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自由をもたらす真理とは [礼拝説教(使信)動画]

2024年1月28日 「自由をもたらす真理とは」

https://youtu.be/UzIRwyzGP8k

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2024年1月28日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:31-32)

 「真理はあなたたちを自由にする」とはどういう意味でしょうか。21節に「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とあります。これは、わたしたちが自分の思いの中に閉じ込められて、神さまや隣人とつながっていない状態のことでありましょう。これは、「自由」とは正反対の束縛です。
 けれ ども、イエス・キリストは、「わたしは上のものに属している」(23節)と言います。これは、神さまにつながっている、それゆえに、隣人ともつながっている、つまり、愛に属している、ということでしょう。これこそ、自由なのです。
 「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29節)。
 神さまとともにいる。神さまがともにいてくださる。神さまの愛の御心に従おうとする。これが自由なのです。
 「真理はあなたたちを自由にする」。これは、神さまとイエス・キリストがわたしたちを神さまとイエス・キリストに結びつけてくださる、ということではないでしょうか。 自由とは奔放のことではなく、愛の中に生かされることなのです。

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自由をもたらす真理とは [使信]

使信 2024年1月28日  「自由をもたらす真理とは」  ヨハネ8:21-36
 おはようございます。今日の聖書にあります「真理はあなたたちを自由にする」とは、どういう意味なのでしょうか。真理とはいったい何なのでしょうか。自由とはいったいどういうことなのでしょうか。
 国会図書館のどこかに、「真理がわれらを自由にする」と記されている、と聞いたことがあります。また、羽仁もと子さんが創立し、大貫隆さんが最高学部長を務めた自由学園の「自由」という言葉も、今日の聖書の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉から来ているそうです。
 そうすると、「真理はあなたたちを自由にする」の「真理」とは、本を読んだり学校で学んだりして得られる知識や論理や思考のことでしょうか。
 真理とは、数学の難しい問題の解き方や、これはこれに決まっているとされ唯一だとされ客観的だとされる答えのことでしょうか。
 わたしたちは本をたくさん読んだり学校でよく勉強したりすれば、そのような真理を手にすることができ、自由になれるのでしょうか。
 そうすると、自由とは、何でも自分で考え、判断し、すべてひとりでやってしまうことでしょうか。そうではないと思います。
 結論から言えば、真理とは、じつは、神さまのことであり、神さまの愛のことであり、神さまの愛の表れであるイエス・キリストのことなのです。そして、自由とは、わたしたちが「わたしは正しい」という狭い枠、「わたしは知っている、わたしはできる」という狭い檻の中に閉じ込められることなく、むしろ、その扉が開かれること、つまり、神さまと隣人に向けて、わたしたちの扉が開かれること、それが、自由なのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書8章21節です。8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
 「自分の罪のうちに死ぬ」とあります。これは、自由であることの正反対でありましょう。罪のうちに死ぬ、という言葉は、「罪のうちにあること」と「死んでいること」は同じことを意味しているのではないでしょうか。
 自分の罪のうちにあるとは、自分だけの狭い枠の中にとどまっていることではないでしょうか。自分は正しいという思いにとらわれて、そこから出ることのできない状態です。そのとき、わたしたちは、神さまとも隣人ともつながっていません。自分の中に閉じこもってしまっているのですから。わたしたちの罪とは、神さまや隣人に心を向けず、自分だけの世界にとどまってしまい、神さまや隣人から切り離されてしまった状態のことでありましょう。
 そして、死も、また、神さまや隣人から切り離されてしまった状態です。わたしたちの肉体が地上の旅を終えても、わたしたちが神さまとつながっていれば、それゆえに隣人ともつながっていれば、わたしたちは生きているのです。はんたいに、わたしたちの肉体がまだこの地上にあっても、わたしたちが神さまから離れてしまっていたら、それゆえに隣人からも離れてしまっていたら、それは死んでいるのです。
 「わたしたちが罪のうちに死ぬ」とは、そのようにわたしたちが自分という牢獄に入ってしまって、神さまとも隣人ともつながっていない状態のことでありましょう。
 いのちとは、じつは、つながりのことなのです。さいきん、「農はいのちをつなぐ」という本を読みました。岩波ジュニア新書です。自分があまり知らない分野のことを学び始める時は、新書がいちばんですね。とくに、岩波ジュニア新書とかちくまプリマ―新書がよいですね。中高生向けに書かれた本でも、それがていねいに作られたものであれば、あたらしいことを学び始める大人にもとても役に立ちます。
 わたしは、農村伝道神学校の非常勤講師をしていますが、農のことはまるで知りません。また、広島の山間部の農村に移住した友人の牧師たちと「農の神学」というものを考えようとしていますが、農のことはほとんどわかっていないのです。わたしの父親は鹿児島高等農林学校の出であり、わたしは農学部中退なのですが、農のことは何も知りません。
 そこで、手始めにこの「農はいのちをつなぐ」という本を読んでみました。すると、そこには、「いのち」は「生きもの」のつながりであり、わたしたちは「食べもの」を通して「いのち」とつながる、とありました。また、「農の原理」とは、生きとし生けるものの「いのち」を引きつぎ、次につなげることです、ともありました。
 たとえば、田んぼには稲だけでなく、雑草と呼ばれるいろいろな植物も育ち、害虫と呼ばれるものも含むいろいろな動物、かえるやげんごろうやとんぼも生息しています。そして、稲からとれる米は食卓でわたしたちといういのちとつながります。このように、いのちはつながり、ネットワークなのです。聖書も、また、神さまと人間と人間以外の存在のつながりを伝えています。
 「自分の罪のうちに死ぬ」とは、自分の小さな枠の中にとどまり、神さまを中心にしたいのちのネットワークにつながらないことではないでしょうか。これは自由の反対なのです。
 聖書の言葉に戻りますと、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」とありました。これも同じことで、イエス・キリストの行く所とは、神さまのところであり、そこにあなたたちは来ることができない、とは、神さまとつながることができない、ということでありましょう。
 23節です。8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
 イエス・キリストが上のものに属している、とは、イエス・キリストは神さまに属しておられる、イエス・キリストは神さまとの深いつながりの中におられるということでしょう。
 24節です。8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
