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新しい道   [礼拝説教(使信)動画]

2023年12月31日 「新しい道」

https://youtu.be/H_liLzraPGo
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2023年12月31日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】2023年12月31日

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:12)

 ヘロデ王は自分の王座を脅かすかもしれない者が生まれると聞いて、不安になり、それを解消するために、ベツレヘム周辺の二歳以下の男児を皆殺しにしました。
 現代の世界でも、隣国に対する不安を軍備増強や武力行使、戦争によって解消しようとする事態が絶えません。わたしたち個人にあっても、暴力を用いて殺傷することはしないにしても、態度や言葉の強さで他者を抑えつけ、自分の思いを通してしまうことがないでしょうか。
 「ヘロデのところへ帰るな」という神さまのお告げは、そのような道をもう歩むな、というように聞こえます。「別の道」とは、そのような道ではない、新しい道のことではないでしょうか。
 憲法9条で日本は武力と戦争を放棄していますが、争いばかりのわたしたち人間世界にとって、これは古いどころか、「別の道」「新しい道」です。
 戦争のことだけではありません。わたしたちは人を制するのではなく人を愛するという新しい生き方、古くから言われていて、それでいて、わたしたちにとって新しい生き方をしたいと祈ります。
 自分の力で何とかしようとして人を抑えつけるのではなく、神さまに委ねて人と共に生きる「別の道」「新しい道」を神さまは創ってくださいます。この道を歩みましょう。

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新しい道 [使信]

