです。つまり、イエス・キリストは神さまの言なのです。神さまの言とは、旧新約聖書に記された神さまの言葉、あるいは、神さまについての言葉のことでもありますが、イエス・キリストご自身のことでもあります。
 つまり、神さまの言とは、音声や文字のことだけでなく、わたしたちへの神さまの語りかけ、愛そのものであるのです。
 今日の聖書の箇所で、イエス・キリストが多くの人びとを少しのパンで養ったということは、神さまの御言葉やイエス・キリストの愛が、この世界の中で、たとえ小さなもの、わずかなものに見えても、それは無駄ではない、むしろ、神さまの言やイエス・キリストの愛は、目に見えなくても、じつは、屑だけでも十二の籠を満たすパンのように、とてもゆたかなものである、ということでしょう。

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少しも無駄なく [使信]

使信 2024年2月11日  「少しも無駄なく」  ヨハネ6:1-15
 おはようございます。今日の使信の題は、「少しも無駄なく」としました。これは、先ほどお読みいただいた聖書の中にある言葉ですが、皆さんは無駄はなるべくしないようにしておられるでしょうか。
 わたしは、たとえば、目の前で電車のドアがしまり、一本逃して、次の電車を10分ほど待たなければならなくなったようなとき、以前は、時間をとても無駄にしてしまったような気がしていましたが、最近は、いや、おかげで、移動時間が長くなって、その分、移動中に本を読む時間も増えてよかった、と思うようになってきました。
 たしかに、時間を無駄にしたくない、無駄に時間を過ごしたくない、という気持ちは、いつも私の中にあります。ですから、ぼーっと、だらだらとテレビを観て過ごす、というようなことはいたしません。映画は、心の糧として、寝転がって、タブレットで観ることは楽しみにしていましたが、最近は、あまり良い映画がインターネット配信で見つからないので、ねしなは、映画ではなく、新書を読むことにしました。
 散歩は、本を読みながらではできませんが、ムダとは思っていません。足腰のためによいし、このあたりだと、緑が目に入ったり、鳥のさえずりが聞こえたりしないわけではありません。
 睡眠中も、本は読めませんが、無駄だとは思いません。寝ることは大切にしていますが、還暦を過ぎてからは、夜中に二度、三度目が覚めるようになりました。まあ、目的なしに、だらだらとテレビを観るのがいちばん無駄かもしれませんね。
 ところで、無駄と言えば、わたしたちは、わたしは無駄に生きているのではないか、わたしなんか生きていても無駄なのではないか、と思ってしまうことがないでしょうか。なかには、自分以外の人さまについて、こんな人は生きていても無駄だと考える、おそろしい人もいるようです。
 わたしの人生には何の意味もなかったとか、わたしが生きている意味があるのかとか、わたしたちは思っていないでしょうか。なかには、人さまについて、こんな人には生きている意味がないなどと考える、おそろしい人もいるようです。
 意味とか無駄とかいうとき、わたしたちは、何かができる、何かができないという尺度にとらわれているのではないでしょうか。何かができることに意味があり、何かができない人は無駄な人と考えていないでしょうか。けれども、果たしてそうなのでしょうか。
 何もできない、かつてできていたことができない、多くの人ができていることができない人は、ほんとうに無駄なのでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。
 ヨハネによる福音書6章2節です。6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
 「イエスが病人たちになさったしるし」とあります。先週の礼拝の聖書の箇所では、イエス・キリストは病人を癒されました。どんなお話だったか覚えておられるでしょうか・・・あてませんから、安心してください・・・
 先週の聖書の箇所は、38年間病気で苦しんでいた人をイエス・キリストが癒されて、「床を担いで歩きなさい」と言われた、というお話でした。自分で思い出せなくても、言われたら、ああそうだった、と思い出せるなら、大丈夫だそうです。ご安心ください。
 この出来事を見た大勢の群衆がイエス・キリストの後を追った、と今日の聖書にはあります。この群衆は、同じような病気の癒しを期待したのでしょうか。あるいは、イエス・キリストは、病気の癒し以外のことをするかどうか、ということに関心があったのでしょうか。
 旧約聖書の列王記という書物にこんなお話があります。紀元前9世紀のことですが、エリヤという預言者がいました。エリヤはひとりの貧しいやもめを訪ねます。やもめは壺の底に残っていた最後の小麦粉でパンを焼きますが、ふしぎなことに、壺の粉はなくなっていないのでした。そんなことが繰り返されます。そうやって、やもめとその息子とエリヤはパンを食べ続けることができました。