 「「わたしはある」ということを信じないならば」とあります。「わたしはある」とは不思議な言葉ですが、これは、じつは、神さまのことです。
 旧約聖書の出エジプト記にこういうことが書かれています。3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 神さまは「わたしはある」というお名前、あるいは「わたしはある、わたしはある」というお名前だと言うのです。このお名前にはどのような意味があるのでしょうか。
 「わたしはある」「わたしは存在する」「わたしは根本的に存在する」「わたしは根本的な存在だ」「わたしは存在するものを存在させる創造者だ」というような意味があるとも考えられます。
 あるいは、「わたしはある、わたしはたしかにここにいる」「わたしはいる、わたしはたしかにここにいる、あなたと一緒にここにいる」というような意味があるとも考えられます。
 ところで、ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは、「わたしは世の光である」と言っています。あるいは、「わたしは良い羊飼いである」「わたしはぶどうの木である」「わたしは道であり、真理である」と言っています。
 これらの文の中の「世の光」「良い羊飼い」「ぶどうの木」「道」「真理」という言葉をカッコの中に入れてしまうと、これらは皆、「わたしはある」という文になります。つまり、イエス・キリストご自身がご自分のことを、「わたしはある」と語って来られたのです。
 つまり、「「わたしはある」ということを信じないならば」とは、神さまのことを信じないならば、ということでもあり、同時に、イエス・キリストを信じないならば、ということでもあるように思われるのです。
 あるいは、神さまにつながっていなければ、イエス・キリストにつながっていなければ、ということでもあるように思われるのです。そして、それは「自分の罪のうちに死ぬこと」であり、自由ではない、ということでもあるように思われるのです。
 25節です。8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
 イエス・キリストはいったい誰なのか。これは、じつは、今日の聖書の箇所の主題であり、さらには、ヨハネによる福音書の主題であり、さらには、新約聖書の主題であり、さらには、旧約聖書を含む聖書全体の主題でもあります。そして、キリスト教会は、聖書の御言葉から、イエス・キリストはまことの人でありまことの神であるという信仰告白をいにしえからしてきたのです。
 26節です。8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
 「わたしをお遣わしになった方は真実である」とあります。この真実とは、誠実のことであり、愛のことであり、御父、天の神さま、創造主なる神さまのことであり、さらには、「真理はあなたたちを自由にする」という言葉にある「真理」のことでありましょう。
 28節です。8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
 「人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということがわかる」とは、イエスさまが十字架につけられたとき初めてイエスさまがキリストである、神の子であることがわかる、ということでありましょう。
 また、イエス・キリストが父なる神さまに教えられたとおりに話しているとは、イエス・キリストが神さまの御心、神さまの愛を表しておられるということでありましょう。
 ここには、神さまとイエス・キリストとの深い一致、神さまとイエス・キリストが一体であることが語られていて、いにしえの教会はこれを三位一体という言葉で言い表したのです。
 29節です。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。
 これは、神さまはイエス・キリストと共におられる、神さまはイエス・キリストをひとりにしてはおかれない、イエス・キリストは神さまのお心を行う、ということでしょう。
 そして、これは、じつは、わたしたちにもあてはまることであり、神さまはわたしたちとともにおられ、神さまはわたしたちをひとりにしてはおかれず、わたしたちは神さまのお心を行えるように祈り求めるのです。
 神さまのお心、神さまの御心とは、愛のことでしょう。自分だけでなく、人を大事にする愛のことでしょう。
 31節です。8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」という言葉と、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉は、同じ事柄を言い換えているように思われます。
 つまり、「わたしの言葉にとどまる」「イエス・キリストの言葉の中にいる」ということは「真理を知る」ということであり、「わたしの弟子である」「イエス・キリストの弟子になる」ということは「自由にされる」ということではないでしょうか。
 自由になるとは、イエス・キリストの弟子になることなのです。誰かの弟子などにならない方が自由であるような気がするかもしれませんが、そうではありません。
 イエス・キリストの弟子になるということは、自分自身の枠にとどまらないということです。エゴイズムの枠、罪の枠に閉じ込められないということです。イエス・キリストの弟子になるとは、神さまに対して自分が開かれる、隣人に対して自分が開かれるということなのです。
 神さまご自身が自由なお方です。神さまの自由は自由奔放ではなく、むしろ、人に仕える自由です。神さまの自由とは自由奔放ではなく、愛なのです。
 わたしたちの心はいつも神さまからも隣人からも離れてしまっています。では、神さまの心もわたしたちから離れてしまうかと言いますと、そうではありません。神さまは、わたしたちの心が神さまに向いているか向いていないか、わたしたちが罪人であるか善人であるか、そういうことから自由なのです。神さまは、わたしたちが罪人、神さまから離れた者であるにもかかわらず、そのようなことに束縛されず、自由に、わたしたちを愛してくださるのです。それが神さまの自由です。
 神さまの愛は無条件の愛です。神さまの自由とはこの無条件のことなのです。神さまの自由とはわたしたちに対して開かれているということなのです。
 わたしたちも自分自分という思いの奴隷にならず、神さまにお委ねして、隣人の思い、隣人の心に開かれる自由を得たいと思います。
 「真理はあなたたちを自由にする」とは、神さまがわたしたちを自由にしてくださる、神さまと隣人に対して心を閉ざしたわたしたちを、神さまが開いてくださる、ということなのです。
わたしたちは、神さまによって、神さまと隣人に向けて心を開かれ、神さまと隣人を愛する自由を与えられているのです。このことにあらためて気づき、感謝をいたしましょう。
 祈り。神さま、わたしたちは自分という牢獄にとらわれています。自分の思いという枠に閉じこもっています。わたしたちは不自由なのです。けれども、神さま、あなたは、真理であられ、わたしたちをそこから自由にしてくださいます。閉ざされたわたしたちの心を、あなたと隣人に向けて開いてくださいます。神さま、わたしたちはあなたからいただいたこの自由を大切に用いることができますようにお導きください。神さま、閉じ込められて苦しんでいる友の扉を外から開いてください。わたしたちもそこに伴わせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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特上のワインはラストに [使信]

