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床を担いで歩く [使信]

使信 2024年2月4日  「床を担いで歩く」  ヨハネ5:1-18
 おはようございます。キリスト教の洗礼を受けるということはどういうことでしょうか。わたしは、洗礼にはふたつの側面があると思います、ひとつは、神さまの方からわたしたちにしてくださる側面です。それは、神さまがわたしたちに愛を注いでくださる、神さまのいのちの息、聖霊を注いでくださる、わたしたちを新しくしてくださる、神さまがわたしたちを受け入れてくださるということです。
 洗礼のもうひとつの側面は、わたしたちが人間としてなす側面です。それは、イエスに従って生きるという決意表明のようなものです。イエスに従って生きるとは、具体的には、神さまを信頼して神さまに委ねたイエスのように、わたしたちが生きるということでしょう。イエスに従って生きるとは、また、神さまの愛、神さまの御心に従ったイエスのように、わたしたちも愛に生きるということでしょう。
 神さまの愛、神さまの御心に従って生きる、ということは、この世の価値観とは違うように生きるということでしょう。人や自分やものごとを優劣、優か劣かで判断したり、正しいか正しくないかで判断し、自分を正しい側に置こうとしたり、「自分は自分は」とどこまでも自分中心であったりする・・・そのような価値観とは違う、神さまの愛の御心、人を分け隔てしない、自分中心にならない、人を大事にする生き方をすることでしょう。
 洗礼を受ける、ということには、わたしは、このような意味を考えます。では、今日の聖書に出てくる「床を担いで歩く」とはどのようなことを意味するのでしょうか。
 いつでもどこでも横になれるように、床を担いで歩く、ということでしょうか。わたしは学生時代、四畳半の和室に下宿していて、そこは、万年床と言って、布団を敷きっぱなしにしていました。和室というのは、本来は、朝起きると布団をたたんで、押し入れにいれるものなのですが、最近は和室でも、ベッドを置いていることも多いようですね。ベッドというのも、押し入れを開けて布団を引っ張り出して敷かなくても、いつでも横になれますから、万年床みたいなものですね。
 床を担いで歩くとは、あるいは、自分の人生のこれまでのすべてを担いで、担って生きることでしょうか。今日の聖書のお話で言えば、病気で苦しんだ38年の人生、あるいは、それ以上の人生を担って、背負って生きるということでしょうか。
 わたしは現在63歳ですが、ふりかえれば、中学1年生だった13歳から63歳までの50年間は、今振り返る立場に立てば、あっという間でした。そして、50年間のいろいろなことを覚えています。もっとも最近のことは良く忘れます。人の名前などどんどん忘れます。一度見た映画や一度読んだ本の内容もどんどん忘れます。
けれども、たとえば、中学校の卓球部のこととか、友達と悪いことをしたこととか、高校入試のこととか、高校時代のバドミントン部のこととか、大学入試当日のこととか・・・受験会場に行ったら、時間を間違えて、3時間も早く着いてしまったので、パチンコをして時間をつぶしたこととか、仕事をし始めてからのいくつもの場面とか、結婚することになりうれしかったとか、家族とか、仕事上で起こった大きな苦しみの数々とか、そういうものは覚えています。そういうものを何十年分も背中に背負って生きているのかもしれません。
 床を担いで歩くとは、あるいは、律法よりもイエス・キリストの言葉に従って歩く、世の中の規則や常識よりも、イエス・キリストの愛の言葉、イエス・キリストの励まし、イエス・キリストの促しによって生きるということでしょうか。それが床を担いで歩く、ということのようにも思えます。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書5章2節です。5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
 「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」とあります。これらの人びとは、イエス・キリストがここだけでなく、ガリラヤやユダヤの各地で出会った人々でもあります。イエス・キリストは病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人を訪ね、友となられました。
 この人々が「横たわっていた」とあります。起き上がれなかったのではないでしょうか。この人々は起き上がれないでいたのではないでしょうか。けれども、あとで、8節に出てきますが、イエス・キリストはこの横わたって起き上がれなかった人びとに「起き上がりなさい」と声をかけたのです。
 「起き上がりなさい」。これは、強制の命令ではなく、招きでありましょう。イエス・キリストは、「起き上がれ」と言って、その人びとを見張ったり蹴っ飛ばしたりしたのではなく、イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言って、この人びとの手を握りしめたのでありましょう。
 5節です。5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
「38年も」とあります。「もう長い間」病気で苦しんできた、とあります。これは、人生そのものの苦しみのことでありましょう。むろん、人生は苦しみだけではありません。人生にはゆたかな喜びもあります。けれども、人生には、苦しみという通奏低音があります。
 「人生には、苦しみという通奏低音があります」・・・かっこいいですね。しかし、むろん、人生には、「喜び」という通奏低音もあります。キリスト教信仰とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。福音とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。
 7節です。5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 助けてくれる人がいない。他の人が我先に行ってしまう。これは、この世界の常識的な価値観ではないでしょうか。人を助けない。人を押しのけてでも自分の道を行く。競争、自分中心、他の人への無関心。これが、この世界を支配している価値観ではないでしょうか。
 8節です。5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
 イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。わたしは、今年から、あるキリスト教雑誌で、一年に三回、その月の号の特集を企画する仕事をいただきました。