使信 2023年12月31日  「新しい道」  マタイ2:1-12
 おはようございます。今日は、最初に皆さんに質問をしたいと思います。生まれたばかりのイエス・キリストを訪ねて来た博士は何人いたでしょうか。1)ひとり 2)三人 3)わからない・・・いかがでしょうか・・・正解は、3)の「わからない」です。
 聖書には博士の人数は書いていません。ただ、イエス・キリストにささげた贈り物が黄金、乳香、没薬の三つなので、三人のような気がするだけです。クリスマスのページェントや絵本や物語でも、黄金、乳香、没薬の三つの贈り物があることにつられて、博士はたいてい三人出てきますから、わたしたちもそれにつられて、何十年も博士は三人と思って来たのではないでしょうか。
 もうひとつ申し上げますと、今、「博士」と申し上げました。けれども、先ほどお読みいただいた新共同訳聖書では「占星術の学者たち」とありました。これはどういうことでしょうか。
 これは、新約聖書の元々の言葉であるギリシャ語ではマゴスとあるのですが、このマゴスというギリシャ語を「博士」と訳してみたり「占星術の学者たち」と訳してみたりしたということです。
 日本聖書協会という聖書を出している協会、ソサエティでは、今わたしたちが使っている新共同訳聖書の前の口語訳聖書では「博士」と訳していました。ところが、新共同訳では、これを「占星術の学者」としたのです。けれども、日本聖書協会の一番新しい聖書の翻訳である「聖書協会共同訳」というものではこれをふたたび「博士」に戻しています。
 長生きはするものですね。博士が占星術の学者なんて舌を噛みそうな言葉に変えられてしまったのですが、それが、何十年か経って、ふたたび博士に戻されたのです。ただし、教会で使う聖書を今の新共同訳から一番新しい「聖書協会共同訳」に変えない限り、教会ではまだまだ「博士」ではなく「占星術の学者たち」と言われ続けることになります。どうしたものでしょうか。
 ところで、クリスマス、つまり、イエス・キリストが生まれたことは、わたしたちにはどのような意味があるのでしょうか。
 ひとつは、イエス・キリストは、闇を照らす光である、わたしたちの生きる闇の世界、世界の闇、わたしたちの心の闇、わたしたち自身の闇を照らす光である、と聖書は言っています。
 ヨハネによる福音書にはこうあります。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである・・・この言も命も光も、皆イエス・キリストのことであり、イエス・キリストはこの世に来てわたしたちを照らしてくれる光だと言うのです。
 それから、イエス・キリストの誕生の物語は、神さまが居場所のない人間に居場所をあたえてくださる物語だと言えるでしょう。
 ルカによる福音書にはこうあります。2:7 マリアは初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである・・・
 マリアと生まれたばかりのイエス・キリストには泊まる場所がありませんでした。現在のわたしたちがどこか居場所のなさを感じているのと似ています。けれども、神さまはマリアとイエス・キリストに飼い葉おけという居場所を与えたように、神さまはわたしたちにも居場所を与えてくださる、神さまご自身がわたしたちの居場所になってくださるとクリスマスの物語はわたしたちに伝えているのではないでしょうか。
 そして、先週は、救い主が生まれたという天使の喜びの知らせは、人口調査のために住民に長旅を命じる皇帝アウグストゥスの勅令にはるかにまさる、というお話をしました。人間の世界の絶望にまさる、神さまからの喜びの知らせがある、ということです。
 では、今日の聖書の箇所からはどんなメッセージを受け取ることができるでしょうか。わたしは、神さまは、わたしたちに別の道、新しい道を創ってくださる、というメッセージを受け取りました。聖書のクリスマスの物語から、神さまは、わたしたちに新しい道を創ってくださるという使信を受け取りました。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書2章1節です。2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
 「ヘロデ王の時代」とあります。けれども、まことの王はヘロデ王ではなく神さまであり、イエス・キリストはまことの王である神さまの御子である、キリストを通して神さまこそがまことの王であることが明らかにされていく、その意味で、イエス・キリストもまことの王である・・・聖書はこのことを物語ろうとしています。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」とあります。この場合のユダヤ人の王とは、じつは、ヘロデのような政治的な王、武力、権力で人びとを支配する王のことではなく、ユダヤの地域だけの王でもなく、世界全体に愛と平和をみなぎらせようとするような世界規模の王を意味しているのではないでしょうか。だから、占星術の学者たちのようにユダヤ人でない人びとが外国から拝みに来るのです。
 「拝む」とありますが、これは、ひれ伏す、ということであり、このお方こそ唯一お仕えすべきお方、このお方にならすべてをお委ねできるそのようなお方、このお方をこそわたしたちの根本の頼み、根本の支えにする、そのようなお方・・・「拝む」という言葉には、このような意味が込められているのではないでしょうか。
 3節です。2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
 「不安」とあります。ヘロデ王は新しくユダヤの王が生まれるという話を聞いて、これは、自分と同じレベル、自分と同程度の王、つまり、権力者、民を力で抑える王であると思い、それならば、自分の王位が脅かされることになるかもしれない、と不安になったのです。そして、エルサレムの民も王の不安に巻き込まれ不安に陥ります。王が不安定なら民も不安定になってしまいます。
 4節です。2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした・・・王の不安は、王の画策を生みました。
 不安材料を取り除こうとするのです。新しい王とやらの生まれる場所を知り、殺そうとするのです。自分にとってかわるかもしれない王をいまのうちに殺しておこう、というのです。その結果が、今日の聖書の箇所より5節ほどさきに書かれていますが、ヘロデ王は人を送りベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにさせた、とあります。ヘロデ王が送ったのは兵士であり、ヘロデ王は兵士の力、武力、暴力で、人びとをねじふせたのではないでしょうか。これは二千年の昔だけでなく、今日に至るまで繰り返されてきた歴史です。
