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自由をもたらす真理とは [礼拝説教(使信)動画]

2024年1月28日 「自由をもたらす真理とは」

https://youtu.be/UzIRwyzGP8k

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2024年1月28日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:31-32)

 「真理はあなたたちを自由にする」とはどういう意味でしょうか。21節に「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とあります。これは、わたしたちが自分の思いの中に閉じ込められて、神さまや隣人とつながっていない状態のことでありましょう。これは、「自由」とは正反対の束縛です。
 けれ ども、イエス・キリストは、「わたしは上のものに属している」(23節)と言います。これは、神さまにつながっている、それゆえに、隣人ともつながっている、つまり、愛に属している、ということでしょう。これこそ、自由なのです。
 「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29節)。
 神さまとともにいる。神さまがともにいてくださる。神さまの愛の御心に従おうとする。これが自由なのです。
 「真理はあなたたちを自由にする」。これは、神さまとイエス・キリストがわたしたちを神さまとイエス・キリストに結びつけてくださる、ということではないでしょうか。 自由とは奔放のことではなく、愛の中に生かされることなのです。

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自由をもたらす真理とは [使信]

使信 2024年1月28日  「自由をもたらす真理とは」  ヨハネ8:21-36
 おはようございます。今日の聖書にあります「真理はあなたたちを自由にする」とは、どういう意味なのでしょうか。真理とはいったい何なのでしょうか。自由とはいったいどういうことなのでしょうか。
 国会図書館のどこかに、「真理がわれらを自由にする」と記されている、と聞いたことがあります。また、羽仁もと子さんが創立し、大貫隆さんが最高学部長を務めた自由学園の「自由」という言葉も、今日の聖書の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉から来ているそうです。
 そうすると、「真理はあなたたちを自由にする」の「真理」とは、本を読んだり学校で学んだりして得られる知識や論理や思考のことでしょうか。
 真理とは、数学の難しい問題の解き方や、これはこれに決まっているとされ唯一だとされ客観的だとされる答えのことでしょうか。
 わたしたちは本をたくさん読んだり学校でよく勉強したりすれば、そのような真理を手にすることができ、自由になれるのでしょうか。
 そうすると、自由とは、何でも自分で考え、判断し、すべてひとりでやってしまうことでしょうか。そうではないと思います。
 結論から言えば、真理とは、じつは、神さまのことであり、神さまの愛のことであり、神さまの愛の表れであるイエス・キリストのことなのです。そして、自由とは、わたしたちが「わたしは正しい」という狭い枠、「わたしは知っている、わたしはできる」という狭い檻の中に閉じ込められることなく、むしろ、その扉が開かれること、つまり、神さまと隣人に向けて、わたしたちの扉が開かれること、それが、自由なのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書8章21節です。8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
 「自分の罪のうちに死ぬ」とあります。これは、自由であることの正反対でありましょう。罪のうちに死ぬ、という言葉は、「罪のうちにあること」と「死んでいること」は同じことを意味しているのではないでしょうか。
 自分の罪のうちにあるとは、自分だけの狭い枠の中にとどまっていることではないでしょうか。自分は正しいという思いにとらわれて、そこから出ることのできない状態です。そのとき、わたしたちは、神さまとも隣人ともつながっていません。自分の中に閉じこもってしまっているのですから。わたしたちの罪とは、神さまや隣人に心を向けず、自分だけの世界にとどまってしまい、神さまや隣人から切り離されてしまった状態のことでありましょう。
 そして、死も、また、神さまや隣人から切り離されてしまった状態です。わたしたちの肉体が地上の旅を終えても、わたしたちが神さまとつながっていれば、それゆえに隣人ともつながっていれば、わたしたちは生きているのです。はんたいに、わたしたちの肉体がまだこの地上にあっても、わたしたちが神さまから離れてしまっていたら、それゆえに隣人からも離れてしまっていたら、それは死んでいるのです。
 「わたしたちが罪のうちに死ぬ」とは、そのようにわたしたちが自分という牢獄に入ってしまって、神さまとも隣人ともつながっていない状態のことでありましょう。
