SSブログ

特上のワインはラストに [使信]

説教 2024年1月21日 ヨハネ2:1-11 「特上のワインはラストに」

 おはようございます。
 教会は家族なんですね。教会はそこで50年も60年も過ごす家族なのです。二十歳前後でイエスさまに出会い、イエスさまの家族になり、姉妹兄弟と家族になるのです。
 もちろん、二十歳前後から五十年間も教会の家族である人もいれば、もっと前から、生まれた時から教会の家族である人もいます。あるいは、人生の後半になってから教会の家族になった人もいます。
 けれども、皆が教会の家族なのです。一日の夜明けからぶどう園で働く人、もうすこし経って9時になってぶどう園に来た人、正午になってきた人、午後3時に来た人、午後5時に来た人がいますが、夕暮れには皆が1デナリをいただいたように、皆が同じ食卓で同じ食事をいただくように、一日の何時にイエスさまに出会い、何時に教会の家族になっても、教会は家族なのです。わたしたちは、神さまの家族、イエスさまの家族なのです。
 今、ぶどう園の話を少しいたしました。今日の聖書には、ぶどう酒が出てきます。わたしはぶどう酒、ワインをほとんど飲んだことがありません。性格がまじめだからでもなければ、信仰の理由で飲まないわけでもありません。
 アルコールを分解する酵素がわたしには少ない、言い換えれば、お酒に弱い、すぐに頭が痛くなってしまい、気分も悪くなる、まあ、それだけの理由です。
 むかしは、聖餐式もワインでやっている教会がよくあって、そういうときは、聖餐式のあとは、賛美歌が上手になっていたような気がします。しかし、最近は、いろいろな配慮によって、ぶどうジュースの教会が多いと思います。
 ワインには、赤と白とロゼというのがあるそうですね。お酒を飲まなくても、それくらいのことは知っています。神学生のころ、ある教会の聖餐式で、牧師さんが、今日は良い白ワインがあるので、それで聖餐式をしよう、とおっしゃって、びっくりしたこともありますが、聖餐式のワインは赤でなくてもよいのかどうか、いまだにわかりません。
 お酒を飲めないわたしでも、ワインには、ボジョレーヌーボというものがあることは知っています。これは、その年にできたばかりのワインのことのようですね。それに対して、何年も蔵で寝かしてきた年代物のワインもあり、それは、ヴィンテージと呼ぶのでしょうか。今日の聖書で、あとの方で出てくるぶどう酒はヴィンテージの味がしたのかもしれませんね。直前まで水でぶどう酒になったばかりだったのですからボジョレーヌーボのような気もしますが、その味わいはヴィンテージのように上等だったのではないでしょうか。
 飲めないお酒の話はこれくらいにしまして、皆さんは、苦しみが喜びに変わった、神さまが苦しみを喜びに変えてくださった、という経験がおありでしょうか。
 病で苦しんでいたが、それが癒された、祈りに支えられた、神さまに癒していただいて、回復した、そのように、苦しみを喜びに変えていただいたという方は何人かおられるのではないでしょうか。
 四年前、わたしは東京都大田区から川崎市麻生区に引っ越しました。麻生元総理大臣の麻生と書いて、あさおと読むのです。知らないところに引っ越すこと、しかも、東京から電車で何十分もかかり、さらには、バスに20分も乗らなければならない陸の孤島のようなところに引っ越すのは苦痛でした。
 深沢教会もバス停は近くにありますが、電車の駅からはかなり遠いので、陸の孤島的なところがありますが、今日も礼拝にお越しくださり、ほんとうにありがとうございます。うれしいです。
 話を戻しますと、わたしは陸の孤島に引っ越して、苦しかったのですが、それが、じょじょに喜びに変わっていきました。
 まずは、わたしと家族が川崎市に引っ越したその年、Jリーグの川崎フロンターレが優勝しました。うれしいですね。ああ、川崎市民になって良かったと思いました。
 それから、それまでまったく知らなかったところに引っ越したわけですが、ああ、日本にもこんなパンダが出そうな竹藪だらけのところがあるのか、と、日本の新しい風景も味わうことができるようになりました。
 遠いということは、自然が豊かであるということで、散歩ができる、ということです。駒沢公園も大きな木がたくさん生えていますが、まあ、自然というよりは管理された公園ですよね。ところが、川崎市麻生区あたりは、ときには狸も出る自然が生活圏、散歩の範囲の中にあるのです。これもわたしの喜びになりました。
 さらには、川崎市麻生区に引っ越して二年が過ぎた時、東京都世田谷区の教会から代務者としてお招きいただき、また、こうやって皆さんとご一緒できるようになりました。さらには、去年からは、主任牧師として招聘していただき、今、喜びの年を過ごさせていただいております。
 川崎市麻生区のまぶね教会だけでなく、この深沢教会、深沢の群れにも入れていただき、ともに歩ませていただいていることは、ほんとうに大きな喜びです。
 また、川崎に引っ越して一年後に、町田の農村伝道神学校で講師の仕事をいただいて、神学教育に関わることができるようになったことも大きな喜びです。さらには、もっとうれしいことに、深沢教会では、ふたりの神学生とご一緒させていただいております。こんなにうれしいこと、こんな喜びはありません。
 今、まぶね教会と深沢教会の礼拝、聖書の学び、そして、信仰の交わりは、ほんとうに大きな喜びです。
 四年前の引っ越しの苦しみを、神さまは、今の喜びに変えてくださいました。主に心から感謝いたします。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書を三つのポイントから振り返ってみたいと思います。