 5節です。2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 「預言者がこう書いています」とあります。これは、旧約聖書のミカ書の引用です。ミカ書にはこうあります。5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
 ミカ書では、ベツレヘムは「いと小さき者」、ベツレヘムは人にあまり知られていない小さな町だ、とあるのに、マタイはこれを「決していちばん小さいものではない」と書いています。これは、引用するときに、言い換えたのでしょうか。
 旧約聖書のミカ書はベツレヘムは小さいと言っているのに、マタイはベツレヘムは小さくないと変えて引用しているのでしょうか。救い主、メシアであるイエス・キリストが生まれる前は、ベツレヘムは小さい町、人びとに知られていない町だったのに、今や、救い主、メシアを輩出し、名のある町になった、ということでしょうか。
 7節です。2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 ヘロデ王は「拝もう」と言っていますが、これはうそっぱちで、ヘロデ王はイエス・キリストにすべてを委ねて仕えよう、などという気持ちはこれっぽっちもありません。イエス・キリストを拝むどころか、自分を拝ませたいくらいなのです。
 9節です。2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
 「星が先だって進み」とあります。占星術の学者たちは、王の言葉、王の命令にではなく、星の導きに従ったのです。王の力ではなく、神さまの力が占星術の学者たちを導いたのです。
 10節です。2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
 「喜びにあふれた」とあります。さきほど、ヘロデ王は新しい王の誕生の知らせを聞き不安になりました。人びとも不安になりました。けれども、占星術の学者たちは、不安の反対で、喜びにあふれた、とあります。王は民に不安をもたらしますが、神さまの導きはわたしたちに喜びをもたらしてくださるのです。
 11節です。2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 
 「幼子を拝んだ」とあります。ここにみたび「拝む」という言葉が出てきました。先ほどのヘロデ王とは違い、ここで、占星術の学者たちは、まことの意味で、イエス・キリストを拝んだのではないでしょうか。
 つまり、すべてをイエス・キリストに委ねたのです。イエス・キリストの指示通りにしたというよりは、イエス・キリストの導きに委ねたのでしょう。そして、イエス・キリストにお仕えしたのです。イエス・キリストの指図に従ったというよりは、イエス・キリストに導かれる者としてお仕えしたのではないでしょうか。
 黄金、乳香、没薬とあります。しかし、占星術の学者が三人いたのかどうかはわかりません。三人出ないかもしれませんし、三人かも知れません。たしかなことは、この学者たちは、自分たちにとって大切なものをささげた、ということです。
 ささげる、とは、自分一人の所有としないということです。独り占めしない、神さまにいただいたものだから、おしまず他の人びととわかちあうということです。
 12節です。2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 「ヘロデのところへ帰るな」とあります。つまり、「ヘロデ王に従う道を歩むな」ということでしょう。ヘロデ王は、誰かが自分の王座を奪うのではないかと怯え、その人をやっつけてしまう生き方でした。わたしたちも、我を通そうとして人を押さえつけていないでしょうか。そのような生き方に戻るな、と神さまは言われるのです。
 我を通して人を押さえつけるのではなく、人に譲り人と共に生きようとする、そのような、これまでとは別の道、新しい道を歩むように、神さまは、このクリスマス、わたしたちを招いておられるのです。
 人と争わない道です。日本国憲法第9条にこうあります。日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は 武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。
 戦争と武力の行使は永久に放棄する。陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。
 つまり、わたしたちは、平和を誠実に求める、国と国の間で葛藤が生じても、戦争もしない、武力も使わない、戦争も武力も放棄する、陸海空軍、軍隊を持たない、交戦権、戦争をする権利は持たない、というのです。
 日本国憲法は76年前にできましたが、すこしも古くありません。その9条は、いまのわたしたちにとっても、まったく別の道、新しい道です。ロシア、ウクライナにとっても、イスラエル、パレスチナにとっても、まったく新しい道、戦争とはまったく別の道です。
 そして、これは、国と国の間だけでなく、わたしたちの日ごろの人間関係にとっても新しい道です。相手と闘わない、相手を力や勢いで抑えつけない、そういうものは放棄する、相手と闘わず、抑えつけず、むしろ、尊重する、これは、まったくあたらしい道、今とはまったく別の道ではないでしょうか。
 これまでとはまったく別の道、新しい道、それは、人を愛する道でもあります。人を愛するとは、自分が勝つのでもなく、自分の意見を通すのでもなく、むしろ、人に譲り、人に譲る、今とは別の道、新しい道なのです。
 あたらしい道、それは、神さまにお委ねする道でもあります。人を押さえつけて自分の力でやる、というのではなく、神さまを信頼して人と共に歩む道です。
 暦の上では、明日から新しい年が始まります。神さまが創ってくださる新しい道をわたしたちは歩もうではありませんか。
 祈り:神さま、わたしたちは、ヘロデ王のように不安を抱え、それを何とかしようと、自分の力に頼り、それに伴い、人を押さえつけてしまいます。人と争ってしまいます。けれども、神さま、あなたは、そのようなヘロデの道ではない道、争わず、人を尊重する新しい道、愛の道を示してくださいました。神さま、国と国の間に葛藤があっても、武力で争わず、話し合いで解決しようとする新しい道を歩むことができますようにお導きください。神さま、わたしたちの人間関係も争わずともに歩むものとしてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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天には栄光、地には平和 [礼拝説教(使信)動画]