説教 2024年1月21日 ヨハネ2:1-11 「特上のワインはラストに」

 おはようございます。
 教会は家族なんですね。教会はそこで50年も60年も過ごす家族なのです。二十歳前後でイエスさまに出会い、イエスさまの家族になり、姉妹兄弟と家族になるのです。
 もちろん、二十歳前後から五十年間も教会の家族である人もいれば、もっと前から、生まれた時から教会の家族である人もいます。あるいは、人生の後半になってから教会の家族になった人もいます。
 けれども、皆が教会の家族なのです。一日の夜明けからぶどう園で働く人、もうすこし経って9時になってぶどう園に来た人、正午になってきた人、午後3時に来た人、午後5時に来た人がいますが、夕暮れには皆が1デナリをいただいたように、皆が同じ食卓で同じ食事をいただくように、一日の何時にイエスさまに出会い、何時に教会の家族になっても、教会は家族なのです。わたしたちは、神さまの家族、イエスさまの家族なのです。
 今、ぶどう園の話を少しいたしました。今日の聖書には、ぶどう酒が出てきます。わたしはぶどう酒、ワインをほとんど飲んだことがありません。性格がまじめだからでもなければ、信仰の理由で飲まないわけでもありません。
 アルコールを分解する酵素がわたしには少ない、言い換えれば、お酒に弱い、すぐに頭が痛くなってしまい、気分も悪くなる、まあ、それだけの理由です。
 むかしは、聖餐式もワインでやっている教会がよくあって、そういうときは、聖餐式のあとは、賛美歌が上手になっていたような気がします。しかし、最近は、いろいろな配慮によって、ぶどうジュースの教会が多いと思います。
 ワインには、赤と白とロゼというのがあるそうですね。お酒を飲まなくても、それくらいのことは知っています。神学生のころ、ある教会の聖餐式で、牧師さんが、今日は良い白ワインがあるので、それで聖餐式をしよう、とおっしゃって、びっくりしたこともありますが、聖餐式のワインは赤でなくてもよいのかどうか、いまだにわかりません。
 お酒を飲めないわたしでも、ワインには、ボジョレーヌーボというものがあることは知っています。これは、その年にできたばかりのワインのことのようですね。それに対して、何年も蔵で寝かしてきた年代物のワインもあり、それは、ヴィンテージと呼ぶのでしょうか。今日の聖書で、あとの方で出てくるぶどう酒はヴィンテージの味がしたのかもしれませんね。直前まで水でぶどう酒になったばかりだったのですからボジョレーヌーボのような気もしますが、その味わいはヴィンテージのように上等だったのではないでしょうか。
 飲めないお酒の話はこれくらいにしまして、皆さんは、苦しみが喜びに変わった、神さまが苦しみを喜びに変えてくださった、という経験がおありでしょうか。
 病で苦しんでいたが、それが癒された、祈りに支えられた、神さまに癒していただいて、回復した、そのように、苦しみを喜びに変えていただいたという方は何人かおられるのではないでしょうか。
 四年前、わたしは東京都大田区から川崎市麻生区に引っ越しました。麻生元総理大臣の麻生と書いて、あさおと読むのです。知らないところに引っ越すこと、しかも、東京から電車で何十分もかかり、さらには、バスに20分も乗らなければならない陸の孤島のようなところに引っ越すのは苦痛でした。
 深沢教会もバス停は近くにありますが、電車の駅からはかなり遠いので、陸の孤島的なところがありますが、今日も礼拝にお越しくださり、ほんとうにありがとうございます。うれしいです。
 話を戻しますと、わたしは陸の孤島に引っ越して、苦しかったのですが、それが、じょじょに喜びに変わっていきました。
 まずは、わたしと家族が川崎市に引っ越したその年、Jリーグの川崎フロンターレが優勝しました。うれしいですね。ああ、川崎市民になって良かったと思いました。
 それから、それまでまったく知らなかったところに引っ越したわけですが、ああ、日本にもこんなパンダが出そうな竹藪だらけのところがあるのか、と、日本の新しい風景も味わうことができるようになりました。
 遠いということは、自然が豊かであるということで、散歩ができる、ということです。駒沢公園も大きな木がたくさん生えていますが、まあ、自然というよりは管理された公園ですよね。ところが、川崎市麻生区あたりは、ときには狸も出る自然が生活圏、散歩の範囲の中にあるのです。これもわたしの喜びになりました。
 さらには、川崎市麻生区に引っ越して二年が過ぎた時、東京都世田谷区の教会から代務者としてお招きいただき、また、こうやって皆さんとご一緒できるようになりました。さらには、去年からは、主任牧師として招聘していただき、今、喜びの年を過ごさせていただいております。
 川崎市麻生区のまぶね教会だけでなく、この深沢教会、深沢の群れにも入れていただき、ともに歩ませていただいていることは、ほんとうに大きな喜びです。
 また、川崎に引っ越して一年後に、町田の農村伝道神学校で講師の仕事をいただいて、神学教育に関わることができるようになったことも大きな喜びです。さらには、もっとうれしいことに、深沢教会では、ふたりの神学生とご一緒させていただいております。こんなにうれしいこと、こんな喜びはありません。
 今、まぶね教会と深沢教会の礼拝、聖書の学び、そして、信仰の交わりは、ほんとうに大きな喜びです。
 四年前の引っ越しの苦しみを、神さまは、今の喜びに変えてくださいました。主に心から感謝いたします。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書を三つのポイントから振り返ってみたいと思います。
 1 イエス・キリストは喜びの時も悲しみの時もわたしたちとともにいらしてくださいます。
 2 人生は後の方が味わい深くなります。
 3 神さまは、今の苦しみを、やがて、喜びに変えてくださいます。
 では、ヨハネによる福音書2章1節です。
 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
 婚礼は喜びの時です。しかし、そこでぶどう酒がなくなってしまうのは、ある意味、喜びの時が苦しみの時になってしまった、ということです。しかし、イエス・キリストは、ぶどう酒のゆたかな婚礼の喜びの時も、ぶどう酒がなくなってしまった苦しみの時も、カナのその場の人びととともにおられました。
 それと同じように、イエス・キリストはわたしたちの人生の喜びの時も、悲しみの時も、わたしたちとともにいてくださるのです。皆さんも、これまでの人生、そうだったのではないでしょうか。
 ピンとこない方も、きっと、そう感じる時が来ると思います。ああ、神さまは、イエス・キリストは、わたしがうれしいときも、わたしが悲しいときも、いっしょにいてくださるのだなあ、としみじみする時を神さまがきっともたらしてくださいます。
 8節です。
 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものです」とあります。わたしはお酒は飲まないのでわかりませんが、世の中ってそんなものなのですか。
 けれども、イエス・キリストは違います。イエス・キリストは、良いぶどう酒を今までとっておいてくださるのです。
 わたしは今、おそらく、人生の晩年の入り口あたりにいるような気がしますが、先ほども申し上げましたように、とても幸せなときを過ごしています。
 ふたつの教会の牧会。そこにおられる心やさしき人びとに恵まれています。30年前なら、ボジョレーヌーボのころなら、ふたつの教会を牧会する恵みを味わうことはできなかったでしょう。
 神学校で神学教育に関わることも、ふたりの神学生とともに歩む喜びも、イエス・キリストがいままでとっておいてくださった良いぶどう酒、喜びにほかなりません。
 鳥瞰図という言葉があります。鳥瞰図の「ちょう」は鳥と書きます。鳥の高さから見た地表ということです。その方が、広い範囲を見渡すことができます。年をとると、ある一点だけでなく、平面、場合によっては、立体で、ものを味わうことが許されます。
 たとえば、神学生に神学校のレポートについて相談を受けたとします。どの神学生とは言いません。たとえばのお話です。35年前、わたしは、神学校の先生がその課題を出した意味はあまりわかっていなかったかもしれませんが、今のわたしは、ああ、こういう主旨の課題だなと見当がつきます。これも、今までとっていていただいた良いぶどう酒でありましょう。
 深沢教会では、おそらく、わたしより年長の方がたも、賛美リーダーやアシスト、司会の奉仕をしておられます。これらの方がたも、ビンテージと言いますか、味わい深いですね。
 老いや病の苦しみもあります。しかし、見方を変えれば、それも、人生の味わいのひとつなのかもしれません。今この年になって、これまでの人生を経て、今味わえる良いぶどう酒があります。
 イエス・キリストは、婚礼でぶどう酒がなくなってしまう悲しみ、苦しみを、最良のぶどう酒、最良の喜びに変えてくださいました。今そうしてくださいます。これからもそうしてくださいます。
 エレミヤ書にはこうあります。
 エレミヤ31:13 そのとき、おとめは喜び祝って踊り、若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。
 神さまはわたしたちの嘆きを喜びに、悲しみを喜びに変えてくださいます。若者だけではありません。老人、高齢者にも喜びが訪れます。
 ヨハネによる福音書にもどります。
 11節です。
 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 「しるし」とありますが、何の「しるし」でしょうか。イエスさまが救い主、キリストであるしるしです。
 「しるし」です。証拠ではありません。わたしたちは、神さまやイエスさまを目に見える証拠によって確認するのではありません。わたしたちは、神さまやイエスさまを、しるし、サインによって、信頼するのです。神さまやイエスさまのしるし、サインをキャッチ棄て、目に見えない神さま、目に見えないイエスさまを信頼するのです。
 悲しみを喜びに変えてくださるイエス・キリスト、わたしたちのために良いぶどう酒を今までとっておいてくださったイエス・キリストを、わたしたちは弟子たちとともに、今日あらためて、心から、ふかくふかく信頼しようではありませんか。
 お祈りいたします。
 神さま、わたしたちは悲しみに沈んでいましたが、あなたは、それを喜びに変えてくださいました。神さま、悲しみと喜びは、ときに、重なり合っています。兄が地上の旅を終えた悲しみとともに、兄が天のあなたのもとに召された、まねきいれられた喜びをわたしたちは感謝いたします。神さま、若い人も年をとった者も、この一瞬一瞬、あなたが今まで取っておいてくださった良いぶどう酒を味わわせてくださる、その恵みに心から感謝いたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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イエス・キリストとの出会い [礼拝説教(使信)動画]

