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余の罪を取り除く神の小羊 [礼拝説教(使信)動画]

2024年1月7日 「余の罪を取り除く神の小羊」

https://youtu.be/O3Ptz8GGXF8
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2024年1月7日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】2024年1月7日

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)
 
人間が作った暦の上で新しい年が来る以上に大事なことは、神さまがわたしたちのために、つねに新しい時を創ってくださり、わたしたちを新しくしてくださることです。
 罪とは、わたしたちが神さまと人びとから心を離し、自分のことだけしか思わないことです。その結果、世は戦争や人間の生を踏みにじる出来事でいっぱいです。個人においても、わたしたちは自分の思いを人に押しつけてしまっています。
 わたしたちのこの罪を赦すために、神さまの独り子イエス・キリストは十字架でわたしたちの代わりに罰を受けてくださった、という信仰がキリスト教にはあります。
 さらに、今日の聖書の個所に続く節では、洗礼者ヨハネは神さまの前で自分を絶対化しない生き方を示しました。
 また、イエス・キリストは神さまから聖霊を受け、洗礼を受ける人々にその聖霊を注いでくださることが今日の聖書には書かれています。
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)。
 このように、神さまが洗礼と聖霊によってわたしたちを新しくしてくださるのです。これにお応えして、わたしたちも新しい道を歩き始めましょう。

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余の罪を取り除く小羊 [使信]