2023年12月24日 「天には栄光、地には平和」

https://youtu.be/1zFhU79z3t8


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「天には栄光、地には平和」 [礼拝説教(使信)動画]

2023年12月24日 「天には栄光、地には平和」

https://youtu.be/1zFhU79z3t8
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天には栄光、地には平和 [使信]

使信 2023年12月24日  「天には栄光、地には平和」  ルカ2:1-20

 おはようございます。クリスマスおめでとうございます・・・けれども、わたしたちは、今、クリスマスおめでとうございます、と無邪気に言ってしまってよいのかどうか、ためらっているのではないでしょうか。しかし、それでは、はんたいに、クリスマスおめでとうございます、と言うのをまったく止めてしまってもいいのか、というためらいもあります。
 さいきん、ある牧師さんがこんなことを言っていました。人がひとりなくなるだけでも、多くの人びとが深い悲しみに陥る。ひとりの人の死んだ悲しみは限りなく深い。戦場で何千人、何万人の人びとが殺されるのなら、この限りなく深い悲しみは、さらに、何千倍、何万倍になる。
 二千年前、今は戦場となっているパレスチナで生まれたイエス・キリストはこれを見て何とおっしゃるだろうか。わたしたちは、クリスマスを笑って祝うことができるだろうか。けれども、たとえば日本の小さな教会、馬小屋の飼い葉おけのような、まぶねのような教会で、わたしたちがこうしてささやかにクリスマスを祝うことを、イエス・キリストはお咎めになるだろうか。いかがでしょうか。
 最近のニュースで、生まれつきの難病を抱えたお子さんが多くの人びとの何億円もの募金に支えられて外国で莫大な費用の掛かる手術を受けてこれからも生きることができることになったと報じていました。
 ひとつのいのちはこうやって一所懸命に守られます。けれども、戦争となれば、それと同じ何万人もの上に爆弾がいとも簡単につぎつぎに落とされます。それは、多くの人びとの何億円もの善意で守られた命が戦争だと言う理由でいとも簡単に奪われるのと同じではないでしょうか。
 戦争、あるいは、災害、あるいは、わたしたち個人に起こる仕事や家族に関わる問題、病気。このような苦しみに満ちた世の中で、わたしたちはクリスマスを祝うことができるでしょうか。それでも、クリスマスを祝うとしたら、それは、どんな意味で祝うのでしょうか。
 第二次世界大戦が終わり、平和が訪れました。1960年生まれのわたしも、小学校中学校時代は、今は平和な世の中だ、と教えられ、育ちました。けれども、じつはそうではありませんでした。
 戦後の平和と呼ばれるものは、じつは、長くは続いていませんでした。平和憲法ができ、武力と戦争を放棄した憲法9条ができました。しかし、日本は朝鮮戦争の特需で利益を上げそれを経済復興の足場にしましたし、ベトナムの人びとを爆撃する米軍の基地を日本は提供してきました。沖縄には軍事基地が集中し、戦闘機が小学校の上に墜落し子どもたちのいのちを奪いました。さらには、アメリカ兵による殺人、暴力が何件も続きました。
 また、大地震がつぎつぎに起こり何万人もの人びとがなくなりました。原子力発電所が大事故を起こし、放射性物質の影響が広い地域に拡散しました。ウクライナ、パレスチナが戦場となりました。戦争は終わることなく続いています。
 わたしたちの世界の現状は絶望的としか言いようがありません。この世界の有力者、政治家、権力者には絶望してしまいます。いや、わたしたち自身、人間というものに、絶望してしまいます。この絶望の中で、わたしたちは、クリスマスのメッセージをどのように受け取ったらよいのでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ルカによる福音書2章1節です。2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
 ローマ皇帝アウグストゥスの名前が挙げられています。ローマ皇帝は、二千年前の新約聖書の世界の最大の権力者であり有力者であり為政者です。この皇帝が勅令を出します。いやおうなしの命令です。住民に登録をせよ、そのために出身地に移動せよ、と強制するのです。住民登録は、支配者が民衆から税金をとりたてるためのものでありましょう。ローマの場合はどうかはわかりませんが、為政者による住民登録は、ある場合は、支配者が民衆を徴兵するためのものでありましょう。
 権力者のそのような命令によって、マリアは身重であるにもかかわらず、旅を余儀なくされました。一時的ではあったかもしれませんが、ナザレの町から、ある意味、追い出されたのです。そして、ベツレヘムに来てはみたものの、そこにも身を置く宿屋がありませんでした。動物の小屋にまで追いやられてしまいます。動物のいる場所だけがマリアに許された場所でした。ただ、そこには、飼い葉おけという、最後の救いがあったと言えるかもしれません。
 現在のパレスチナはどうでしょうか。二千年前ナザレの町からベツレヘムへ移動を余儀なくされたうえに、そこにも居場所がなかったマリアと、2023年ガザ北部から追い出され南部へ移動させられたうえにそこにも生きる場所のない人びと。難民となった人びと。マリアとこの人びとが重ならないでしょうか。