2024年1月14日 「イエス・キリストとの出会い」

https://youtu.be/ZZO9-nef5d8
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イエス・キリストとの出会い [使信]

使信 2024年1月14日 
「イエス・キリストとの出会い」  ヨハネ1:35-51

 おはようございます。皆さんはどのようにして、教会に来るようになられたのでしょうか。あるいは、どのようにしてキリスト教を信じるようになられたのでしょうか。あるいは、イエス・キリストとはどのように出会われたのでしょうか。
 親がクリスチャンだった、クリスチャンホームに生まれたので、イエス・キリストと出会った・・・という方はおられるでしょうか・・・。
 幼稚園がキリスト教の幼稚園だったのがきっかけだ・・・という方はおられるでしょうか・・・。昨年洗礼を受けた高校生は、幼稚園がキリスト教の幼稚園で、幼稚園の行事か何かで、教会の礼拝に出て、聖餐式を見て、これはいいなと思いつづけてきた、と言っていました。
 中学生、高校生のころに教会に行くようになって、イエス・キリストと出会った、という方はおられるでしょうか・・・。
 それ以上の年齢になって、たとえば、人生の悩みを抱えるようになって、教会に来てみた、という方はおられるでしょうか・・・。
 わたしの場合は、両親がクリスチャンだった、父親が牧師だった、ということですね。父は、戦争から帰ってきて、人生の意味を考え直そうと、キリスト教会の門をたたいたようです。
 母の場合は、母の母、つまり、わたしの祖母が、人生においてつらい経験をし、神さまなど信じられなくなったそうですが、せめて自分の娘二人には神さまを信じられるようになってほしいと、母はプロテスタントの東京女子大学へ、母の妹はカトリックの白百合へ行かせたそうです。しかし、祖母は、プロテスタントとカトリックの違いも共通点も知らなかったそうです。ただ、キリスト教の学校に子どもを行かせて、神さまを信じるようになってほしいと願ったそうです。
 わたしは、そのような両親のもとに生まれ、生後半年のイースターで幼児洗礼を受けました。赤ん坊は言葉による信仰告白などしませんが、洗礼には人間の側の信仰告白、信仰の決意だけでなく、神さまの側の恵み、愛という意味があると考え、また、親の信仰によって子どもを育てるということも加味すれば、赤ん坊への洗礼もあり、とする信仰もありうるわけです。
 そして、高校2年生の時に、信仰告白をしました。これは、神さまの恵みや親の信仰によって幼児洗礼を受けた者が、青年期になる、あるいは、成人になったときに、使徒信条という古来からの信仰告白を学び、それを自分の信仰として告白するものです。もっとも、わたしは、自分から進んで、ではなく、親に言われて、そうしたわけです。
 わたしの子どもたちもそうだったと思います。うちの子どもたちが生まれた時は、わたしは幼児洗礼の習慣がない教会の牧師をしていましたので、自分の子どもたちに幼児洗礼を施すことはしませんでしたが、関田先生のご紹介もあり、まもなく、幼児洗礼をするメソジスト系の教会に転勤しましたので、そこで、子どもたちに洗礼を授け、その十数年後、信仰告白の式、これは堅信式、信仰を堅くする式、堅信礼とも言いますが、それを行いました。
 わたしの話に戻しますと、わたしは高校時代に親に言われるままに、堅信礼を受けました。自分からキリスト教に関心を持つようになったのは大学生になってからです。
 小さな教会で牧師さんとふたりで、イエス・キリストの十字架と復活についての本を読みました。わたしたち人間は罪人である、という教えは、わたし自身に照らしてみると、じつに説得的でした。けれども、その罪が、イエス・キリストの十字架によって赦された、という教えは、じつに画期的でした。罪と赦し、というキリスト教の教えにひじょうに魅力を感じました。
 しかし、牧師さんから勧められてではなく、自分の知的関心から、荒井献さんや田川建三さんの本も読むようになりました。田川さんというのは、荒井さんの後輩ですが、荒井さんに対しては、辛辣なことを書く人です。けれども、ふたりとも、歴史上のイエスという人物を描く歴史家です。
 彼らが描くイエスという人は、十字架についてわたしたちの罪を赦すキリストという側面ではなく、その時代の貧しい人、罪人と呼ばれている人の立場に立ち、それを虐げる権力者に抵抗する人です。そのようなイエス像にもわたしは強くひかれました。
 また、カール・バルトという人がいまして、この人は、イエス・キリストは神の言葉である、イエス・キリストは人間を無条件に救う神の愛そのものである、というようなことを言ったのですが、これにも強く惹かれました。
 これらのいくつかのイエス像、イエス・キリスト像は、厳密にはぴったり重なり合うものではありません。では、今、わたしがイエス・キリストをどのような存在として信じているかと言うと、わたしは、これらのさまざまなイエス像、イエス・キリスト像は、引き出しのようなもので、TPOに応じて、どれかの引き出しを開ける、あるいは、どれかの引き出しが開かれる、といった感じです。
 このように、イエス・キリストとの出会いは、人それぞれだと思いますが、今日の聖書も、イエス・キリストとのさまざまな出会いが描かれているように読むこともできるでしょう、
 ヨハネによる福音書1章35節です。1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
 洗礼者ヨハネは、イエスのことをここで「神の小羊」と言っています。これは、先週も申し上げましたように、わたしたち人間の罪を赦すために神さまにささげられる小羊のことです。わたしたち人間の罪を赦すために、わたしたちに代わって十字架につけられ罪の罰を受けた神の子。それがイエス・キリストだと、ここで、ヨハネは言っています。
 37節です。1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
 ヨハネに代わって、二人の弟子たちにとっては、イエスとはどのような存在だったのでしょうか。ここに「泊まる」、宿泊の泊ですね、「泊まる」という動詞が三度繰り返されています。イエスのもとに泊まるとはどういうことでしょうか。
 これは、イエスと一緒にいる、あるいは、イエスについていく、ということではないでしょうか。イエスと一緒に歩むということではないでしょうか。弟子たちがイエスと一緒に歩む、あるいは、わたしたちが聖書を読むことでイエスと一緒に旅をする。そこにはどんなことがあるでしょうか。