 その最初は3月末に発行される4月号で、わたしがその号で企画した特集は「復活」ということです。聖書で物語られている復活は、わたしたちの世界や社会での生活にどのようなメッセージを持っているかということを考える特集です。
 そこでは、復活は、死後の復活だけでなく、死ぬまでの人生における何度かの再起、起き上がりのこととしても語られます。聖書の語るイエス・キリストの復活は、わたしたちの人生における再起、七転び八起きにもつながっているということです。
 わたしも63年と3か月の人生、何度か倒れましたが、その都度、起き上がってきました。神さまに、イエス・キリストに、起き上がらせていただきました。これまではなんとか起き上がってきたが、もうだめだ、もうこれは起き上がれない、死ぬとはこういうことなんだな、と思うような倒れ方もしましたが、それでも、起き上がらされました。
 イエス・キリストが起き上がらせてくださるのです。イエス・キリストの「起き上がりなさい」という言葉が起き上がらせてくださるのです。自分で何とか起き上がったつもりでも、イエス・キリストのお言葉、イエス・キリストの人格、イエス・キリストの出来事、イエス・キリストの力、イエス・キリストご自身が起き上がらせてくださるのです。
 「その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」とあります。聖書の物語では「すぐに」とありますが、わたしたちの人生では「すぐに」というわけにはいきません。けれども、ゆっくりであっても、わからないくらい遅い歩みであっても、神さまは、イエス・キリストは、たしかに、たしかに、わたしたちを起き上がらせてくださいます。
 10節です。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
 イエス・キリストに38年の病を癒していただいたこの人は、ここで分岐点に立たされています。律法に従って、安息日に床を担ぐことを止めるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従って、安息日でも床を担いで歩くのか、という分岐点です。
 律法に縛られるのか、それとも、イエス・キリストによって律法の束縛から解き放たれるのか、どちらを選ぶのか、という分岐点です。
 あなたはナニナニしなくてはならない、という律法に縛られるのか、それとも、あなたはナニナニできる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、人を愛さなければならない、この人を助けなければならない、この人に仕えなければならない、という律法に縛られるのか、それとも、わたしたちは、人を愛することができる、この人を助けることができる、この人に仕えることができる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、律法や規則で縛られ、優劣のような人間的な尺度に縛られ続けるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従う、いや、イエス・キリストの「床を担いで歩きなさい」という言葉によって解放され、優劣の尺度ではなく愛と慈しみに生きようとするのか、どちらでしょうか。
 38年の病気を癒された人にとって、律法の安息日の規則に違反してまで、床を担いで歩く、とは、今日からは律法やこの世の価値観ではなく、福音、イエス・キリストの愛の御心に従って生きていきます、ということを意味していたのではないでしょうか。
 13節です。5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
 38年間病気だったこの人は、以前はイエス・キリストが誰であるのか知らなかったのですが、いまや、自分を癒してくれたのは、自分を起き上がらせてくれたのは、イエス・キリストだと知っているのです。
 16節です。5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
 ユダヤ人がイエス・キリストを殺そうとしたとありますが、イエス・キリストを十字架の死に追いやったのは、わたしたち人間の罪、自己中心、エゴイズム、他者を押さえつける生き方に外なりません。ユダヤ人がイエスを殺そうとした、という言葉には、わたしたちのことが含まれていると思います。
 人びとがイエス・キリストを迫害した理由は、安息日の律法の規定を犯したからだとあります。世の中の決め事、世の中の常識に背くとされることをしたゆえに、イエス・キリストは十字架に追いやられました。
 また、神さまを父と呼んだこと、ご自分を神さまと等しい者としたことも、その理由だと言います。神さまを父と呼ぶ、神さまと一体であると言われる。これは、イエス・キリストにとって、神さまとの親しさ、神さまとの親密なつながりを意味しているのではないでしょうか。イエス・キリストは、神さまの愛、神さまの慈しみ、神さまのお力を、誰よりも強く感じておられた、知っておられたのです。
 けれども、これらのことは、世の人びと、つまり、わたしたちの価値観からすれば、神さまへの冒涜に映ったのです。そして、わたしたちは、イエス・キリストを十字架に追いやりました。
 二週後から受難節が始まります。イエス・キリストの十字架を前にした40日間が始まります。イエス・キリストが十字架につけられた理由は、イエス・キリストが、律法、世の価値観ではなく神さまの愛、神さまの御心に従ったことにあります。それほどまでに、神さまと親密になられた。それゆえに、イエス・キリストは十字架につけられたのです。
 わたしたちは、このイエス・キリストに従うのです。わたしたちも、この世の価値観、優劣、自己中心、そして、ナニナニしなければならないという規則万能の価値観ではなく、神さまの愛、神さまの愛の御心に従って行けるように祈り求めようではありませんか。
 また、わたしたちも、イエス・キリストとともに、神さまを父と呼ぶほどの親密感と信頼を持てるように祈り求めようではありませんか。
 そうやって、わたしたちは、律法に背いてでも、わたしたちの床を担いで、律法ではなくイエス・キリストに従えるように祈り求めようではありませんか。
 祈り。神さま、わたしたちは倒れてしまっています。起き上がれないでいます。けれども、イエス・キリストは、起き上がりなさい、とわたしたちの手をつかんで、引き寄せてくださいます。心より感謝いたします。神さま、わたしたちも、起き上がり、世の価値観ではなく、あなたの愛の御心に従うことができますように、わたしたちを整えてください。神さま、わたしたちもあなたを父と呼ぶ親密感、信頼感をお与えください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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