 為政者、権力者、支配者、有力者の意向で、民衆が生きる場を失う世界は、今も二千年前も変わらないと言いたくなります。パレスチナの人びとに唯一の救いである飼い葉おけは存在するのでしょうか。
聖書に戻りましょう。2章8節です。2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
 二千年前、町に居場所がなく、追いやられていたのは、マリアだけではなく、羊飼いたちもそうでした。羊飼いは町には入れてもらえず、町の外で野宿をするしかなかったのです。羊飼いたちも町には居場所がなく、動物と一緒に町の外で野宿するしかありませんでした。
 2章9節です。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
天使は言います。「民全体に大きな喜びを告げる」。天使のお告げは神さまご自身のお告げと同じではないでしょうか。神さまは、民全体に大きな喜びを告げるのです。
 これは、先ほどの皇帝アウグストゥスの勅令とは正反対です。世の中の支配者であるローマ皇帝は、民から税金を取り立てるために、民を支配するために、人びとに移動を強制するのです。けれども、世界をまことに治めておられる神さまは、民全体に大きな喜びを告げるのです。
 この世の支配者からは理不尽な命令が出されますが、この世界の創造者でありまことの王である神さまからは大きな喜びが告げられるのです。
 では、その大きな喜びとはどんなものでしょうか。11節です。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 救い主が生まれる、とあります。この救い主はメシアであると言います。ダビデの町で生まれたと言いますから、二千年前のさらに千年前のダビデ王と同じく、救い主は王である、ということでしょうか。けれども、それは、ローマ皇帝やヘロデ王のようなこの世の支配者、権力者とはまったく違う意味での王なのではないでしょうか。
 なぜなら、この救い主は、宮廷のベッドにではなく動物小屋の飼い葉おけに寝ており、大きな大人ではなく、小さな乳飲み子である、と言うのです。ここには、この世の権力者による絶望の世界とはまったく違う世界、まったくあたらしい世界が示されているのではないでしょうか。
 14節です。2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
「いと高きところには栄光、神にあれ」 栄光は、ローマ皇帝にでもなく、ヘロデ王にでもなく、21世紀の世界の支配者たちにでもなく、「いと高きところ」、つまり、天にありますように、神さまに栄光がありますように、と言うのです。世界を本当におさめているのは、アウグストゥスでもなく、ヘロデでもなく、21世紀の支配者たちでもなく、神さまなのだ、と言うのです。目に見えない神さまが、目に見えない愛で、世界を治めておられる、というのです。
 わたしたちが生きている世界は、支配者の世界、権力者の世界のように、どんなにそのように見えても、本当は、ここは、神さまの国だと言うのです。
 この世界は権力者が悪政をなしつづけ民を苦しめ戦争を続ける絶望の国にしか見えなくても、本当は、目に見えない神さまの希望の国だと天使は言うのです。いや、神さまご自身が言われるのです。
「地には平和あれ」とあります。この平和、地上の平和は、地上の王や支配者たちの軍事力によってではなく、御心、神さまの御心、つまり、神さまの愛によるものです。だから、「地には平和、御心に適う人にあれ」とあります。地上での平和が、軍事力によってではなく、神さまの御心によって、神さまの愛によってありますように、と言うのです。
 ここには、権力者の命令にまさる神さまの喜びの知らせがあります。人間の世界への絶望、権力者への絶望、わたしたち自身への絶望、これらの絶望にはるかにまさる、神さまからの希望があります。神さまという希望があります。
 イエス・キリストの誕生の物語は、神さまのこの希望、世の中の絶望に勝る神さまの希望を表しています。この闇の夜には、しかし、一本のろうそくがある、この絶望の夜には、しかし、神さまという希望があることを、クリスマスの物語は告げています。
 ですから、この絶望の世の中で、人のいのちが奪われていく世の中で、クリスマスを無邪気に喜んでよいものかという疑問、深い憂い、深い悲しみをわたしたちは抱きつつ、それでもなお、この悲しみの中に、この闇の夜に、支配者の無理な勅令にまさる神さまからの喜びの知らせがある、この世の私たちの苦しみにまさる神さまからの喜びの知らせがある、そのような大きな希望があるのです。その意味で、わたしたちは、イエス・キリストの誕生を喜ぼうではありませんか。
 祈り:神さま、わたしたちの世界は絶望で満ちています。人の命がいとも簡単に奪われ続けています。わたしたちにも苦しみが絶えません。人の世を見れば、ここは闇です。喜びはありません。けれども、神さま、あなたは、支配者の命令とはまったく違う喜びの知らせ、わたしたちの苦しみとはまったく違う喜びの知らせ、福音を告げてくださいました。飼い葉おけの乳飲み子にこそこの世の救いがあるという希望を告げてくださいました。このことに心から感謝いたします。この絶望の世を、この闇の世を、神さま、あなたを希望として、イエス・キリストを光として、わたしたちを歩かせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。