 イエスは病人を癒しました。人々から見捨てられ、隔離された病人を癒しました。また、イエスは、罪人と言われ世の中から斥けられた人びとと話をしたり食事をしたりしました。
 あるいは、イエスは神の国を語りました。この世界を本当に治めているのは王ではなく、神さまであると語られました。ここは神さまの国であると語られました。そして、神さまの国は、種から育つ植物のように、あるいは、パン種によってパンが膨らむように、生き生きとしていて、大きく育っていくもの、いのちにあふれたものであることを、イエスは語りました。
 あるいは、イエスは嵐を静めました。嵐に慌てる弟子たちに平安をもたらしました。あるいは、イエスは何千人もの人びとと食事をわかちあわれました。十字架につけられる前の晩にも、弟子たちと食事をわかちあわれました。
 あるいは、イエスは空の鳥、野の花のごとく神さまを信頼しました。十字架につけられる前の晩も、この苦しみを取り除いてくださいと祈りつつも、神さまにすべてを委ねました。イエスは十字架につき、死んで葬られましたが、復活して弟子たちのところにあらわれました、と福音書は語っています。
 イエスのもとに「泊まる」ということは、このようなイエスの生涯と一緒に歩むということではないでしょうか。二人の弟子はイエスとこのような出会いをしたのではないでしょうか。
 40節です。1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
 アンデレは、イエスをメシアだと言いました。メシアとは、油を注がれた者という意味で、旧約聖書では、王や祭司や預言者が立てられる時に油を注がれました。また、そのような救い主、イスラエルの民を救う者が現れると信じられていました。
 王とは国を治める者です。イエスは神の国を治める者、神の国の王と言えるかもしれません。祭司とは人を神さまにとりなす者です。イエスはわたしたち人間を神にとりなす者と言えるかもしれません。「イエス・キリストの御名によって、お名前によって祈ります」とは、イエス・キリストのとりなしによって祈ります、という意味でもあるでしょう。預言者とは神の言葉を語る者です。イエスは神の言葉を語る者でありましょう。そして、イエス・キリストは苦しむ民を救う救い主である、とアンデレは信じたのでありましょう。
 42節です。1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
 このシモンとはペトロのことです。ペトロとはギリシャ語で「岩」という意味ですが、これは、ヘブライ語ではケファと言ったようです。
 ペトロはイエス・キリストから「岩」と呼ばれました。これにはどのような意味があるのでしょうか。マタイ福音書では、イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言ったとあります。ペトロはそのようなたしかな人物だったのでしょうか。あるいは、頑固な人物だったのでしょうか。
 あるいは、ペトロはのちにイエスのことを三度知らないというような弱い人物であったから、そのような弱い人物が強くなるように、という願いが込められていたのでしょうか。
 旧約聖書には「救いの岩」という言葉が何度か出てきて、これは、神さまを形容する言葉ですが、砂漠や荒れ地の大きな岩は大きな影を造り、そこで人びとは雨、風、砂、日差しなどから守られるというイメージがあると聞いたことがあります。
 いずれにせよ、ペトロはイエスから名前をもらうというような出会いをしました。ちなみに、林巌雄の巌雄もペトロから来ています。イエス・キリストを裏切るような人物の名前を付けやがって親父は・・・などと思ったこともありましたが、父の神学校の卒論はペトロの研究だったそうで、じゃあ、いいか、と受け入れもしました。
 43節です。1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
 フィリポはイエスに従うように招かれました。イエスに従うとは先ほど申し上げた病人を癒したり虐げられている人びとに近づいたり神の国を宣べ伝えたりしたイエスに従って生きるということでありましょう。
 45節です。1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
フィリポは、また、イエスと出会い、この方は、モーセや預言者が預言したお方だと思いました。
 49節です。1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
ナタナエルは、イエスと出会い、神の子、イスラエルの王だと思いました。
 51節です。1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
 イエスご自身は、ご自分は、天の神さまのことを地上の人間に伝えるものだ、と言っておられるように思われます。
 このように、今日の聖書の中では、それぞれの人がイエス・キリストとそれぞれの出会い方をしています。わたしたちも、それぞれがそれぞれの仕方でイエス・キリストと出会ってきたのではないでしょうか。
 そのうちのどの出会い方が正しく、どの出会い方は間違っている、というようなことはないでしょう。神さまとの出会いの多様性は、むしろ、神さまの恵みの多様性、神さまの愛のゆたかさを示しているのではないでしょうか。
 イエス・キリストが虐げられた人びとを訪ねたこと、病人に寄り添ったこと、神の国を宣べ伝えたこと、旧約聖書の時代から待ち望まれた救い主であること、十字架につかれ陰府に降ったけれども復活なさったこと、神さまの存在と愛と力を誰よりも強く深く感じ、受け取り、それをわたしたちに今なお伝えてくれていること。
 これらのことがわたしたちとイエス・キリストとの出会いを織りなし、キリスト教信仰をゆたかにしてくれていると信じます。
 祈りましょう。神さま、聖書の中でも、人びとはそれぞれの仕方でイエス・キリストと出会いました。わたしたちもまたそれぞれの仕方でイエス・キリストと出会っています。わたしたちがそれぞれの出会いを神さまの恵みのゆたかさとして受け取ることができますように。神さま、不安や弱さを抱えている人がいれば、イエス・キリストと出会い、神さまを信頼して歩むというひとつの道をお示しくださいますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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2024年1月14日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年1月14日

はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。(ヨハネ1:51)

 イエス・キリストとの出会い方、その人にとってイエス・キリストは誰かは人それぞれです。聖書の登場人物たちにとってもそうです。
 ヨハネによる福音書によれば、洗礼者ヨハネはイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」(1:36)と言います。ヨハネはイエスを「神の小羊」ととらえました。
 また、ヨハネとともにいた二人の弟子はイエスについて行き、「どこにイエスが泊まっているか」(1:39)を見ます。この二人はイエスのいる場所を訪ねました。
 アンデレは「わたしたちはメシアに出会った」(1:41)と言います。アンデレはイエスをメシア、救い主だととらえました。
 ペトロはイエスから「岩」(1:42)と呼ばれることになりました。
 フィリポはイエスから「わたしに従いなさい」(1:43)と招かれました。また、イエスのことを「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」(1:45)と認識しました。
 ナタナエルはイエスを「神の子、イスラエルの王」(1:49)だと理解しました。
 イエス自身は上の引用(1:51)のように、天の神さまから地上のわたしたち人間に何かをもたらすお方、伝える者、神さまとわたしたちをつなぎあわせるお方だと言っておられるように思われます。
 これらのうちどれか一つだけが正解ということではなく、むしろ、イエス・キリストとわたしたちの出会いは人それぞれだし、また、一人の人間においても、イエス・キリストと幾重もの出会いをしていることを示しているのではないでしょうか。そして、これは神さまの愛と恵みのゆたかさ、深さを示しているのではないでしょうか。

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余の罪を取り除く神の小羊 [礼拝説教(使信)動画]

2024年1月7日 「余の罪を取り除く神の小羊」

https://youtu.be/O3Ptz8GGXF8
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2024年1月7日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年1月7日

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)
 