 ところが、その息子が死んでしまいます。しかし、エリヤが三度その息子の上に身を重ね、祈ると、ふしぎなことに、息子が生き返ります。
 ここで、皆さんにご注目いただきたいのは、旧約聖書の預言者のエリヤは、パンを増やし、病人を癒しましたが、今日の新約聖書のイエス・キリストも、先週のところでは、病人を癒し、今週はパンを増やすということです。このように、新約聖書のイエス・キリストの行動の中には旧約聖書とつながっているものがあるのです。
 3節です。6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
 「イエスは山に登り」とあります。ここにも旧約聖書の響きがあります。旧約聖書の預言者モーセはシナイという山に登り、そこで神さまから十戒をいただき、それを民に取り次ぎました。同じように、イエスは山に登ります。これを見た人びと、また、この話を聞いた当時の人びとの中には、モーセを思い出した人もいたことでしょう。
 5節です。6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
 「フィリポを試みるためであった」とあります。イエス・キリストはフィリポの何を試みようとしたのでしょうか。「ご自分では何をしようとしているか知っておられた」とありますが、イエス・キリストは何を知っておられたのでしょうか。
 11節以下に、イエス・キリストがわずかのパンと魚で大勢の人びとを満腹にさせたとありますから、そのことを、イエス・キリストは前もってご自分でわかっていたけれども、それを知らないフィリポはどうするか見てみようとした、ということでしょうか。
 あるいは、深読みすれば、人びとをほんとうに養うものは、パンだけではなく、イエス・キリストご自身、神さまの言葉であるイエス・キリストご自身である、ということでしょうか。
 7節です。6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
 200デナリオンとあります。1デナリオンは一日働いた賃金くらいだそうですので、1デナリオンを1万円としますと、200デナリオンは200万円くらいでしょうか。そこに5000人の人がいたそうですから、200万円を5000人で割りますと400円になります。ひとりあたり400円の食料だと足りないでしょうか。たしかに、お昼におそばとサラダを食べようとコンビニで買ってもすぐに500円を超えてしまいますね。
 8節です。6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 パン五つとあります。五千人で食べますと、ひとりあたり、ひとつのパンの千分の一、ということになります。大勢の人びとの前で、こんなわずかのものは役に立たないでしょうか。大勢の人びとの前で、小さな少年の持ってきたわずかなものなどは無駄なのでしょうか。
 リーストコインという言葉があります。リーストとは、英語のリトルの最上級ですね。最上級というか最低級と言いますか、リトルの比較級がレス、最上級がリーストで、もっとも小さいという意味ですね。日本で言えば、1円ということになりますが、リーストコインの募金は1円でも5円でも10円でも50円でも100円でも500円でもよいようで、なんなら、コインではないお札でもよいようですが、皆が少しずつ持ち寄って、困難な状況にある方々にささげようということなのでしょう。
 五つのパンと二匹の魚は5000人の人びとの前では意味がなく無駄であるように思われましたが、少年にとってはそのとき持っていたすべてでした。すべてということが尊いのです。
 わたしたちも持てるものや力はとても小さいですが、もてるすべてということに意味があります。わたしたちは、よく、わたしには何もできない、ただ生きているだけ、などと言います。しかし、生きているだけ、ということは、生きていることがすべて、ということであり、それがすべてであるなら、生きているだけ、ということにはひじょうに大きな意味があるのではないでしょうか。
 ただ生きているだけ、ということは、生きているということがわたしのすべてであり、それがその人のすべてであるならば生きていることは何よりも尊いのではないでしょうか。
 10節です。6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
 「人々を座らせなさい」とあります。そして、「そこには草がたくさん生えていた」とあります。ここにも、旧約聖書の響きがあります。