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2024年12月24日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(ルカ2:10)

 天使のこの言葉は神さまご自身の言葉でもあるように思われますが、これは、ローマ皇帝アウグストゥスから「全領土の住民に」出された「登録をせよとの勅令」(2:1)とは、正反対のものだと言えるでしょう。皇帝の勅令は登録のための長旅を住民に余儀なくするものであり、それはある意味、住民を住んでいた町から追い出し安住の場をなくさせることでした。これに対して、天使は「民全体への大きな喜び」を伝えたのです。支配者の命令と神さまからの福音はまったく異なります。
 わたしたちの今生きている世界をふり返ってみますと、戦争が終わらず、千人万人が死に続けています。病気、家族、仕事など、ひとりひとりの抱える苦しみもあります。この世界の支配者にも、わたしたち自身にも絶望してしまいそうです。
 このような絶望の中で、クリスマスを無邪気に喜ぶことができるのでしょうか。たしかに、今の世も続く「皇帝の勅令」にはわたしたちは絶望してしまいます。けれども、聖書は、それだけでない、とわたしたちに伝えています。
 権力者の強引な通達だけなく、わたしたちには神さまからの大きな喜びも伝えられていると。人間世界には絶望しますが、神様はそこに希望を伝えてくださいます。
 聖書はこのことを物語っているのではないでしょうか。そうであるならば、わたしたちは絶望の世にあっても、神さまの希望を、このクリスマスに、やはり喜ぼうではありませんか。

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今に会える [使信]