人間が作った暦の上で新しい年が来る以上に大事なことは、神さまがわたしたちのために、つねに新しい時を創ってくださり、わたしたちを新しくしてくださることです。
 罪とは、わたしたちが神さまと人びとから心を離し、自分のことだけしか思わないことです。その結果、世は戦争や人間の生を踏みにじる出来事でいっぱいです。個人においても、わたしたちは自分の思いを人に押しつけてしまっています。
 わたしたちのこの罪を赦すために、神さまの独り子イエス・キリストは十字架でわたしたちの代わりに罰を受けてくださった、という信仰がキリスト教にはあります。
 さらに、今日の聖書の個所に続く節では、洗礼者ヨハネは神さまの前で自分を絶対化しない生き方を示しました。
 また、イエス・キリストは神さまから聖霊を受け、洗礼を受ける人々にその聖霊を注いでくださることが今日の聖書には書かれています。
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)。
 このように、神さまが洗礼と聖霊によってわたしたちを新しくしてくださるのです。これにお応えして、わたしたちも新しい道を歩き始めましょう。

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余の罪を取り除く小羊 [使信]

使信 2024年1月7日  「余の罪を取り除く小羊」  ヨハネ1:29-34
 新年おめでとうございます。しかし、何がめでたいのでしょうか。2024年になったからでしょうか。けれども、これは、イエス・キリストの生まれた年を、正確ではないけれども、おおよその見当で想定して、それを元年、つまり、第1年とした暦では、今年は2024年になるということで、その点では、キリスト教と関係がありますが、1月1日と決められた日についてはどうでしょうか。
 365日、あるいは、366日のうちのある1日を1月1日と決めるのですが、今わたしたちが使っている西洋暦では、1年で一番夜が長く昼が短い日、言い換えれば、これからは昼が長くなっていく日、太陽の出る時間がこれからは長くなっていくという日、つまり、冬至ですね。この冬至からおよそ10日後を1月1日にする、1年の初めの日とする、というのは、キリスト教とはとくに関係のないことと思われます。
 今わたしたちが使っている西洋暦は冬至の日から十日くらい後を1月1日、つまり、新年としますが、たとえば、この西洋暦では4月1日にあたる日を1月1日にする、一年の始まりにする暦が世界のどこかにあっても構いませんし、げんに、ユダヤ教では西洋暦で言えば9~10月にあたるころに新年をお祝いします。
 西洋暦ができる前のユダヤ教では、「ああ、今は9月だけれども、新年を祝おう」などとは思っていません。西洋暦以前のユダヤの暦では、ああ、今は9月だ、などと思わず、ただ、ああ、新しい年が来た、と思うはずです。
 ですから、わたしたちは、新年おめでとうございます、などと言いますが、今日が新年の7日目だ、新しい年の7日目だ、などと思うのは、人間の作った制度の上でのことに過ぎません。神さまが6日前を新年の始まりとしたわけではありません。
 神さまは、人間の作った暦、人間の作った制度、わたしたちのなすこと、考えることをはるかに超えたところで、働いておられます。
 神さまは、たしかに、時を創ってくださいましたし、神さまは、今も時を創ってくださいます。しかし、それは、西洋暦の1月1日や新年に束縛されるものではありません。
 神さまは、むしろ、西洋暦の1月1日や新年に限らず、つねに、時を新しくしてくださいます。そして、神さまは、つねにわたしたち自身を新しくしてくださいます。
 何がめでたいのかと言えば、神さまがわたしたちをつねに新しくしてくださり、わたしたち自身を新しくしてくださることがめでたいのです。
 老化などという言葉があり、たしかに、目も、耳も、筋肉も衰えますので、わたしたちの何が新しくなっているのかと思われるかもしれませんが、わたしたちの考え、わたしたちの心、わたしたちの精神は、じつは、日々新しくされています。
 それがいちばんよく表れるのは、聖書の言葉を読んで、ああ、神さまのこんな恵み、こんな愛は知らなかった、と教えられることです。あるいは、すでに知っていたと思われることでも、あらためて、聖書に現れる神さまの恵み、愛の新しさに触れる時、わたしたちは新しくされるのです。
 ところで、今日の説教の題は「余の罪を取り除く神の小羊」としました。罪とは何でしょうか。わたしは悪いことなどしていません、と思う人もおられることでしょう。けれども、罪とは、神さまから離れてしまうこと、そして、自分以外の人からも心が離れてしまうこと、その結果、自分自分としか言わない自分になってしまうことです。神さまにお任せせず、何でも自分でやってしまおうとし、その結果、人を傷つけてしまいます。罪とは、このように、神さまと隣人から離れてしまうことです。
 その最たるもののひとつが戦争です。ロシアとウクライナでは戦争がほぼ2年続いています。ミサイルが打たれ、戦闘が続き、何千人、何万人が死に、もっと多くの人びとの生活が破壊されています。イスラエル・パレスチナの戦争ももう3か月も続いています。やはり、何千人、何万人も死に、かろうじて生き延びているガザの人びとにも食糧不足、飢え、飢餓が襲い掛かっていると報じられています。
 これは、集団殺害犯罪、ジェノサイド、民族虐殺である、と南アフリカ共和国は国際司法裁判所に訴えています。狭い地域にたくさんの人びとを封じ込めて、生命を奪う、これは、かつて、南アフリカの黒人市民が受けた経験でもありました。
 沖縄では軍事基地が強引に建設されています。県民が望まず、県が許可を出さないのに、代執行と言って、国が勝手に埋め立ての許可を出してしまいました。地方自治が損なわれています。
日本にいることが認められず入国管理事務所の収容所に入れられ、そこで病気になっても治療を受けられず、結果的に殺されてしまった外国人がいます。
 これらのことは、皆、わたしたち人間の罪、自分自分と言い続けるわたしたち人間の罪ではないでしょうか。
 国家の罪だけでなく、個人の罪もあります。ガラテヤの信徒への手紙にはこうあります。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 わたしたちも、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみを抱えていないでしょうか。わたし自身をふりかえりますと、どうしても、自分は相手より高いところにいるつもりになってしまって、人をわたしの思うようにさせようとしてしまうことがあると反省せざるを得ません。
 牧師としては教会に来る人びとに自分の考えをどうしても押し付けようとしてしまいます。親としては子どもたちに自分の思いどおりにさせようとしてしまいます。教師としては生徒に、自分の考え方を身につけさせようとしてしまいます。先輩牧師としては神学生に、自分の神学、信仰、牧師像を受け入れさせようという気持ちがあります。
