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少しも無駄なく [使信]

使信 2024年2月11日  「少しも無駄なく」  ヨハネ6:1-15
 おはようございます。今日の使信の題は、「少しも無駄なく」としました。これは、先ほどお読みいただいた聖書の中にある言葉ですが、皆さんは無駄はなるべくしないようにしておられるでしょうか。
 わたしは、たとえば、目の前で電車のドアがしまり、一本逃して、次の電車を10分ほど待たなければならなくなったようなとき、以前は、時間をとても無駄にしてしまったような気がしていましたが、最近は、いや、おかげで、移動時間が長くなって、その分、移動中に本を読む時間も増えてよかった、と思うようになってきました。
 たしかに、時間を無駄にしたくない、無駄に時間を過ごしたくない、という気持ちは、いつも私の中にあります。ですから、ぼーっと、だらだらとテレビを観て過ごす、というようなことはいたしません。映画は、心の糧として、寝転がって、タブレットで観ることは楽しみにしていましたが、最近は、あまり良い映画がインターネット配信で見つからないので、ねしなは、映画ではなく、新書を読むことにしました。
 散歩は、本を読みながらではできませんが、ムダとは思っていません。足腰のためによいし、このあたりだと、緑が目に入ったり、鳥のさえずりが聞こえたりしないわけではありません。
 睡眠中も、本は読めませんが、無駄だとは思いません。寝ることは大切にしていますが、還暦を過ぎてからは、夜中に二度、三度目が覚めるようになりました。まあ、目的なしに、だらだらとテレビを観るのがいちばん無駄かもしれませんね。
 ところで、無駄と言えば、わたしたちは、わたしは無駄に生きているのではないか、わたしなんか生きていても無駄なのではないか、と思ってしまうことがないでしょうか。なかには、自分以外の人さまについて、こんな人は生きていても無駄だと考える、おそろしい人もいるようです。
 わたしの人生には何の意味もなかったとか、わたしが生きている意味があるのかとか、わたしたちは思っていないでしょうか。なかには、人さまについて、こんな人には生きている意味がないなどと考える、おそろしい人もいるようです。
 意味とか無駄とかいうとき、わたしたちは、何かができる、何かができないという尺度にとらわれているのではないでしょうか。何かができることに意味があり、何かができない人は無駄な人と考えていないでしょうか。けれども、果たしてそうなのでしょうか。
 何もできない、かつてできていたことができない、多くの人ができていることができない人は、ほんとうに無駄なのでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。
 ヨハネによる福音書6章2節です。6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
 「イエスが病人たちになさったしるし」とあります。先週の礼拝の聖書の箇所では、イエス・キリストは病人を癒されました。どんなお話だったか覚えておられるでしょうか・・・あてませんから、安心してください・・・
 先週の聖書の箇所は、38年間病気で苦しんでいた人をイエス・キリストが癒されて、「床を担いで歩きなさい」と言われた、というお話でした。自分で思い出せなくても、言われたら、ああそうだった、と思い出せるなら、大丈夫だそうです。ご安心ください。
 この出来事を見た大勢の群衆がイエス・キリストの後を追った、と今日の聖書にはあります。この群衆は、同じような病気の癒しを期待したのでしょうか。あるいは、イエス・キリストは、病気の癒し以外のことをするかどうか、ということに関心があったのでしょうか。
 旧約聖書の列王記という書物にこんなお話があります。紀元前9世紀のことですが、エリヤという預言者がいました。エリヤはひとりの貧しいやもめを訪ねます。やもめは壺の底に残っていた最後の小麦粉でパンを焼きますが、ふしぎなことに、壺の粉はなくなっていないのでした。そんなことが繰り返されます。そうやって、やもめとその息子とエリヤはパンを食べ続けることができました。
 ところが、その息子が死んでしまいます。しかし、エリヤが三度その息子の上に身を重ね、祈ると、ふしぎなことに、息子が生き返ります。
 ここで、皆さんにご注目いただきたいのは、旧約聖書の預言者のエリヤは、パンを増やし、病人を癒しましたが、今日の新約聖書のイエス・キリストも、先週のところでは、病人を癒し、今週はパンを増やすということです。このように、新約聖書のイエス・キリストの行動の中には旧約聖書とつながっているものがあるのです。
 3節です。6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
 「イエスは山に登り」とあります。ここにも旧約聖書の響きがあります。旧約聖書の預言者モーセはシナイという山に登り、そこで神さまから十戒をいただき、それを民に取り次ぎました。同じように、イエスは山に登ります。これを見た人びと、また、この話を聞いた当時の人びとの中には、モーセを思い出した人もいたことでしょう。
 5節です。6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
 「フィリポを試みるためであった」とあります。イエス・キリストはフィリポの何を試みようとしたのでしょうか。「ご自分では何をしようとしているか知っておられた」とありますが、イエス・キリストは何を知っておられたのでしょうか。
 11節以下に、イエス・キリストがわずかのパンと魚で大勢の人びとを満腹にさせたとありますから、そのことを、イエス・キリストは前もってご自分でわかっていたけれども、それを知らないフィリポはどうするか見てみようとした、ということでしょうか。
 あるいは、深読みすれば、人びとをほんとうに養うものは、パンだけではなく、イエス・キリストご自身、神さまの言葉であるイエス・キリストご自身である、ということでしょうか。
 7節です。6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
 200デナリオンとあります。1デナリオンは一日働いた賃金くらいだそうですので、1デナリオンを1万円としますと、200デナリオンは200万円くらいでしょうか。そこに5000人の人がいたそうですから、200万円を5000人で割りますと400円になります。ひとりあたり400円の食料だと足りないでしょうか。たしかに、お昼におそばとサラダを食べようとコンビニで買ってもすぐに500円を超えてしまいますね。
 8節です。6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 パン五つとあります。五千人で食べますと、ひとりあたり、ひとつのパンの千分の一、ということになります。大勢の人びとの前で、こんなわずかのものは役に立たないでしょうか。大勢の人びとの前で、小さな少年の持ってきたわずかなものなどは無駄なのでしょうか。