 それは詩編23編です。23:1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 詩編23編には、牧者である主、神さまがわたしを「緑の牧場に伏させ」とあります。そして、今日の聖書の箇所では、イエス・キリストが大勢の人びとを草がたくさん生えているところに座らせるわけです。これは、みごとに重なるではありませんか。イエス・キリストは詩編23編の光景をここに再現しているのです。
 詩編23編にはさらに、「23:5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」とあります。これは、口語訳聖書で、「わたしの前に宴を設け」のところは、新共同訳では、「わたしに食卓を整えてくださる」とあります。
 つまり、詩編23編では羊飼いである神さまがわたしに食卓を整えてくださり、今日の聖書の箇所では、イエス・キリストが大勢の人びとと食事をわかちあっているのです。これも、みごとに重なります。やはり、イエス・キリストは詩編23編の光景をここに再現しているのです。
 さらに、詩編には、口語訳では「わたしの杯はあふれます」、新共同訳では「わたしの杯を溢れさせてくださる」とあります。ポイントは、あふれる、溢れさせてくださる、という言葉です。
 今日の聖書のヨハネによる福音書6章に戻ります。12節です6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
 「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」とあります。これはまさに「あふれる」「溢れさせてくださる」ということではないでしょうか。イエス・キリストの食卓には、あふれるばかりの恵みがあったのです。
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」とあります。ここには、二つの意味があると思います。
 ひとつは、わたしたちは神さまからいただいた恵みを無駄にしないようにしましょう、ということです。わたしたちは神さまに与えられたこの人生を大切に生きましょう、今与えられているいのちを大切に生きましょう。
 役に立ちましょう、ということではありません。神さまがせっかくあたえてくださったこの人生、神さまがせっかく与えてくださった今日のいのちを、感謝して喜んで生きましょう。そうすれば、神さまの恵みは無駄にならないのです。
 わたしたちが、神さまの恵みに気づき、感謝し、喜ぶならば、自分が役に立っているように思えなくても、神さまの恵みは無駄になっていないのです。
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」。この言葉のもうひとつの意味は、神さまが創られたものに、神さまが創ってくださったわたしたちに無駄なものなど何もない、ということです。何もできない、ただいるだけ、と言いますが、いるだけでよいのです。いるだけでたいしたものなのです。
 ところで、イエス・キリストは、ただパンだけを通して、わたしたちを養っておられるのでしょうか。イエス・キリストは言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。
 人はパンだけでなく、神さまの言葉で生きるのです。では、神さまの言葉とは何でしょうか。今日の聖書の箇所のもう少し先で、イエス・キリストはこう言っておられます。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 イエス・キリストが与えるパンとは、イエス・キリストの肉である、と言っています。では、肉とは何でしょうか。同じくヨハネによる福音書の1章にこうあります。1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
 この肉となった言とはイエス・キリストのことです。つまり、イエス・キリストがわたしたちにくださるパンとは、神さまの言のことなのです。
 わたしたちは、食パンだけでなく、神さまのお言葉、イエス・キリスト、イエス・キリストのお言葉によって養われるのです。そして、神さまのお言葉のゆたかさ、イエス・キリストのゆたかさはあふれるばかりである、と今日の聖書は物語っているのではないでしょうか。
 神さまのお言葉、聖書の御言葉には、神さまのあふれるばかりの恵みがあります。わたしたちはそれをしっかりといただきましょう。それを無駄にせず、わたしたち自身を養い、さらにゆたかな日々を、さらに歩み続けようではありませんか。