 いのちとは、じつは、つながりのことなのです。さいきん、「農はいのちをつなぐ」という本を読みました。岩波ジュニア新書です。自分があまり知らない分野のことを学び始める時は、新書がいちばんですね。とくに、岩波ジュニア新書とかちくまプリマ―新書がよいですね。中高生向けに書かれた本でも、それがていねいに作られたものであれば、あたらしいことを学び始める大人にもとても役に立ちます。
 わたしは、農村伝道神学校の非常勤講師をしていますが、農のことはまるで知りません。また、広島の山間部の農村に移住した友人の牧師たちと「農の神学」というものを考えようとしていますが、農のことはほとんどわかっていないのです。わたしの父親は鹿児島高等農林学校の出であり、わたしは農学部中退なのですが、農のことは何も知りません。
 そこで、手始めにこの「農はいのちをつなぐ」という本を読んでみました。すると、そこには、「いのち」は「生きもの」のつながりであり、わたしたちは「食べもの」を通して「いのち」とつながる、とありました。また、「農の原理」とは、生きとし生けるものの「いのち」を引きつぎ、次につなげることです、ともありました。
 たとえば、田んぼには稲だけでなく、雑草と呼ばれるいろいろな植物も育ち、害虫と呼ばれるものも含むいろいろな動物、かえるやげんごろうやとんぼも生息しています。そして、稲からとれる米は食卓でわたしたちといういのちとつながります。このように、いのちはつながり、ネットワークなのです。聖書も、また、神さまと人間と人間以外の存在のつながりを伝えています。
 「自分の罪のうちに死ぬ」とは、自分の小さな枠の中にとどまり、神さまを中心にしたいのちのネットワークにつながらないことではないでしょうか。これは自由の反対なのです。
 聖書の言葉に戻りますと、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」とありました。これも同じことで、イエス・キリストの行く所とは、神さまのところであり、そこにあなたたちは来ることができない、とは、神さまとつながることができない、ということでありましょう。
 23節です。8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
 イエス・キリストが上のものに属している、とは、イエス・キリストは神さまに属しておられる、イエス・キリストは神さまとの深いつながりの中におられるということでしょう。
 24節です。8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
 「「わたしはある」ということを信じないならば」とあります。「わたしはある」とは不思議な言葉ですが、これは、じつは、神さまのことです。
 旧約聖書の出エジプト記にこういうことが書かれています。3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 神さまは「わたしはある」というお名前、あるいは「わたしはある、わたしはある」というお名前だと言うのです。このお名前にはどのような意味があるのでしょうか。
 「わたしはある」「わたしは存在する」「わたしは根本的に存在する」「わたしは根本的な存在だ」「わたしは存在するものを存在させる創造者だ」というような意味があるとも考えられます。
 あるいは、「わたしはある、わたしはたしかにここにいる」「わたしはいる、わたしはたしかにここにいる、あなたと一緒にここにいる」というような意味があるとも考えられます。
 ところで、ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは、「わたしは世の光である」と言っています。あるいは、「わたしは良い羊飼いである」「わたしはぶどうの木である」「わたしは道であり、真理である」と言っています。
 これらの文の中の「世の光」「良い羊飼い」「ぶどうの木」「道」「真理」という言葉をカッコの中に入れてしまうと、これらは皆、「わたしはある」という文になります。つまり、イエス・キリストご自身がご自分のことを、「わたしはある」と語って来られたのです。
 つまり、「「わたしはある」ということを信じないならば」とは、神さまのことを信じないならば、ということでもあり、同時に、イエス・キリストを信じないならば、ということでもあるように思われるのです。
 あるいは、神さまにつながっていなければ、イエス・キリストにつながっていなければ、ということでもあるように思われるのです。そして、それは「自分の罪のうちに死ぬこと」であり、自由ではない、ということでもあるように思われるのです。
 25節です。8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
 イエス・キリストはいったい誰なのか。これは、じつは、今日の聖書の箇所の主題であり、さらには、ヨハネによる福音書の主題であり、さらには、新約聖書の主題であり、さらには、旧約聖書を含む聖書全体の主題でもあります。そして、キリスト教会は、聖書の御言葉から、イエス・キリストはまことの人でありまことの神であるという信仰告白をいにしえからしてきたのです。