使信 2024年1月7日  「余の罪を取り除く小羊」  ヨハネ1:29-34
 新年おめでとうございます。しかし、何がめでたいのでしょうか。2024年になったからでしょうか。けれども、これは、イエス・キリストの生まれた年を、正確ではないけれども、おおよその見当で想定して、それを元年、つまり、第1年とした暦では、今年は2024年になるということで、その点では、キリスト教と関係がありますが、1月1日と決められた日についてはどうでしょうか。
 365日、あるいは、366日のうちのある1日を1月1日と決めるのですが、今わたしたちが使っている西洋暦では、1年で一番夜が長く昼が短い日、言い換えれば、これからは昼が長くなっていく日、太陽の出る時間がこれからは長くなっていくという日、つまり、冬至ですね。この冬至からおよそ10日後を1月1日にする、1年の初めの日とする、というのは、キリスト教とはとくに関係のないことと思われます。
 今わたしたちが使っている西洋暦は冬至の日から十日くらい後を1月1日、つまり、新年としますが、たとえば、この西洋暦では4月1日にあたる日を1月1日にする、一年の始まりにする暦が世界のどこかにあっても構いませんし、げんに、ユダヤ教では西洋暦で言えば9~10月にあたるころに新年をお祝いします。
 西洋暦ができる前のユダヤ教では、「ああ、今は9月だけれども、新年を祝おう」などとは思っていません。西洋暦以前のユダヤの暦では、ああ、今は9月だ、などと思わず、ただ、ああ、新しい年が来た、と思うはずです。
 ですから、わたしたちは、新年おめでとうございます、などと言いますが、今日が新年の7日目だ、新しい年の7日目だ、などと思うのは、人間の作った制度の上でのことに過ぎません。神さまが6日前を新年の始まりとしたわけではありません。
 神さまは、人間の作った暦、人間の作った制度、わたしたちのなすこと、考えることをはるかに超えたところで、働いておられます。
 神さまは、たしかに、時を創ってくださいましたし、神さまは、今も時を創ってくださいます。しかし、それは、西洋暦の1月1日や新年に束縛されるものではありません。
 神さまは、むしろ、西洋暦の1月1日や新年に限らず、つねに、時を新しくしてくださいます。そして、神さまは、つねにわたしたち自身を新しくしてくださいます。
 何がめでたいのかと言えば、神さまがわたしたちをつねに新しくしてくださり、わたしたち自身を新しくしてくださることがめでたいのです。
 老化などという言葉があり、たしかに、目も、耳も、筋肉も衰えますので、わたしたちの何が新しくなっているのかと思われるかもしれませんが、わたしたちの考え、わたしたちの心、わたしたちの精神は、じつは、日々新しくされています。
 それがいちばんよく表れるのは、聖書の言葉を読んで、ああ、神さまのこんな恵み、こんな愛は知らなかった、と教えられることです。あるいは、すでに知っていたと思われることでも、あらためて、聖書に現れる神さまの恵み、愛の新しさに触れる時、わたしたちは新しくされるのです。
 ところで、今日の説教の題は「余の罪を取り除く神の小羊」としました。罪とは何でしょうか。わたしは悪いことなどしていません、と思う人もおられることでしょう。けれども、罪とは、神さまから離れてしまうこと、そして、自分以外の人からも心が離れてしまうこと、その結果、自分自分としか言わない自分になってしまうことです。神さまにお任せせず、何でも自分でやってしまおうとし、その結果、人を傷つけてしまいます。罪とは、このように、神さまと隣人から離れてしまうことです。
 その最たるもののひとつが戦争です。ロシアとウクライナでは戦争がほぼ2年続いています。ミサイルが打たれ、戦闘が続き、何千人、何万人が死に、もっと多くの人びとの生活が破壊されています。イスラエル・パレスチナの戦争ももう3か月も続いています。やはり、何千人、何万人も死に、かろうじて生き延びているガザの人びとにも食糧不足、飢え、飢餓が襲い掛かっていると報じられています。
 これは、集団殺害犯罪、ジェノサイド、民族虐殺である、と南アフリカ共和国は国際司法裁判所に訴えています。狭い地域にたくさんの人びとを封じ込めて、生命を奪う、これは、かつて、南アフリカの黒人市民が受けた経験でもありました。
 沖縄では軍事基地が強引に建設されています。県民が望まず、県が許可を出さないのに、代執行と言って、国が勝手に埋め立ての許可を出してしまいました。地方自治が損なわれています。
日本にいることが認められず入国管理事務所の収容所に入れられ、そこで病気になっても治療を受けられず、結果的に殺されてしまった外国人がいます。
 これらのことは、皆、わたしたち人間の罪、自分自分と言い続けるわたしたち人間の罪ではないでしょうか。
 国家の罪だけでなく、個人の罪もあります。ガラテヤの信徒への手紙にはこうあります。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 わたしたちも、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみを抱えていないでしょうか。わたし自身をふりかえりますと、どうしても、自分は相手より高いところにいるつもりになってしまって、人をわたしの思うようにさせようとしてしまうことがあると反省せざるを得ません。
 牧師としては教会に来る人びとに自分の考えをどうしても押し付けようとしてしまいます。親としては子どもたちに自分の思いどおりにさせようとしてしまいます。教師としては生徒に、自分の考え方を身につけさせようとしてしまいます。先輩牧師としては神学生に、自分の神学、信仰、牧師像を受け入れさせようという気持ちがあります。
 ようするに傲慢なのですね。自分はわかっている。自分の考え通りに相手にもさせたい。このような罪を抱えています。
 国や社会としての罪、そして、個人としての罪、世の中の罪、世の罪は、わたしの罪、余の罪でもあります。戦争は、世の中の罪、世の罪であると同時に、わたしの罪、余の罪でもあるのです。
 このような罪を抱えるわたしたちはどのように生きればよいのでしょうか。どうすれば、この罪から救われるのでしょうか。
 洗礼は、このような罪からの救いと密接につながっています。けれども、洗礼を受ければ、ただちにこのような罪から救われる、このような罪と無関係になるわけでもありません。