 祈り。神さま、わたしたちの心と精神と魂と霊は飢え乾いています。けれども、あなたは、あなたの御言葉とイエス・キリストによって、それをあふれるばかりに満たしてくださいます。心から感謝いたします。神さま、わたしたちがあなたからの恵みを、あなたの救いの御言葉を無駄にすることなく、むしろ、感謝して、喜んでいただくことができますように。神さま、わたしたちがあなたのあふれるばかりの愛を、見過ごして無駄にするのではなく、ゆたかにいただいて、わたしたちの心と霊が満たされますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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床を担いで歩く [礼拝説教(使信)動画]

2024年2月4日 「床を担いで歩く」

https://youtu.be/4twujfeWdOw
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床を担いで歩く [使信]

使信 2024年2月4日  「床を担いで歩く」  ヨハネ5:1-18
 おはようございます。キリスト教の洗礼を受けるということはどういうことでしょうか。わたしは、洗礼にはふたつの側面があると思います、ひとつは、神さまの方からわたしたちにしてくださる側面です。それは、神さまがわたしたちに愛を注いでくださる、神さまのいのちの息、聖霊を注いでくださる、わたしたちを新しくしてくださる、神さまがわたしたちを受け入れてくださるということです。
 洗礼のもうひとつの側面は、わたしたちが人間としてなす側面です。それは、イエスに従って生きるという決意表明のようなものです。イエスに従って生きるとは、具体的には、神さまを信頼して神さまに委ねたイエスのように、わたしたちが生きるということでしょう。イエスに従って生きるとは、また、神さまの愛、神さまの御心に従ったイエスのように、わたしたちも愛に生きるということでしょう。
 神さまの愛、神さまの御心に従って生きる、ということは、この世の価値観とは違うように生きるということでしょう。人や自分やものごとを優劣、優か劣かで判断したり、正しいか正しくないかで判断し、自分を正しい側に置こうとしたり、「自分は自分は」とどこまでも自分中心であったりする・・・そのような価値観とは違う、神さまの愛の御心、人を分け隔てしない、自分中心にならない、人を大事にする生き方をすることでしょう。
 洗礼を受ける、ということには、わたしは、このような意味を考えます。では、今日の聖書に出てくる「床を担いで歩く」とはどのようなことを意味するのでしょうか。
 いつでもどこでも横になれるように、床を担いで歩く、ということでしょうか。わたしは学生時代、四畳半の和室に下宿していて、そこは、万年床と言って、布団を敷きっぱなしにしていました。和室というのは、本来は、朝起きると布団をたたんで、押し入れにいれるものなのですが、最近は和室でも、ベッドを置いていることも多いようですね。ベッドというのも、押し入れを開けて布団を引っ張り出して敷かなくても、いつでも横になれますから、万年床みたいなものですね。
 床を担いで歩くとは、あるいは、自分の人生のこれまでのすべてを担いで、担って生きることでしょうか。今日の聖書のお話で言えば、病気で苦しんだ38年の人生、あるいは、それ以上の人生を担って、背負って生きるということでしょうか。
 わたしは現在63歳ですが、ふりかえれば、中学1年生だった13歳から63歳までの50年間は、今振り返る立場に立てば、あっという間でした。そして、50年間のいろいろなことを覚えています。もっとも最近のことは良く忘れます。人の名前などどんどん忘れます。一度見た映画や一度読んだ本の内容もどんどん忘れます。
けれども、たとえば、中学校の卓球部のこととか、友達と悪いことをしたこととか、高校入試のこととか、高校時代のバドミントン部のこととか、大学入試当日のこととか・・・受験会場に行ったら、時間を間違えて、3時間も早く着いてしまったので、パチンコをして時間をつぶしたこととか、仕事をし始めてからのいくつもの場面とか、結婚することになりうれしかったとか、家族とか、仕事上で起こった大きな苦しみの数々とか、そういうものは覚えています。そういうものを何十年分も背中に背負って生きているのかもしれません。
 床を担いで歩くとは、あるいは、律法よりもイエス・キリストの言葉に従って歩く、世の中の規則や常識よりも、イエス・キリストの愛の言葉、イエス・キリストの励まし、イエス・キリストの促しによって生きるということでしょうか。それが床を担いで歩く、ということのようにも思えます。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書5章2節です。5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