説教 2023年12月17日 マタイ1:18-25 「今に会える」

 おはようございます。今日のお話は、まず、クイズから始めてみたいと思います。
 第一問。イエス・キリストの誕生日は12月25日である、と新約聖書に書いてあるでしょうか。書いてあると思う方はグーを、書いていないと思う方はパーを出してください。
 第二問。インマヌエルとはどういう意味でしょうか。神さまはここにはおられない、という意味だと思う方はグーを、神さまはわたしたちとともにおられる、という意味だと思う方はパーを出してください。
 では、第三問。最後の問題です。これは少し難しいですね。ですから、間違っても大丈夫です。安心してください。
 では、第三問。イエスというお名前はギリシャですが、これを旧約聖書のヘブライ語で言うとどうなりますか。モーセと思う方はグーを、ヨシュアと思う方はパーを出してください・・・
正解は〇〇です。でも、これは、一番難しい問題ですから、△△を出した方も大丈夫です。安心してください。
 さて、今日はアドベント第三主日、待降節第三主日、ろうそくも三本になりました。いよいよ、イエスさまが近くになってきました。イエスさまはもうすぐ近くまで来ておられます。イエスさまがお越しくださるのが本当に楽しみですね。
 では、イエスさまがもうすぐ近くまで来ておられることにわくわくしながら、今日の聖書を振り返ってみましょう。
 マタイによる福音書1章18節です。1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 「二人が一緒になる前に」とあります。では、マリアとヨセフの二人はいつ一緒になったのでしょうか。これは、24節にこうあります。1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。
 18節ではマリアとヨセフはまだ一緒になっていませんでした。ところが、24節では、二人は一緒になったようです。
 二人はどのようにして一緒になったのでしょうか。二人の間に何が起こったのでしょうか。
それは、二人がおたがいに一緒になる前に、神さまが二人と一緒におられるようになった、ということです。神さまがマリアとヨセフの二人のところにお越しくださり、二人と一緒におられるようになったから、それに基づいて、二人も一緒にいるようになったのです。
 ふたりが一緒になる前に、夫婦でも、あるいは、夫婦以外でも、人と人、わたしたち人間と人間が一緒になる前に、その土台には、神さまがわたしたち人間が一緒におられる、ということがあるのです。
神さまがわたしたち人間と一緒にいてくださる、という大きな出来事の上に、わたしたち小さな人間と人間が一緒にいるという出来事が乗っかっているのです。
 神さまがわたしたちと一緒にいてくださる、さきほどのクイズにもありましたが、これをインマヌエルと言います。献金の時も、インマヌエルという賛美の歌がささげられましたね。このインマヌエル、神さまがわたしたちとともにいらしてくださる、という土台によって、わたしたち人間同志も一緒にいるという出来事が支えられているのです。
 ですから、もし、わたしたちが誰かと一緒にいるということが揺らぎそうになったら、神さまがわたしたちと一緒にいてくださるということを、つまり、インマヌエルを思い出してみてください。
19節です。1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 ヨセフは正しい人でした。そして、ある意味、やさしい人でもあったようです。けれども、ヨセフの正しさは、少し冷たい正しさであったのかも知れません。
マリアが身ごもっている。この驚くべき出来事を知り、ヨセフは、最初は、マリアは自分以外の男性と関係を持った、と考えたのではないでしょうか。
 当時のユダヤの律法では、それは、姦淫と言って、石打の刑を受けることになっていたようです。けれども、ヨセフは、それではマリアがかわいそうだと思い、このことは表ざたにしない、けれども、マリアとは縁を切る、マリアと一緒にならない、と決めたようです。
 ヨセフは、やさしいようですが、ここには、どこか、冷たい正しさ、四角四面の正しさが感じられないでしょうか。
 けれども、神さまの正しさは、冷たい正しさ、四角四面の正しさではありませんでした。神さまの正しさは、丸い正しさ、あるいは、丸みのある正しさ、楕円のような正しさだと思います。
まん丸の円も楕円も丸いことには変わりがないのですが、楕円にはふたつの焦点があるそうです。
焦点がふたつある。最近の言葉で言えば、二刀流ですかね。大谷選手にはピッチャーとバッター、投げることと打つこと、ふたつの焦点があります。十年で1000億円の収入だそうで、一年で100億円です。ただし、来年は、大谷選手は手術をしたばかりですから、ピッチャーはできず、バッターだけです。バッターだけで、一年間100億円。そうすると、再来年、二刀流に戻ると、200億円になるのでしょうか。
 話を元に戻しますと、ヨセフの正しさは、どうも四角い正しさのようですが、神さまの正しさは、丸みのある正しさだと思うのです。
 20節です。1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
ここには天使の言葉があります。天使の言葉はそのまま神さまのお言葉であり、これは、ヨセフの思い、人の思いにはるかにまさります。天使の言葉、神さまのお心は、四角四面の人の思いにはるかにまさる丸い思いです。
 「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」「恐れるな」と神さまは言われます。何を恐れてはならないのでしょうか。
 ひとつは、人の目です。ヨセフは姦淫したマリアと結婚した、とんでもないことだ、という人の目です。そんな人の目を恐れてはならない、と神さまは言われるのです。
 わたしたちも、大事な人は、人目を恐れずに受け入れ、大事なことは、人目を恐れずになすべきではないでしょうか。神さまは、人目を恐れるなとおっしゃってくださいます。
 もうひとつは、神さまです。神さまを怖がるな、神さまがなさることを怖がらなくてもよい、と神さまは言われるのです。マリアから神さまのひとり子が生まれてくる、この神さまのご計画を怖がるな、神さまを畏敬の畏の字で畏れはしても、恐怖の恐の字で恐れるな、と神さまは言われるのです。わたしたちは、神さまに畏敬の念は抱きつつも、恐怖を感じなくても良いのです。むしろ、勇気をもって、神さまのなさることを受け入れるべきなのです。
 ヨセフ、そして、わたしたち人間の思いでは、マリアは不義によって子を宿した、ということになります。四角四面の正しさからは、そうなります。マリアは不義を働いた。この不義を姦淫とか不倫とか言いますが、最近の岩波書店から出た新約聖書では、これを、結婚破り、と訳しています。結婚破り・・・なかなか斬新な翻訳ですね。
 けれども、神さまは、これを、不義とも姦淫とも不倫とも結婚破りともおっしゃいません。そうではなく、マリアは聖霊によって子を宿した、と神さまは言われます。聖霊によって、つまり、神さまご自身の愛によって、神さまご自身の力によって、神さまのご自身の御臨在によって、マリアは、御子イエス・キリストを宿した、と神さまは明言なさるのです。
 神さまの正しさは四角四面ではなく、このように丸いのです。楕円なのです。楕円にはふたつの焦点があるとさきほど申し上げましたが、神さまには、父、御子、聖霊の三つの焦点がありますから、これは、楕円というよりも、角が丸いおにぎり、角が大きく丸いおにぎりのような形になるのかもしれません。こんな感じですかね。
 23節です。1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
「インマヌエル」とあります。「神さまはわたしたちとともにおられる」とあります。
アドベント、待降節は、このインマヌエルがやってくるのを、ともにいらしてくださる神さまがお越しくださるのを、わくわくしながら、希望を持って、待つ季節、待ち望む期間です。
 何を待ち望むのでしょうか。インマヌエルを待ち望むのですが、言い換えますと、これは、イエス・キリストの誕生を待ち望むのです。
 さらには、イエス・キリストの再臨を待ち望むのです。つまり、イエス・キリストは、天からこの地上にお生まれなって、この地上で神さまの国を宣べ伝え、けれども、十字架につけられ、しかし、復活し、天に帰って行かれましたが、そのイエス・キリストがふたたびここにお越しくださる、これを再臨と言いますが、アドベントは、この再臨を待ち望むのです。
 そして、イエス・キリストが再びお越しくださるとき、イエス・キリストが再臨なさるとき、ここには、神さまの国が完成します。イエス・キリストの再臨と、神さまの御国が完成することは同じことです。
 この後の聖餐式では、「マラナ・タ、主の御国が来ますように」と歌います。「マラナ・タ」とは「主よ、お越しください」「イエスさま、お越しください」ということであり、そうすると、「マラナ・タ、主の御国が来ますように」とは、「イエスさま、ふたたびここにお越しください、神さまの御国をここに打ち立ててください」ということですから、まことにアドベントにふさわしい讃美歌だと思います。
 イエス・キリストが再臨するとき、神さまの御国がここにやってくるとき、イエスさまがお越しくださるとき、何が起こるでしょうか。
 この日、これまでかなわなかったように思われるすべてのことがかなえられます。世界には戦争のない平和が訪れます。わたしたちの心には嵐のない凪、静けさが訪れます。あらゆる病が癒されます。あらゆる苦しみからわたしたちは解き放たれます。悲しみつつ別れた人びとと喜びながら再会します。
そういう日が来ます。わたしたちは、そういう日を待ち望んでいるのです。そういう日がかならず来ます。アドベントはそういう日、イエス・キリストがお越しくださる日を待ち望む、わたしたちの生き方、わたしたちの信仰生活をあらたにする期間なのです。
 讃美歌21という讃美歌があって、その236番にはこういう歌詞があります。わたしは、この讃美歌が大好きです。こんな歌詞です。
1 見張りの人よ 夜明けは まだか
  いつまで続く この闇の夜(よ)は
  旅ゆく人よ 東の空に
  あけの明星(みょうじょう) ひかり輝く