 1 イエス・キリストは喜びの時も悲しみの時もわたしたちとともにいらしてくださいます。
 2 人生は後の方が味わい深くなります。
 3 神さまは、今の苦しみを、やがて、喜びに変えてくださいます。
 では、ヨハネによる福音書2章1節です。
 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
 婚礼は喜びの時です。しかし、そこでぶどう酒がなくなってしまうのは、ある意味、喜びの時が苦しみの時になってしまった、ということです。しかし、イエス・キリストは、ぶどう酒のゆたかな婚礼の喜びの時も、ぶどう酒がなくなってしまった苦しみの時も、カナのその場の人びととともにおられました。
 それと同じように、イエス・キリストはわたしたちの人生の喜びの時も、悲しみの時も、わたしたちとともにいてくださるのです。皆さんも、これまでの人生、そうだったのではないでしょうか。
 ピンとこない方も、きっと、そう感じる時が来ると思います。ああ、神さまは、イエス・キリストは、わたしがうれしいときも、わたしが悲しいときも、いっしょにいてくださるのだなあ、としみじみする時を神さまがきっともたらしてくださいます。
 8節です。
 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものです」とあります。わたしはお酒は飲まないのでわかりませんが、世の中ってそんなものなのですか。
 けれども、イエス・キリストは違います。イエス・キリストは、良いぶどう酒を今までとっておいてくださるのです。
 わたしは今、おそらく、人生の晩年の入り口あたりにいるような気がしますが、先ほども申し上げましたように、とても幸せなときを過ごしています。
 ふたつの教会の牧会。そこにおられる心やさしき人びとに恵まれています。30年前なら、ボジョレーヌーボのころなら、ふたつの教会を牧会する恵みを味わうことはできなかったでしょう。
 神学校で神学教育に関わることも、ふたりの神学生とともに歩む喜びも、イエス・キリストがいままでとっておいてくださった良いぶどう酒、喜びにほかなりません。
 鳥瞰図という言葉があります。鳥瞰図の「ちょう」は鳥と書きます。鳥の高さから見た地表ということです。その方が、広い範囲を見渡すことができます。年をとると、ある一点だけでなく、平面、場合によっては、立体で、ものを味わうことが許されます。
 たとえば、神学生に神学校のレポートについて相談を受けたとします。どの神学生とは言いません。たとえばのお話です。35年前、わたしは、神学校の先生がその課題を出した意味はあまりわかっていなかったかもしれませんが、今のわたしは、ああ、こういう主旨の課題だなと見当がつきます。これも、今までとっていていただいた良いぶどう酒でありましょう。
 深沢教会では、おそらく、わたしより年長の方がたも、賛美リーダーやアシスト、司会の奉仕をしておられます。これらの方がたも、ビンテージと言いますか、味わい深いですね。
 老いや病の苦しみもあります。しかし、見方を変えれば、それも、人生の味わいのひとつなのかもしれません。今この年になって、これまでの人生を経て、今味わえる良いぶどう酒があります。
 イエス・キリストは、婚礼でぶどう酒がなくなってしまう悲しみ、苦しみを、最良のぶどう酒、最良の喜びに変えてくださいました。今そうしてくださいます。これからもそうしてくださいます。
 エレミヤ書にはこうあります。
 エレミヤ31:13 そのとき、おとめは喜び祝って踊り、若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。
 神さまはわたしたちの嘆きを喜びに、悲しみを喜びに変えてくださいます。若者だけではありません。老人、高齢者にも喜びが訪れます。
 ヨハネによる福音書にもどります。
 11節です。
 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 「しるし」とありますが、何の「しるし」でしょうか。イエスさまが救い主、キリストであるしるしです。
 「しるし」です。証拠ではありません。わたしたちは、神さまやイエスさまを目に見える証拠によって確認するのではありません。わたしたちは、神さまやイエスさまを、しるし、サインによって、信頼するのです。神さまやイエスさまのしるし、サインをキャッチ棄て、目に見えない神さま、目に見えないイエスさまを信頼するのです。
 悲しみを喜びに変えてくださるイエス・キリスト、わたしたちのために良いぶどう酒を今までとっておいてくださったイエス・キリストを、わたしたちは弟子たちとともに、今日あらためて、心から、ふかくふかく信頼しようではありませんか。
 お祈りいたします。
 神さま、わたしたちは悲しみに沈んでいましたが、あなたは、それを喜びに変えてくださいました。神さま、悲しみと喜びは、ときに、重なり合っています。兄が地上の旅を終えた悲しみとともに、兄が天のあなたのもとに召された、まねきいれられた喜びをわたしたちは感謝いたします。神さま、若い人も年をとった者も、この一瞬一瞬、あなたが今まで取っておいてくださった良いぶどう酒を味わわせてくださる、その恵みに心から感謝いたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
nice!(0) 

nice! 0