 「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」とあります。これらの人びとは、イエス・キリストがここだけでなく、ガリラヤやユダヤの各地で出会った人々でもあります。イエス・キリストは病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人を訪ね、友となられました。
 この人々が「横たわっていた」とあります。起き上がれなかったのではないでしょうか。この人々は起き上がれないでいたのではないでしょうか。けれども、あとで、8節に出てきますが、イエス・キリストはこの横わたって起き上がれなかった人びとに「起き上がりなさい」と声をかけたのです。
 「起き上がりなさい」。これは、強制の命令ではなく、招きでありましょう。イエス・キリストは、「起き上がれ」と言って、その人びとを見張ったり蹴っ飛ばしたりしたのではなく、イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言って、この人びとの手を握りしめたのでありましょう。
 5節です。5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
「38年も」とあります。「もう長い間」病気で苦しんできた、とあります。これは、人生そのものの苦しみのことでありましょう。むろん、人生は苦しみだけではありません。人生にはゆたかな喜びもあります。けれども、人生には、苦しみという通奏低音があります。
 「人生には、苦しみという通奏低音があります」・・・かっこいいですね。しかし、むろん、人生には、「喜び」という通奏低音もあります。キリスト教信仰とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。福音とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。
 7節です。5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 助けてくれる人がいない。他の人が我先に行ってしまう。これは、この世界の常識的な価値観ではないでしょうか。人を助けない。人を押しのけてでも自分の道を行く。競争、自分中心、他の人への無関心。これが、この世界を支配している価値観ではないでしょうか。
 8節です。5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
 イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。わたしは、今年から、あるキリスト教雑誌で、一年に三回、その月の号の特集を企画する仕事をいただきました。
 その最初は3月末に発行される4月号で、わたしがその号で企画した特集は「復活」ということです。聖書で物語られている復活は、わたしたちの世界や社会での生活にどのようなメッセージを持っているかということを考える特集です。
 そこでは、復活は、死後の復活だけでなく、死ぬまでの人生における何度かの再起、起き上がりのこととしても語られます。聖書の語るイエス・キリストの復活は、わたしたちの人生における再起、七転び八起きにもつながっているということです。
 わたしも63年と3か月の人生、何度か倒れましたが、その都度、起き上がってきました。神さまに、イエス・キリストに、起き上がらせていただきました。これまではなんとか起き上がってきたが、もうだめだ、もうこれは起き上がれない、死ぬとはこういうことなんだな、と思うような倒れ方もしましたが、それでも、起き上がらされました。
 イエス・キリストが起き上がらせてくださるのです。イエス・キリストの「起き上がりなさい」という言葉が起き上がらせてくださるのです。自分で何とか起き上がったつもりでも、イエス・キリストのお言葉、イエス・キリストの人格、イエス・キリストの出来事、イエス・キリストの力、イエス・キリストご自身が起き上がらせてくださるのです。
 「その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」とあります。聖書の物語では「すぐに」とありますが、わたしたちの人生では「すぐに」というわけにはいきません。けれども、ゆっくりであっても、わからないくらい遅い歩みであっても、神さまは、イエス・キリストは、たしかに、たしかに、わたしたちを起き上がらせてくださいます。
 10節です。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
 イエス・キリストに38年の病を癒していただいたこの人は、ここで分岐点に立たされています。律法に従って、安息日に床を担ぐことを止めるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従って、安息日でも床を担いで歩くのか、という分岐点です。