2  見張りの人よ あの星こそが
  約束された 時のしるしか
  旅ゆく人よ 暗いこの世に
平和を告げる 夜明けは近い

3 見張りの人よ 朝は来るのか
  すべての恐れ 消えゆく朝は
  旅ゆく人よ 恵みの光
  やがて現われ ゆくてを照らす

4 見張りの人よ 眠らぬ夜の
  つとめが終わる 夜明けは近い
  旅ゆく人よ 世の光なる
  主イエスは近い 救いは近い

 見張りの人とは、夜警さん、門番をしている人なのだと思います。この見張りの人に、ある旅人が尋ねます。
 「見張りの人よ 夜明けは まだか  いつまで続く この闇の夜(よ)は」
 「夜明けはまだか、いつまで続く、この闇の夜は」・・・これは、まさに、わたしたちみんなの思いではないでしょうか。
戦争はいつまで続くのでしょうか。病はいつになったら治るのでしょうか。仕事や家族のこの問題はいつになったら解決するのでしょうか。いったいいつまで待たなければならないのでしょうか。
 けれども、見張りの人は答えます。「旅ゆく人よ 東の空に  あけの明星(みょうじょう) ひかり輝く」
 旅するあなたよ、闇はいつまでも続くように思えるけれども、そうではありません、ほら、みてごらんなさい、東の空に、あけの明星がひかり輝いているではありませんか。
 見張りの人の2節での答えはこうです。「旅ゆく人よ 暗いこの世に、平和を告げる 夜明けは近い」
 旅するあなたよ、今はまだこの世は暗いけれども、平和はきっとやってきますよ、夜明けは近いですよ。
 3節で旅人はふたたび尋ねます。「見張りの人よ 朝は来るのか
すべての恐れ 消えゆく朝は」
 この暗い夜に、朝は来るのですか。すべての恐れが、すべての悲しみが、すべての苦しみが、すべて消える朝が来るのですか。
 見張りの人はこれに答えます。「旅ゆく人よ 恵みの光  やがて現われ ゆくてを照らす」
 旅するあなたよ、恵みの光がかならず現れます。そして、あなたの道を照らしてくれます。
 4節で見張りの人は、最後にこう答えます。「旅ゆく人よ 世の光なる 主イエスは近い 救いは近い」
 旅するあなたよ。世の光である主イエス・キリストはすぐ近くに来ておられます。もうすぐここに来られます。救いは近いのです。もう遠くはありません。
 まあ、こういう讃美歌です。ご存じの方は、いっしょに歌ってください。はじめて聞く方も、なんとなく一緒に歌ってみてください。
 1 見張りの人よ 夜明けは まだか
   いつまで続く この闇の夜(よ)は
   旅ゆく人よ 東の空に
   あけの明星(みょうじょう) ひかり輝く

2  見張りの人よ あの星こそが
   約束された 時のしるしか
   旅ゆく人よ 暗いこの世に
平和を告げる 夜明けは近い

3 見張りの人よ 朝は来るのか
  すべての恐れ 消えゆく朝は
  旅ゆく人よ 恵みの光
  やがて現われ ゆくてを照らす

4 見張りの人よ 眠らぬ夜の
  つとめが終わる 夜明けは近い
  旅ゆく人よ 世の光なる
  主イエスは近い 救いは近い

 たしかに、主イエスは近いのです。もうすぐそこまで来ておられます。その日を、わくわく喜びながら、待ち望みましょう。
 すべてが解決する、その日が、もうすぐかならずやってくる、このことを、わたしたちの人生の最大の希望として、生き抜きましょう。

 お祈りいたします。神さま、わたしたちは、イエスさまのお生まれを心待ちにしています。イエス・キリストの再臨を心待ちにしています。戦争が終わり、病がいやされ、不安と悩みが解消され、愛する人びとと再会する日を心待ちにしています。その日がかならずやってくる、その日は遠くない、その日は近い、主イエスは近いと確信しています。このことがわたしたちの人生の最大の希望です。神さま、わたしたちの人生にこのようなすばらしい希望をお与えくださり、ほんとうにありがとうございます。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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2023年12月17日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

 マリアとヨセフは最後は結ばれますが、その前には、インマヌエルの出来事が必要でした。つまり、人と人がともにいることは、「神さまがわたしたちとともにおられる」ことを土台としているのです。
 ヨセフは「正しい人」(1:19)でした。けれども、それは律法を四角四面に当てはめ、結婚前に身ごもったマリアとは縁を切る、という冷たい正しさでした。
 人の目から見れば、マリアは不義を犯したということになりますが、神さまの目からはこれは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(1:20)のです。神さまの正しさは四角四面ではなく、愛のある、丸みを帯びた正しさです。
 待降節です。わたしたちは何を待ち望んでいるのでしょうか。イエス・キリストの誕生、そして、地上の生涯を終えて天に帰ったイエス・キリストの再臨を待ち望んでいます。イエス・キリストの再臨の日は、イエス・キリストが宣べ伝えた神さまの国がここにやってくる日でもあります。
 また、わたしたちは、戦争が終わり平和が来ること、心の嵐が止み平安が訪れることを、病が癒されることを、苦しみから解き放たれることを、悲しい別れをした人々と喜びの再会をすることを待ち望んでいます。
 イエス・キリストの再臨、神さまの国の到来は、これらの待望がすべて満たされる日でもあるでしょう。
 この日はかならず来る、しかも、遠くない、イエスは近い。これを人生の希望とする。アドベントはわたしたちのこの信仰をあらたにしてくれます。

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イエスと神と旧約聖書 [礼拝説教(使信)動画]

2023年12月10日 「イエスと神と旧約聖書」

https://youtu.be/FLniIlWVrj8
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