 リーストコインという言葉があります。リーストとは、英語のリトルの最上級ですね。最上級というか最低級と言いますか、リトルの比較級がレス、最上級がリーストで、もっとも小さいという意味ですね。日本で言えば、1円ということになりますが、リーストコインの募金は1円でも5円でも10円でも50円でも100円でも500円でもよいようで、なんなら、コインではないお札でもよいようですが、皆が少しずつ持ち寄って、困難な状況にある方々にささげようということなのでしょう。
 五つのパンと二匹の魚は5000人の人びとの前では意味がなく無駄であるように思われましたが、少年にとってはそのとき持っていたすべてでした。すべてということが尊いのです。
 わたしたちも持てるものや力はとても小さいですが、もてるすべてということに意味があります。わたしたちは、よく、わたしには何もできない、ただ生きているだけ、などと言います。しかし、生きているだけ、ということは、生きていることがすべて、ということであり、それがすべてであるなら、生きているだけ、ということにはひじょうに大きな意味があるのではないでしょうか。
 ただ生きているだけ、ということは、生きているということがわたしのすべてであり、それがその人のすべてであるならば生きていることは何よりも尊いのではないでしょうか。
 10節です。6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
 「人々を座らせなさい」とあります。そして、「そこには草がたくさん生えていた」とあります。ここにも、旧約聖書の響きがあります。
 それは詩編23編です。23:1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 詩編23編には、牧者である主、神さまがわたしを「緑の牧場に伏させ」とあります。そして、今日の聖書の箇所では、イエス・キリストが大勢の人びとを草がたくさん生えているところに座らせるわけです。これは、みごとに重なるではありませんか。イエス・キリストは詩編23編の光景をここに再現しているのです。
 詩編23編にはさらに、「23:5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」とあります。これは、口語訳聖書で、「わたしの前に宴を設け」のところは、新共同訳では、「わたしに食卓を整えてくださる」とあります。
 つまり、詩編23編では羊飼いである神さまがわたしに食卓を整えてくださり、今日の聖書の箇所では、イエス・キリストが大勢の人びとと食事をわかちあっているのです。これも、みごとに重なります。やはり、イエス・キリストは詩編23編の光景をここに再現しているのです。
 さらに、詩編には、口語訳では「わたしの杯はあふれます」、新共同訳では「わたしの杯を溢れさせてくださる」とあります。ポイントは、あふれる、溢れさせてくださる、という言葉です。
 今日の聖書のヨハネによる福音書6章に戻ります。12節です6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
 「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」とあります。これはまさに「あふれる」「溢れさせてくださる」ということではないでしょうか。イエス・キリストの食卓には、あふれるばかりの恵みがあったのです。
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」とあります。ここには、二つの意味があると思います。
 ひとつは、わたしたちは神さまからいただいた恵みを無駄にしないようにしましょう、ということです。わたしたちは神さまに与えられたこの人生を大切に生きましょう、今与えられているいのちを大切に生きましょう。
 役に立ちましょう、ということではありません。神さまがせっかくあたえてくださったこの人生、神さまがせっかく与えてくださった今日のいのちを、感謝して喜んで生きましょう。そうすれば、神さまの恵みは無駄にならないのです。
 わたしたちが、神さまの恵みに気づき、感謝し、喜ぶならば、自分が役に立っているように思えなくても、神さまの恵みは無駄になっていないのです。
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」。この言葉のもうひとつの意味は、神さまが創られたものに、神さまが創ってくださったわたしたちに無駄なものなど何もない、ということです。何もできない、ただいるだけ、と言いますが、いるだけでよいのです。いるだけでたいしたものなのです。
 ところで、イエス・キリストは、ただパンだけを通して、わたしたちを養っておられるのでしょうか。イエス・キリストは言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。
 人はパンだけでなく、神さまの言葉で生きるのです。では、神さまの言葉とは何でしょうか。今日の聖書の箇所のもう少し先で、イエス・キリストはこう言っておられます。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 イエス・キリストが与えるパンとは、イエス・キリストの肉である、と言っています。では、肉とは何でしょうか。同じくヨハネによる福音書の1章にこうあります。1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
 この肉となった言とはイエス・キリストのことです。つまり、イエス・キリストがわたしたちにくださるパンとは、神さまの言のことなのです。
 わたしたちは、食パンだけでなく、神さまのお言葉、イエス・キリスト、イエス・キリストのお言葉によって養われるのです。そして、神さまのお言葉のゆたかさ、イエス・キリストのゆたかさはあふれるばかりである、と今日の聖書は物語っているのではないでしょうか。
 神さまのお言葉、聖書の御言葉には、神さまのあふれるばかりの恵みがあります。わたしたちはそれをしっかりといただきましょう。それを無駄にせず、わたしたち自身を養い、さらにゆたかな日々を、さらに歩み続けようではありませんか。
 祈り。神さま、わたしたちの心と精神と魂と霊は飢え乾いています。けれども、あなたは、あなたの御言葉とイエス・キリストによって、それをあふれるばかりに満たしてくださいます。心から感謝いたします。神さま、わたしたちがあなたからの恵みを、あなたの救いの御言葉を無駄にすることなく、むしろ、感謝して、喜んでいただくことができますように。神さま、わたしたちがあなたのあふれるばかりの愛を、見過ごして無駄にするのではなく、ゆたかにいただいて、わたしたちの心と霊が満たされますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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