 律法に縛られるのか、それとも、イエス・キリストによって律法の束縛から解き放たれるのか、どちらを選ぶのか、という分岐点です。
 あなたはナニナニしなくてはならない、という律法に縛られるのか、それとも、あなたはナニナニできる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、人を愛さなければならない、この人を助けなければならない、この人に仕えなければならない、という律法に縛られるのか、それとも、わたしたちは、人を愛することができる、この人を助けることができる、この人に仕えることができる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、律法や規則で縛られ、優劣のような人間的な尺度に縛られ続けるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従う、いや、イエス・キリストの「床を担いで歩きなさい」という言葉によって解放され、優劣の尺度ではなく愛と慈しみに生きようとするのか、どちらでしょうか。
 38年の病気を癒された人にとって、律法の安息日の規則に違反してまで、床を担いで歩く、とは、今日からは律法やこの世の価値観ではなく、福音、イエス・キリストの愛の御心に従って生きていきます、ということを意味していたのではないでしょうか。
 13節です。5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
 38年間病気だったこの人は、以前はイエス・キリストが誰であるのか知らなかったのですが、いまや、自分を癒してくれたのは、自分を起き上がらせてくれたのは、イエス・キリストだと知っているのです。
 16節です。5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
 ユダヤ人がイエス・キリストを殺そうとしたとありますが、イエス・キリストを十字架の死に追いやったのは、わたしたち人間の罪、自己中心、エゴイズム、他者を押さえつける生き方に外なりません。ユダヤ人がイエスを殺そうとした、という言葉には、わたしたちのことが含まれていると思います。
 人びとがイエス・キリストを迫害した理由は、安息日の律法の規定を犯したからだとあります。世の中の決め事、世の中の常識に背くとされることをしたゆえに、イエス・キリストは十字架に追いやられました。
 また、神さまを父と呼んだこと、ご自分を神さまと等しい者としたことも、その理由だと言います。神さまを父と呼ぶ、神さまと一体であると言われる。これは、イエス・キリストにとって、神さまとの親しさ、神さまとの親密なつながりを意味しているのではないでしょうか。イエス・キリストは、神さまの愛、神さまの慈しみ、神さまのお力を、誰よりも強く感じておられた、知っておられたのです。
 けれども、これらのことは、世の人びと、つまり、わたしたちの価値観からすれば、神さまへの冒涜に映ったのです。そして、わたしたちは、イエス・キリストを十字架に追いやりました。
 二週後から受難節が始まります。イエス・キリストの十字架を前にした40日間が始まります。イエス・キリストが十字架につけられた理由は、イエス・キリストが、律法、世の価値観ではなく神さまの愛、神さまの御心に従ったことにあります。それほどまでに、神さまと親密になられた。それゆえに、イエス・キリストは十字架につけられたのです。
 わたしたちは、このイエス・キリストに従うのです。わたしたちも、この世の価値観、優劣、自己中心、そして、ナニナニしなければならないという規則万能の価値観ではなく、神さまの愛、神さまの愛の御心に従って行けるように祈り求めようではありませんか。
 また、わたしたちも、イエス・キリストとともに、神さまを父と呼ぶほどの親密感と信頼を持てるように祈り求めようではありませんか。
 そうやって、わたしたちは、律法に背いてでも、わたしたちの床を担いで、律法ではなくイエス・キリストに従えるように祈り求めようではありませんか。
 祈り。神さま、わたしたちは倒れてしまっています。起き上がれないでいます。けれども、イエス・キリストは、起き上がりなさい、とわたしたちの手をつかんで、引き寄せてくださいます。心より感謝いたします。神さま、わたしたちも、起き上がり、世の価値観ではなく、あなたの愛の御心に従うことができますように、わたしたちを整えてください。神さま、わたしたちもあなたを父と呼ぶ親密感、信頼感をお与えください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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