 ようするに傲慢なのですね。自分はわかっている。自分の考え通りに相手にもさせたい。このような罪を抱えています。
 国や社会としての罪、そして、個人としての罪、世の中の罪、世の罪は、わたしの罪、余の罪でもあります。戦争は、世の中の罪、世の罪であると同時に、わたしの罪、余の罪でもあるのです。
 このような罪を抱えるわたしたちはどのように生きればよいのでしょうか。どうすれば、この罪から救われるのでしょうか。
 洗礼は、このような罪からの救いと密接につながっています。けれども、洗礼を受ければ、ただちにこのような罪から救われる、このような罪と無関係になるわけでもありません。
 しかし、このような罪人であるにもかかわらず、神さまはわたしたちに生きることを許してくださったこともたしかだと思います。わたしたちは、罪人であるにもかかわらず、生きることを許されている者として、どのように生きるのでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書1章29節です。1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
 神さまの独り子イエス・キリストが罪人であるわたしたちの代わりに十字架で罰を受け死んでくださったので、わたしたちの罪は赦された・・・キリスト教にはこのような信仰があります。
 今の聖書の「神の小羊」という言葉にもそれが読み取れます。旧約聖書を読みますと、人間が神さまに赦していただくために、小羊をささげています。この場合の小羊は、家畜としての羊、メーメーなく羊、焼けばジンギスカンになる羊のことですね。
 ところが、新約聖書では、メーメーなく羊ではなくて、イエス・キリストが神さまにささげられる最後の小羊になって、人間の罪の赦しが完成する、と信じるのです。
 けれども、わたしたち人間の罪の赦しについて、今日の聖書は、さらにいくつかの点を述べています。30節です。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
 「わたしの後から来る人がいる」「わたしにまさる人がいる」「わたしよりも先におられた方がいる」とあります。ようするに、洗礼者ヨハネは、自分は神さまにとって代わる者でもなければ、神さまに並び立つ者でもないし、自分がいちばん偉いのでもない、と言うのです。
 わたしたちは「自分はできる、自分は知っている、このことについては、自分は正しい」と思ってしまい、そのようにふるまってしまうのではないでしょうか。けれども、ヨハネのこの「わたしにまさる人がいる」という言葉は、「自分以外の考えの人もいる」「正しい考え方は自分の以外の人の考え方にも見いだせる」という道を切り開いてくれます。
 ようするに、他者を敬うことです。自分以外の人、自分以外の存在に敬意を払うということです。自分以外の存在の最たるものが、神さまであり、イエス・キリストです。わたしたちが神さまを信じる、イエス・キリストを信じる、ということは、わたしたちが神さまやイエス・キリストに聞き従おうとすることです。聞き従うためには、わたしたちは、「自分は正しい」という姿勢から離れなくてはなりません。また、それは、「神さまやイエス・キリストが正しいことを知っている自分は正しい」ということでもありません。
 神さまやイエス・キリストには一度聞いたらおしまい、一度わかったらおしまい、というのではなく、繰り返し聞き続けることが大切です。神さまやイエス・キリストに耳を傾け、これは正しいと思った、それでおしまいではなく、何度も何度も、生涯、繰り返し、繰り返し、神さまとイエス・キリストに耳を傾けつづけることです。
 そして、それと同じように、わたしたちは、他者にも耳を傾け続けることです。そのようにして、わたしたちは、自分自分にならず、他者に聞き続ける姿勢が大切だと思います。このような生き方が、じつは、神さまから罪を赦された者の生き方ではないでしょうか。
 32節です。1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
 イエス・キリストは聖霊、神さまの霊を受けました。そして、それを人びとにも注ぎました。そうするとどうなるでしょうか。どうなることが期待されるでしょうか。
 先程のガラテヤの信徒への手紙に戻りますと、こうあります。5:22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 聖霊、神さまの霊によって、わたしたちは、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和へと促されます。わたしたちは新しくされます。
 「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」とあります。イエス・キリストの聖霊によって洗礼を受けるとは、わたしたちの欲情や欲望、つまり、自分自分という思いを十字架につけてしまうことです。自分中心の生き方を放棄することです。
 じっさいには、これは至難の業です。けれども、わたしたちの中にある自分中心の部分を少しでもあらためようとする生き方はわたしたちにもできるのではないでしょうか。
 最近読んだ本にこんなことが書かれていました。「洗礼の目標は、イエス・キリストに目を向け、イエス・キリストに向かって進み、イエス・キリストに希望を抱くことである。そして、洗礼の意味は、これまで自分だけを見ていた生き方から、神さまに向かって方向転換することである。洗礼は、イエス・キリストに従って歩み出す第一歩である。洗礼を受けることは、この世界で愛の働きをする神さまのお働きに参加することである」
 洗礼において、神さまはわたしたちを新しくしてくださいます。洗礼を受けるわたしたちは、神さまにしたがう新しい生き方を始めるのです。
 それは、これから洗礼を受ける人だけにあてはまるのではありません。すでに洗礼を受けたわたしたちも、日々新たに、神さまの御言葉によって、神さまのお働きである聖霊によって、すでに受けた洗礼をあらたにされ、新しくされ、自分ではなく、新しく、神さまにしたがって生きる、そして、隣人を尊重しながら生きる、そのように新しくされているのです。この神さまのお働きに、このお招きに、わたしたちも応えようではありませんか。
 祈り:神さま、わたしたちは洗礼によって新しくされ、神さまと隣人に従う新しい生き方へと招かれました。わたしたちは、この洗礼の新しさを、今日あらためて思い起こし、今日あらためて新しい人生を歩み始めることができますように、お導きください。たとえ、これまでが罪に満ちた人生であったとしても、今日から罪を赦された者として、神さまと人を心から愛する者へと、わたしたちを新しくしてください。あなたがわたしたちを新しくしてくださったこと、新しくしてくださることを、心から受け入れることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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