 しかし、このような罪人であるにもかかわらず、神さまはわたしたちに生きることを許してくださったこともたしかだと思います。わたしたちは、罪人であるにもかかわらず、生きることを許されている者として、どのように生きるのでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書1章29節です。1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
 神さまの独り子イエス・キリストが罪人であるわたしたちの代わりに十字架で罰を受け死んでくださったので、わたしたちの罪は赦された・・・キリスト教にはこのような信仰があります。
 今の聖書の「神の小羊」という言葉にもそれが読み取れます。旧約聖書を読みますと、人間が神さまに赦していただくために、小羊をささげています。この場合の小羊は、家畜としての羊、メーメーなく羊、焼けばジンギスカンになる羊のことですね。
 ところが、新約聖書では、メーメーなく羊ではなくて、イエス・キリストが神さまにささげられる最後の小羊になって、人間の罪の赦しが完成する、と信じるのです。
 けれども、わたしたち人間の罪の赦しについて、今日の聖書は、さらにいくつかの点を述べています。30節です。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
 「わたしの後から来る人がいる」「わたしにまさる人がいる」「わたしよりも先におられた方がいる」とあります。ようするに、洗礼者ヨハネは、自分は神さまにとって代わる者でもなければ、神さまに並び立つ者でもないし、自分がいちばん偉いのでもない、と言うのです。
 わたしたちは「自分はできる、自分は知っている、このことについては、自分は正しい」と思ってしまい、そのようにふるまってしまうのではないでしょうか。けれども、ヨハネのこの「わたしにまさる人がいる」という言葉は、「自分以外の考えの人もいる」「正しい考え方は自分の以外の人の考え方にも見いだせる」という道を切り開いてくれます。
 ようするに、他者を敬うことです。自分以外の人、自分以外の存在に敬意を払うということです。自分以外の存在の最たるものが、神さまであり、イエス・キリストです。わたしたちが神さまを信じる、イエス・キリストを信じる、ということは、わたしたちが神さまやイエス・キリストに聞き従おうとすることです。聞き従うためには、わたしたちは、「自分は正しい」という姿勢から離れなくてはなりません。また、それは、「神さまやイエス・キリストが正しいことを知っている自分は正しい」ということでもありません。
 神さまやイエス・キリストには一度聞いたらおしまい、一度わかったらおしまい、というのではなく、繰り返し聞き続けることが大切です。神さまやイエス・キリストに耳を傾け、これは正しいと思った、それでおしまいではなく、何度も何度も、生涯、繰り返し、繰り返し、神さまとイエス・キリストに耳を傾けつづけることです。
 そして、それと同じように、わたしたちは、他者にも耳を傾け続けることです。そのようにして、わたしたちは、自分自分にならず、他者に聞き続ける姿勢が大切だと思います。このような生き方が、じつは、神さまから罪を赦された者の生き方ではないでしょうか。
 32節です。1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
 イエス・キリストは聖霊、神さまの霊を受けました。そして、それを人びとにも注ぎました。そうするとどうなるでしょうか。どうなることが期待されるでしょうか。
 先程のガラテヤの信徒への手紙に戻りますと、こうあります。5:22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 聖霊、神さまの霊によって、わたしたちは、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和へと促されます。わたしたちは新しくされます。
 「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」とあります。イエス・キリストの聖霊によって洗礼を受けるとは、わたしたちの欲情や欲望、つまり、自分自分という思いを十字架につけてしまうことです。自分中心の生き方を放棄することです。
 じっさいには、これは至難の業です。けれども、わたしたちの中にある自分中心の部分を少しでもあらためようとする生き方はわたしたちにもできるのではないでしょうか。
 最近読んだ本にこんなことが書かれていました。「洗礼の目標は、イエス・キリストに目を向け、イエス・キリストに向かって進み、イエス・キリストに希望を抱くことである。そして、洗礼の意味は、これまで自分だけを見ていた生き方から、神さまに向かって方向転換することである。洗礼は、イエス・キリストに従って歩み出す第一歩である。洗礼を受けることは、この世界で愛の働きをする神さまのお働きに参加することである」
 洗礼において、神さまはわたしたちを新しくしてくださいます。洗礼を受けるわたしたちは、神さまにしたがう新しい生き方を始めるのです。
 それは、これから洗礼を受ける人だけにあてはまるのではありません。すでに洗礼を受けたわたしたちも、日々新たに、神さまの御言葉によって、神さまのお働きである聖霊によって、すでに受けた洗礼をあらたにされ、新しくされ、自分ではなく、新しく、神さまにしたがって生きる、そして、隣人を尊重しながら生きる、そのように新しくされているのです。この神さまのお働きに、このお招きに、わたしたちも応えようではありませんか。
 祈り:神さま、わたしたちは洗礼によって新しくされ、神さまと隣人に従う新しい生き方へと招かれました。わたしたちは、この洗礼の新しさを、今日あらためて思い起こし、今日あらためて新しい人生を歩み始めることができますように、お導きください。たとえ、これまでが罪に満ちた人生であったとしても、今日から罪を赦された者として、神さまと人を心から愛する者へと、わたしたちを新しくしてください。あなたがわたしたちを新しくしてくださったこと、新しくしてくださることを、心から受け入れることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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