 26節です。8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
 「わたしをお遣わしになった方は真実である」とあります。この真実とは、誠実のことであり、愛のことであり、御父、天の神さま、創造主なる神さまのことであり、さらには、「真理はあなたたちを自由にする」という言葉にある「真理」のことでありましょう。
 28節です。8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
 「人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということがわかる」とは、イエスさまが十字架につけられたとき初めてイエスさまがキリストである、神の子であることがわかる、ということでありましょう。
 また、イエス・キリストが父なる神さまに教えられたとおりに話しているとは、イエス・キリストが神さまの御心、神さまの愛を表しておられるということでありましょう。
 ここには、神さまとイエス・キリストとの深い一致、神さまとイエス・キリストが一体であることが語られていて、いにしえの教会はこれを三位一体という言葉で言い表したのです。
 29節です。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。
 これは、神さまはイエス・キリストと共におられる、神さまはイエス・キリストをひとりにしてはおかれない、イエス・キリストは神さまのお心を行う、ということでしょう。
 そして、これは、じつは、わたしたちにもあてはまることであり、神さまはわたしたちとともにおられ、神さまはわたしたちをひとりにしてはおかれず、わたしたちは神さまのお心を行えるように祈り求めるのです。
 神さまのお心、神さまの御心とは、愛のことでしょう。自分だけでなく、人を大事にする愛のことでしょう。
 31節です。8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」という言葉と、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉は、同じ事柄を言い換えているように思われます。
 つまり、「わたしの言葉にとどまる」「イエス・キリストの言葉の中にいる」ということは「真理を知る」ということであり、「わたしの弟子である」「イエス・キリストの弟子になる」ということは「自由にされる」ということではないでしょうか。
 自由になるとは、イエス・キリストの弟子になることなのです。誰かの弟子などにならない方が自由であるような気がするかもしれませんが、そうではありません。
 イエス・キリストの弟子になるということは、自分自身の枠にとどまらないということです。エゴイズムの枠、罪の枠に閉じ込められないということです。イエス・キリストの弟子になるとは、神さまに対して自分が開かれる、隣人に対して自分が開かれるということなのです。
 神さまご自身が自由なお方です。神さまの自由は自由奔放ではなく、むしろ、人に仕える自由です。神さまの自由とは自由奔放ではなく、愛なのです。
 わたしたちの心はいつも神さまからも隣人からも離れてしまっています。では、神さまの心もわたしたちから離れてしまうかと言いますと、そうではありません。神さまは、わたしたちの心が神さまに向いているか向いていないか、わたしたちが罪人であるか善人であるか、そういうことから自由なのです。神さまは、わたしたちが罪人、神さまから離れた者であるにもかかわらず、そのようなことに束縛されず、自由に、わたしたちを愛してくださるのです。それが神さまの自由です。
 神さまの愛は無条件の愛です。神さまの自由とはこの無条件のことなのです。神さまの自由とはわたしたちに対して開かれているということなのです。
 わたしたちも自分自分という思いの奴隷にならず、神さまにお委ねして、隣人の思い、隣人の心に開かれる自由を得たいと思います。
 「真理はあなたたちを自由にする」とは、神さまがわたしたちを自由にしてくださる、神さまと隣人に対して心を閉ざしたわたしたちを、神さまが開いてくださる、ということなのです。
わたしたちは、神さまによって、神さまと隣人に向けて心を開かれ、神さまと隣人を愛する自由を与えられているのです。このことにあらためて気づき、感謝をいたしましょう。
 祈り。神さま、わたしたちは自分という牢獄にとらわれています。自分の思いという枠に閉じこもっています。わたしたちは不自由なのです。けれども、神さま、あなたは、真理であられ、わたしたちをそこから自由にしてくださいます。閉ざされたわたしたちの心を、あなたと隣人に向けて開いてくださいます。神さま、わたしたちはあなたからいただいたこの自由を大切に用いることができますようにお導きください。神さま、閉じ込められて苦しんでいる友の扉を外から開いてください。わたしたちもそこに伴わせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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